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東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その二 [東洋城・豊隆・青楓]

その二「俳誌・渋柿(412号/昭和23・8)」・『東洋城『東京(2) 目白と中野 ・ゾラと熊谷 / 城/p1~3』」周辺

俳誌・渋柿(412号・(昭和23・8)・表紙.jpg

「俳誌・渋柿(412号/昭和23・8)」表紙

俳誌・渋柿(412号(昭和23・8).jpg

「俳誌・渋柿(412号/昭和23・8)」

(目次)
卷頭語 / 秋谷立石山人/p表一~
目白から / 安倍太古漫人/p表二~
東京(2) 目白と中野 ゾラと熊谷 / 城/p1~3
卷頭句 / 東洋城/p4~11
句作問答/p4~9
句作問答(第二部) 四月號 五月 六月號/p10~12
松諷詠/p12~12
用語解/p12~12
正誤/p12~12
謝告・募集/p12~12
題詠 山笑ふ 桐の花 蝙蝠 前置付(春夏季) / 晨悟 ; 喜舟 ; 春雨 ; 東洋城/p14~15
一句 / 東洋城/p15~15
消息 日々好日 東京栃木 御紋章燦然 お供へ林檎 千噸客船 畫中山 河鹿とお紺 老不老/p16~16
例會/p17~17
松 / 東洋城/p表四~
與力松/p表四~
奧付/p表紙の三~

(東洋城年譜)(『東洋城全句集(中巻)』所収)

昭和十九年(1944) 六十七歳
 空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る。『続山を喰ふ』『不衣の句を講ず』を連載。紙の配給減り十六頁の「渋柿」となる。
昭和二十年(1945) 六十八歳
 宇和島の邸宅土蔵戦火に会ひ、始祖伝来の家宝を失ふ。信州より焦土の都往復、「渋柿」の刊行続く。『楽木林森』『八月十四日以降』連載。能成文部大臣に親任。
昭和二十一年(1946) 六十九歳
 敗亡の後の困難と闘ひ、熱情と至誠を傾注して「渋柿」の毎月発行を指揮す。村上霽月没。
昭和二十二年(1947) 七十歳
 「渋柿」四百号に達す。露伴没。
昭和二十三年(1948) 七十一歳
 古稀を迎ふ。「古稀遺言」連載。伊予を遍歴。

(管見)

一、「卷頭語 / 秋谷立石山人/p表一」は、表紙の「題籢/渋柿(夏目漱石筆)」の右側の「巻頭語(秋谷立石山人)」を指している。この「秋谷石山人」は、「松根東洋城」の号の一つである。この号の「巻頭語」は、「鮒が汚水に呼吸困難、水面に口を出/し無理にパクパク。人々亦汚世に噞喁(※けんぎょう=「魚が水面に口を出して呼吸すること。あぎとうこと。また、転じて、はげしく口論、抗議すること。けんぐ。けんぐう。」)、/清流『渋柿』に脱して僅に活き居つゝ。」である。

二、「目白から / 安倍太古漫人/p表二」は、表紙(裏)の、「巻頭言(文)」の「目白から / 安倍太古漫人」を指している。この号の「安倍太古漫人」の「太古漫人」は、「安倍能成」の号の一つである。
「寺田寅彦(木螺山人=ボクラ〈みのむし〉サンジン)」没後は、「小宮豊隆」(蓬里野人=ホウリヤジン)と「安倍能成(太古漫人=タイコマンジン)」が、それぞれ「中野から(「小宮蓬里野人」)と「目白から(安倍太古漫人)」とで、当時の。俳誌『渋柿』の、「松根東洋城(「秋谷立石山人」=「立石山人=リュウシャクサンジン」)との、「三つ鼎(ミツガネ)=鼎の足のように、三人が三方に対座すること」とで、俳誌「渋柿」の柱石となっている。

三、「東京(2) 目白と中野 ゾラと熊谷 / 城/p1~3」は、上記の「東洋城年譜・昭和十九年(1944)」の「空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る」のとおり、東洋城は「浅間山麓」(長野県軽井沢の小瀬温泉)に疎開していて、その疎開先から東京の「目白(能成宅)」と「中野(豊隆宅)」を訪問しての記述である。「目白(能成宅)」では、二人の共通の趣味の「謡」に興じ、一泊して、「中野(豊隆宅)」に朝駆けして、「木螺山人(寺田寅彦)」などとの旧交の談義をしたことが綴られている。
 当時の阿部能成は、文相退任後、上野の「帝室博物館総長・国立博物館館長を務め」の要職にあり、小宮豊隆は、東北大を定年退職して、上野の「東京音楽学校長」の要職にあった。
 「ゾラと熊谷」というのは、その「目白(能成宅)」と「中野(豊隆宅)」との訪問の後、「ゾラの生涯」(「1937年製作のアメリカ映画」)を「帝国劇場」で見たことと、歌舞伎「熊谷」(「初代・中村吉右衛門」出演)を「東京劇場(?)」で見たことなどが記されている。
 因みに、「終戦から復興に向かう日本を象徴する流行歌として知られる楽曲」の「東京ブギウギ」(鈴木勝作詞、服部良一作曲、笠置シヅ子歌唱)が「日本劇場」で、『日劇ショー 東京ブギウギ』で大ヒットとなった年である。

(参考その一)「文部大臣就任時の阿部能成」周辺

幣原改造内閣.jpg

https://www.ehime-art.jp/info/wp-content/uploads/2017/08/abe-yoshishige.pdf
●写真「幣原改造内閣 閣僚の記念写真」
 昭和21(1946)年1月15日撮影。GHQのマッカーサー元帥は、ポツダム宣言に則り、日本の軍国主義侵略政策に加担した総ての人物を公職から追放するように指示した。この結果前年10月に発足していた幣原内閣は総辞職か内閣改造かに追い込まれたが、5人の閣僚を更迭し改造をすることでこの難局を凌いだ。3列目中央が安倍能成、最前列右端が幣原首相、左端が吉田茂外相。(読売新聞社所蔵)

(参考その二) 「帝国劇場」での「ゾラの生涯」(「1937年製作のアメリカ映画」)公演周辺

ゾラの生涯.jpg

『ゾラの生涯』(ゾラのしょうがい、The Life of Emile Zola)の「ポール・ムニ(左)とエリン・オブライエン=ムーア」(「ウィキペディア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%A9%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF

※ 東洋城は、「『文豪ゾラの生涯』、終戦後映画らしい映画を見たのはこれが始めて。」「偶々帝劇前を通りかゝり席があり入場、」「『東京の現今』を見る上に、『現今の映画』をばも見なければなるまい。」など記し、この「文豪ゾラの生涯」(映画)の後、「祖父は大名(宇和島藩八代藩主・伊達宗城)で、江戸育ち(「中屋敷が木挽町(芝居といえば木挽町)」)の芝居好き(「新富座」の「「歌舞伎」通人」)で、「『吉右衛門』(※「初代中村吉右衛門)」の『熊谷』(※「熊谷陣屋」)の歌舞伎のことが綴られている。
 そこで、最後に、「『「熊谷=歌舞伎」はおいしい御馳走で、「ゾラ=映画」は體の補ひの栄養料理だ』」と、東洋城の終生の「歌舞伎好き」の一端を結びとしている。

(参考その三) 「初代中村吉右衛門」と「熊谷陣屋」周辺

中村吉右衛門.jpg

「歌舞伎美人/もっと楽しむ/「人」を楽しむ/ようこそ歌舞伎へ/『熊谷陣屋』中村吉右衛門」
https://www.kabuki-bito.jp/special/actor/welcometokabuki/post-post-welcometokabuki-87/4/

※ この記事中の、「初舞台/昭和23年6月東京劇場『御存俎板長兵衛(ごぞんじまないたちょうべえ)』一子長松で、中村萬之助を名のり初舞台。」に注目したい。「二代目中村吉右衛門」の初舞台は、昭和二十三(1948)六月、「東京劇場」での、『御存俎板長兵衛(ごぞんじまないたちょうべえ)』(一子長松で、中村萬之助を名のり初舞台)で、この初舞台は、東洋城が記事にしている、初代中村吉右衛門の「熊谷陣営」の公演の時と同じであったように思われる。
 というのは、東洋城が、「偶々帝劇前を通りかゝり席があり入場」したという「ゾラの生涯」の、本邦初公開は「1948年(※昭和23年)6月で(「ウィキペディア」)、東洋城は、帝国劇場で「ゾラの生涯」を見て、その足で、東京劇場の「熊谷陣屋」を見たと解して置きたい。
 そして、その「熊谷陣屋」で「熊谷次郎直実」を演じる「初代中村吉右衛門」については、小宮豊隆が、明治四十四年(一九一一)、二十七歳の時に、「新小説」に『中村吉右衛門論』を発表して、夏目漱石の叱責を甘受しながら、「演劇評論家・小宮豊隆」がデビューした、小宮豊隆(そして、松根東洋城)にとっては、忘れ得ざる歌舞伎役者ということになる。

初代中村吉右衛門.jpg

『一谷嫩軍記』熊谷陣屋(初代中村吉右衛門【熊谷次郎直実】)
https://meikandb.kabuki.ne.jp/actor/364/

東京劇場.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%8A%87%E5%A0%B4
[東京劇場は1930年(昭和5年)3月に演劇場として開業。六代目 尾上菊五郎と十五代目 市村羽左衛門、六代目 尾上梅幸の3大役者がこけら落とし興行を飾った。築地に一際目立つ重厚な建物で知られ、歌舞伎や軽演劇が上演されていた。1945年(昭和20年)、歌舞伎座が東京大空襲で焼亡したため、東京劇場が歌舞伎の演劇場として選ばれるようになった。 戦争終結後の9月には、早くも市川猿之助一座が『黒塚』と『東海道中膝栗毛』を演じていた。 その後も1951年(昭和26年)に再建されるまでは、東京の歌舞伎の中心だった。](「ウィキペディア」)

(参考その四) 小宮豊隆の『中村吉右衛門』(著者/小宮豊隆 著/出版者・岩波書店/出版年月日・1962) (「国立国会図書館デジタルコレクション」)周辺

https://dl.ndl.go.jp/pid/2498132

[目次
中村吉右衛門論 その他
中村吉右衛門論/p3
市村座の『文覚』/p23
『吉右衛門論』に就いて・その他/p30
市村座の『逆櫓』・その他/p36
吉右衛門に与ふ/p46
『新樹』を中心として/p56
『養蚕の家』と吉右衛門と/p70
吉右衛門の第一印象/p80
『勧進帳』の比較/p88
『陣屋』の盛綱/p113
吉右衛門雑記
吉右衛門のお母さん/p135
吉右衛門の芸/p140
私の『中村吉右衛門論』のこと/p152
『沼津』の花道/p159
私の吉右衛門との対談/p162
吉右衛門の由良之助/p215
吉右衛門と『リア王』/p219
熊谷の心理/p223
紅いおちやんちやん/p229
『吉右衛門句集』/p231
『盛綱陣屋』/p234
『盛綱』の映画/p238
吉右衛門と文化勲章/p241
吉右衛門の死/p252
『吉右衛門日記』/p254
吉右衛門を思ふ/p264
『吉右衛門自伝』序/p268
『中村吉右衛門定本句集』序/p273
河竹繁俊君著『中村吉右衛門』序/p277
あとがき/p281            ](「国立国会図書館デジタルコレクション」)
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