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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(四) [抱一・四季花鳥図屏風]

その四 「四季花鳥図屏風」の左隻(秋)

四季花鳥図屏風秋拡大.jpg

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(左隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)
「左隻(一~三扇・秋)部分拡大図」

 「作品解説」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』)中の、「左隻には、秋の竜胆、桔梗、薄、女郎花、漆、葛、篠竹に、雉と鴫がいる。冬は水仙、白梅に鶯、榛(はん)の木、藪柑子である」の「秋」(左隻・一~三扇)の絵図である。

花鳥巻秋一.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(一)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035821

花鳥巻秋二.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(二)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035822

花鳥巻秋三.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(三)」東京国立博物館蔵
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花鳥巻秋四.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(四)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035824

 「四季花鳥図巻」の「秋」(上記の一・二・三・四)の景物は、「紅白萩、鈴虫、あおじ、満月、がんぴ、朝顔、綿とその花、蓼、木槿、鶏頭、水引草、紅芙蓉、菊戴、かまきり、白菊、苅萱、公孫樹(いちょう)の葉、楓、嫁菜(野菊)、赤啄木鳥(あかげら)、いしみかかわ、櫨(はぜ)の葉」などである(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)。

 ここで、「抱一再評価の直接的契機となったのは、昭和四十七年、東京国立博物館の創立百周年を記念として開催された『琳派』展で、出陳された二十四点の作品は、宗達とも光琳とも異なる抱一の魅力をたっぷりと味わわせてくれた。このころから、抱一によって確立された江戸の琳派をとくに江戸琳派と呼ぶようになったのも、このように抱一に対する関心の高まりと無関係ではありえない」(「抱一筆 十二か月花鳥図考(河野元昭稿)」(『国華』一一七五号<国華社、一九九三年>)→『琳派 響きあう美(河野元昭著・思文閣刊)・(第二十三章)』)との、その「江戸琳派(抱一再評価)」の導火線となった、『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)』(図録)の、両者(「四季花鳥図屏風」と「四季花鳥図巻)」の「作品解説」を掲げて置きたい。

【 「207 四季花鳥図屏風 酒井抱一  六曲一双 陽明文庫 
抱一は四季の花鳥を大画面によく描く。この図は向かって右から春夏秋冬の草木を配し、その要所に、雲雀(ひばり)・白鷺・雉子(きじ)を遊ばせている。しかも、図の平明化を避けるために、草花の色彩効果を示し、濃緑の土坡(どは)には春草、雪の土坡には梅や藪柑子を描き、濃群青の流れは図を清らかに締めている。右隻の落款「文化丙子<1816>晩冬」により彼の五十六歳の作である。」

「225 四季花鳥図巻 酒井抱一 二巻 本館(東京国立博物館)
二巻よりなるこの「草花図巻」は写生的なところがある。図のつながりがいかにも巧みに構成されて、見事な四季草花・鳥の図巻としての体裁を保っている。品格の高い画調と色彩感豊かな色面の展開は抱一の画境の高さを示すもので、かれの傑作に数えられる。下巻巻末に、「文化戌寅<1818>晩春、抱一暉真写之」とあり、五十八歳の作。」  】
(『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)図録』)

 この「四季花鳥図屏風」の落款を仔細に見ると、「文化丙子晩冬 抱一写於鶯邨画房」とあり、文化丙子(文化十三年=一八一六)、抱一、五十六歳当時は、庵居に「雨華庵」の額を掲げる一年前のことで、その庵居は「鶯邨画房」であったことが窺える。この落款を加味するならば、この「四季花鳥図屏風」(六曲一双)は、抱一の「鶯邨画房」時代の頂点を示すものと理解することも可能であろう。
 その二年後の、抱一、五十八歳時の、「四季花鳥図巻」(二巻)は、その落款は「「文化戌寅晩春、抱一暉真写之」であるが、その印章には「雨華」(朱文内鼎外方印)が捺印され、それを活かすと、この作品は、抱一の最後に到達した「雨華庵(画房)」時代の、「抱一の画境の高さを示すもので、かれの傑作に数えられる」作品ということになろう。
 この「四季花鳥図巻」制作後の、三年後、文政四年(一八二一)、抱一、六十一歳時に、抱一の最高傑作作品の、「夏秋草図屏風」(東京国立博物館蔵)・「同下絵」(出光美術館蔵)が完成し、それらは制作依頼主の一橋治済(第十一代将軍徳川家斉の実父)に提出されることになる。

夏草図屏風一.jpg

酒井抱一筆「夏秋草図屏風」(二曲一双)東京国立博物館蔵 重要文化財
一七五・三×三四〇・四㎝(各隻)
【 「206 夏秋草図屏風 酒井抱一 二曲一双
銀地に風雨にさらされた夏・秋の野の光景を描く。驟雨にぬれた色増す薄・昼顔・百合・女郎花と流水。一方、吹きすさぶ野分の風に、蔦の葉や薄がなびき、それにからまった野葡萄の紫と女郎花の黄がまばゆく、風にとび散った葡萄葉の紅葉が鮮やかである。両双の静と動の対照がまことに巧みで、抱一芸術の頂点を示す傑作である。」  
(『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)図録』)

「71 夏秋草図屏風 酒井抱一 二曲一双 紙本銀地著色
 どんな画家でも、その画家の評価を決定するマスター・ピースをもっている。抱一にとってこの「夏秋草図」は、やはり畢生の大作の名に値する草花絵の名品である。めぐまれた家庭環境、二十歳代の華々しい時代の最先端をゆく粋人ぶりから、兄との死別、出家と変転する人生。光琳画との出会いは、おそらくかなりの若年に遡ると思われるのだが、絵画のなかにその影響が明瞭に現われてくるのは、三十歳代以降である。とりわけ、文化末~文政初期は、光琳画との対決にファイトを燃やした時期であったようであり、この作品も文政三~六年(一八二〇~二三)ごろが制作時期と推察される。光琳の「風神雷神図」(東京国立博物館第四巻所収)の裏面に俳諧の付合のごとき手法で描き合わせる趣向のおもしろさ。しかも裏面で展開された世界は、奥深い銀地空間のなかでうなだれ、吹き上げられる草花の抒情の美学であり、それは遠く平安時代の情趣豊かな大和絵景物画の伝統につらなってゆく。光琳画の重く緊張した風神、雷神からリリカルな草花のドラマチックな転換をみるにつけ、趣向がそのまま創造を意味していた時代の自由闊達さがしのばれる。」(『琳派一 花鳥一(紫紅社)』所収「作品解説・玉蟲敏子稿」) 】 

 この抱一の最高傑作作品「夏秋草図屏風」については、下記のアドレスなどで取り上げいる。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-28 ]

抱一の「銀」(夏秋草図屏風)と「金」(下絵)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-26 ]

酒井抱一(その五)「抱一の代表作を巡るドラマ」

 ここで、視点を変えて、「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)と「褻(け)の空間」
(私的な「日常の空間)とを、抱一が十代を過ごした酒井家(酒井雅樂頭家)の「上屋敷」(江戸城大手門の斜向かいの一角、この大手門を「中国漢代の未央宮の門」に擬して「金馬門」と称し、抱一の第一句集「こがねのこま」は、その大手門に由来する)は、さしずめ、
「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)の典型的な空間で、上記の、光琳の金地に描いた「風神雷神図屏風」とその裏面に銀地を施して描いた抱一の「夏秋草図屏風」は、この空間が最も相応しいであろう。
 大名家の「上屋敷」が、江戸城に近く、大名の政務を司る主要な屋敷とすると、「中屋敷」は、隠居した大名や成人した後嗣などの屋敷で、酒井家の中屋敷は、日本橋界隈の蠣殻町にあり、その近くの箱崎川に因んで、抱一は「筥崎舟守(はこざきのふなもり)」と称して、抱一は、その中屋敷の主であることを標榜していた。抱一の第二句集「梶の音」は、その箱崎川や日本橋川を往来する舟の梶音に由来しているようである(『日本史リブレット 酒井抱一(玉蟲敏子著)』)。
 この酒井家の蛎殻町の中屋敷の空間もまた、その上屋敷と同じく「朱門=大名屋敷」の、「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)で、上記の「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)に相応しい空間ということになろう。
 抱一が、この酒井家の中屋敷を出るのは、寛政二年(一七九〇・抱一、三十歳)実兄の酒井家当主・忠以(ただざね)の急逝(三十六歳)後の三年後のことで、それは酒井家の嫡流体制の確立と傍流(抱一)の排除ということと無縁ではなかろう。そして、抱一は、寛政八年(一七九六、三十六歳)、『江戸続八百韻』を刊行し、江戸座俳諧宗匠として独り立ちし、その翌年に出家し、「権大僧都等覚院文詮暉真(ぶんせいきしん)」の法号を得て西本願寺の門徒としての生涯を送ることになる。すなわち、「朱門=大名屋敷」から「白屋=詫び住い」へと「艶(やさ)隠者」(武家の身分を捨て「出家僧・俳諧師・画人」としての一市井人として隠遁的姿勢を貫く)の生活を全うすることになる。抱一にとって、この空間こそ「褻(け)の空間」(私的な「日常の空間)であって、ここには、上記の「四季花鳥図巻」が最も相応しいように思われる。
 翻って、これらの「四季花鳥図屏風」から「四季花鳥図巻」、そして、「夏秋草ず屏風」への軌跡は、一口に換言するならば、抱一より百年前の憧憬して止まない尾形光琳、そして、その実弟の乾山へのオマージュ(崇敬の念の表意)ということになるが、同時に、「光悦・宗達・光琳・始興・乾山」等々の京都を中心とする「京都琳派」から、抱一その人を中心としての「江戸琳派」への変遷を告げるものでもあった。
その変遷過程を中心に据えた「琳派展」こそ、先に紹介した、昭和四十七年(一七九二)の、東京国立博物館の創立百周年を記念として開催された『琳派』展ということになる。
その「江戸琳派(抱一再評価)」の導火線となった、『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)』(図録)の、その「序」(千沢梯治稿)の末尾のところを抜粋して置きたい。

【 風流人抱一は俳諧の「季」の絵画化を発想の根底とし、みがかれた鋭敏な感覚により、簡潔でまとまりのある瀟洒な装飾画を高貴なマチエールによって品格高く仕上げいるが、光琳の様式に深く傾倒しながらもその亜流化を厳然と拒否した見識は流石である。
(中略)
 宗達にとって古画は図形の宝庫であって意味内容は二次的な関心しか持っていない。光琳は古典に専ら作画のイメージを求める古典の感覚化の度合は著しい。抱一は感覚的に捉えた自然のイメージを文学的情操によってさらに美化し、琳派の色感を継ぎながら写生の妙技を示した。
 このように琳派は、その世代によって追及と発展の方向はさまざまであるが、かかる具象的な装飾様式の展開をたどることによって、おのずから芸術史上の位置を明らかにしている。 】
(『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)図録』所収「序(千沢梯治稿)」)
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(三) [抱一・四季花鳥図屏風]

その三 「四季花鳥図屏風」の右隻(夏)

四季花鳥図屏風夏拡大.jpg

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(右隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)
「右隻(四~六扇・夏)部分拡大図」

「作品解説」中の、「続いて夏の花、牡丹、鬼百合、紫陽花、立葵、撫子、下の方には河骨、沢瀉、燕子花に、やはり白鷺が二羽向き合い、水鶏も隠れている」という、右隻の第三扇(左半面)と第三扇~第六扇の絵図である。
 この「作品解説」の草花で、上記の絵図を見ていくと、右端(第三扇の半面)の上部に「牡丹」(初夏の季語)、その左下から順に、「鬼百合(仲夏の季語)・紫陽花(仲夏の季語)・立葵(仲夏の季語)・撫子(初秋の季語)」、この草花群の下に、右から順に、「沢瀉(仲夏)・河骨(仲夏)・燕子花(仲夏)」が描かれている。
 この「沢瀉」と「河骨」の間に、黒っぽい「水鶏」(三夏の季語)、「河骨」と「燕子花」との間に左向きの「白鷺」(第四扇)、第六扇の「撫子」の上に、飛翔している右向きの「白鷺」(三夏の季語)が描かれている。

牡丹(ぼたん)「初夏・(ぼうたん、深見草、富貴草、白牡丹、牡丹園))」
 形見とて見れば嘆きのふかみ草なになかなかのにほひなるらん 藤原重家「新古今集」
 牡丹蘂ふかく分出る蜂の名残哉     芭蕉 「野ざらし紀行」
 いにしへのならの都の牡丹持      其角 「其角発句集」
 牡丹散つてうちかさなりぬ二三片    蕪村 「蕪村句集」
 牡丹切て気の衰へし夕かな       蕪村 「蕪村句集」
 閻王の口や牡丹を吐かんとす      蕪村 「蕪村句集」
 地車のとゞろとひゞく牡丹かな     蕪村 「蕪村句集」
 低く居て富貴をたもつ牡丹かな     太祇 「太祇句選」
 扇にて尺を取りたる牡丹哉       一茶 「八番日記」
 美服して牡丹に媚びる心あり      子規 「子規全集」

百合の花(ゆりのはな)「仲夏・(鬼百合、鉄砲百合、笹百合、姫百合、車百合、山百合、鹿の子百合、透百合、白百合)」
 夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ 坂上郎女「万葉集」
 百合の花折られぬ先にうつむきぬ    其角 「其角発句集」
 飴売の箱にさいたや百合の花      嵐雪 「玄峰集」
 ひだるさをうなづきあひぬ百合の花   支考 「喪の名残」
 かりそめに早百合生けたり谷の房    蕪村 「蕪村句集」

紫陽花(あじさい、あぢさゐ)「仲夏・(かたしろぐさ、四葩の花、七変化、刺繍花、瓊花)」 
 飛ぶ蛍ひかり見え行く夕暮にまほ色残る庭にあぢさゐ 衣笠内大臣「夫木和歌抄」
 紫陽花や藪を小庭の別座敷       芭蕉 「別座鋪」
 紫陽花や帷子時の薄浅黄        芭蕉 「陸奥鵆」
 あぢさゐを五器に盛らばや草枕     嵐雪 「杜撰集」
 あぢさゐに喪屋の灯うつるなり     暁台 「暁台句集」
 あぢさゐや仕舞のつかぬ昼の酒     乙二 「乙二発句集」

葵(あおい、あふひ)「仲夏・(葵の花、花葵、銭葵、蜀葵、立葵、つる葵、白葵、錦葵)」
 葵草照る日は神の心かは影さすかたにまづなびくらん 藤原基俊「千載集」
 酔顔に葵こぼるる匂ひかな       去来 「有磯海」
 抱きおこす葵の花やさ月ばれ      蝶夢 「草根発句集」
 日に動く葵まばゆき寝覚かな      闌更 「半化坊発句集」
 葵草むすびて古きあそびかな      樗良 「樗良発句集」
 明星に影立ちすくむ葵かな       一茶 「享和句帖」
 鶏の塀にのぼりし葵かな        子規 「子規句集」

撫子(なでしこ)「初秋・(大和撫子、川原撫子、常夏)」
 萩の花尾花葛花瞿麦(なでしこ)の花をみなへしまた藤袴朝顔の花 山上億良「万葉集」
 酔うて寝むなでしこ咲ける石の上    芭蕉 「栞集」
 なでし子にかゝる涙や楠の露      芭蕉 「芭蕉庵小文庫」
 かるがると荷も撫子の大井川      惟然 「けふの昔」
 かさねとは八重撫子の名なるべし    曾良 「奥の細道」

沢瀉(おもだか)「仲夏・(面高、花慈姑、生藺)」
 破れ壺におもだか細く咲きにけり    鬼貫 「大丸」
 沢瀉や花の数添ふ魚の泡        太祇 「太祇句選」
 沢瀉は水のうらかく矢尻かな      蕪村 「落日庵句集」

河骨(こうほね・かうほね)「仲夏・(かはほね)」
 河骨の終にひらかぬ花盛り       素堂 「いつを昔」
 河骨の二もとさくや雨の中       蕪村 「蕪村句集」
 河骨の金鈴ふるふ流れかな       茅舎 「華厳」

杜若(かきつばた)「仲夏・(燕子花、かほよ花、白かきつばた)」
 唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ 在原業平「伊勢物語」
 杜若語るも旅のひとつ哉        芭蕉 「笈の小文」
 杜若われに発句の思ひあり       芭蕉 「千鳥掛」
 有難きすがた拝まんかきつばた     芭蕉 「泊船集」
 杜若にたりやにたり水の影       芭蕉 「続山の井」
 朝々の葉の働きや燕子花        去来 「俳諧古選」
 宵々の雨に音なし杜若         蕪村 「蕪村句集」

水鶏(くいな、くひな)「三夏・(緋水鶏、姫水鶏、水鶏笛、水鶏たたく)」
 水鶏だに敲く音せば槙のとを心遣にもあけて見てまし 和泉式部「家集」
 水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊まり   芭蕉 「有磯海」
 この宿は水鶏もしらぬ扉かな      芭蕉 「笈日記」
 関守の宿を水鶏にとはうもの      芭蕉 「伊達衣」
 夜あるきを田は寝ざりける水鶏かな   其角 「五元集捨遺稿」
 桃燈を消せと御意ある水鶏かな      蕪村 「落日庵句集」
 水音は水にもどりて水鶏かな    千代女 千代尼発句集」


白鷺(しらさぎ)「三夏・(こぼれ鷺・青鷺)」
 夕風や水青鷺の脛をうつ       蕪村 「幣袋」
 白鷺もこえて上野の杜涼し      子規 「子規全集」

花鳥巻夏一.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「夏(一)」東京国立博物館蔵
https://image.tnm.jp/image/1024/C0035817.jpg

花鳥図巻夏二.gif

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「夏(二)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035818

花鳥巻夏三.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「夏(三)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035819

 四季花鳥図巻」の草花は、上記の「夏(一)」は、「辛夷(仲春の季語)・姫百合(仲夏の季語)・麦の穂(初夏の季語)・罌粟(初夏の季語・紫陽花(仲夏の季語)」、その「夏(二)」は、「紫陽花・松葉牡丹(晩夏の季語)・鉄線花(初夏の季語)・芍薬(初夏の季語)」、その「夏(三)」では、「沢瀉(仲夏の季語)・河骨(仲夏の季語)・燕子花(仲夏の季語)」が描かれている。この「河骨」の後ろに、冒頭の「四季花鳥屏風」(右隻の第四扇)の「水鶏」が居る。この水鶏は「鷭(ばん)」で、「四季花鳥図」(右隻の第四扇)の水鶏も「鷭」であろう。

芦に白鷺一.jpg

酒井抱一筆「十二ヶ月花鳥図屏風」(六曲一双)の「左隻(第五扇)」(十一月)
「芦に白鷺図」(出光美術館蔵)
http://suesue201.blog64.fc2.com/blog-entry-660.html

 抱一の「十二ヶ月花鳥図」は、次の六種類のものが挙げられる(「酒井抱一」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

一 宮内庁三の丸尚蔵館蔵 絹本著色 十二幅 1823年(文政6年)
「十二か月花鳥図は、抱一晩年に複数制作された代表作。三の丸尚蔵館本には文政6年(1823年)の年紀があり、基準作として重要。出光や香雪本以外は掛軸12幅のセットだが、製作当初は全て絹本著色の六曲一双屏風に貼られていたと推定され、元は一具だったものが複数の所蔵先に分蔵されている例もある。「十二か月花鳥図」は藤原定家が「詠花鳥倭歌 各十二首」として各月を象徴する植物と鳥を選び和歌に詠んだ趣向(『拾遺愚草』収録)を、後世組み合わせて画題としたもの。江戸初期から狩野派や住吉派で描かれ、尾形乾山の作品にも見られる。抱一もこうした先行作に触発されたと思われるが、新たなモチーフに入れ替えたり対角線や曲線を多用するなどの工夫を凝らし、余白を生かした動きに富む花鳥図を生み出した。中には弟子の代作と見られる構図に纏まりのない作や緊張感のない緩んだ筆致も見られるけれども、伸びやかな描線や的確な写実など、抱一が最後に達した画境を示している。」→ ※十一月(水辺の白鷺・枯れ芦・小菊・山帰来)
二 畠山記念館蔵 絹本著色 十二幅 ※十一月(水辺の白鷺・鴛鴦・枯れ芦)
三 出光美術館蔵 絹本著色 六曲一双押絵貼(屏風)→※※十一月(水辺の白鷺・飛翔の白鷺・枯れ芦・小菊)
四 香雪美術館蔵 絹本著色 六曲一双押絵貼(屏風)→※十一月(木菟・雀・四十雀=四羽)
五 心遠館蔵  絹本著色 十二幅→※※十一月(水辺の白鷺・飛翔の白鷺・枯れ芦・小菊)
六 ファインバーグ・コレクション蔵 絹本著色 十二幅→※十一月(水辺の禽) 

 この他に、「亀田綾瀬賛」(亀田綾瀬は鵬斎の一子で江戸末期の儒学者)がある「諸家分蔵」のものがある(十二幅のうち五幅が現存する)。

七 諸家分蔵(亀田綾瀬賛) 絹本著色 → ※※十一月(水辺の白鷺・飛翔の白鷺・枯れ芦・小菊)

 上記の「芦に白鷺図」は、この「三 出光美術館蔵 絹本著色 六曲一双押絵貼(屏風)」の「左隻(第五扇)」(※※十一月=「水辺の白鷺・飛翔の白鷺・枯れ芦・小菊」)のものである。この図柄と全く同じものが、「五 心遠館蔵」(※※十一月)と「七 諸家分蔵(亀田綾瀬賛)」(※※十一月)で、以下に掲載をして置きたい。

芦に白鷺二.jpg 

酒井抱一筆「十二ヶ月花鳥図」(十二幅)のうちの「十一月(芦・菊・鷺)」
心遠館蔵(プライスコレクション) 各一四〇・〇×五〇・〇cm
【 一幅に一か月ごと、それぞれの季節の花と鳥または虫が組み合わされ描かれています。二幅ずつ対となる空間構成で、植物はのびやかに、鳥や虫は愛らしく配されています。】
(『東日本大震災復興支援 若冲が来てくれました(日本経済新聞社)』)

芦に白鷺三.jpg

酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 「枯芦に白鷺図」 一幅 山種美術館蔵
一四二・〇×五〇・二cm
【 もと図一六四(桜に小禽図)、図一六五(菊に小禽図)と同じく十二ヶ月花鳥図のセットの内の一図で、十一月の図とみられる。枯芦に鷺図は室町以来の水墨画でよく描かれ、江戸狩野や京琳派にも作例は多い。『光琳百図』前編の下には、「紙本六枚折屏風墨画鷺之図」としてさまざまな姿の白鷺図が紹介されており、抱一はそうした先行図様を組み合わせたのだろう。さらに雪の降りかかる枯芦を大きく斜めに配して季節感の表出に工夫を加えた。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版解説(岡野智子稿)」)

【「一六四 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 桜に小禽図」「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 菊に小禽図」「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 枯芦に白鷺図」 
 十二ヶ月花鳥図の中でも最晩年の作。三図はもと同じ十二ヶ月花鳥図屏風を成していた。他に同屏風より「牡丹に蝶図」(フリア美術館蔵)「柿に目白図」(ファインバーグコレクション)が知られる。掛軸に改装する際、画面の一部を裁ち落としている図もあり、本来はもう少し大きい画面であったようだ。
 これらには抱一の親友の亀田鵬斎の子、綾瀬(りょうらん)(一七七八~一八五三)が七言絶句の賛を寄せる。綾は抱一より十七歳年下だが、文政九(一八二六)年に鵬斎は亡くなるので、その前後に抱一が綾瀬と親密に関わった可能性は高いと思われる。
 このセットは細い枝や茎を対角線状に配し、画面の上から下にゆったりとモチーフが下降する構図を特徴とする。最後の数年の抱一作品には花鳥画が少ないが、ここでは余白の中で鳥が要のような役割を果たし、抱一花鳥画の到達点を示している。
 「一六四 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 桜に小禽図(賛)略」
 「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 菊に小禽図(賛)略」
 「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 枯芦に白鷺図(賛)」
      西風吹冷至漁家片雪
      飛来泊水涯独立斜陽
      如有待擬邀名月伴戸
      花    綾瀬老漁               】 
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「作品解説(岡野智子稿)」)

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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(二) [抱一・四季花鳥図屏風]

その二 「四季花鳥図屏風」の右隻(春)

四季花鳥図屏風春拡大.jpg

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(右隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)
「右隻(一~三扇・春から夏へ)部分拡大図」

「作品解説」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』)中の、「春草のさまざま、蕨や菫や蒲公英、土筆、桜草、蓮華草などをちりばめ、雌雄の雲雀が上下に呼応する」の「右隻一~三扇(面)」の絵図である。

花鳥巻春一.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(一)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035812

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-12

上記の図は、右から「福寿草・すぎな(つくし)・薺・桜草・蕨・菫・蒲公英・木瓜」(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)のようである。

花鳥巻春二.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(二)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035813

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-14

その「春(一)」で描いた「蒲公英・木瓜・菫・すぎな(つくし)・薺・白桜草」などに、新たに「虎杖(いたどり)」と「雉(きじ)と母子草」を描いている(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)。

 冒頭の「四季花鳥図屏風」(右隻第一扇~第三扇)は、上記の「四季花鳥図巻」(春一・春二)の草花が、宗達流の三層の丸みを帯びた土坡に描かれている。三扇の上部の「牡丹」は、次に続く夏の花の一部である。
 「四季花鳥図巻」を巻物(横長の紙に書いた絵や書をロール状に仕立てる、丸めて保管する)の横長の「巻子本」とすると、「四季花鳥図屏風」は屏風(複数枚に渡って絵や書を書いたパネルを横方向に連結する、折りたたんで保管する)の縦長の「折本」と見立てることも出来る。
 この「屏風」物は、例えば「六曲一双」物とすると、右隻(第一扇~第六扇)と左隻(第一扇~第六扇)の、十二扇(面)となり、「掛軸」(コンパクトな絵や書を主に床の間にかけて鑑賞できるよう仕立てる、丸めて保管する)物ですると、例えば、「十二ヶ月花鳥図」(十二幅)と同じ形式のものとなってくる。
 この「十二ヶ月花鳥図」(十二幅)の掛軸仕立てになっているものは、そもそもは、六曲一双の屏風物を改装したものが多いようである(また、これとは逆に、独立した図を貼る押絵貼屏風の形式もある)。
 そして、冒頭の「四季花鳥図屏巻」(六曲一双)は、「十二ヶ月花鳥図屏風」(六曲一双)ではなく、その右隻は「春・夏」(第一扇~第三扇=春、第四扇~第六扇=夏)、そして、左隻は「秋・冬」(第一扇~第三扇=秋、第四扇~第六扇=冬)の仕立てになっている。
 今回の右隻の「第一扇~第三扇=春」では、第二扇の「空高く舞い上がる揚げ雲雀」と第三扇の「揚げ雲雀を見ている地の雲雀」との呼応が(その空間)がメインとなって来よう。

雲雀(ひばり)(三春「告天使、初雲雀、揚雲雀、落雲雀、朝雲雀、夕雲雀、雲雀野」)「麦畑などに巣をつくり、春の空高く舞い上がって、一日中のどかに囀る。揚がる雲雀を揚
雲雀、落ちる雲雀を落雲雀という。雀よりやや大きく、褐色で黒褐色の斑があり、下腹は白っぽい。後頭部に冠羽をもつ。」
 うらうらに照れる春日にひばりあがり心かなしもひとりし思へば 大伴家持「万葉集」
 雲雀より空にやすらふ峠かな    芭蕉 「笈の小文」
 永き日も囀たらぬ雲雀かな     芭蕉 「続虚栗」
 原中や物にもつかず鳴雲雀     芭蕉 「続虚栗」
 一日一日麦あからみて啼雲雀    芭蕉 「嵯峨日記」
 草も木も離れ切たるひばりかな   芭蕉 「泊船集書入」
 松風の空や雲雀の舞ひわかれ    丈草 「そこの花」
 あつけりと人は残りて雲雀かな  千代女 「真蹟」 
 川越の肩で空見る雲雀かな     太祇 「石の月」
 夕雲雀鎧のの袖をかざし哉     蕪村 「落日庵句集」
 熊谷も夕日まばゆき雲雀哉     蕪村 「落日庵句集」
 庵室や雲雀見し日のまくらやみ   召波 「春泥発句集」
 声と羽と一度に休む雲雀かな    也有 「蟻づか」
 うつくしや雲雀の鳴きし迹の空   一茶 「七番日記」
 天に雲雀人間海にあそぶ日ぞ    一茶 「寛政句帖」

麦穂菜花図.jpg

酒井抱一筆「麦穂菜花図」双幅 静嘉堂文庫美術館蔵 重要美術品  
【いずれも春の景物。柔和な表現の菜花と、垂直に伸び連続する青麦の鋭い感覚とを対照的に取り合わせ、一羽ずつ配した雲雀の上下の動きが両幅を結びりつけるという、趣向に富んだ双幅である。季節の中の一片の表現や身近にいかにもありそうな風情を絵に描きとめる抱一の世界がここに確立されている。】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版解説(松尾知子稿))

 右の掛幅は「菜花と揚げ雲雀」図、左の掛幅は「麦穂と落ち雲雀」図である。「菜花(菜の花)」は晩春の季語、「雲雀」は三春の季語、「麦穂(穂麦)・麦秋(の穂)」は初夏の季語、「青麦(の穂)」は三春の季語、ここは、「麦穂(穂麦)・麦秋(の穂)」の初夏の景物としてとらえたい。この双幅は、冒頭の「四季花鳥図屏風」の右隻の「第二扇と第三扇」と同じく、右幅(第二扇)は晩春の景、そして左幅(第三扇)は初夏の景と解したい。

(参考)

渡辺始興雉.jpg

渡辺始興筆「鳥類真写図巻」(全一巻)中の「キジ(雉)図」
https://www.museum.or.jp/modules/topics/index.php?action=view&id=120

●河野元昭 「渡辺始興筆「真写鳥類図巻」について_(上)・(下)」『美術研究』290、291(1974年3月、4月)

●『創立百年特別展 琳派(東京国立博物館)』所収「作品解説189」
【 江戸中期の著名な宮廷文化人・近衛家煕(予楽院)<1667~1736>に家士として仕えた始興は、文芸の道に多彩な才能を示した家煕に教示されるところが多かった。『槐記(かいき)』(家煕の身辺を侍医・山科道庵が日記風に筆録したもの)にみえるように、家煕は絵画表現の基本に即物写生を重視している。始興は、この図巻のような遺作のほかに、数多くの写生画を制作していたものと思われる。なお、近世写生画の巨匠・円山応挙<1733~1795>が本図巻を模写しており、現在、当館に所蔵する写生画帖がこれである。】

「鳥類真写図巻」 渡辺始興 一巻 紙本着色 26.8×1758.0cm 「渡辺求馬始興筆意」

「四季花鳥図巻」酒井抱一 二巻 絹本著色 上巻 31.2×712.5cm下巻 31.2×712.5cm

※ 「鳥類真写図巻」(渡辺始興筆)は、「1758.0cm」、「四季花鳥図巻」は「712.5cm+712.5cm」
と、両者共に長大ものである。

上記の『創立百年特別展 琳派(東京国立博物館)』所収「作品解説189」中の「円山応挙<1733~1795>が本図巻を模写しており、現在、当館に所蔵する写生画帖がこれである」については、下記アドレスで、その全容を見ることが出来る。

「東京国立博物館(画像検索)」
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0078283/


雉図.jpg

円山応挙筆「写生帖(雉図)」(4帖の内1帖)42.1×30.6cm

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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(一) [抱一・四季花鳥図屏風]

その一 「四季花鳥図屏風」の右隻と左隻

四季屏風春・夏.jpg

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(右隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)

四季屏風秋・冬.jpg

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(左隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)

【 右隻の右から平坦な土坡に、春草のさまざま、蕨や菫や蒲公英、土筆、桜草、蓮華層などをちりばめ、雌雄の雲雀が上下に呼応する。続いて夏の花、牡丹、鬼百合、紫陽花、立葵、撫子、下の方には河骨、沢瀉、燕子花に、やはり白鷺が二羽向き合い、水鶏も隠れている。左隻には、秋の竜胆、桔梗、薄、女郎花、漆、葛、篠竹に、雉と鴫がいる。冬は水仙、白梅に鶯、榛(はん)の木、藪柑子である。
モチーフはそれぞれ明確に輪郭をとり厚く平たく塗り分け、ここで完璧な型づくりが為されたといっていいだろう。光琳百回忌から一年、濃彩で豪華な大作としては絵馬や仏画などを除いて早い一例となる。淡い彩色や墨を多用してきた抱一としては大変な飛躍であり、後の作画に内外に大きな影響を及ぼしたことが想像される。
本図は、昭和二年の抱一百年忌の展観に出品され、当時は、金融界の風雲児といわれた実業家で、浮世絵風俗画の収集でも知られる神田鐳蔵の所蔵であった。その前後、大正から昭和初めにかけて、さまざまな所蔵家のもとを変転したことが入札目録よりわかるが、それ以前の情報として、新出の田中抱二資料の嘉永元年(一八四八)の「写真」に、本図の縮図が見出されたことを報告しておく。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「作品解説(松尾知子稿))

 上記の「作品解説」中の、「春草のさまざま、蕨や菫や蒲公英、土筆、桜草、蓮華層などをちりばめ、雌雄の雲雀が上下に呼応する。続いて夏の花、牡丹、鬼百合、紫陽花、立葵、撫子、下の方には河骨、沢瀉、燕子花に、やはり白鷺が二羽向き合い、水鶏も隠れている。左隻には、秋の竜胆、桔梗、薄、女郎花、漆、葛、篠竹に、雉と鴫がいる。冬は水仙、白梅に鶯、榛(はん)の木、藪柑子である」は、次回以降、四季の「春」「夏」「秋」「冬」に分けて、じっくりと鑑賞していきたい。

 続く、「光琳百回忌から一年、濃彩で豪華な大作としては絵馬や仏画などを除いて早い一例となる。淡い彩色や墨を多用してきた抱一としては大変な飛躍であり、後の作画に内外に大きな影響を及ぼしたことが想像される」については、先に見てきた『四季花鳥図巻』(文化十五年=一八一八)作)の先行的な作品として、これも随時、その折々で、じっくりと比較鑑賞をしていきたい。ここで、両者を比較しての鑑賞の一端を特記して置きたい。

「四季花鳥図屏風」(六曲一双)→「晴(ハレ)」の「装飾・展示的空間」の「四季花鳥図」
「四季花鳥図巻」(二巻) → 「褻(ケ)」の「座右・書斎的空間」の「四季花鳥図」

 続く、「本図は、昭和二年の抱一百年忌の展観に出品され、当時は、金融界の風雲児といわれた実業家で、浮世絵風俗画の収集でも知られる神田鐳蔵の所蔵であった。その前後、大正から昭和初めにかけて、さまざまな所蔵家のもとを変転したことが入札目録よりわかるが、それ以前の情報として、新出の田中抱二資料の嘉永元年(一八四八)の「写真」に、本図の縮図が見出されたことを報告しておく」に関連しては、次のアドレスの、「華麗なる宮廷文化 近衛家の国宝 京都・陽明文庫展」(九州国立博物館)の「近衛家凞」(光琳・乾山と親交の深い渡辺始興は、家凞の家士として仕え、家凞自身「花木真写図巻」を有している)関連など、抱一の花鳥画を理解する上で必須であると共に、この抱一の「四季花鳥図屏風」が、近衛家の「陽明文庫」所蔵になっているのは興味深い。

https://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s35.html (再掲)

近衞家と陽明文庫
近衞家は摂政・関白等の重職を担い、宮廷の中心として政治や儀式を執り行ってきた。その遂行のためには日々の行事の記録や文書類を守り伝えることが重要であった。また歴代当主が各時代を代表する教養人であったためもあり、近衞家には奈良・平安時代から近代にいたるまでの書跡・典籍・古文書および美術工芸品約20万点が伝来した。これらの伝世品を永く保存し、公共の利用に供するため、昭和13年(1938)、時の首相であった近衞家29代文麿(1891〜1945)は、財団法人(現在は公益財団法人)陽明文庫を発足させた。近衞家は、藤原忠通の嫡子基実が平安京の近衞大路室町にあった近衞殿を居所とし、その子孫が代々この邸宅を伝領したことから、近衞を家名とした。近衞大路は平安宮の陽明門から東に発する大路であったことから陽明大路とも呼ばれ、近衞家は陽明家とも称した。陽明文庫の名はこれに由来し、発足以来70年以上にわたり、貴重資料の整理、調査、閲覧、展示公開などの公益活動を地道に続けている。現在所蔵する国宝は8件、重要文化財は60件、重要美術品は31件にのぼる。

近衞家凞像 (このえいえひろぞう)
九峰自端賛・寛深画 江戸時代 18世紀  近衞家凞の晩年の出家した姿を描く肖像画で、多才な文化人の繊細な人柄を偲ばせる。本像は、家凞没後の四十九日法要の際に描かれた肖像画を、十数年後に家凞の八男で大覚寺門跡・大僧正の寛深が写したもの。

四季花鳥図屏風 (しきかちょうずびょうぶ)
酒井抱一筆 江戸時代 文化13年(1816)  筆者の酒井抱一は尾形光琳に私淑し、江戸琳派とよばれる画風を確立したことで知られる。本作は抱一56歳の作品で、光琳にならって大画面制作に着手してまもない時期のもの。華やかな金地濃彩の画面のなかに、移ろいゆく四季の花鳥を気品高く描きあげる。

(参考)

https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/10017/1/KU-1100-20151101-04.pdf


「円山応挙と清朝花鳥画 : 近衛家煕の唐物趣味をふまえて(村上敬稿)」

(抜粋・「再掲」)

1、 近衛家煕と円山応挙の関係  

家煕の愛好した中国絵画を応挙と結びつけるために、まず家煕と応挙の人的な繋がりを明確 にしておかなければならない。もっとも、年齢差からして、家煕と応挙に直接の交際があった わけではない。両者の間に介在するのは、応挙のパトロン・祐常(1723~1773)である。家煕は、藤原五摂家の筆頭、近衛家に生まれ、摂政、関白、太政大臣を歴任した人物である。そして、応挙との関係でいえば、家煕は、祐常の姉・桜町天皇女御の義祖父にあたる。また、 応挙の墓碑銘を刻むほど親交の篤かった妙法院真仁法親王(1767~1805)の高祖父にあたる9)。 なお、祐常は、五摂津家のうち二条家の生まれであり、応挙が一時〈藤原姓〉を名乗ったのも、 このパトロンの俗姓と関係があったという説がある10)。さらに、祐常について、古筆了仲編『扶 桑画人伝』(1888)に興味深い一文があるので、以下に引用する。
○祐常 幼年ヨリ近衛家煕公ニ画ヲ學ンテ墨竹ヲ能クス又雑画モアリ
すなわち、家煕と祐常の間には、氏族関係だけではなく、画技における師弟関係のようなものも あったと考えられる。なお、両人の主要な作品は、それぞれ陽明文庫と円満院に伝世している。さらに、家煕と祐常の関係において看過できないのは、家煕のお抱え絵師であった渡辺始興 (1683~1755)の存在である。始興は、祐常の生家である二条家邸に出入りしていたとされる11)。 そして、祐常の祖父・二条綱平(1672~1732)は、かの尾形光琳(1658~1716)と深い親交が あり、始興が一般に琳派の絵師と認知されていることを踏まえると、近衛家と二条家の間には 旧来より絵画を通じた交流があったと考えられる。
さて、始興筆《鳥類真写図巻》(1718~1742、個人蔵)【図1】の忠実な模本として、応挙筆 《写生帖》(東京国立博物館蔵)【図2】の存在が知られている。なお、応挙の《写生帖》は、応 挙が祐常の知遇を得た明和4年(1767)から安永期にかけて制作されたと推定されている12)。も っとも、応挙がどのような経緯で、始興の《鳥類真写図巻》を模写したのかは不明であるが、 近衛家にあった本作品を、祐常が応挙に模写させたと判断するのが妥当であろう。そもそも応 挙が写生を行うようになった契機も、祐常から「昆蟲草木写真一百幀」の制作を命じられたか らとされる13)。では、なぜ応挙は、始興の《鳥類真写図巻》を模写し、また「昆蟲草木写真一百 幀」の制作を命じられたのか。

2、 写生画の先駆者、近衛家煕について  

近衛家は、藤原五摂家のなかでも筆頭の名門とされ、代々その家系は、文化的素質に秀でた 人物を輩出した14)。家煕も、学問を好み、書道、茶道、華道のいずれにも精通した文化人であり、絵画にも並々ならぬ関心をもっていた。なお、家煕の博学多才ぶりについては、侍医であった山科道安(1677~1746)により家煕の言行が筆録された『槐記』(1724~1735、陽明文庫 蔵)から知ることができる15)。  
さて、家煕は、日本美術史において、《花木真写図巻》(1725頃、陽明文庫蔵)【図3】の作者 として有名である。この《花木真写図巻》は、「日本において最も早期に作られた本格的な〈博 物図譜〉」16)と評価されるように、同時代に流行した椿図鑑や産物帳と比較しても、異色の写実 性を放っている。この点について、前述の『槐記』を確認すると、花鳥画に関して、まず実際に花や鳥を観察し、その特色を理解することの重要性を繰り返し説いている17)。もっとも、この《花木真写図巻》は、単に科学的な関心から描かれたのではなく、各々の草 花を美しく見せるために、色調、構図への趣向が凝らされている。それは、本図巻の模本が、 家煕自身により、《花木真写貼交屏風》(18世紀、陽明文庫蔵)に仕立てられ、鑑賞に供された ことからも明らかである。このような美的感覚は、家煕が華道に造詣が深かったことに由来している。この点について、『槐記』によると、家煕は、本草会を主催する松岡玄達(1668~1746) に、植物に関する様々な質問をしており、また華道(立花)に関して、それぞれの花に相応しい枝を用いねばならないと述べ、自然そのままでは作品にならないという持論を展開している18)。おそらく、家煕は、草花を写生するにあたっても、同様の考えをもっていたといえる。な お、今橋理子氏は、家煕の写生を支える華道の精神について、以下のように述べている。
 彼の「写生」の行為が、本草学者のそれと大きく異なっていたのは、自然物を捉える心 の発露が、「科学」である前に、まず「華道」の原点である、対象の「自然界でのなり」そ して、「その花を最も美しく見せる面」ということに置かれていた点である19)。
このように、ある特定の個体を写生しながらも、それを典型美に昇華させるという絵画理念は、 のちに応挙が大成させた写生画の本質といえよう。さて、始興の《鳥類真写図巻》に結実された写生への開眼は、家煕の影響が大きかったとされる20)。そして、応挙が始興の写生図を模写し、写生を行うよう命じられた背景にも、家煕から 始興、祐常へと受け継がれた写生画の伝統があったといえる。  
なお、朝岡興禎著『古画備考』(1850起筆)によると、応挙は、呉春(1752~1811)に対し、「文人画もよいが、勅命などによって描く場合、文人画では撰に入りにくい」21)と述べたとされる。この忠告の意味は、判然としないものの、御用達のために狩野派や土佐派の絵画を描いた 方がよい、というのではなく、写生画への転向を薦めたものと解釈できる。この応挙からの助 言は、のちに呉春が御物用に描いた《秋草図衝立》(18世紀、宮内庁三の丸尚蔵館)などに反映 されているといえよう。

3、 家煕の愛好した日本絵画と円山応挙  

家煕の写生画の精神が応挙へと受け継がれていることを指摘したが、それだけでは家煕から 応挙への流れが、いささか抽象的である。そこで、家煕のお抱え絵師であった、始興と応挙の 本制作における相似点を指摘しておきたい。  
応挙の絵画に始興からの影響が認められることについては、すでに一部の研究者により言及されている。たとえば、応挙の好んだ子犬図という画題は、始興の《芭蕉竹に子犬図》(個人 蔵)【図4】が先行する作品として挙げられており、始興作品にみられる子犬や芭蕉、竹の描写 は、応挙の技法、図様【図5】ときわめて近いとされる22)。さらに、始興筆《金地山水図屏風》 (個人蔵)の左隻における渓流沿いの描写は、応挙筆《雨中山水図屏風》(1769、円満院蔵)の それと酷似しているとされる23)。また、白井華陽筆『画乗要略』(1831)によると、応挙は、常 に始興を「能手」だと賞賛していたとされ、『真仁法親日記』にも、応挙が始興の作品を見て、 「見事也」と感心している様子が確認できる。  
また、この『真仁法親日記』によると、応挙は席画を行い、家煕の玄孫・真仁法親王を楽しませていたという24)。そして、現存する応挙の席画として、《滝図》25)が知られている。本作品 は、正面観の滝を画面全体に大きく描いた、応挙唯一の指頭画である。
このような画面構成の 滝図は、応挙が好んだものであり、代表作として《大瀑布図》(1772、円満院蔵、縦362.8×横 143.8cm)【図6】がある。そして、佐々木丞平氏の解説によれば、「円満院の池に滝のないことを惜しんだ祐常は、応挙の迫真の描写力をもって実物大の滝を生み出そうと考える。この途 方もない発想に応えて応挙が描いたのが本図である」という26)。  
しかし、《大瀑布図》と同様に、近接視による実物大の滝のみを描き、滝口を大胆に省略して いる作品として、始興の《瀑布図》(個人蔵、194.3×49.5)【図7】が先行している。さらに、 やや中画面ではあるものの、狩野尚信(1607~1650)の《滝図》(MIHOMUSEUM蔵、147.8 ×64.4)がある。なお、家煕は、尚信を「古今に超絶する」画家として非常に高く評価してお り、『槐記』にも、尚信への賛辞が存分に述べられている27)。
家煕が尚信の《滝図》を知っていて、似た絵画を始興に描かせたか否かは定かではない。た だ、少なくとも、始興の作に《瀑布図》がある以上、この種の滝図を応挙の独創とはいえまい28)。もっとも、応挙の始興画学習について、画風の相似点を挙げてたどるまでもなく、はっきりと落款にその意志を記した作品もある。応挙筆《春野図》(1771年)がそれで、「摹渡辺始興」 と記されている。以上のように、家煕亡き後、家煕の愛好した日本絵画が応挙の作画に影響を 与えていたことがわかる。

(参考)

『花 美への行動と日本文化(西山松之助著・NHKブックス)』所収「日本における花の文化史」に次の記述がある。

【 近衛予楽院の『槐記』の茶会記によると、
紅椿十六、椿・白玉椿・白椿六、妙蓮寺椿・飛入椿・本阿弥椿・絞り椿一、計椿が三十九、梅二十三、菊十四、水仙八、(中略)これらの茶花の実用例から考えられることは、一つは椿・梅・水仙・菊など、秋から冬・早春の花が多く、茶会が主としてこの時季に多かったから、自然こうなのだが、やはり茶花の美学たる、自然の季節の花を一色だけいけるという原則から。こういう主として白系統の花が、椿の場合は侘助以外必ず蕾の花が用いられた。(後略) 】

 「雪中花」の異称を有する「水仙花」が登場するのは、近世の俳諧(連句・発句=俳句)時代以降という、極めて新しい詠題なのだが、それは、上記の「茶華道」の発展過程と軌を一にするものなのかも知れない。

四季屏風水仙.jpg

近衛家煕筆「水仙」(『植物画の至宝:花木真寫・淡交社』)



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雨華庵の四季(その十八) [雨華庵の四季]

その十八「冬(四)」

花鳥図巻冬四.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「冬(四)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035829

花鳥図巻冬四拡大.jpg

同上:部分拡大図

 酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』)の、その「上・下」の最終を飾るものである。雪を被った梅の木の背後に、雪除けの菰(こも)かぶりの「水仙」が鮮やかに描かれている。その左脇に、「文化戊寅晩春 抱一暉真写之」の隷書による署名と、「雨華」(朱文内鼎方印)「文詮」(朱文瓢印)が捺されている。
 この「文化戊寅」は、改元されて「文政元年」(一八一九)、抱一、五十八歳の時である。この年の「年譜」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収)に、「四月、酒井鶯蒲を妙華尼(小鶯女史)の養子とする。唯信寺と号す」とある。
 「水仙花」は晩冬の季語で、「雪中花」の異称もあり、その異称は、雪の残る寒さの中に春の訪れを告げる花ということで、この上記図中の前図で紹介した「雪中鶯」「雪中梅」と三幅対という趣を有している。
 しかし、「雪中鶯」「雪中梅」は、『万葉集』以来の和歌・連歌で詠み継がれてきた、季題・季語の頂点に位置するような詠題であるのに比して、この「雪中花」の異称を有する「水仙花」が登場するのは、近世の俳諧(連句・発句=俳句)時代以降という、極めて新しい詠題ということになる。
 ちなみに、『万葉集』で詠まれている花木・草花は、「梅(九十七)・萩(九十四)、橘(四十五)、桜(三十八)、撫子(二十)、卯の花(十七)、藤(十三)、山吹(十二)、尾花・女郎花・菖蒲(七)、百合(六)」の順(上位十位)となっている『花 美への行動と日本文化(西山松之助著・NHKブックス))。
 『古今集』では、「桜、梅、女郎花、菊、萩、山吹、橘、藤袴、花薄、撫子」の順で、『源氏物語』『枕草子』では、「木の花は、紅梅・桜・藤・橘・梨・桐・楝(あふち)、草の花は、撫子・女郎花・桔梗・朝顔・苅萱・菊・壺菫・竜胆・かまつか・かにひ・萩・夕顔」などで盛んに「歌合せ」が興じられているとの記述がなされている(『西山・前掲書』)。
 ここで、スタート時点に戻って、この『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』の全絵図を見て行くと、「花木・草花」関連のものは、上記の『万葉集』『古今集』『源氏物語』『枕草子』などに顔を出している、所謂、「和歌・連歌」以来の景物という印象が強いのだが、この最終ゴール地点の、この「水仙花・雪中花」は、所謂、次の時代の新しい「俳諧(連句・発句=俳句)」の、その夜明けを告げるような景物という印象を深くする。

【 「絵画の世界」山根有三氏(美術史学者)
奈良時代の絵には花や草木がない。平安の大和絵には四季にわたる草花が描かれたが、それらを主題にした絵は工芸品の模様のほかにはない。鎌倉末期から室町にかけて漢画の影響による「花鳥画」が現れた。水墨画が入ってきたことによって、日本の自然観も変化も生じ、松の枝ぶりのよさに対する目は、宋元水墨画によって開かれたといってよい。安土桃山時代には花鳥画から花木図が独立し、絢爛たる花の饗宴・美しい色の乱舞する明るく健康な世界が現出した。桃山の武将たちは、松・檜・桜などの大木も、町衆たちは草花を愛した。宗達は町衆で彼ほど多くの草花を描いた者はいない。彼は草花と遊んだ。しかし、光琳は自然を深く鋭い目で観察し、それを組合わせる構成のきびしさをもっていた。情趣や季節感も失いたくないが、光琳のきびしさをもちたい。  】
(『西山・前掲書』所収「花と日本文化」)

四季屏風冬拡大.png

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(左隻部分拡大図)」六曲一双 陽明文庫蔵
文化十三年(一八一六)
【「文化丙子晩冬抱一写鶯邨書房」と三行にわたる大きな落款、その書きぶりからも、光琳百回忌から一年、抱一は五十六歳、大きな晴れの機会を得て決定的な型を打ち出そうとした感がある。各種の箔や砂子で複雑な輝きをつくる金地に制度の高い鮮烈な色彩が冴え、各所に効果的に配された白色などは眩しいほどである。  】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版解説(松尾知子稿))

 ここに、『四季花鳥図巻』最終ゴール地点の「水仙花・雪中花」が描かれている。この「水仙」の手前と左側の藪柑子に配した、雪を被った土坡は、宗達の土坡の応用であろう。そして、雪に覆われた藪柑子の上に描かれているの「白梅と鶯」、その左方の「枯れた榛(はしばみ)」、また、水仙の後ろの「流水」、その上方の、秋の景の「篠竹・葛・河骨・沢瀉」などは、光琳(そして、宗達)の応用なのであろう。
 ここで、前掲の「花と日本の文化」の「絵画の世界」(山根有三稿)の「宗達は町衆で彼ほど多くの草花を描いた者はいない。彼は草花と遊んだ。しかし、光琳は自然を深く鋭い目で観察し、それを組合わせる構成のきびしさをもっていた。情趣や季節感も失いたくないが、光琳のきびしさをもちたい」を、それを心底深く実践した人こそ酒井抱一ということになろう。そして、抱一は、宗達・光琳の「日本の花鳥の世界」に、新たなる、「水仙の世界」、即ち、宗達・光琳等々の「和歌・連歌」以来の世界に、新しい「俳諧(連句・発句=俳句)」の、その夜明けを告げるような世界を切り拓いていったということになる。

水仙(晩冬・「水仙花・雪中花・野水仙」)「ヒガンバナ科の多年草。花の中央には副花冠という部分が襟のように環状に立つ。ラッパ形のもの、八重のものなどがあり、すがすがしい芳香をもつ。」
 初雪や水仙の葉のたわむまで     芭蕉「あつめ句」
 水仙や白き障子のとも映り       芭蕉 「笈日記」
 その匂ひ桃より白し水仙花      芭蕉 「笈日記」
 水仙に狐遊ぶや宵月夜        蕪村 「五車反故」
 水仙や美人かうべをいたむらし    蕪村 「蕪村句集」
 水仙や鵙の草ぐき花咲ぬ       蕪村 「蕪村句集」
 水仙や寒き都のこゝかしこ      蕪村 「蕪村句集」
 水仙や花やが宿の持仏堂       蕪村 「夜半叟句集」

(参考)

新元号「令和」に由来する『万葉集巻五』「梅花の歌三十二首 序を并せたり」(全文・全句)
  (『対訳古典シリーズ万葉集(上)桜井満訳注・旺文社』)

天平二年の正月の十三日に、帥(そち)の老の宅へあつまりて、宴会(うたげ)を申(ひら)きき。
時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香を薫らす。しかのみにあらず、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾(かたぶ)け、夕の岫(くき)に霜結び、鶏はうすものに封(と)ぢられて林に迷ふ。庭には舞う新蝶(しんてふ)あり、空には帰る故雁(こがん)あり。
ここに、天を蓋(やね)とし、地を坐(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、衿(きん)を煙霞(えんか)の外に聞く。淡然(たんぜん)に自らを放(ほしいまま)にし、快然(くわいぜん)に自ら足る。
若し翰苑(かんえん)にあらずは、何を以て情(こころ)をのべむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古と今とそれ何ぞ異ならむ。宜しく園の梅を賦(ふ)して、いささかに短詠(たんえい)を成すべし。

八一五 正月(むつき)立ち春の来たらばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ(大弐紀卿)
八一六 梅の花今咲けるごと散り過ぎずわが家(へ)の園にありこせぬかも(少弐小野大夫)
八一七 梅の花咲きたる園の青柳はかづらにすべくなりにけらずや(少弐粟大夫)
八一八 春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ(筑前守山上大夫)
八一九 世の中は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にもならましものを(豊後守大伴大夫】
八二〇 梅の花 今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり(筑後守葛井大夫)
八二一 青柳 梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし(笠沙弥)
※※八二二  わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも (主人=大伴旅人)
※八二三  梅の花 散らくはいづくしかすがにこの基の山に雪は降りつつ(大監伴氏百代)
※八二四  梅の花 散らまく惜しみわが園の竹の林にうぐひす鳴くも(少監阿氏奥島)
八二五   梅の花咲きたる園の青柳をかづらにしつつ遊び暮らさな(少監土氏百村)
八二六   うちなびく春の柳とわがやどの梅の花とをいかにかわかむ(大典史氏大原)
※八二七  春されば木末隠れてうぐひすぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に(少典山氏若麻呂)
八二八  人ごとに折りかざしつつ遊べどもいやめづらしき梅の花かも(大判事丹氏麻呂)
八二九 梅の花 咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや(薬師張氏福子)
八三〇 万代に年は来経とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし(筑前介佐氏子首)
八三一 春なればうべも咲きたる梅の花 君を思ふと夜眠も寝なくに(壱岐守板氏安麻呂)
八三二 梅の花 折りてかざせる諸人は今日の間は楽しくあるべし(神司荒氏稲布)
八三三 毎年に春の来たらばかくしこそ梅をかざして楽しく飲まめ(大令史野氏宿奈麻呂)
八三四 梅の花今盛りなり百鳥の声の恋しき春来たるらし(少令史田氏肥人)
八三五 春さらば逢はむと思ひし梅の花今日の遊びに相見つるかも(薬師高氏義通)
八三六 梅の花手折りかざして遊べども飽き足らぬ日は日にしありけり(陰陽師礒氏法麿)
※八三七 春の野に鳴くやうぐひす馴けむとわが家の園に梅が花咲く(算師志氏大道)
※八三八 梅の花散りまがひたる岡べにはうぐひす鳴くも春かたまけて(大隅目榎氏鉢麿)
※八三九 春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る(筑前目田氏真上)
八四〇 春柳 かづらに折りし梅の花誰か浮かべし酒杯の上に(壱岐目村氏彼方)
※八四一 うぐひすの音聞くなへに梅の花 我家の園に咲きて散る見ゆ(対馬目高氏老)
※八四二 わがやどの梅の下枝に遊びつつ鶯鳴くも散らまく惜しみ(薩摩目高氏海人)
八四三 梅の花折りかざしつつ諸人の遊ぶを見れば都しぞ思ふ (土師氏御道)
※八四四 妹が家に雪かも降ると見るまでにここだもまがふ梅の花かも【小野氏国堅】
※八四五 鶯の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため(筑前掾門氏石足)
(注 上記の※は、「旅人の歌=※※」と「雪・鶯が詠出されている歌=※」)
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雨華庵の四季(その十七) [雨華庵の四季]

その十七「冬(三)」

花鳥図巻冬三.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「冬(三)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035828

花鳥図巻冬三拡大.jpg

同上:部分拡大図

 「雪中白梅に鶯図」である。「雪」は三冬の季語だが、「梅」は「初春」の季語、そして、「鶯」は「三春」の季語である。上記の左側の「水仙」(次の図に続く)は「晩冬」の季語で、今回の「雪中白梅に鶯図」は、「雪中の白梅」「雪中の鶯」の冬の景にしないと、連歌・俳諧(連句)上の「季戻り」(同じ季の句が数句続く中で、後句が前句よりも時季の早い内容であること。たとえば晩春に早春を付けるなど)になり、式目(ルール)の順調の流れにそぐわないことになる。
 鶯は、別名「春告鳥(はるつげどり)」(春を告げる鳥)で、さらに、「梅に鶯」は『万葉集』以来の詠題で(新元号「令和」にも由来する)、この絵図単独では、こと、「連歌・俳諧(連句)」を抜きにして、絵画オンリーの世界でも、初春の景のものにして鑑賞するのが一般的であろう。
 それに付け加え、その前(前図)は、「蕭条たる『枯れ柏(その上の「秋の渡り鳥の尉鶲(じょうびたき)」)』の冬の景で、この前図と後図とを考慮すると、「冬(枯れ柏)→春(梅に鶯)→冬(水仙花)」の所謂、最も(特に「連歌・俳諧」の世界で)避けるべき「観音開き」(繰返し・停滞・後戻りを嫌うため観音開きは忌避される)の流れとなってくる。ここは、「雪中梅」、そして、次図の「水仙(花)」の別名の「雪中花」に対応しての「雪中鶯」の晩冬の鶯として鑑賞をしていいきたい。
 その上で、上図の「雪中梅鶯図」にぴったりの催馬楽の一節がある。

  梅が枝(え)に 来居(い)る鶯 や 春かけて はれ
  春かけて 鳴けどもいまだ や 雪は降りつつ
  あはれ そこよしや 雪は降り降りつつ
                   催馬楽(「梅が枝」)

 この催馬楽の「梅枝」(梅が枝)は、この『四季花鳥図巻』で先に出てきた「蝉の抜け殻(冬一)」(『源氏物語(第三帖)』「空蝉」)、「紅葉した蔦を這わせての冬柏(冬一)」(『源氏物語(第三十五帖)』「柏木」)に続く、『源氏物語』第三十二帖「梅枝」(梅が枝)、そして、その「梅枝」に登場する、『源氏物語』第十三帖「明石」(明石の姫君)を背景としているものと解したい。
 ここまで来ると、この「春・夏・秋・冬」の、その最終場面(「冬」)で、何故に「鶯」(春告鳥)を登場させたのかということは、この抱一の『四季花鳥図巻』は、この『四季花鳥図巻』を所持する方(この『四季花鳥図巻』の制作依頼者の意図)は、和歌・連歌・俳諧に通じた、そして、その根底に流れている王朝文化の精髄である『源氏物語』などに精通している、殊に、男性というよりも女性、例えば、妙華尼(抱一の伴侶「小鶯女史」)や喜代姫(十一代将軍・徳川家斉の息女=姫路藩主酒井家五代・忠学の妻)周辺に起因しているが故であると解したい。

鶯(三春・「うぐいす・うぐひす・黄鶯・匂鳥・歌よみ鳥・経よみ鳥・花見鳥・春告鳥・初音・鶯の谷渡り・ここは・人来鳥」)「鶯は、春を告げる鳥。古くからその声を愛で、夏の時鳥、秋の雁同様その初音がもてはやされた。梅の花の蜜を吸いにくるので、むかしから『梅に鶯』といわれ、梅につきものの鳥とされてきた。最初はおぼつかない鳴き声も、春が長けるにしたがって美しくなり、夏鶯となるころには、けたたましいほどの鳴き声になる。」
 鶯や柳のうしろ藪の前         芭蕉 「続猿蓑」
 鶯や餅に糞する縁のさき        芭蕉 「葛の松原」
 鶯を魂にねむるか矯柳(たうやなぎ)  芭蕉 「虚栗」
 鶯のあちこちとするや小家がち     蕪村 「蕪村句集」
 鶯の声遠き日も暮にけり        蕪村 「蕪村句集」
 鶯のそそうがましき初音哉       蕪村 「蕪村句集」
 鶯を雀かと見しそれも春        蕪村 「蕪村句集」
 鶯や賢過たる軒のむめ         蕪村 「蕪村句集」
 鶯の日枝をうしろに高音哉       蕪村 「蕪村句集」
 鶯や家内揃うて飯時分         蕪村 「蕪村句集」
 鶯や茨くゞりて高うとぶ        蕪村 「蕪村句集」
 鶯の啼やちいさき口明て        蕪村 「蕪村句集」
 鶯や朝寝を起す人もなし        子規 「寒山落木」

梅(初春・「文木、花の兄、春告草、匂草、風待草、初名草、野梅、梅が香、梅暦、梅の宿、梅の里」)「梅は早春の寒気の残る中、百花にさきがけて白色五弁の花を開く。『花の兄』『春告草』とも呼ばれ、その気品ある清楚な姿は、古くから桜とともに日本人に愛され、多くの詩歌に詠まれてきた。香気では桜に勝る。」 
※春されば先づ咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ 山上億良「万葉集八一八」 
※※わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも 大伴旅人「万葉集八二二」
※梅の花散らくはいづくしかすがにこの基の山に雪は降りつつ 大伴百代「万葉集八二三」
※梅の花散らまく惜しみわが園の竹の林にうぐひす鳴くも 阿部奥島「万葉集八二四」
※春されば木末隠れてうぐひすぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に 山口若麻呂「万葉集八二七」
※春の野に鳴くやうぐひす馴けむとわが家の園に梅が花咲く 志紀大道「万葉集八三七」
※梅の花散りまがひたる岡びにはうぐひす鳴くも春かたまけて 榎氏鉢麿「万葉集八三八」
※春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る 田辺真上「万葉集八三九」
※うぐひすの音聞くなへに梅の花 我家の園に咲きて散る見ゆ 高氏老「万葉集八㈣一」
※わがやどの梅の下枝に遊びつつ鶯鳴くも散らまく惜しみ 高氏海人「万葉集八㈣二」
※妹が家に雪かも降ると見るまでにここだもまがふ梅の花かも 小野国堅「万葉集八㈣四」
※鶯の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため 門部石足「万葉集八㈣五」
 梅若菜鞠子の宿のとろろ汁     芭蕉 「猿蓑」
 山里は万歳遅し梅の花       芭蕉 「瓜畠集」
 梅が香にのつと日の出る山路かな  芭蕉 「炭俵」
 二もとの梅に遅速を愛すかな    蕪村 「蕪村句集」
 うめ折て皺手にかこつかをりかな  蕪村 「蕪村句集」
(注 上記の※は、新元号「令和」に由来する『万葉集巻五』「梅花の歌三十二首」中の「旅人の歌※※」と「雪・鶯が詠出されている歌」の抜粋)

(参考)

『源氏物語』「第十三帖 明石」の「あらすじ」

https://ja.wikipedia.org/wiki/明石_(源氏物語)

須磨は激しい嵐が続き、光源氏は住吉の神に祈ったが、ついには落雷で邸が火事に見舞われた。嵐が収まった明け方、源氏の夢に故桐壺帝が現れ、住吉の神の導きに従い須磨を離れるように告げる。その予言どおり、翌朝明石入道が迎えの舟に乗って現れ、源氏一行は明石へと移った。
入道は源氏を邸に迎えて手厚くもてなし、かねて都の貴人と娶わせようと考えていた一人娘(明石の御方)を、この機会に源氏に差し出そうとする。当の娘は身分違いすぎると気が進まなかったが、源氏は娘と文のやり取りを交わすうちにその教養の深さや人柄に惹かれ、ついに八月自ら娘のもとを訪れて契りを交わした。この事を源氏は都で留守を預かる紫の上に文で伝えたが、紫の上は「殿はひどい」と嘆き悲しみ、源氏の浮気をなじる内容の文を送る。紫の上の怒りが堪えた源氏はその後、明石の御方への通いが間遠になり明石入道一家は、やきもきする。
一方都では太政大臣(元右大臣)が亡くなり、弘徽殿大后も病に倒れて、自らも夢で桐壺帝に叱責され眼病を患い、気弱になった朱雀帝はついに源氏の召還を決意した。息子の決断に弘徽殿大后はショックを受け、「ついに源氏を追い落とせなかった」と悔し泣き。晴れて許された源氏は都へ戻ることになったが、その頃既に明石の御方は源氏の子を身ごもっており、別れを嘆く明石の御方に源氏はいつか必ず都へ迎えることを約束するのだった。

『源氏物語』「第五十三帖 梅枝(梅が枝)」の「あらすじ」

https://ja.wikipedia.org/wiki/梅枝

光源氏39歳の春の話。
東宮の元服に合わせ、源氏も明石の姫君の裳着の支度を急いでいた。源氏は女君たちに薫物の調合を依頼し、自分も寝殿の奥に引きこもって秘伝の香を調合する。雨の少し降った2月10日、蛍兵部卿宮を迎えて薫物合わせの判者をさせる。どの薫物も皆それぞれに素晴らしく、さすがの蛍宮も優劣を定めかねるほどだった。晩になって管弦が催され、美声の弁少将が「梅枝」を歌った。
翌日、明石の姫君の裳着が盛大に行われ、秋好中宮が腰結いをつとめた。姫の美しさに、目を細める中宮。(さすがは大臣の愛娘であること)と感心していた。源氏は本来ならば明石の御方も出席させるべきであったものの、噂になることを考えて、出席させられなかった事を悔やむ。東宮も入内を待ちかねていたが、源氏は他の公卿たちが遠慮して娘を後宮に入れることをためらっていると知り、敢えて入内を遅らせる。局は淑景舎(桐壺)と決め、華麗な調度類に加えて優れた名筆の手本を方々に依頼する源氏だった。
そんな華やかな噂を聞きながら、内大臣は雲居の雁の処遇に相変わらず悩んでいた。源氏も夕霧がなかなか身を固めないことを案じており、親として自らの経験を踏まえつつ訓戒し、それとなく他の縁談を勧める。その噂を父の内大臣から聞かされた雲居の雁は衝撃を受け、あっさり忘れられてしまう自分なのだと悲しむ。久しぶりに人の目を忍んで届いた夕霧からの文に、夕霧の冷淡さを恨む返歌をし、心変わりした覚えのない夕霧はどうして雲居の雁がこんなに怒っているのかと考え込む。
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雨華庵の四季(その十六) [雨華庵の四季]

その十六「冬(二)」

花鳥巻冬二.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「冬(二)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035827

花鳥巻冬二拡大.jpg

同上:部分拡大図

 上図の右側は、前図の冬柏の枯葉の枝に停まっている尉鶲(じょうびたき)で、それが突然、雪を被った尾花の景に様変わりする。左端の雪を被った梅の枝は、次図の一部分、中央の尾花の下部に描かれている赤い実は、山帰来(サルトリイバラ)の実であろうか。この絵図ですると、「冬柏」(枯柏葉=三冬)から雪を被った尾花の「雪」(晩冬)への季移りということになろう。この絵巻の全体からすると、この前図の「青木の実」(三冬)から冬の景で、冬でも青々としている「青木の葉」から、赤の「蔦紅葉」を這わせた冬柏、そして、秋に越冬するために渡ってきた「尉鶲」と枯葉をつけたままの「冬柏」への、「緑 → 赤 → 茶 」の世界から、この絵図の「雪尾花」の「雪」の「白」への変遷である。

雪(晩冬・「六花・雪の花・雪の声・深雪・雪明り・粉雪・細雪・小米雪・餅雪・衾雪・今朝の雪・根雪・積雪・べと雪・雪紐・筒雪・冠雪・雪庇・水雪・雪華・雪片・しまり雪 ・
ざらめ雪・湿雪・雪月夜・雪景色・暮雪・雪国・銀化・雪空・白雪・明の雪・新雪」)「雪は春の花、秋の月と並んで冬の美を代表する。雪国と呼ばれる日本海沿岸の豪雪地帯では雪は美しいものであるどころか、白魔と恐れられる。」
 たふとさや雪降らぬ日も蓑と笠     芭蕉 「芭蕉句選拾遺」 
 足あとは雪の人也かはかぶり      芭蕉 「むつのゆかり」
 市人よこの笠売らう雪の傘       芭蕉 「野ざらし紀行」
 馬をさへながむる雪の朝哉       芭蕉 「甲子吟行」
 二人見し雪は今年も降りけるか     芭蕉 「笈日記」
 雪の中に兎の皮の髭作れ        芭蕉 「いつを昔」 
 貴さや雪降らぬ日も蓑と笠       芭蕉 「己が光」
 酒のめばいとゞ寝られぬ夜の雪     芭蕉 「勧進牒」
 我雪とおもへば軽し笠のうへ      其角 「雑談集」
 花となり雫となるやけさの雪      千代女 「千代尼発句集」
 うつくしき日和となりぬ雪のうへ    太祇 「太祇句選」
 宿かさぬ火影や雪の家つづき      蕪村 「蕪村句集」 
 灯ともさん一日に深き雪の庵      白雄 「白雄句集」
 魚くふて口なまぐさし昼の雪      成美 「成美家集」
 寝ならぶやしなのゝ山も夜の雪     一茶 「旅日記」
いくたびも雪の深さを尋ねけり     子規 「子規句集」

尾花(三秋・「花薄・穂薄・薄の穂・初尾花・村尾花・尾花が袖・尾花の波」)「『芒』という季語が葉、茎、花の全体像を指すのに対し、『尾花』は芒の花だけをさす季語である。夏から秋にかけて二十センチから三十センチほどの、黄金色で箒状の花穂をつける。花穂は熟すにしたがって白っぽくなり、晩秋には白い毛の生えた種を風に飛ばす。動物の尾に似ているところから尾花といわれる。」
 花すすき寺あればこそ鉦が鳴る     末山 「続今宮草]
 武蔵野や鑓持もどく初尾花       言水 「誹枕」
 おもかげの尾花は白し翁塚       浪化 「そこの花」
 出帆まねく遊女も立てりはな薄     蓼太 「蓼太句集三稿」
 野の風や小松が上も尾花咲く      太祗 「俳諧新選」
 伸び上る富士のわかれや花すすき    几董 「井華集」
 むら尾花夕こえ行けば人呼ばふ     暁台 「暁台句集」
 猪をになひ行く野やはなすすき     白誰 「白雄句集」
 秋の日やうすくれなゐのむら尾花    青蘿 「青蘿句集」

草の実(三秋・「草の実飛ぶ」)「殆どの雑草は、花の終わった秋にそれぞれの実をつける。形や大きさはいろいろだが、その秋草の実をまとめて草の実という。」
 籠り居て木の実草の実拾はばや     芭蕪 「後の旅」
 草の実も人にとびつく夜道かな     一茶 「九番目記」

山帰来の花(晩春・「さるとりいばらの花・がめの木の花)「ユリ科の蔓性小低木。さるとりいばらを指す。蔓は固く、強い棘がある。晩春、葉腋から散形花序をだし、黄緑色の小花を球状につける。冬になると赤い実がとても良く目立つ。古くから生活に密着した植物で地方名が多い。」
 岩の上に咲いてこぼれぬ山帰来     鬼城 「定本鬼城句集」
 山帰来石は鏡のごとくなり         茅舎 「華厳」

其一・芒野図屏風.jpg

鈴木其一筆「芒野図屏風」二曲一隻 紙本銀地墨画 千葉市美術館蔵
一四㈣・二×一六五・六cm
【 二曲一隻の画面に芒の生い茂る野原が広がる。芒の穂先が形作る線は単調でありながら、しなやかで心地よいリズムを奏でている。中央にたなびく霞は、銀箔地の上に銀泥と墨を使い分けることによって表現されており、月光と霞によって幽暗な光がたちこめる芒野の静けさを醸し出している。この作品には「白椿に薄図屏風」(フリア美術館)という其一が描いた同工異曲の画面を含む屏風が存在する。これはとくに近代日本画を思わせる明快な色調と空間構成を備えた作例として早くから注目されてきたが、金地に白椿を描いた表絵に対して、薄(芒)の野原を銀地の裏絵として描いたもので、現在は二曲一双に改装されている。その対比的な取り合わせは、光琳が描いた金地の「風神雷神図屏風」(東京国立博物館)に対して、抱一が裏絵として描いた銀地の「夏秋草図屏風」(東京国立博物館)との関係を想起させるが、この「芒野図屏風図」に関しては、銀地のみを選んで微妙に改変させた作例として位置づけられている。画面には「為三堂」(朱文瓢印)と「其壱」が捺されている。其一の理知的なデザイン感覚を雄弁に物語る、印象的な屏風である。 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社刊)』所収「作品解説50(石田佳也稿)」)

 上記の解説中の「霞」とあるのは、「冬霧」と解すると、冒頭の、抱一の『四季花鳥図巻』の「雪を被った尾花図」と、色調、そして、雰囲気が二重写しになってくる。
 なお、この「芒野図屏風」(千葉市美術館蔵)と同工異曲の「フーリア美術館蔵」のものについては、下記のアドレスで触れている。

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035827
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雨華庵の四季(その十五) [雨華庵の四季]

その十五「冬(一)」

花鳥巻冬一.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「冬(一)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035826

花鳥巻冬一拡大.jpg

同上:部分拡大図

 右から「榛(の実)」「野菊」に続き、赤い実を付けた「青木の実」(三冬の季語)が登場する。その青木の葉の一枚に「蝉の抜け殻」(空蝉=晩夏の季語)を描いている(部分拡大図)。この「空蝉」は、前図の、能の「女郎花」「蟻通」の連想と同じく、『源氏物語』の「空蝉」(第三帖)を暗示しているものと解せられる。
 その左脇に、赤い蔦を這わせた「冬柏」が大きく左対角線上に描かれている。この冬柏も、『源氏物語』の「柏木」(第三十五帖)に由来するものであろう。その柏木の枯れた葉に「尉鶲(じょうびたき)」が、あたかも、『源氏物語』の柏木(官位の「衛門府」)の未亡人落葉の宮が詠む和歌「柏木に葉守の神はまさずとも人ならすべき宿の梢か」の、その梢を見ている雰囲気である。

青木の実(三冬・「桃葉珊瑚」)「青木はミズキ科の常緑低木。冬に楕円形のつややかな真紅の実をつける。冬でも青々とした葉ともあいまってその色は美しい。」
 長病のすぐれぬ日あり青木の実    風生「松籟」
 雪降りし日も幾度よ青木の実     汀女「汀女句集」

空蝉(晩夏・「蝉の殻、蝉の抜殻、蝉のもぬけ」)「蝉のぬけ殻のこと。もともと『現し身』『現せ身』で、生身の人間をさしたが、のちに、『空せ身』空しいこの身、魂のぬけ殻という反対の意味に転じた。これが、「空蝉」蝉のぬけ殻のイメージと重なった。」
 空蝉の殻は木ごとに留(とど)むれど魂の行くへを見ぬぞ悲しき 詠人知らず「古今集」
 梢よりあだに落ちけり蝉のから    芭蕉 「六百番発句会」

冬柏(三冬・「柏の枯葉・枯柏」)「ブナ科の落葉高木。冬に葉が枯れても、落ちないで枝について越冬する。その立ち姿や風に鳴る葉音は印象的で、『柏木の葉守の神』と古歌にあるように、神宿る木とされるのも頷ける。」
 柏木に葉守りの神はまさずとも人ならすべき宿のこずゑか 『源氏物語』「柏木」
 顔寄せて馬が暮れをり枯柏       亜浪 「亜浪句集」

蔦(三秋・「蔦紅葉・蔦の葉・錦蔦・蔦かずら」)「晩秋には紅葉して木や建物を赤々と染め上げる。青蔦は夏の季語。」
 桟やいのちをからむ蔦かづら     芭蕉 「更科紀行」 
 蔦植て竹四五本のあらし哉      芭蕉 「野ざらし紀行」
 苔埋む蔦のうつゝの念仏哉      芭蕉 「花の市」
 夜に入らば灯のもる壁や蔦かづら   太祇 「太祇句集」

色鳥(三秋・「秋小鳥」)「秋に渡ってくる美しい小鳥のことをいう。花鶏(あとり)や尉鶲(じょうびたき)、真鶸(まひわ)など。」
 色鳥のわたりあうたり旅やどり    園女 「小弓俳諧集」
 色鳥の中に黄なるはしづかなり    一青 「蓬路」
 鳥に先ず色を添へたる野山かな    浪化 「白扇集」

扇面夕顔図.jpg

酒井抱一筆「扇面夕顔図」 一幅 個人蔵 
【現在の箱に「拾弐幅之内」と記されるように、本来は横物ばかりの十二幅対であった。全図が『抱一上人真蹟鏡』に収載されており、本図は六月に当てられている。扇に夕顔を載せた意匠は、「源氏物語」の光源氏が夕顔に出会う場面に由来する。細い線で輪郭を括り精緻だが畏まった描きぶりは、この横物全般に通じる。模写的性質によるためか。「雨花抱一筆」と款し「抱弌」朱方印を押す。 】 (『酒井抱一と江戸琳派の全貌 求龍堂』)

抱一画集『鶯邨画譜』所収「紫式部図」

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-11-18

抱一筆「花街柳巷図巻」のうち「五月(五月雨)」(『源氏物語』の「空蝉」と「竹河」に関連するもの)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-04-21

(参考)酒井抱一画に出てくる『源氏物語』

第三帖 空蝉 → 巻名は光源氏と空蝉の歌「空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな」および「空蝉の羽におく露の木がくれてしのびしのびにぬるる袖かな」による。

https://ja.wikipedia.org/wiki/空蝉_(源氏物語)

第四帖 夕顔 → 巻名及び人物名の由来はいずれも同人が本帖の中で詠んだ和歌「心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花」による。「常夏(ナデシコの古名)の女」とも呼ばれる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/夕顔_(源氏物語)

第三十六帖 柏木 → 巻名は作中で柏木の未亡人落葉の宮が詠む和歌「柏木に葉守の神はまさずとも人ならすべき宿の梢か」に因む。「柏木衛門督」とも呼ぶ。頭中将(内大臣)の長男。「柏木」とは王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/柏木_(源氏物語)

第五十四帖 竹河 → 巻名は薫と藤侍従の和歌「竹河のはしうち出でしひとふしに深きこころのそこは知りきや」および「竹河に夜をふかさじといそぎしもいかなるふしを思ひおかまし」に由来する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/竹河
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雨華庵の四季(その十四) [雨華庵の四季]

その十四「秋(五)」

花鳥巻秋五.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(五)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035825

花鳥巻秋五拡大.jpg

同上:部分拡大図

 この絵図の右側から、前回の続きの「楓・野菊」の上に「楓の紅葉・銀杏の黄葉」、そして、その左脇に、「女郎花(枯)」と「蟻」らしきものが描かれている(拡大図)。
 これは、どうやら、能の「女郎花」(紀貫之の「かな序」の注釈書である「三流抄」に記された女郎花の説話を典拠とする「夢幻能」)と「蟻通」(和歌<紀貫之>によって神が慰められるという和歌を賞賛する内容とする四の尉物に分類される能)の世界の暗示のようなのである。
 この枯女郎花の左方に秋の実をぶら下げた「榛(はしばみ)」(榛の実=仲秋の季語)が、上部で枯女郎花に触れ合うように描かれている。そして、右方の野菊から左方の榛まで下部の地表を這うように描かれているのは、藍色の実(萼)を付けた蔓状の「いしみかわ」(和名=石見川、漢名=杠板帰)であろう。
 「楓・野菊・楓の紅葉・銀杏の黄葉」は前図で触れている。「榛(はしばみ)」は、「榛の花」は仲春の季語だが「榛の実」は晩秋の季語となる。「いしみかわ」は、ここでは「草の実」で三秋の季語と解したい。
 「女郎花」は、秋の七草の一つで初秋の季語だが、「枯女郎花」は「名の草枯る」で三冬の季語となる。「蟻」は三夏の季語で、「蟻穴を出づ」は仲春の季語、「秋の蟻」で「蛇穴に入る」(仲秋)などと同じ仲秋の季語と解したい。

女郎花(初秋・「をみなめし・粟花・血目草」)「秋の七草のひとつ。日あたりの良い山野に自生する。丈は一メートルほどになり茎の上部に粒状の黄色い小花をたくさんつける。」
 見るに我も折れるばかりぞ女郎花     芭蕉 「続連珠」
 ひよろひよろと猶露けしや女郎花     芭蕉 「曠野」
 牛に乗る嫁御落とすな女郎花       其角 「句兄弟」
 女郎花牛が通ればたふれけり       蝶夢 「草根発句集」

名草枯る(三冬・「名草枯る・枯葭・枯薊・枯鶏頭・枯萱・枯竜胆・枯葛・水草枯る)「女郎花や葛、鶏頭等の名前のついている草が枯れたことを詠むことであって、『名の草枯る』という語自体を詠むことではない。」
 かなぐれば枝に跡あり枯かづら       杉風 「喪の名残」
 まぎれぬや枯れて立つても女郎花      一茶 「八番日記」

蟻(三夏・「山蟻・女王蟻・雄蟻・大蟻・蟻の道・蟻の列・蟻の塔・蟻塚」)「夏の間、集団で食料を集める働き者の小さな虫。甘いものや昆虫の死骸などに群がる。」
 蟻の道雲の峰よりつづきけん        一茶 「おらが春」

蟻穴を出づ(仲春・「蟻出づ・蟻穴を出る」)「春、暖かくなって蟻が地下から出てくること。餌を求めて盛んに動き回るさまには、春を迎えた喜びが感じられる。」
 蟻出るやごうごうと鳴る穴の中      鬼城「ホトトギス雑詠選集」

榛(はしばみ)の実(晩秋・「つのはしばみ・せいようはしばみ」)「三月から四月にかけて紐状の褐色の花を咲かせる。黄褐色の実は硬く、一センチから二セ」ンチくらいの大きさ。総苞に包まれている。」
 榛をこぼして早し初瀬川          梅里 「類題発句集」

行者の水.jpg

伊藤若冲筆『玄圃瑤華』所収「行者の水」(紙本拓版各28.2×17.8㎝)
https://paradjanov.biz/jakuchu/hanga/1203/

 若冲の『玄圃瑤華』の中の「行者の水」と題するものである。「行者の水」とは、ブドウ科の蔓性落葉樹「三角蔓」の別名である。葉は三角形から卵状三角形で互生し、縁には歯牙状の浅い鋸歯がある。雌雄異株で、五月から六月ごろ、葉と対生して円錐花序をだし、小さな淡黄緑色の花を咲かせる。果実は液果で黒く熟し、食べることができる。
 この若冲の「行者の水」に、蟻(?)が取り合わせになっているのが、何とも修験行者の若冲に相応しい印象を深くする。この「行者の水」は、抱一の『四季花鳥図巻(下=秋冬)』の「いしみかわ」と同じような雰囲気で、これも「草の実」の三秋の季語と解したい。
 抱一は、この『玄圃瑤華』中の植物や昆虫などを念頭に置いて創作しているものが見受けられるのだが、この若冲の「行者の水と蟻(?)」も目にしていることであろう。として、抱一の蟻は、「夢幻能」の紀貫之に由来する「女郎花」に、目を凝らしても見えないような「蟻(?)」らしきものを添えている。そして、この蟻は、同じく紀貫之に由来する「蟻通」(四番物)に示唆を受けているように思われる。
 というのは、抱一の、この『四季花鳥図巻』が、ここに来て、「枯女郎花」(三冬の季語)と「蟻」(三夏の季語)と、これまで季節の移ろいを「連歌・俳諧(連句)」の季語という慣習(コンヴェンション)に従って流れるように展開していたものが、異常に破綻して来るのである。
 これは、丁度、「蟻通」の場面ですると、「紀貫之一行が、蟻通明神の 社地に馬も下りずに通ろうとして、それまで順調に進んでいたものが、お咎めを受け、馬が前に進まない」場面ということになる。
 この場面は、『四季花鳥図巻』を、「舞楽・能楽の構成形式の『序・破・急』の三部構成」ですると、「春(序)」「夏(破の一)」「秋(破の二)」「冬(急)」の展開の、「秋(破の二)」の最後の「趣向の場」(暴れ所)ということになる。
 ここでの江戸座俳諧(洒落俳諧)の宗匠(「座・連」のリーダー、「俳諧興行の進行者」=捌き)である抱一は、抱一が得意とする古典(和歌・俳諧・能・茶華道・故事一般など)ものを典拠とする謎掛け的趣向を施していることになる。
 その謎掛け的趣向の一つが、「女郎花」(初秋の季語だが、ここは「紅葉且つ散る」と「榛の実」の前後の関係から晩秋の季語)に託して、能楽「女郎花」の「紀貫之」の登場である。
 その謎掛け的趣向の「女郎花」を紐解く仕掛けとして、「蟻」(三夏の季語だが、前後の季節に合わせ晩秋の「蟻穴に入る」の季語)を登場させ、その蟻に、能楽「蟻通」の「紀貫之」の仕掛けを暗示させている。
 この場面(絵図)を、単純に「枯女郎花」(「名草枯る」の三冬の季語)や「行者の水を呑む蟻」(三夏の季語?)として鑑賞すると、ここで、これまでの一連の流れは暗礁に乗り上げることになる(これらのことに関し、能楽の「女郎花」と「蟻通」の「あらすじ」などを参考として掲げて置きたい)。

(「蟻通」のあらすじ)

http://www.noh-kyogen.com/story/a/aridoushi.html

紀貫之が従者を伴い和歌の神をまつる紀伊国の玉津島へ参詣に行く途中、俄に大雨が降り出し 馬も動かず困り果てます。すると老人が手に傘と松明を持ち現れたので声を掛けると、蟻通明神の 社地に馬も下りずに通ろうとしたお咎めであろうと言われます。鳥居や神殿に気付かなかった貫之 は畏れ入り、老人が勧めるままに歌を詠ずると、老人は歌を褒め和歌の六義を物語ります。貫之 が和歌の謂れを述べると馬も再び起上り、神のお許しがあったと喜び、宮守に祝詞をあげてくれる よう頼みます。宮守は祝詞を奏して神楽を舞い、実は自分は蟻通明神であると告げ消え失せます。 奇特を見た貫之は感激し、夜明けと共に再び旅立ちます。

(「女郎花」のあらすじ)

http://www.tessen.org/dictionary/explain/ominameshi

旅の僧(ワキ)が男山を訪れると、女郎花が美しく咲いていた。一つ手折ろうとすると、花守の老人(前シテ)が現れ、古歌を引いて咎めるので、僧も古歌を引いて応酬し、二人は風流な歌問答を交わす。所の古歌をよく知る僧に対して、老人は特別に手折ることを許し、二人は石清水八幡宮に参詣する。その後、老人は男塚・女塚という古墳へと僧を案内すると、そこに葬られている夫婦の霊の供養を頼んで姿を消す。僧が弔っていると、小野頼風(後シテ)とその妻(ツレ)の夫婦の霊が現れ、生前夫を恨んだ妻が自殺したこと、その妻の墓から一輪の女郎花が咲いたこと、頼風も妻の後を追って自殺したことなどを明かす。頼風は、恋の妄執ゆえに死後地獄に堕ちたことを述べ、僧に救済を願うのだった。
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雨華庵の四季(その十三) [雨華庵の四季]

その十三「秋(四)」

花鳥巻秋四.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(四)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035824

花鳥巻秋四拡大.jpg

同上:部分拡大図

 右側に三種類の菊(白とピンク掛かった厚物の菊と白の御紋章菊」)、そして左側には小さな野菊(青紫色の「嫁菜」)が咲いている。その間に、刈萱や薄が右側の白菊の方に靡き、落葉(楓の紅葉と銀杏の黄葉)も描かれている。そして、この絵図のメインの左側の楓の木に大きく啄木鳥が描かれ、その楓の紅葉した枝が右側の白菊に呼応しているように描かれている。

菊(三秋・「白菊・黄菊・一重菊・八重菊・大菊・中菊・小菊・厚物咲・初菊・乱菊・懸崖菊・菊の宿・菊の友・籬の菊)「秋を代表する花として四君子(梅竹蘭菊)の一つでもある。江戸時代になって観賞用としての菊作りが盛んになる。香りよく見ても美しい。」
 菊の香や奈良には古き仏達     芭蕉 「杉風宛書簡」
 菊の花咲くや石屋の石の間     芭蕉 「翁草」
 琴箱や古物店の背戸の菊      芭蕉 「住吉物語」
 白菊の目にたてゝ見る塵もなし   芭蕉 「笈日記」
 黄菊白菊其の外の名はなくもなが  嵐雪 「其袋」
 手燭して色失へる黄菊かな     蕪村 「夜半叟句集」
 あるほどの菊抛げ入れよ棺の中   漱石 「漱石全集」
 御空より発止と鵙や菊日和     茅舎 「川端茅舎句集」

野菊(仲秋・「紺菊・野紺菊・竜脳菊・油菊」)「山野に咲く菊の総称。色もさまざまで、野路菊は白、油菊は黄、野紺菊は淡い紫、海辺に咲く白い浜菊も美しい。」
 撫子の暑さ忘るる野菊かな     芭蕉 「旅館日記」
 名もしらぬ小草花咲く野菊かな   素堂 「嚝野句集」
 重箱に花なき時の野菊哉      其角 「句兄弟」
 朝見えて痩たる岸の野菊哉     支考 「其便」
 なつかしきしをにがもとの野菊哉  蕪村 「蕪村句集」
 足元に日のおちかかる野菊かな   一茶 「文化句帖」
 湯壷から首丈出せば野菊かな    漱石 「漱石全集」

刈萱(仲秋・「雌刈萱・雄刈萱」)「メガルカヤとオガルカヤ(スズメカルカヤ)があり、カルカヤは二種の総称。昔は屋根を葺くために用いられた。イネ科の多年草で日本各地の山野に自生する。高さは一メートル前後。」
 刈萱は淋しけれども何とやら    重頼 「藤枝集」
 かるかやや滝より奥のひと在所   蒼虬 「蒼虬翁句集」

芒(三秋・「薄・糸薄・鬼薄・芒原・むら薄・薄の糸・薄野・乱れ草・縞薄」)「月見のおそなえとして秋の代表的な植物。秋の七草のひとつでもある。」
 糸薄蛇にまかれてねまりけり    芭蕉 「句解参考」
 何ごともまねき果たるすゝき哉   芭蕉 「続深川集」
 行く秋の四五日弱るすすきかな   丈草 「猿蓑」
 一雨のしめり渡らぬ薄かな     支考 「西の雲」
 山は暮て野は黄昏の薄哉      蕪村 「蕪村句集」
 夕闇を静まりかへるすすきかな   暁台 「暁台句集」
 猪追ふや芒を走る夜の声      一茶 「句帖」
 取り留むる命も細き薄かな     漱石 「漱石全集」

楓(晩秋・「かへるで・山紅葉/・かへで紅葉」)「楓は色づく樹々の中で特に美しく代表的なもの。その葉の形が蛙の手に似ていることから古くは「かえるで」とも。」
 楓橋は知らず眠さは詩の心     支考 「東西夜話」
 紅楓深し南し西す水の隈      几菫 「井華集」

紅葉かつ散る(晩秋・「色葉散る・木の葉かつ散る」)「紅葉しながら、ちりゆく紅葉のこと。」
 かつ散りて御簾に掃かるる栬(もみぢ)かな   其角  「続虚栗」

銀杏黄葉(晩秋・「いちょうもみじ・いてふもみぢ」)「銀杏が色づくこと。日を浴びて黄落するさまは荘厳でさえある。」
 いてふ葉や止まる水も黄に照す         嘯山 「葎亭句集」
 北は黄にいてふぞ見ゆる大徳寺         召波 「春泥句集」 

啄木鳥(三秋・「けら・赤げら・青げら・小げら・山げら」「小げら、赤げら、青げらなどキツツキ科の鳥の総称。餌を採るときの木を叩く音と、目立つ色彩が、晩秋の雑木林などで印
象的。」
 木啄の入りまはりけりやぶの松         丈草 「有磯海」
 木つつきのつつき登るや蔦の間         浪化 「柿表紙」
 手斧打つ音も木ぶかし啄木鳥          蕪村 「明和八年句稿」
 木つつきの死ねとて敲く柱かな         一茶 「文化句帖」
 啄木鳥の月に驚く木の間かな          樗堂 「萍窓集」

檜・啄木鳥一.jpg

『十二か月花鳥図(抱一筆)』十二月「檜に啄木鳥図」(「宮内庁三の丸尚蔵館蔵=宮内庁本」)
【絹本着色 十二幅 (一~四、九~十二月 各一四〇・二×四九・三cm) (五~八月 各一三九・五×五〇・五cm) 文政六年(一八二三) 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂刊)』)

檜・啄木鳥二.jpg

同上:部分拡大図

【 宮内庁本の「十二か月花鳥図」の冬「十二月」に描かれた花鳥は「檜に藪柑子」そしてあしらい(注・俳諧用語「会釈」)の鳥は「啄木鳥」である。このうち「檜」も「藪柑子」も冬の季語とされるので「十二月」の「花」として扱われることは問題はない。 だが「啄木鳥」は基本的には秋の季語とされている。(中略)俳諧的感覚としてみれば季語性の「ずれ」が生じているのである。玉蟲氏(注・「酒井抱一の”新”十二か月花鳥図をめぐってー花鳥画の衣更えの季節」の筆者)は、抱一の花鳥画において、このような「ずれ」が生じた理由を、「(抱一画では)主要画材は色彩、構成上きわだたせるために、その素材の季節があまり重視されなかった」ためだと考察している。(中略)俳人抱一でさえも、その個々の素材の季語性を無視する姿勢を 時代的に広重に先んじてすでに持っていた、という点である。またこれを言い換えれば、抱一も広重も、対象とする題材が狙っていた季語という慣習(コンヴェンション)をもはや重視せず、自らが描こうとする題材、すなわち「花」と「鳥」それ自体に対する興味を、明らかに強く意識しているということなのである。 】
(『江戸の花鳥画 今橋理子著 講談社学術文庫』所収「浮世絵花鳥版画の詩学」)

 上記のことに関連して、次のことを特記して置きたい。

一 抱一の『四季花鳥図巻』では、例えば、「松虫・鈴虫の音色」とか、「水引草を靡かせる微かな風音・茅や薄を靡かせるやや強い風音」など「音の世界」を描こうとする意図が感知される。ここで、啄木鳥を大きく描いたのも、その「音の世界」への誘いであろう。

二 と同時に、ここで、抱一が、啄木鳥を大きく描いたのは、季語性重視の、「紅葉かつ散る」(晩秋の季語)の、「啄木鳥の木を叩く音」が「楓の紅葉(朱)の一葉と銀杏の黄葉(黄)の一葉を散らす」を描きたいという、その意図の一端を暗示しているものと解したい。

三 『十二か月花鳥図(抱一筆)』十二月「檜に啄木鳥図」の啄木鳥は、「留鳥(季節による移動をせず一年中同一地域にすむ鳥)」でこの図でいくと、「雪」(晩冬)「藪柑子」(三冬)との取り合わせで「冬の啄木鳥」ということになる。抱一自身としては、「季語性の『ずれ』」というよりも、ここでも「啄木鳥の木を叩く音」が根元の「雪」を払って、赤い「藪柑子の実」を覗かせているという意を含んでいるように解して置きたい(抱一が「檜」を冬の季語と解しているかどうかは否定的に解したい)。

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