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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その五) [三十六歌仙]

その五 宗碩と蜷川親当

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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「五 宗碩」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1509

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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二三 蜷川親当」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1492

(歌合)

歌人(左方五) 宗碩
歌題 寄舟恋
和歌 こがれ行くふねながしたるおもひして よらむ方なき君ぞつれなき
歌人概要  戦国期の連歌師

歌人(右方二三)蜷川親当(智蘊)
歌題 暁神楽
和歌 くれてこそ人すむ庵もしられけれ かた山かげのまどのともし火
歌人概要  室町中期の武士・連歌師

(歌人周辺)

宗碩(そうせき) 1474‐1533(文明6‐天文2)

室町後期の連歌師。別号は月村斎(げつそんさい)。出生は尾張ともいうが不詳。宗祇(そうぎ)に師事,1502年(文亀2)宗祇没後,宗祇の種玉庵に住み,宗長(そうちよう)とともに連歌界を指導。三条西実隆,細川高国ら公家や幕府の武将と交わり,たびたび北陸や中国,九州を旅し,種子島まで渡った。長門国で客死。連歌作品に《月村斎千句》《住吉千句》,高国辞世の《懐旧百韻》,紀行に《さののわたり》などがある。【鶴崎 裕雄稿】(出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について)

蜷川親当(になかわちかまさ) ?-1448(文安5) 

室町時代の幕府官僚,連歌師。蜷川親俊(ちかとし)の子。政所(まんどころ)公役,京都沙汰人(さたにん)をつとめる。和歌を清巌正徹(せいがん-しょうてつ)にまなぶ。連歌七賢の一人にかぞえられ,句は「竹林抄」「新撰菟玖波(つくば)集」にある。文安5年5月12日死去。名は親当(ちかまさ)。通称は新右衛門。義教死後出家して智蘊(ちうん)と号した。

(親当《智蘊》と宗碩)

 親当は、足利将軍(足利義教:第六代)の側近で、丹波園部の蜷川城の主である。義教死後出家して智蘊(ちうん)と号し、宗祇の『竹林抄』で「連歌中興七賢人」の一人として、その名を止めている武将上がりの連歌師である。
 一方の、宗碩は、師の宗祇の師筋にあたる宗砌らと同じ「七賢人」の智蘊とは、一時代後の戦国時代の連歌一筋の連歌師ということで、「智蘊と宗碩」との直接的な接点は見出せない。
 強いて挙げると、智蘊の嫡子・蜷川親元が一休禅師の大徳寺の檀徒で、その『親元日記』には、智蘊と一休禅師とのことが記されており、「宗祇→宗長→宗碩(宗祇一門)」の宗長は一休禅師の法弟子で、大徳寺・一休禅師との接点は見出されるのかも知れない。
 連歌を大成した二条良基から七賢人の時代史的な背景は「(参考)二条良基から七賢へ」のとおりである。この良基の編んだ最初の準勅撰連歌集『菟玖波集』の、この題名から、「連歌・俳諧(連句)=筑波の道」が定着し、「和歌・短歌=敷島の道」に代わって、連歌の時代へと変遷して行く。 
 この『菟玖波集』の上位入集者五名はすべて現存者であって、この集を成立に功のあった面々、救済(一二七句)・二品法親王尊胤(九〇句)・良基(八㈦句)・導誉(八一句)・足利尊氏(六八句)である。
 この五名のうち、二品法親王尊胤と良基は公家(堂上連歌)であるが、救済は僧侶、佐々木導誉と足利尊氏は武士(地下連歌)で、この『菟玖波集』において、「堂上連歌」と「地下連歌」の流れが一つとなって行く。
 そして、次の時代が、大内政弘の発願により、宗祇を中心として、猪苗代兼載・宗長・肖柏らの協力により撰集された『新撰菟玖波集』で、明応四年(一四九五)に成立した。
 この『新撰菟玖波集』には、宗祇の『竹林抄』で「連歌中興七賢人」と称えられた「宗砌・智蘊・心敬・専順・行助・能阿・宗伊(賢盛)」の面々(武士・僧侶など)が名を連ねている。

(参考) 

https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/tenjikai/2000/zuroku/p9.html

【 二条良基から七賢へ    

 一四世紀後半、二条良基や救済の働きにより連歌は飛躍的な展開を遂げた。良基は摂政・関白を歴任した高貴の身でありながら、当時幽玄な作風をよくした地下の連歌師救済を師と仰ぎ、順覚・信照・周阿ら連歌師と交流した。
こうして、宮廷・貴族の間で行われた堂上連歌と、毘沙門堂や法勝寺などの寺社の花の下で、堂上以上の隆盛を見せていた地下連歌の流れがひとつになった。良基は、初の准勅撰の連歌撰集『菟玖波集』を撰進し、連歌に和歌と同等の地位を与えようとした。また、乱れていた連歌の式目を整備して「応安新式」を制定、さらに『筑波問答』『十問最秘抄』など多くの連歌書を著した。良基の時代に確立された式目や理論は、その後も根本的には変わることなく受け継がれることになる。
 しかし、その後一世紀の間に、連歌は良基の理想とは別の方向に進み、『菟玖波集』でさえ埋もれた存在になってしまったという。
永享年間(一四二九~一四四〇)になって、連歌を再興したのは、冷泉派の歌人正徹に学んだ宗砌、智蘊、心敬らである。この三人に、専順、行助、能阿、宗伊を加えた七人は、宗祇によっての『竹林抄』に作品を収められ、七賢と呼ばれている。   】

(連歌七賢『竹林抄(宗祇編)』)

宗砌(そうぜい) → 高山民部少輔時重   → 武士
智蘊(ちうん)  → 蜷川親右衛門親当   → 武士
宗伊(そうい)  → 杉原伊賀頭賢盛    → 武士
心敬(しんけい) → 十住院権大僧都    → 僧侶
専順(せんじゅん)→ 六角堂(頂法寺)法師 → 僧侶(華道池の坊開祖)
行助(ぎょうじょ)→ 延暦寺法印      → 僧侶 
能阿(のうあ)  → 将軍義政同朋(文化顧問)→僧侶 


(『新撰菟玖波集』周辺) 

https://koten.sk46.com/sakuhin/shintsukuba.html

準勅撰連歌撰集。二十巻。宗祇ら撰。明応四年(1495)成立。
『菟玖波集』を継承し、永享元年(1429)以後六十年間の作品から約2000句を撰集。心敬
・宗砌・宗祇・兼載らの作品が中心。勅撰和歌集の部立を踏襲しているのは『菟玖波集』と同様だが、俳諧の部が除かれている。新菟玖波集。

日かげほのめく雨のあさかぜ
山はけふ雲ゐにかすむ雪きえて(巻一・春上・宗砌法師)

旅だちし故郷人をまつくれに
山路は雲のかへるをぞみる(巻十一・旅上・宗砌法師)

むかへば月ぞこゝろをもしる
西をのみねがふいほりの夜半のあき(巻十八・釋教・宗砌法師)

かすみこめたる木々のむらだち
みぬはなのにほひにむかふ山こえて(巻一・春上・智蘊法師)

庭にいりたつ木がらしの風
さむき日は野べの小鳥も人なれて(巻六・冬・智蘊法師)

一聲をたのむ思ひのたまさかに
残るほたるやかりをまつらむ(巻四・秋上・法印行助)

わが心こそうはのそらなれ
それとなくみしをおもひの始にて(巻八・戀上・法印行助)

夏くればふかき清水を又汲みて
岩ふみならしこもるやまでら(巻十八・釋教・能阿法師)

又よといひし暮ぞはかなき
ちるうちに人のさきだつ花をみて(巻七・哀傷・権大僧都心敬)

身ををしまぬもたゞ人のため
国やすくなるはいくさのちからにて(巻七・賀・法眼専順)

老のあはれを月もとへかし
風つらきひばらの山の秋の庵(巻十三・雑一・宗伊法師)

雲なき月のあかつきの空
さ夜枕しぐれも風も夢さめて(巻六・冬・宗祇法師)

なみだの水に身をやしづめむ
さのみかくなげくもいかゞ苔のした(巻七・哀傷・法橋兼載)

むつまじきまでなれる袖の香
いづくともしらぬにひきしあやめ草(巻三・夏・肖柏法師)

夏の夜はたゞ時のまのほどなれや
なけば雲ひくやまほとゝぎす(巻三・夏・宗長法師)


(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.htm

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月村斎宗碩(狩野蓮長 画)

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蜷川親当(狩野蓮長 画)
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