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「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十六) [光悦・宗達・素庵]

その二十六 従三位頼政

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十三「源頼政・藤原重家・藤原家隆」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(「源頼政・藤原重家」(シアトル美術館蔵))

26 従三位頼政:今宵だれすゞふく風を身にしめてよし野たけの月を見るらむ
(釈文)今宵誰須々ふ久風を身尓しめ天よし野濃多介乃月を見るら無

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    題しらず
今宵たれすずふく風を身にしめて吉野の嶽に月を見るらむ(新古387)

(通釈)今宵、師の竹に吹く風を身に染みるように聞きながら、葦の野さん額の上で、誰が月を眺めているのだろう。
【語釈】◇すずふく風 篠竹を吹く風。◇吉野のたけ 吉野の山嶽。「たけ」は竹と掛詞になり、「すず」の縁語。
【補記】『頼政集』に拠れば題は「月」。「御嶽詣の修験者を思いやった歌であろう」(岩波古典大系注)。なお、『頼政集』は第四句「吉野のたけの」とする。

源頼政 長治一~治承四(1104-1180)

摂津国渡辺(現大阪市中央区)を本拠とした摂津源氏の武将。参河守頼綱の孫。従五位下兵庫頭仲正(仲政)の息子。母は勘解由次官藤原友実女。兄弟に頼行・光重・泰政・良智・乗智、姉妹に三河(忠通家女房。千載集ほか作者)・皇后宮美濃(金葉集ほか作者)がいる。藤原範兼は母方の従弟、宜秋門院丹後は姪にあたる。子には仲綱・兼綱・頼兼・二条院讃岐ほか。
永久・元永年間(1113-1120)、国守に任ぜられた父に同行し、下総国に過ごす。保延年間、父より所領を譲られる。白河院判官代となり、保延二年(1136)、蔵人となり従五位下に叙せられる。保元元年(1156)七月、保元の乱に際しては後白河院方に従い戦功を上げたが、行賞には預らなかったらしい(平家物語)。同四年十二月、平治の乱にあって平家方に参加、再び武勲を上げる。以後漸次昇進し、治承二年(1178)十二月、平清盛の奏請により武士としては異例の従三位に叙された。同三年、出家するが、平氏政権への不満が高まる中、治承四年四月、高倉宮以仁王(もちひとおう)(後白河院第二皇子)の令旨を申し請い、翌月、平氏政権に対し兵を挙げる。三井寺より王を護って南都へ向かうが、平知盛・重衡ら率いる六波羅の大軍に追撃され、同年五月二十六日、宇治川に敗れ平等院に切腹して果てた。薨年七十七。
歌人としては俊恵の歌林苑の会衆として活動したほか、藤原為忠主催の両度の百首和歌(「丹後守為忠朝臣百首」「木工権頭為忠朝臣百首」)、久安五年(1149)の右衛門督家成歌合、永万二年(1166)の中宮亮重家朝臣家歌合、嘉応二年(1170)の住吉社歌合、同年の建春門院北面歌合、承安二年(1172)の広田社歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合、同年の右大臣兼実家百首など、多くの歌合や歌会で活躍した。藤原実定・清輔をはじめ歌人との交遊関係は広い。また小侍従を恋人としたらしい。『歌仙落書』『治承三十六人歌合』に歌仙として選入される。鴨長明『無名抄』には、藤原俊成の「今の世には頼政こそいみじき上手なれ」、俊恵の「頼政卿はいみじかりし歌仙なり」など高い評価が見える。自撰と推測される家集『源三位頼政集(げんのさんみよりまさしゅう)』(以下『頼政集』と略)がある。詞花集初出。勅撰入集五十九首。

「頼政卿はいみじかりし歌仙也。心の底まで歌になりかへりて、常にこれを忘れず心にかけつつ、鳥の一声鳴き、風のそそと吹くにも、まして花の散り、葉の落ち、月の出入り、雨雲などの降るにつけても、立居起き臥しに、風情をめぐらさずといふことなし。真に秀歌の出で来る、理(ことわり)とぞ覚え侍りし」(鴨長明『無名抄』に見える俊恵の評)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二十四)

「法性寺入道前関白太政大臣」(藤原忠通)の後に「従三位頼政」(源頼政)が続くのは、つくづくと、この配列順で、それぞれの「月の歌」を収載した『新古今和歌集』の実質的な編纂者の「後鳥羽院」(そして、それを取り巻く「良経・定家・家隆・雅経・有家」など)の卓抜したその冴えには驚きを禁じ得ない。
 と同時に、膨大な『新古今和歌集』の歌群の中から、「362 心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮(西行法師)」から「389 鳰の海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり(藤原家隆)」までを「鹿下絵新古今和歌巻」(光悦書・宗達画)に仕立て上げた「徳有斎光悦」(本阿弥光悦)の、その「和歌・新古今和歌集」等々の理解と、その理解を証しする用意周到なる巧みさには驚嘆以外の言辞を弄することを知らない。

風ふけば玉ちる萩の下露にはかなく宿る野辺の月かな(藤原忠通「新古386」)
今宵たれすずふく風を身にしめて吉野の嶽に月を見るらむ(源頼政「新古387」)

「大虚庵光悦」(本阿弥光悦)には「蓮下絵百人一首和歌巻」(大正十二年関東大震災などで一部焼失)がある。そこには、下記の三首のうち「76法性寺入道前関白太政大臣」と「77崇徳院」とは、どのようなものであったかは(「欠けている十九首」)定かではない。

75契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋も去ぬめり(藤原基俊)
(釈文: 契を支し左世も可露も命尓天哀今年濃秋も以怒め里 )
76わたの原こぎいでてみれば久方の雲いにまがふ沖つ白波(法性寺入道前関白太政大臣)
(釈文: 不明  )
77瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ(崇徳院)
(釈文: 不明  )

 これらの「百人一首」の三首には、いわゆる「保元の乱」(保元の乱は、平安時代末期の保元元年七月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。崇徳上皇方が敗北し、崇徳上皇は讃岐に配流された)と何らかの接点があるようなのである。
 この「保元の乱」(崇徳上皇方が敗北し、後白河天皇・藤原忠通方が勝者となる)は大きな節目の戦いであった。この「保元の乱」では、頼政は「後白河天皇・藤原忠通方」で、続く、「平治の乱」(「保元の乱」の後,後白河法皇をめぐって藤原通憲(信西)と藤原信頼とが反目し,通憲は平清盛と,信頼は源義朝と結んで対立。「平清盛」派が勝者となる)では、「通憲・平清盛」派で「反後白河」派であった。 
 そして、「治承・寿永の内乱(いわゆる「源平合戦」の幕開け)」の切っ掛けとなる「以仁王(後白河法皇第二皇子)の挙兵」では、頼政に武士としては破格の「従三位」の公卿に引き立てた清盛に対して反旗を翻し、「平氏打倒の狼煙」と「源氏の旗挙げ」を敢行するが、この戦闘で頼政は宇治の平等院で敗死(自決)する。
その頼政の宇治の平等院で敗死(自決)したときの辞世の歌が「平家物語」に記されている。

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埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける(頼政「平家物語」)

これを最後の詞にて、太刀の先を腹に突立て、俯(うつぶき)様に貫(つらぬ)かつてぞ失せられける。その時に歌詠むべうは無かりしかども、若うより強(あなが)ちに好(す)いたる道なれば、最後の時も忘れ給はず。その首をば長七(ちやうじつ)唱(となふ)が取つて、石に括(くく)り合せ、宇治川の深き所に沈めてけり。

【通釈】埋れ木のような我が身は、花の咲くことなどあるはずがなかったのに、あえて行動を起こし、このような結果になってしまったことが悲しい。
【語釈】◇三位入道 頼政を指す。◇渡辺長七唱 頼政の家来。◇埋れ木 水中や土中に永く埋もれていて、変わり果ててしまった木。世間から捨てて顧みられない身の上を暗示する。◇身のなる果 おのが身の最期。「身の成る」に「実の生(な)る」を掛ける。木・花・実で縁語になる。
【補記】治承四年五月、頼政は以仁王(もちひとおう)と結んで平氏打倒を目指し挙兵したが、平知盛・重衡ら率いる六波羅の大軍に破れ、同月二十六日、宇治の平等院で自害した。その時の辞世と伝わる。

この頼政の辞世の歌なども、嘗て「法性寺入道前関白太政大臣」(藤原忠通)と共に「崇徳院」を讃岐に配流させた「保元の乱」の立役者且つ源氏の武家歌人の一人として、上記の「百人一首」の「崇徳院」の後に続けるのも一興であろう。

76わたの原こぎいでてみれば久方の雲いにまがふ沖つ白波(法性寺入道前関白太政大臣)
77瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ(崇徳院)
? 埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける(従三位頼政) 

 この頼政の宇治の平等院で敗死(自決)したとき場面は、世阿弥の「二番目物(老武者物)」の「頼政」で今に知れ渡っている。

http://www.tessen.org/dictionary/explain/yorimasa

「頼政(よりまさ)」

埋もれ木の生涯を風雅に生きた、源三位頼政。しかし彼は、その人生の最後に臨んで、歴史に名を残すことになったのだった。終焉の地・平等院で見せる、老骨の矜持。
(概要)
旅の僧(ワキ)が宇治の里に通りかかると、一人の老人(前シテ)が現れる。僧は老人に案内を請い、二人は里の名所を見てまわる。最後に老人は僧を平等院に案内すると、源平合戦の古蹟を見せ、今日がその合戦の日に当たるのだと教える。老人は、合戦で自刃した源頼政の回向を僧に頼み、姿を消してしまう。実はこの老人こそ、頼政の幽霊であった。
僧が供養していると、頼政の幽霊(後シテ)が往時の姿で現れ、僧の弔いに感謝する。頼政は、合戦へと至った経緯を語り、宇治川の合戦の緊迫した戦場の様子を再現して見せる。やがて、自らの最期までを語り終えた頼政は、供養を願いつつ消えてゆくのだった。
(ストーリーと舞台の流れ)
1 ワキが登場し、自己紹介をします。
2 前シテがワキに声を掛けつつ登場し、二人は言葉を交わします。
3 前シテはワキを平等院へと案内すると、自らの正体を明かして消え失せます(中入)。
4 間狂言が登場し、ワキに源頼政の故事を語ります。
5 ワキが弔っていると、後シテが現れます。
6 後シテはワキと言葉を交わし、弔いに感謝します。
7 後シテは、宇治川の合戦に至った経緯を語りはじめます(〔クリ・サシ・クセ〕)。
8 後シテは、宇治川の合戦のありさまを語ります(〔語リ〕)。
9 後シテは自らの最期の様子を語って消え失せ、この能が終わります。

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(画・月岡芳年 ボストン美術館所蔵)
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