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最晩年の光悦書画巻(その五)- [光悦・宗達・素庵]

(その五)草木摺絵新古集和歌巻(その五・業平朝臣)

(3-3)

花卉三の三.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (3-3)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

花卉三の三の一.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (3-3-1)

 ここは、「花卉摺下絵新古今集和歌巻」の次の歌が揮毫されている。

(思ふには忍ぶることぞ)まけにける逢ふにしかへばさもあらばあれ

釈文
(おも婦尓ハ忍流事曽)ま気尓介る逢尓し可へバ左も安ら半安連(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

この前半部分の(おも婦尓ハ忍流事曽)は、前の「限りなく結び置きつる草枕いつこのたびを思ひ忘れん」(謙徳公)の後に書かれていて、この「3-3-1図」には出てこない。

    題知らず  
思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ(業平朝臣「新古今」1151)
(あなたを思う心には、秘めて耐えていることのほうが負けてしまいました。今は逢うこととひきかえに、できるならば、命はどのようになってもかまいません。)

 この「花卉摺下絵新古今集和歌巻」では、詞書(題知らず)と作者名(業平朝臣)は書かれていないが、最晩年の「草木摺絵新古集和歌巻」では、それらも書かれている。
 この歌は、『伊勢物語』(六五段)に出てくるものである。

http://ise-monogatari.hix05.com/4/ise-065.arihara.html

【むかし、おほやけおぼして使う給ふ女の、色ゆるされたるありけり。大御息所とていますがりけるいとこなりけり。殿上にさぶらひける在原なりける男の、まだいと若かりけるを、この女あひしりたりけり。男、女方ゆるされたりければ、女のある所に来てむかひをりければ、女、いとかたはなり、身も亡びなむ、かくなせそ、といひければ、
  思ふにはしのぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ
といひて曹司におり給へれば、例の、この御曹司には、人の見るをも知らでのぼりゐければ、この女、思ひわびて里へゆく。
(昔、天皇が御寵愛になって召しつかわれた女で、禁色を許された者があった。大御息所としておいでになられたお方の従妹であった。殿上に仕えていた在原という男で、まだたいそう若かった者を、この女は愛人にしていた。男は、宮殿内の女房の詰所に出入りを許されていたので、女のところに来て向かい合って座っていたところ、女が、とてもみっともない、身の破滅になりますから、そんなことはやめなさい、と言ったので、男は
  あなたを思う心に忍ぶ心が負けてしまいました、あなたに会える喜びにかえられれば、どうなってもよいのです
と読んだ。(そして女が)曹司に下ると、例の男は、この曹司に、人目を憚らずについて来たので、この女は、困り果てて実家に帰ったのだった。)  】『伊勢物語』(六五段)

 『本阿弥行状記』(中巻・一三八段)にも、次のような記述がある。

【 『本阿弥行状記』(中巻・一三八段)   

本朝物語の類

 源氏物語 伊勢物語(作者不詳) つれつれ艸(兼好) 枕草紙(清少納言) かけろふ
 日記(道綱母) 栄花物語(赤染衛門) さころも 三鏡 世継

凡おのおの才ある女の作にて、中々やはらかに文法の據なきもの也。然るに我朝の物語は淫楽の謀となりて、見るも物うしとて毎度学者の申さるゝ所可笑。孔子の撰みたまふ詩経にも、面々の風儀淫楽の事おほくのせあり。かなか、真字かのかはりめにて、勧善懲悪のいましめならずや。和文は見る所幽玄に、廻り遠きが如し。漢文は漢字にて義理とけ易し。此かはりめを学者のわけざる不届なる。 】(『本阿弥行状記と光悦(正木篤三著)』)

 ここに出てくる「和文は見る所幽玄に」の「幽玄」は、俊成の歌論の「幽玄」そして「もののあわれ」を踏まえてのものであろう。光悦は、日本の古典の、「和歌」そして「本朝物語」について精通していたことと、「仮名文字」そして「真名文字」などに関して、書家として一家言を有していたこととが、これらのことからも十分に覗える。

(追記メモ)


在原業平(ありわらのなりひら) 天長二~元慶四(825-880) 通称:在五中将

平城天皇の孫。阿保親王の第五子。母は桓武天皇の皇女伊都内親王。兄に仲平・行平・守平などがいる。紀有常女(惟喬親王の従妹)を妻とする。子の棟梁・滋春、孫の元方も勅撰集に歌を収める歌人である。妻の妹を娶った藤原敏行と親交があった。系図
阿保親王が左遷先の大宰府から帰京した翌年の天長二年(835)に生れる。同三年(826)、兄たちは臣籍に下り、在原姓を賜わる。仁明天皇の承和八年(841)、右近衛将監となる。同十二年、左近衛将監。同十四年(847)頃、蔵人となる。嘉祥二年(849)、従五位下に叙される。しかし仁明天皇が崩じ、文徳天皇代になると昇進は停まり、以後十三年間にわたり叙位に与らなかった。清和天皇の貞観四年(862)、ようやく従五位上に進み、以後、左兵衛権佐・左兵衛佐・右馬頭・右近衛権中将などを経て、元慶三年(879)頃、蔵人頭の重職に就任する(背後には二条后藤原高子(たかいこ)の引き立てがあったと推測される)が、翌年五月二十八日、卒去した。五十六歳。最終官位は従四位上。
文徳天皇の皇子惟喬親王に仕える。同親王や、高子のサロンで詠んだ歌がある。また貞観十七年(875)、藤原基経の四十賀に歌を奉った。
『三代実録』には「体貌閑麗、放縦不拘、略無才覚、善作倭歌」とある。『伊勢物語』の主人公は業平その人であると古くから信じられた。ことに高子や伊勢斎宮との恋を描く段、東下りの段などは名高い。家集『在原業平集』(『在中将集』)があり、これは古今集・後撰集・伊勢物語・大和物語から業平関係の歌を抜き出して編集したものと考えられている(成立は西暦11世紀初め頃か)。六歌仙・三十六歌仙。古今集の三十首を始め勅撰入集は八十六首。

勅撰集より四十八首、『業平集』より一首、『定家八代抄』より一首、計五十首を選び出した。歌本文は新編国歌大観に拠り、表記もなるべく底本に従うようにしたが、読みやすさを考慮して仮名を漢字に改めた場合がある(特に詞書についてはその例が多い)。

    題しらず
思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ(新古1151)
【通釈】あなたを慕う気持には、人目を憚る気遣いが負けてしまった。逢うことと引き換えにするのなら、どうなろうと構うものか。
【補記】新古今集では「逢ふ恋」の歌群に置かれ、逢瀬に身の破滅さえ賭けて惜しまぬ心情の歌となる。新古今集がこれを業平作としたのは、伊勢物語に主人公の歌として出て来るからで、実際には古今集よみ人しらず歌(下記参考歌)の改作転用であることが明らかである。伊勢物語六十五段、二条后との痛切な後日譚。

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