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最晩年の光悦書画巻(その六) [光悦・宗達・素庵]


(その六)草木摺絵新古集和歌巻(その六・廉義公)

(3-3)

花卉三の三.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (3-3)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

 この図(3-3)の中央部分からの歌は、次の一首である。

昨日まで逢ふにしかばと思ひしを今日は命の惜しくもあるかな(廉義公「新古今」1152)

(釈文)
昨日ま天安ふ尓し可へバと思ひしを今日ハ命濃惜久も有哉(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

 この歌は、『新古今和歌集』には、次のような詞書が付してある。

    人のもとにまかり初めて、朝に遣はしける
昨日まで逢ふにしかばと思ひしを今日は命の惜しくもあるかな(廉義公「新古今」1152)
(昨日まで、逢うこととひきかえに、できるならば、命はどのようになってもかまわないと思っていたのですが、今日は、その命が惜しく思われることです。)

 この歌の作者、廉義公とは、「26忠平(貞信公)→実頼→頼忠(廉義公)→55公任→84定頼」(番号=「百人一首」歌番号)の、忠平直系(小野宮流)の関白・太政大臣を歴任した藤原頼忠の諡号(しごう)である。
 この頼忠は、晩年には、従兄弟の藤原兼家(九条流)との政争に敗れて、一条天皇の即位と共に関白を辞し、失意のうちに薨御した。
 この「諡号」は、右大臣在任中に没した藤原不比等(文忠公・淡海公)が嚆矢で、後の摂関期には、摂関・太政大臣を務めて在俗のまま没した者に限っての、下記のとおりの九例を数えるだけである。

臣下の諡号と国公(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

藤原氏諡号.jpg

 ここで、「藤原伊尹(謙徳公)」と「藤原兼通(忠義公)とは「九条流藤原家」の「長男」
と「次男」で、その三男が「藤原兼家」なのである。そして、「伊尹(謙徳公)」の摂政・関白の後継を巡って、「兼通(忠義公)」と「兼家」との兄弟喧嘩となり。当時官職が上であった三男の「兼家」が年齢順で関白職となり、更に、この「兼通(忠義公)」の後継の関白に、実弟の「兼家」ではなく、「小野宮流藤原家」の「実頼(清慎公)」の嫡子「頼忠(廉義公)」に指名し、ここで、「九条流藤原家」は、「兼通(忠義公)」と「兼家」との両家に分裂し、以後、「兼家」が、初めて「前職大臣身分(大臣と兼官しない)の摂政」の地位を獲得し、「藤氏長者」(藤原氏一族全体の氏長者)の名を欲しい侭にすることになる。
 この「藤氏長者」の「九条流藤原家」の全盛者の頂点を極めたのが「藤原道長」であり、
そして、もう一方の「小野宮流藤原家」の「頼忠(廉義公)」の嫡子が、「藤原公任」なのである。この「藤原公任」は、簡略に記述すると、次のとおりとなる。


【藤原公任(966~1041)
平安中期の歌人・歌学者。通称、四条大納言。四納言の一人。実頼の孫。正二位権大納言。故実に明るく、諸芸に秀で、名筆家としても知られる。「和漢朗詠集」「拾遺抄」「三十六人撰」の撰者。著「新撰髄脳」「和歌九品」「北山抄」、家集「前大納言公任卿集」 】(「{大辞林 第三版」)

これに対して、「藤原道長」の簡略な記述は次のとおりである。

【藤原道長(966~1027)
平安中期の廷臣。摂政。兼家の子。道隆・道兼の弟。法名、行観・行覚。通称を御堂関白というが、内覧の宣旨を得たのみで正式ではない。娘三人(彰子・姸子・威子)を立后させて三代の天皇の外戚となり摂政として政権を独占、藤原氏の全盛時代を現出した。1019年出家、法成寺を建立。日記「御堂関白記」がある。 】(「{大辞林 第三版」)

 ここでは、この「藤原公任と藤原道長」が共に、「康保三年生れ(九六六)」で、一言ですると、「藤原公任」は「平安中期の歌人・歌学者(文人)」、「藤原道長は「平安中期の廷臣。摂政(政治家)」ということになる。
しかし、『新古今和歌集』の入集数を見ると、「藤原公任」は六首、「藤原道長」(法成寺入道前摂政太政大臣」)は五首と、絶妙なバランスが覗えるのである。
 ともすると、「藤原道長」は、「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」で象徴するように、権力の絶頂を極めた政治家として面が強調されているが、「三舟の才」(「漢詩・和歌・管弦の三舟の才」)の故事を遺している「藤原公任」に負けず劣らず、その漢詩は『本朝麗藻(ほんちょうれいそう)』に多数収められて、和歌の方も『後拾遺集』以下の勅撰集に三十三首採られているほどの大文人の一人であった。
中でも、道長の娘の中宮彰子の側近に、当時の才媛を呼び集め、そのサロンから、『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られる和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門などの女流作家が巣立ち、その競い合いから『枕草紙』の清少納言などの、いわゆる「女流文学の隆盛」を導いた背後の人物として、「藤原道長」の貢献というのは、やはり特筆して置く必要があろう。
ここでは、『大鏡』(「第五巻)13 若き日の道長の心意気と,その剛胆ぶり」の「兼家・公任・道長」などに関する、次の事項について付記して置きたい。

(付記)

【四条の大納言(藤原公任)のかく何事もすぐれ、めでたくおはしますを、大入道殿(藤原兼家)、「いかでか、かからむ。うらやましくもあるかな。わが子どもの、影だに踏むべくもあらぬこそ、くちをしけれ。」と申させ給ひければ、中関白殿(藤原道隆)、粟田殿(藤原道兼)などは、げにさもとや思すらむと、恥づかしげなる御気色にて、ものものたまはぬに、この入道殿(藤原道長)は、いと若くおはします御身にて、「影をば踏まで、面をやは踏まぬ。」(「影はともかくとしても、面を踏まずにおくものか」)とこそ仰せられけれ。まことにこそさおはしますめれ。内大臣殿(藤原教通)をだに、近くてえ見たてまつり給はぬよ。】(『大鏡』(「第五巻)13 若き日の道長の心意気と,その剛胆ぶり」)

https://sites.google.com/site/iwanamigakujutu/top/gakujutu/0400-0599/0491

|第5巻 太政大臣道長 上
|1 世継の翁の語り口が改まる,これこそ今を時めく入道殿下よ
|2 好運児道長,政敵などいっせいに病没
|3 道長の正室倫子のはなばなしい子女たち
|4 いまさらのように,倫子の羽ぶりを讃嘆する
|5 高松殿明子,選ばれて道長の側室となる
|6 明子が生んだ多彩な子女たち
|7 顕信,突然の出家,乳母の身もだえしての嘆き,周囲の人々の思惑
|8 顕信出家に対する道長の心境,受戒に際しての手厚い処置,顕信の悟りの姿
|9 道長の二人の室倫子・明子の礼讃,そして二人とも源氏の出であることの指摘
|10 道長,突如として出家,后の宮々の動揺
|11 満六十歳の道長に,輝かしき姫の三人の后の宮
|12 道長,事によせてすぐれた歌才を発揮
|13 若き日の道長の心意気と,その剛胆ぶり
|14 飯室の権僧正の伴僧,道長の人相を絶讃する
|15 賀茂の行幸で示した道長の容姿のすばらしさ
|16 不遇時の道長,競射で政敵伊周を圧倒する
|17 女院の石山詣でに,道長,伊周に強引に振舞う
|18 上巳の御禊の日の河原遊びに,道長の車副が,伊周を圧迫する
|19 女院詮子の道長への愛情と,道長の運勢の強さ|藤原氏の物語
|20 世継の翁は,ここで話題を改めて,藤原氏の始祖鎌足から語りだす
|21 鎌足の息子不比等から子女へと話題は展開,藤原四家の起こりを語る
|22 北家十三代の系譜,興福寺の唯摩会
|23 冬嗣,南円堂を建立,丈六の不空羂索観音を安置する
|24 頼道の若君の七夜に道長の贈歌,藤原北家の栄え
|25 藤原氏の氏神の由来,そして大原野・吉田神社の創始
|26 鎌足の氏寺東武峯,不比等の山階寺,そして「山階道理」の由来
|27 皇后の御父,天皇の御外祖父について
|28 道長の無量寿院の建立,それにまつわる浄妙寺の建立
|29 基経の極楽寺の建立と,その発願の動機
|30 法性寺の建立,楞厳院の由来,そして道長の絶大な運勢の礼讃
|31 二人の翁が,深い共感をもって,道長の治世のすばらしさ,たのもしさを語る
|32 法成寺金堂供養の翌日の道長の一族の宮たちの参詣姿の美々しさ
|33 盛儀をのぞき見する三人の乳母を,叱りもせず,のろける道長
|34 金堂供養の盛儀を拝観して,河内の聖人が道心を深める
|35 彰子受戒の噂が立ち,それを踏まえての世継夫妻のユーモラスな会話
|36 嬉子の懐妊と寛子の病気,それにつけての翁たちの回想
|37 世継の翁,禎子に関しての夢想を語る
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