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最晩年の光悦書画巻(その四)- [光悦・宗達・素庵]

(その四)草木摺絵新古集和歌巻(その四・謙徳公)

(3-2)

西行・花卉3-2.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (3-2)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

(3-2-1)

花卉3-2-1.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (3-2-1)

「花卉摺下絵新古今集和歌巻」(3-2図)は「儀同三司母と謙徳公」の二首が揮毫されていた、その後半の部分図(3-2-1図)が、「謙徳公」の歌である。

   忍びたる女をかりそめなる所に率(ゐ)てまかりて、
   朝に遣はしける
限りなく結び置きつる草枕いつこのたびを思ひ忘れん(謙徳公「新古今」1149)
(いつまでもと約束して置いてきた旅寝の枕よ。いつ今度の旅を忘れようか。)

(釈文)
可幾里なく無須日を幾徒流草枕い津こ乃多日を思忘連牟(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

 謙徳公(藤原伊尹:924-972)は、貞信公(藤原忠平:880-949)の孫である。そして、謙徳公の三男が、藤原義孝(954-974)で、この三人は、「百人一首」にその名を列ねている。

026 小倉山峰の紅葉は心あらば今ひとたびのみゆ待たなむ(貞信公「百人一首」)

045 あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな(謙徳公「百人一首」)

050 君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな(藤原義孝「百人一首」)


百人一首歌人系図(藤原氏)
http://kitagawa.la.coocan.jp/data/100keizu02.html

藤原道長系図.jpg

 この貞信公(藤原忠平:880-949)の直系が、摂関政治の中枢であると同時に「百人一首」の主流でもある。

051 かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを(藤原実方「百人一首」)

052 明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしきあさぼらけかな(藤原道信「百人一首」)

055 滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ(大納言公任「百人一首」)

064 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々の網代木(権中納言定頼「百人一首」)

 光悦の「和歌に関する鋭い感覚、深い鑑賞能力は、古今伝授家など足元に及ばない」(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編集・執筆)』「鼎談 江戸文化をコーディネートした光悦」の「河野元昭」発言)と、光悦自身「自分は和歌は下手だ」と言っているニュアンス(『本阿弥行状記』)と関連させて、言及している。
 これらのことに関しての『本阿弥行状記』(中巻・一三六段)に、次のように記述されている。

【 『本阿弥行状記・中巻・一三六段』
和歌は本朝よの始りて今に絶せず。下々までも取扱ふことなり。我は歌を詠ずる事はしらずといへども、地下の歌詠達の申さるゝは、新古今は花が実に過て手本にならず。それより前の古今集、千載集などこそ手本にはなる、と申さるゝにつきて、しらぬながら心をとめて、古今集を始め、二十一代集を凡に見侍りしに、しひて新古今集ばかり花が実に過候と申は愚眼にはとまらず。能々考るに、新古今は詩にて申さば、晩唐の風儀にも叶い申べきか、中々今時の浮薄の人の手本にしたりとも、詠ることにも存ぜられず、しかれども頓阿、逍遥院殿の歌集を見候へば、甚だ新古今の詠かたに能似候やうに被存候。此新古今は撰者五人ありといへども、専ら後鳥羽院の思召にで御撰のもの故、五人の撰者そこそこの集故、自然と花実に過候と申計り、誰いふとなく世に申侍りし思はれ候か。また後代の歌仙良経公、俊成卿、西行、家隆卿、慈鎮、定家卿この人々末代の人丸と被存。此衆のある故に、今に歌相応地下までも詠ることかとぞんじられ候。 】(『本阿弥行状記と光悦(正木篤三著)』)

  これらのことからしても、光悦の、この「花卉摺下絵新古今集和歌巻」と「草木摺絵新古集和歌巻」の背景になっている『新古今和歌集』の「巻十二と巻十三(恋歌)」の流れと、「百人一首」の「貞信公(026)→謙信公(045)→藤原義孝(050)」、そして、それに続く、「藤原実方(051)→藤原道信(052)→大納言公任(055)→権中納言定頼(064)」の流れについては、これらを揮毫する光悦の脳裏にあったと解することは、これは、これまた、自然の流れのように思われる。

(追記メモ一)

https://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/045.html

謙徳公(けんとくこう。924~972)

生前の名前を藤原伊尹(ふじわらのこれただ)といい、右大臣師輔(もろすけ)の長男です。娘が冷泉天皇の女御となり、花山天皇の母となったため、晩年は摂政・太政大臣にまで昇進しました。自邸が一条にあったので「一条摂政」と呼ばれます。和歌所の別当として、当時の和歌の名手を集めた梨壺の五人(清原元輔・紀時文・大中臣能宣・源順・坂上望城)を率いて、後撰集の選定に関わりました。才色兼備の貴公子だったようです。建徳公はおくり名です。

「拾遺集」の詞書には「もの言ひはべりける女の、つれなくはべりて、さらに逢はずはべりけれ」とあり、言い寄った女性がだんだん冷たくなって逢ってもくれなくなったから詠んだんだそうです。言い寄った女性に嫌われたから、誰も私を可哀想だと言ってくれない、ああ、このままむなしく死んでしまうのだよ、と嘆いているようですね。失恋の痛手に嘆く優男の風情で、ひょっとしたら母性本能をくすぐられる男なのかもしれません。

実はこの歌の作者、謙徳公は才色兼備の相当な風流貴公子だったようです。この人が「ああ、このまま嘆き悲しんで私は死んでしまうのだろうか」なんて言ったら、周りの女性が「ああ、なんてことでしょう」とわっと騒ぎたてたことでしょう。母性本能をかき立てるどころか、美男特有のパフォーマンスだったのかもしれませんね。でも今の世の中、本当にちょっとしたことで世の中に絶望して犯罪に走るとか、閉じこもってしまうことも多いですね。確かにストレスの多い世の中ですが、男性も女性も一度くらいの失恋でくよくよせずに、独り身のイイ男イイ女はいっぱい世の中に余っているのですから。明るくいきましょう。

(追記メモ二)

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/koremasa.html

藤原伊尹(ふじわらのこれまさ(-これただ)) 延長二~天禄三(924-972) 通称:一条摂政 諡号:謙徳公

右大臣師輔の長男。母は贈正一位藤原盛子(藤原経邦女)。兼通・兼家・為光・公季(いずれも太政大臣)は弟。恵子女王を室とし、懐子(冷泉院女御)・義孝・義懐らをもうける。書家として名高い行成は孫。
天慶四年(941)二月、従五位下に叙せられ、同年四月、昇殿を許される。同五年十二月、侍従。その後右兵衛佐を経て、天暦二年(948)正月、左近少将となり、同年二月には蔵人に補せられる。同九年、中将。同十年、蔵人頭に任ぜられたが、この地位を争った藤原朝成(あさひら。定方の子)に恨まれ、子孫にまで祟られたと言う(『大鏡』)。天徳四年(960)八月、参議に就任し、三十七歳にして台閣に列した。康保四年(967)正月、中納言・従三位。同年十二月、さらに権大納言となる。安和二年(969)、むすめ懐子所生の師貞親王(のちの花山天皇)が皇太子になると、以後は急速に昇進。同年大納言、天禄元年(970)右大臣と進み、同年五月には摂政に就いた。同二年十一月、太政大臣正二位となったが、翌年の天禄三年十一月一日、薨じた。四十九歳。贈一位、参河国に封ぜられ、謙徳公の諡を賜わる。
天暦五年(951)、梨壺に設けられた撰和歌所の別当に任ぜられ、『後撰集』の編纂に深く関与した。架空の人物「大蔵史生倉橋豊蔭」に仮託した歌物語的な部分を含む家集『一条摂政御集』がある。『大鏡』にもこの家集の名が見え、歌才が賞讃されている。後撰集初出。勅撰入集三十七首。小倉百人一首にも歌を採られている。
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