SSブログ

蕪村の絵文字(その六) [蕪村書簡]

(その六)

暁台警戒1.jpg
『蕪村の手紙(村松友次著)』所収「一六 あらやかましのはいかいせんぎやな」

 『蕪村の手紙(村松友次著)』では、安永七年(一七七八)十一月十六日付け百池宛ての書簡としているが(上記の西暦=一七五一は誤記)、『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では、「暁台・士朗の冬期上洛の年と考え、安永七年と推定」としている。

 また、この書簡は、暁台(百池宛二通)と士朗(百池宛一通)の書簡、定雅の由来書、そして、蕪村筆の「時雨三老翁図」(田福・月渓・百池が時雨の中に立つ像を描き、各人が自筆で句を賛したもの)と共に一軸に合装してある(『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では「九七百池宛書簡」「参考資料一定雅由来書」「参考資料二百池宛暁台書簡」「参考資料三百池宛士朗書簡」「参考資料四百池宛暁台書簡」とその全容が収載されている)。

 さて、冒頭の百池宛蕪村書簡は、十一月十六日付け書簡の一部分なのであるが、その書簡中の「所詮、尾(び=尾張の意)と愚老(蕪村)とハ俳風少々相違有之」の「尾(び=尾張の意)」とは「尾張の加藤暁台」を指している。

 さらに、その書簡の中ほどに、「あらやかましのはいかいせんぎやな」(ああやかましい俳諧詮議やな)と、暁台は小うるさく理屈をこねくり回しているとの文言が出て来る。

 この書簡関連の経過は概略次のようなものである。

一 百池と士朗とが文音(手紙のやり取り)で連句を巻くことになり、発句・脇・第三が次のようなものであった。

発句 西山の棚曇りより時雨哉    百池
脇   火棚持出る活草の上     士朗
第三 雀百干飯の中をわたり来て   士朗

二 士朗より、この流れの書簡が来て、そこに、この発句の「哉」留めが、暁台師匠より「まずい」ということで、別途連絡があるということであった。

三 追っ付け、暁台から書簡があって、この発句では「棚曇り・より(方向のより)」の「から」の意に取れず、「棚曇り・より(比較の「より」)・時雨哉(時雨の方が良い)」ということになり、この「哉」を推敲するように指示があった。

四 それで、百池が蕪村の意見を求めたものの、蕪村の返信が上記の書簡なのである。そこで、蕪村は、百池に、次のようなことを伝えるのである。

1 蕪村俳諧と暁台俳諧とは、そもそも俳風が相違する。

2 暁台俳諧は、理屈の俳諧で、そういう指導があったら、「料簡次第に御直し」して置きなさい。

3 「西山の棚曇りより時雨来ぬ」などと直したら、これは「くそ(糞)のごとくニ候」で、「哉」の方が「留まり候事也」だが、「所詮とやかくと理屈をこるねほどの句ニても無之候」と突き放している。

4 しかし、理屈屋の暁台に、こんなことを伝えたら、「とんでもない」ことになるから、他言は「決して御無用」と念を押している。

五 最終的には、暁台と百池とのやり取りがあって、「西山のたな曇りより夕しぐれ」で、暁台の「夕字千金ニ御座候」と、決着するが、蕪村は、武家出身の体面を重んずる業俳(俳諧を業としている)の暁台の本質を見抜いていて、「面従腹背」の姿勢を貫いているのである。

 この蕪村と暁台とが、「芭蕉に帰れ」を旗印とした安永・天明時代の「中興俳諧再興」の数多き諸家の中でも二大支柱とされるのが常であるが、「暁台は遊女の風なり。人に思はるゝの姿をつくしたれと(ど)も、人の思ふ実情薄し」(『無孔笛・鈴木道彦編』)という評価は、蕪村の上記の書簡の評価と重なるものがあろう。

田福・月渓・百池.jpg
蕪村筆「時雨三老翁図」(左より「百池・月渓・田福」)=書簡と合装して一軸となっている。 

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0