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蕪村の絵文字(その七) [蕪村書簡]

(その七)

田福・月渓・百池.jpg

蕪村筆「時雨三老翁図」(左より「百池・月渓・田福」)・『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』

 「時雨三老翁図」の左端の後ろ向きの人物が百池で、その上の百池の句(百池直筆)は「西山の棚曇よりしぐれ哉」、真ん中の人物が月渓で、その上の月渓の句(月渓直筆)は「其夢のかれ野も匂ふ小春かな」、そして、右端の人物は田福で、その上の田福の句(田福直筆)は「薄月夜山は霽(しぐれ)の影法師」である。

 田福(川田氏)は、享保六年(一七二一)の生まれ、蕪村より五歳年少で、蕪村門の長老格である。田福の川田家と百池の寺村家とは姻戚関係にあり、京都五条室町で呉服商を営み、摂津池田に出店があった。俳諧のほか、謡曲・蹴鞠・絵画をよくし、「識度超越・百事を解し・器物の鑑賞に長じていた」(川田祐作居士遺愛碣)と、超一流の教養人であったのであろう。
 月渓(松村氏)は、宝暦二年(一七五二)に京都堺町通四条下ルで生まれ、松村家は代々金座の重役で、月渓も若くして金座の平役を勤めている。後に、明和末年(一七七一)より画・俳共に蕪村に師事した。金座の廃止、妻と父の不慮の死などに遭遇し、天明元年(一七八一)より摂津池田に移り、田福の庇護を受けた。蕪村の信頼は厚く、「篤実の君子」「画には天授の才有之」などの蕪村が月渓を評した書簡が残されている。この上記の剃髪前の大たぶさを結った眉の太い月渓の風姿は、摂津池田に移り、田福の庇護を受けていた頃の雰囲気で無くもない(剃髪前の月渓像は唯一、この「時雨三老翁像」のみである)。
 百池(寺村氏)は、寛延元年(一七四八)に、京都河原町四条上ルの糸物問屋「堺屋」に生まれ、父は巴人門の酒白窓三貫、二代にわたり与謝蕪村に師事した。蕪村の百池に対する信頼はあつく、多くの百池宛書簡が伝わっている。他方、加藤暁台一派とも親しく、蕪村と暁台交友の接点ともなっている。俳諧のほかに、画を円山応挙に、茶を藪内比老斎に学んだ。
 
 この「時雨三老翁図」の左に「右 夜半亭蕪村翁戯画 門生百池證 印」の端書が書せられている。この蕪村戯画は、蕪村から百池に与えられ、百池が、自分の句を自書し、田福と月渓に、それぞれ句を自書して頂いたものなのであろう。
 蕪村は、田福と月渓の二人には、その横顔を描いて、百池だけは頭巾を被っての後ろ姿だけを描いたのは、これも蕪村の「抜け」(省略)的な俳諧化的な趣向なのであろう。しかし、この百池の後ろ姿だけを見ても、百池が家業にも俳諧にも、若くして棟梁的な雰囲気を漂わせているのは、やはり、蕪村の手練の為せる技なのであろう。

 さて、この百池の句が、安永七年(一七七八)十一月十六日付け百池宛ての書簡に関連する、百池宛士朗書簡(安永七年十一月八日付)に記載するところの、次の発句であることが面白い。
 すなわち、この百池の発句の「哉」を推敲するように指示した暁台とのやり取りで治定した「西山のたな曇りより夕しぐれ」ではなく、蕪村が、この「哉」で良しとする、その句形のままに、蕪村の戯画に、百池が自薦句として自書しているところに興味が惹かれる。

発句 西山の棚曇りより時雨哉    百池
脇   火棚持出る活草の上     士朗
第三 雀百干飯の中をわたり来て   士朗

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