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蕪村の絵文字(その十一) [蕪村書簡]

(その十一)

とも宛て書簡.jpg
『蕪村全集五 書簡』所収「四三四 安永末~天明三年 二十三日 おとも宛」柿衛文庫蔵

 末尾の「おともどのへ 用事」の「おとも」とは、蕪村の細君である。この書簡の内容は、「きのふより杉月(さんげつ)に居つゞ(続)けいたし」と、三本樹(木)の料亭、杉月楼に居続けて、「少々二日酔(ひ)」だというのである。
 そして、「けふ(今日)は東山へ参(まゐり)候」と、東山の句会に行くということらしい。
それで、「小袖・唐紙・硯箱・机の上の草稿一冊・十徳(俳諧師などが外出用に着した着物)・扇・煙草少々」を「佳棠(書肆汲古堂主人)」の「供寄せ申候」(供の者をそちらに立ち寄らせる)」から、「御越(遣)可被下候」(持たせてやって下さい)というのである。
 蕪村の亭主関白ぶりが目に見えるようである。

  身にしむやなき妻のくしを閨(ねや)に踏(ふむ)  (安永六年作)

 この句は、安永六年(一七七七)、蕪村、六十二歳の時の作とされている。それは几董の『丁酉之発句帖』(安永六年)中の「閨怨」と題する句とされていることに因る。
句意は「秋夜、暗い寝間の片隅でふと踏んだのは亡妻の櫛であった。なぜ今ごろこんな所にあったのだろう。今さらながら秋の夜の独り寝の寒さと無常の思いが身に沁みる。小説的虚構の句」(『蕪村全集一 発句(一八〇八)』)とある。

 蕪村が結婚したのは、丹後から帰洛して画名も漸く高まり、一応生活の安定が得られるようになった宝暦十年(一七六〇)、四十五歳の頃と推定されている。蕪村は晩婚で、蕪村よりもずっと年若の妻であったのであろう。
 名は、上記の書簡のとおり、「とも」といい、「とも」が亡くなったのは、金福寺の過去帳によると文化十一年(一八一四)のことで、蕪村没後三十年余も後のことである。蕪村との間に一女があって、名は「くの」(又は「きぬ(婚家先での名か)」)で、しばしば、蕪村書簡でその名が散見される。
 蕪村書簡によると、「くの」は、安永五年(一七七六)十二月に結婚して、その翌年の安永六年(一七七七)の五月には離婚している。この「くの」の離婚に関連しての蕪村の痛々しいほどの心痛を綴った几董宛ての書簡が今に遺されている。

「(前略) むすめ病気又々すぐれず候で、此方(婚家から蕪村宅へ)へ夜前(昨夜)引取養生いたさせ候。是等無拠(よんどころなき)心労どもにて、風雅(俳諧)も取失ひ候ほどに候。(後略)」(几董宛、安永六年五月)

「是等無拠(よんどころなき)心労どもにて、風雅(俳諧)も取失ひ候ほどに候」と、「風雅(俳諧)」どころではないというのである。蕪村は、この娘が離婚する一か月ほど前の、四月八日から、夏行(夏季に行われる僧侶の仏道修行の一つ)とし、一日十句の発句を作ることを志して、後半の文章篇と併せ自叙伝とも言うべき『新花摘』の執筆に取り掛かっている。
 その前半の発句篇の最後(廿四日)の前書きに、「此(この)日より所労のためよろずおこたりがちになり。発句など案じ得べうもあらねば、いく日(にち)もいたづらに過(すご)し侍る」と、上記書簡の文面と一致するような箇所がある。
 とすると、蕪村の『新花摘』は、其角の亡母追善を意図した『華(花)摘』に倣い、亡母追善(「五十回忌」説)の意図があるとされているが、それだけではなく、この「くの」の結婚そして離婚などと大きく係わっているのであろう(『新潮日本古典集成 与謝蕪村集《清水孝之校注》』所収「解説《『蕪村句集』と『新花つみ』の成立》」)。
 
 さて、ここで、上記の「小説的虚構の句」とされている「身にしむやなき妻のくしを閨(ねや)に踏(ふむ) 」は、妻「とも」との関連では、まさに、「小説的虚構の句」なのだが、当時、執筆していた『新花摘』の亡母や娘「くの」との関連ですると、薄幸な女性をイメージしてのものという捉え方は十分に成り立つであろう。

 さらに、冒頭の蕪村の亭主関白ぶりの書簡についてであるが、蕪村の芝居好きや茶屋遊びというのも、「老を養ひ候術(すべ)に候故(ゆえ)、日々少年行(漢詩の楽府題の一つ)、御察可被下候」(有田孫八宛・年代不詳・六月八日付)と、画業のスランプの脱出などと密接不可分のような思いを深くする。また、料亭などでの席画や依頼画の制作などで、画室外での作業なども多かったことであろう。

 そういう、当時の、画家そして俳諧宗匠を業として一家を支えている蕪村と、その画料等を唯一の家計としている「とも」との、この両者の信頼関係を抜きにしては、この書簡の真の背景を理解しているとは言えないであろう。

新花摘1.jpg
(『新潮日本古典集成 与謝蕪村集《清水孝之校注》』所収「新花つみ」)
月渓筆「渭北文台ノ主トナレリ」の挿絵
左端 宗匠(点者)となった渭北(右江氏、淡々門、淡々の「渭北」を引き継ぎ、前号は「麦天」)、この宗匠(点者)のスタイルなどが、蕪村書簡の「小袖・唐紙・硯箱・机の上の草稿一冊・十徳」などと関係して来る。宗匠(点者)の前の机が「文台」、そして、宗匠(点者)になったことを証しする儀式のことを「文台開き」と言う。
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