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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その三「蕪村」) [洛東遺芳館]

(三)蕪村筆「呂恭大行山中採芝図」(洛東遺芳館蔵)

遺芳館一.jpg
蕪村筆「呂恭大行山中採芝図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

真ん中の人物が呂恭です。薬草を採りに大行山に出かけた呂恭は、山中で仙人に会います。二日、仙人たちと過ごして、家に帰ってみると、二百年が経っていたという話です。
 この話は『列仙全伝』という本に出ていますが、それには挿絵があって、そこに描かれている呂恭と二人の従者の姿は、この絵での彼らの姿に似ていて、蕪村は『列仙全伝』の話だけでなく、挿絵も参考にしていたことが分かります。

『蕪村全集六絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平他編))』では、「絵画・完成期(明和七~安永六年)」中に、次のように紹介されている。
[207 呂恭大行山中採芝図 絹本着色 一幅 一三〇・三×六七・六cm 款「呂恭大行山中採芝図 謝春星」 印「謝長庚」(白文方印) 「謝春星」(白文方印)  洛東遺芳館蔵 ]

 先に(その一)、安永五年(一七七六)、応挙四十四歳の時の「五柳先生」について紹介し、
蕪村自身、「五柳先生」と題する作品があることについて触れたが、この「呂恭大行山中採芝図」も、その「五柳先生図」と同時の頃の作品であろう。
 『蕪村全集六絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平他編))』の、配列(通し番号)は、「207 呂恭大行山中採芝図」「220 五柳先生図(写於夜半亭謝春星)」「221 五柳先生図(謝春星写於三菓堂中)」の順で、この時期は、この種の『列仙全伝』に関わる漢画系統の作品が多い。
 蕪村と応挙との交遊関係が何時頃から始まったのかは定かではないが、蕪村の「絵画・完成期(明和七~安永六年)」の、明和七年(一七七〇、蕪村・五十五歳、応挙・三十八歳)から安永六年(一七七七、蕪村・六十二歳、応挙・四十五歳)の頃が、一応の目安として差し支えなかろう。
 時期は定かではないが、蕪村が応挙を主題とした次の句がある。

  筆灌(そそ)ぐ応挙が鉢に氷哉 (『蕪村全集一』では「安永九年」作で収載)

句意は、「応挙が絵筆を灌ぐ筆洗い鉢に氷が張っている。その氷は、この寒気の中で画作に専心している作者の鮮烈さを象徴しているかのようである」というようなことであろう。

応挙合作一.jpg
「狗子図画賛」応挙筆・蕪村賛 一幅 紙本墨画 一九・六×二六・八cm 個人蔵

 応挙の画に、蕪村が句を賛した「応挙・蕪村」の合作の小品として夙に知られている作品である。この蕪村の句、「己(おの)が身の闇より吼(ほえ)て夜半(よは)の秋」は、
『蕪村句集(几董編)』では、「丸山氏が黒き犬を画(えがき)たるに、賛せよと望みければ」との前書きが付してある。
 この前書きと句を一緒にして、鑑賞すると、「円山氏(応挙)が黒き犬を描いて、それに賛せよと懇望されたので、『己が身の闇より吼て夜半の秋』と吟じて賛をした。句意は、『黒い犬は、己の心の闇(黒=煩悩)に慄いて吼え立てるのであろうか』というようなことです」と、応挙と蕪村とが一緒の席で、制作されたものと解せられるであろう。
 しかし、「蕪村叟消息・詠草」には、「くろき犬を画(えがき)たるに賛せよと、百池よりたのまれて」との前書きで、この応挙の黒き犬の画に「賛をせよ」と蕪村に懇望したのは、蕪村の若き門弟の寺村百池(寛延元年=一七四八~天保六年=一八三六)、その人というこになる。
 そして、この百池は、夜半亭門で俳諧を蕪村に、絵は応挙に、茶は六代藪内紹智に師事している。百池の寺村家は、京都河原町四条上ルに住している糸物問屋で、父三右衛門(俳号=三貫など)は、蕪村の師の夜半亭一世宋阿(早野巴人)門で、蕪村にも師事している。すなわち、三貫・百池の寺村家は、親子二代にわたり、夜半亭門で、共に蕪村に師事し、そして、蕪村と夜半亭門の有力後援者なのである。
 おそらく、画人蕪村と応挙との交遊関係の背後には、この百池などが介在してのであろう。

 己(おの)が身の闇より吼(ほえ)て夜半(よは)の秋 (『蕪村句集』他)

 この蕪村の句も、そして、この句の背景にある応挙の画も、小宴(酒宴など)の後の、席画的な「戯画・戯句」の類いのものではない。もとより、応挙の「狗子画」は、応挙の得意中の得意のレパートリーのもので、それは、「思わず抱き上げたくなる可愛い狗子たち」で、人気も高く、応挙の、この種の作画は多い。
 その中にあって、上記の「狗子図画賛」の、応挙の、この「一匹の黒き狗子」は、蕪村にとって、「煩悩の犬」「煩悩の犬は打てども去らず」を思い起こさせたのであろう。この「一匹の黒き狗子」は、蕪村自身であり(この句の「夜半の秋」の「夜半」は、それを暗示している)、同時に、この「一匹の黒き狗子」を描いた応挙の心の中にも、この「黒き闇、そして、煩悩の犬」が巣食っていることを、瞬時にして、見抜いたのであろう。
 蕪村にとって、「黒き闇、そして、煩悩の犬」とは、「夜半亭俳諧と謝寅南画の飽くなき追及」であり、そして、応挙にとって、それは、「応挙画風の樹立と革新的『写生・写実画』の飽くなき追及」というようなニュアンスに近いものであろう。

 筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉      (「詠草・蕪村遺墨集」) 
 己が身の闇より吼て夜半の秋   (「詠草・蕪村叟消息」)

 この蕪村の応挙に対する「筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉」は、同時に、応挙の蕪村への返句とすると、次の「応挙を蕪村」に変えての本句通りのものが浮かんで来る。
 
 筆灌ぐ応蕪村が鉢に氷哉  

補記一 「蕪村筆 呂恭大行山中採芝図」「応挙筆 虎図」「呉春筆 孔雀図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

補記二 応挙の「狗子図」など

http://ommki.com/news/archives/4146

補記三 「江戸中・後期の京都の画人たち」など(再掲)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-29

諸家寄合膳(二十枚)

一 円山応挙(一七三三~九五)筆「折枝図」  (「その一」「その二・円満院祐常」)
二 池大雅(一七二三~七六)筆「梅図」     
三 与謝蕪村(一七一六~一七八三)筆「翁自画賛」  (「その三」)
四 池玉瀾(一七二八~八四)筆「松渓瀑布図」
五 鼎春嶽(一七六六~一八一一)筆、皆川淇園賛「煎茶図」
六 曽我蕭白(一七三〇~八一)筆「水仙に鼠図画賛」
七 東東洋(一七五五~一八三九)筆、八木巽処賛
八 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆、四方真顔賛「雀鳴子図」
九 福原五岳(一七三〇~一七九九)筆、三宅嘯山賛「夏山図」
十 狩野惟信(一七五三~一八〇八)筆、鴨祐為賛「富士図」
十一 岸駒(一七四九《五六》~一八三八)筆、森川竹窓賛「寒山拾得図」
十二 長沢芦雪(一七五四~一七九九)筆、柴野栗山賛「薔薇小禽図」
十三 月僊(一七四一~一八〇九)筆、慈周(六如)賛「五老図」
十四 吉村蘭洲(一七三九~一八一七)筆、浜田杏堂賛「山居図」
十五 土方稲嶺(一七三五~一八〇七)筆、木村蒹葭堂賛「葡萄図」
十六 玉潾(一七五一~一八一四)筆、慈延賛「墨竹図」
十七 紀楳亭(一七三四~一八一〇)筆、加茂季鷹賛「蟹図」
十八 観嵩月(一七五九~一八三〇)筆「鴨図」
十九 島田元直(一七三六~一八一九)筆、谷口鶏口賛「菊図」
二十 堀索道(?~一八〇二)筆、大島完来賛「牡丹図」

諸家寄合椀(十一合)

一 呉春(一七五二~一八一一)筆「燕子花郭公図」  (その四)
二 高嵩谷(一七三〇~一八〇四)筆「山水図」  
三 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆「梅図」
四 英一峰(一六九一~一七六〇)筆「芦雁図」
五 黄(横山)崋山(一七八一~一八三七)筆「柳図」
六 土佐光貞(一七三八~一八〇六)筆「稚松」
七 村上東洲(?~一八二〇)筆「三亀図」
八 鶴沢探泉(?~一八〇九)筆「三鶴図」
九 森周峯(一七三八~一八二三)筆「水仙図」
十 宋紫山(一七三三~一八〇五)筆「竹図」
十一 森狙仙(一七四七~一八二一)筆「栗に猿図」



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