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江戸絵画(「金」と「銀」と「墨」)の空間(その四) [金と銀と墨の空間]

(その四)俵屋宗達画・本阿弥光悦書「四季草花下絵和歌巻」

四季草花下絵一.jpg

俵屋宗達画・本阿弥光悦書「四季草花下絵和歌巻」(部分図=躑躅) 紙本金銀泥
三三・五×九一八・七㎝ 重要文化財 畠山記念館蔵
【 太い竹の幹のクローズアップから始まり、巻物を操るに従って、梅・躑躅(つつじ)・蔦(つた)が現れる。それぞれ、正月・春・夏・秋の四季の移り変わりを表わす。竹の表面は「たらし込み」の技法で質感が表現されている。宗達は以前、版画による料紙装飾で同様の竹をモティーフとしたが、版木を離すときに生じる金泥のムラの効果を、筆で描くときにも応用した。巻末に光悦の印章と、宗達の「伊年」の印章がある。 】(『日本の美をめぐる 奇跡の出会い 宗達と光悦(小学館)』)

(↓ 下図は、巻頭の「竹図」=部分図)

四季草花下絵二.jpg

 「本阿弥光悦」の「本阿弥」家は、刀剣の「磨ぎ・浄拭(ぬぐい)・鑑定(めきき)」を専門とする家柄である。そもそも、「本阿弥」の「阿弥」というのは、将軍家に仕えて芸能や美術などの特殊技能をつかさどった「同朋衆」が名のることが多かった。室町時代に活躍した「能阿弥・芸阿弥・相阿弥」など三阿弥と呼ばれる同朋たちは、足利将軍家で儀式の飾りつけのコーディネートや美術品の鑑定・管理などをこなし、新たな美術品を注文する際に意見を求められた家柄である。
 その「同朋衆」の出の「本阿弥光悦」は、元和元年(一六一五)に徳川家康より鷹ケ峰(洛北)に広大な土地を与えられ、ここに様々な工芸に携わる職人たちと移り住んで芸術村を形成し、日本で最初の「アートディレクター」(総合芸術の演出家)兼「書家」(「寛永三筆」の一人)兼「蒔絵師」兼「陶工師」などの、当時の超一流の文化人ということになる。
 もう一人の「俵屋宗達」は、光悦と縁戚関係にあるとも、本阿弥家と同じ小川町(上京区)の「蓮池家・喜多川家」出の「絵屋」(「俵屋」という屋号で「絵屋」=「屛風・掛幅のほか料紙装飾・扇絵・貝絵など、主に仕込み絵的な一種の既製品を制作・販売する」)を主宰していたともいわれているが、絵師としても法橋を授与されており、これまた、当時の超一流の文化人の一人であったのであろう。
 ここで、この「四季草花下絵和歌巻」の宗達の印章の「伊年」は、宗達が主宰する「俵屋工房」(宗達を中心とする絵師・工匠等のグルーブ)の「ブランド」(他と区別できる特徴を持ち価値の高い製品)に押される印章と解せられているが、それと同じように、「法橋宗達」「宗達法橋」の署名も、「ブランド」(「俵屋工房・宗達工房」の「商標」)化されており、杓子定規に、「伊年」=「俵屋(宗達)工房」、「法橋宗達・宗達法橋」=「宗達」と、それらの物差しをもって、それらの区別をすること甚だ危険なことなのであろう。
 それよりも、当時の超一流のアートディレクター兼書家の「本阿弥宗達」の「書」と、超一流の「絵屋」主宰者兼絵師の「俵屋宗達」との、その「コラボレーション」(合作・共同作業)の作品は、両者の、丁々発止とする個人作業の多い、いわゆる、「俵屋宗達画・本阿弥光悦書」とする方が、より分かり易い目安になるのかも知れない。

 そして、「琳派」の立役者の尾形光琳は、この「俵屋宗達」から多くのものを学び、そして、その実弟の尾形乾山は、この「本阿弥光悦」から多くのものを学んでいて、そして、この「尾形光琳・乾山」が、安土桃山時代から江戸時代(前期)にかけての「本阿弥光悦・俵屋宗達」の、その「コラボレーション」(合作・共同作業)を引き継ぐこととなる。

【 本阿弥光悦 没年:寛永14.2.3(1637.2.27) 生年:永禄1(1558)
桃山時代から江戸初期の能書家,工芸家。刀剣の鑑定、とぎ、浄拭を家職とする京都の本阿弥家に生まれた。父は光二、母は妙秀。光悦の書は、中国宋代の能書張即之の書風の影響を受けた筆力の強さが特徴であるが、慶長期(1596~1615)には弾力に富んだ、筆線の太細・潤渇を誇張した装飾的な書風になり、元和~寛永期(1615~44)には筆線のふるえがみられ、古淡味を持つ書風へと変遷していった。近衛信尹、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」に数えられる。蒔絵や作陶にも非凡の才を発揮するほか,茶の湯もよくし,当代一流の文化人であった。元和1(1615)年、徳川家康から洛北鷹峰(京都市)の地を与えられ、一族、工匠と共に移住し、創作と風雅三昧の生活を送った。俵屋宗達の描いた金銀泥下絵の料紙や、木版の型文様を金銀泥ですりだした料紙に,詩歌集などを散らし書きした巻物をはじめ、多くの遺品を伝える。また典籍や謡本を、雲母ずりした料紙に光悦流の書を用いて印刷した嵯峨本の刊行なども知られ、光悦流は角倉素庵,烏丸光広など多くの追随者に受け継がれた。
(島谷弘幸)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 】

【俵屋宗達(たわらやそうたつ)
生没年不詳。桃山から江戸初期の画家。出身・伝記はつまびらかでないが、およそ1600年(慶長5)ごろから1630年代にかけての活躍がうかがえる。一時「伊年(いねん)」印を用い、晩年は「対青」または「対青軒」印をもっぱらとした。京都の上層町衆(まちしゅう)の1人と思われ、公卿烏丸光広(くぎょうからすまみつひろ)や茶人千少庵(せんのしょうあん)、書・陶芸・漆芸家として名高い本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)らとの親密な交際が推定される。画業は、初め下絵や扇面画などの工芸的な仕事を主とした作画工房の絵屋(屋号「俵屋」)の主宰者であったと考えられる。1602年(慶長7)に一部修復された『平家納経』(国宝、広島・厳島(いつくしま)神社)の表紙・見返しの装飾は彼の早い時期の仕事とみられ、また15年(元和1)ごろまでは光悦書の色紙や和歌巻に金銀泥(きんぎんでい)の下絵を多く描いている。いずれも大柄の図様に金銀泥を駆使し、料紙装飾として画期的なものであるが、これらのうち『四季草花図和歌巻』(重文、東京・畠山(はたけやま)記念館)などには「伊年」の円印が押され、一時期この印を用いたことがわかる。一方、同印を押した類品はほかにも多種あり、宗達自身を含めたグループの印と解される。21年に再建された京都・養源院には松図襖(ふすま)、異獣図杉戸(ともに重文)の大作を制作し、30年(寛永7)には後水尾(ごみずのお)上皇の命により三双の金屏風(きんびょうぶ)を描き、また同年には宮中の『西行(さいぎょう)物語絵巻』を模写し、その奥書から当時すでに画家として高い地位の法橋(ほっきょう)であったことがわかる。法橋時代の宗達は屏風絵の制作に心血を注ぎ、『風神雷神図』(国宝、京都・建仁寺)をはじめ、『松島図』(ワシントン、フリーア美術館)、『関屋澪標(せきやみおつくし)図』(国宝、東京・静嘉堂(せいかどう))、『舞楽図』(重文、京都・醍醐(だいご)寺)などの傑作を残している。いずれも大胆な構図と金地に鮮麗な彩色を生かし、桃山障屏画(しょうへいが)にかわる新しい装飾画様式の確立が認められる。一方、水墨画は墨調の微妙な変化を尊んだ温雅な画風をもって、漢画のそれとは異なる日本的な墨画の世界を開いた。「伊年」印の『蓮池水禽(れんちすいきん)図』(国宝、京都国立博物館)や、『芦鴨図衝立(あしかもずついたて)』(重文、京都・醍醐寺)、『牛図』(重文、京都・頂妙寺)など優れた作品が少なくない。
 町絵師としての自由な立場は、既成流派の形式にとらわれることなく、生き生きとした斬新(ざんしん)でユニークな造形を生み、色紙、巻子(かんす)(巻物)、扇面、障屏と各種の画面形式に応じた独特の構図と意匠をつくりだしている。また技法的にも「たらし込み」の手法を創案して滲(にじ)みをもった色面の多彩な変化によって新しい質感の表現を可能にした。画題のうえでは自然の花鳥、草花を描く一方、古典を顧みて物語絵に題材を求め、とくに古い絵巻などから図様を取り出して、自らの絵に蘇生(そせい)させる例はしばしばみられる。その画風も基本的には大和(やまと)絵の伝統に強く根ざすものであり、近世初期における大和絵の復興者としての名声が高い。
 なお、宗達の周辺や後継には「伊年」印を用いた画風の追随者が多く輩出し、また江戸中期の尾形光琳(こうりん)は彼の芸術に深く傾倒してその様式を大成させている。宗達が創始し、光琳によって新展開されたこの装飾画の流れは一般に琳派または宗達光琳派とよばれ、江戸時代を通じて繁栄をみた。[村重 寧]
『橋本綾子・源豊宗執筆『日本美術絵画全集14 俵屋宗達』(1976・集英社) ▽山根有三著『日本の美術18 宗達と光琳』(1970・小学館) ▽水尾比呂志著『日本の美術18 宗達と光琳』(1980・平凡社) ▽仲町啓子著『名宝日本の美術19 光悦・宗達』(1983・小学館)』
[参照項目] | 障屏画 | 琳派 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について   】

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