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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その十七) [三十六歌仙]

その十七 尚證と小堀政一

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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十七 尚證」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1485

小堀遠州.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三十五 小堀政一」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1505

(歌合)

歌人(左方十七) 尚證
歌題 山家初冬
和歌 やま賤(がつ)の朝けの煙うちしめり しぐれしそらにふゆはきにけり
歌人概要  駿河国浅間惣社神主

歌人(右方三十五) 小堀政一
歌題 河邊寒月
和歌 かぜさえてよせ来るなみのあともなし 氷る入江のふゆの夜の月
歌人概要 小堀遠州。江戸初期の大名歌人  

(歌人周辺)

尚證 →  駿河国浅間惣社神主 (不詳)

小堀政一(遠州)  生年:天正7(1579)  没年:正保4.2.6(1647.3.12)

 江戸初期の大名茶人。近江国坂田郡小堀村(長浜市)に小堀正次の子として生まれる。母は磯野氏。名は正一(『寛政重修諸家譜』をはじめ一般には政一とされている)。通称作介。大徳寺の春屋宗園から大有宗甫の号を許された。従五位下遠江守だったことから遠州の名で呼ばれる。継領に当たって家康から受領名をどこの守にするか問われて,「自分は近江の人間だから遠江をいただきたい」と答えて許されたという。
 慶長9(1604)年,備中国(岡山県)松山を継ぎ,元和5(1619)年近江国浅井郡小室領主。多くの作庭,建築に不滅の名をとどめ,禁裡,仙洞,二条城,江戸城内山里など幕府にとって重要な構造物の造営を作事奉行として担当,近世初頭期の時代精神を大きく開花させた。
 古田織部に茶の湯を学び,茶の湯について質問した記録『慶長御尋書』や多くの「次第書」が残る。その茶風は「きれいさび」という言葉でとらえられているが,明るく大らかで軽快な方向に向かい,織部亡きあと将軍家茶道指南として千利休,織部に続く一時代を代表した。  
 のちに中興名物と称される茶道具の末々にまで至る鑑識に,それがことによく現れている。硬く冷たい行政感覚に終始することなく,定家様の書風を確立し,滑稽感を誘う見立ても取り入れ,茶道具を和歌を活用した歌銘によって味わうように指導した,時代の教育者でもあった。伏見奉行職にあること20年余,1万2000石余の小大名に終始しながら,文化の徳川時代を実現した重要人物である。
 将軍家光が品川東海寺の庭の大石に名を付けよといったとき,並居る大名が誰一人思い浮かばなかったところ,末座に控えていた遠州が「万年石」と解答して御意を得,一座を感嘆させたという話を,東海寺の住職沢庵和尚が書き残している。珍しく終わりを全うした茶人であった。
 遠州作として大徳寺孤篷庵忘筌席,竜光院密庵席などの茶席,多くの遠州庭園がある。墓所が孤篷庵である。<参考文献>森薀『小堀遠州』,根津美術館編『遠州の数奇』 (林左馬衛)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(小堀遠州の「綺麗さび」)

https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=3231

「きれい(綺麗)さび」とは、江戸初期の武家で、遠州流茶道の開祖である小堀遠州が形づくった、美的概念を示すことばである。小堀遠州は、日本の茶道の大成者である千利休の死後、利休の弟子として名人になった古田織部(おりべ)に師事した。そして、利休と織部のそれぞれの流儀を取捨選択しながら、自分らしい「遠州ごのみ=きれいさび」をつくりだしていった。今日において「きれいさび」は、遠州流茶道の神髄を表す名称になっている。
 では、「きれいさび」とはどのような美なのだろう。『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、「華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう」としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。「きれいさび」と「ひめさび」という用語を関連づけたうえで、その意味を、「茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ」と説明している。
 「さび」ということばは「わび(侘び)」とともに、日本で生まれた和語である。「寂しい」の意味に象徴されるように、本来は、なにかが足りないという意味を含んでいる。それが日本の古い文学の世界において、不完全な状態に価値を見いだそうとする美意識へと変化した。そして、このことばは茶の湯というかたちをとり、「わび茶」として完成されたのである。小堀遠州の求めた「きれいさび」の世界は、織部の「わび」よりも、明るく研ぎ澄まされた感じのする、落ち着いた美しさであり、現代人にとっても理解しやすいものではないだろうか。
 このことば、驚くことに大正期以降に「遠州ごのみ」の代わりとして使われるようになった、比較的新しいことばである。一般に知られるようになるには、大正から昭和にかけたモダニズム全盛期に活躍した、そうそうたる顔ぶれの芸術家が筆をふるったという。茶室設計の第一人者・江守奈比古(えもり・なひこ)や茶道・華道研究家の西堀一三(いちぞう)、建築史家の藤島亥治郎(がいじろう)、作庭家の重森三玲(しげもり・みれい)などが尽力し、小堀遠州の世界を表すことばとなったのである。

(バーチャル歌合)

歌人(左方十七) 尚證
歌題 山家初冬
和歌 やま賤(がつ)の朝けの煙うちしめり しぐれしそらにふゆはきにけり

歌人(右方三十五) 小堀政一
歌題 河邊寒月
和歌 かぜさえてよせ来るなみのあともなし 氷る入江のふゆの夜の月

(判詞=宗偽)

 「左方」の「山家初冬」は、小堀遠州流の「綺麗さび」ですると、「綺麗」(容は整って綺麗)な一首だが、「さび」(深み・情趣)に欠けている。それは偏に、下の句の「しぐれしそらにふゆはきにけり」の「ふゆ」が安易過ぎる。それに比して、「右方」の「河邊寒月」は、この下の句の、「氷る入江のふゆの夜の月」の「ふゆ」が、次の「夜の月」の体言留めと一体になって、「綺麗さび」の「さび」(深み・情趣)を横溢している。依って、「右方」を「勝」とす。

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

尚證二.jpg

尚證(狩野蓮長画)

小堀遠州二.jpg

小堀政一(狩野蓮長画)
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