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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その四) [三十六歌仙]

(その四)※仁和寺宮(※※道助法親王)と前大納言忠良(藤原忠良)

仁和寺宮.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方四・※仁和寺宮」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009397

藤原忠良.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方四・前大納言忠良」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009415

仁和寺宮二.jpg

(左方四・※仁和寺宮)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019789

(バーチャル歌合)

左方四・※仁和寺宮(※※道助法親王)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010681000.html

 萩のはに風の音せぬ秋もあらば/なみだのほかに月はみてまし

右方四・前大納言忠良(藤原忠良)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010683000.html

 ゆふづく日さすやいほりの柴の戸に/さびしくもあるかひぐらしのこゑ

判詞(宗偽)

 藤原忠良が、判者の一人となった「千五百番歌合」(「建仁元年(1201))千五百番歌合」のトップは、次のようなものである(『日本古典文学大系74 歌合集』)。

  一番 左 勝
春立てばかはらぬ空ぞかはり行(ゆく)昨日の雲か今日の霞か  女房
     右
いつしかと雲井に春や立(たち)ぬらん雪げをこめてかすむ空哉 三宮
 左歌、心(こころ)詞はめづらしくこそ侍れ。右歌も、なだらかには侍(はべる)を、雲
井と空とは同事にや侍らん。以左為勝。

 この左方の作者の「女房」は「後鳥羽院」の筆名(戯名)で、右方の作者の「三宮」は「後鳥羽院の異母兄」の兄弟対決なのである。この「判詞」のスタイルを借用すると、「左方四・※仁和寺宮(道助法親王)」と「右方四・前大納言忠良(藤原忠良)」の対決の「判詞」は次のとおりとなる。

 左歌、心(こころ)詞(ことば)はめづらしくこそ侍れ。右歌も、なだらかには侍(はべる)を、「さびしくも」に「ひぐらしのこゑ」安易にや侍らん。以左為勝(左ヲ以ッテ勝ト為ス)。

(※※道助親王の一首)=「左方四・※仁和寺宮(※※道助法親王)」の「萩のはに風の音せぬ秋もあらば/なみだのほかに月はみてまし」の一首。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/doujo.html

  秋歌よみ侍りけるに
荻の葉に風の音せぬ秋もあらば涙のほかに月は見てまし(新勅撰223)

【通釈】荻の葉を風が訪れてそよがせる――その音が聞えない秋があったならば、涙に煩わされず美しい月を見ることができたろうに。
【補記】荻は薄によく似た植物。大きな葉のそよぐ音に秋の訪れを知った。「涙のほかに」は「涙とは無関係に」といった意味。
【参考歌】
藤原頼輔「千載集」
身の憂さの秋は忘るるものならば涙くもらで月は見てまし
  藤原伊通「金葉集」
稲葉吹く風の音せぬ宿ならばなににつけてか秋を知らまし
【主な派生歌】
春の月涙の外にみる人やかすめるかげのあはれしるらむ(宗尊親王)
さやかなる月さへうとくなりぬべし涙の外に見るよなければ(永福門院)

(藤原忠良の一首)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tadayosi.html

   百首歌たてまつりし時
あふち咲く外面(そとも)の木かげ露おちて五月雨はるる風わたるなり(新古234)

【通釈】楝の花が咲く、家の外の木陰――そこから露が落ちて、五月雨の晴れる風がわたってゆくようだ。
【語釈】◇あふち 楝。栴檀。初夏に芳香のある薄紫色の花をつける。◇そとも 外面。家の外。◇五月雨(さみだれ) 陰暦五月頃に降る雨。梅雨。◇風わたるなり 「なり」は視覚以外の感覚(露の落ちる音、あるいは肌に感じる涼しさ)によって判断していることを示す助動詞。
【補記】五月雨は降り止んだかと戸外を眺めれば、楝の花咲く木蔭に露がしたたる。折しも、雨雲を追いやった風が樹々の上を渡ってゆくらしい。薄紫の花に落ちた露という微小な景から、晴れゆく空をわたる風の想像へ、大きな転換が鮮やか。
出典は老若五十首歌合。詞書の「百首」は誤り。
【他出】定家十体(見様)、新時代不同歌合、六華集
【主な派生歌】
あふち咲く山田の木蔭風すぎて見るも涼しくとる早苗かな(飛鳥井雅有)
あふち咲く梢に雨はややはれて軒のあやめにのこる玉水(*平経親[風雅])
露はらふ風ぞ涼しきあふち咲く外面のかげの夏の夕暮(二条為親)
あふち咲くそともの木陰くらき夜も聞かでや明けむ山ほととぎす(下冷泉持為)


※※道助親王(どうじょしんのう) 建久七~宝治三(1196-1249) 諱:長仁 通称:鳴滝宮・光台院御室

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/doujo.html

 後鳥羽院の第二皇子。母は内大臣坊門信清女。土御門院の異母弟。順徳院・雅成親王の異母兄。入道二品親王。
 建久七年(1196)十月十六日、生れる。七条院の猶子となる。正治元年(1199)、親王宣下。建仁元年(1201)十一月、仁和寺に入る。建永元年(1206)、十一歳で出家、光台院に住む。承元四年(1210)十一月、叙二品。建暦二年(1212)十二月、道法法親王により伝法灌頂を受ける。建保二年(1214)十一月、第八世仁和寺御室に補せられた。寛喜三年(1231)三月、御室の地位を弟子の道深法親王に譲り、高野山に隠居。建長元年(1249)一月十六日、入滅。五十四歳。光台院御室・高野御室と称された。
 承久二年(1220)以前の「道助法親王五十首」、嘉禄元年(1225)四月に企画された「道助法親王家十首和歌」などを主催した。隠遁後、宝治二年(1248)の「宝治百首」に出詠。御集が伝わるが上巻を欠く。新勅撰集初出。勅撰入集は計三十八首。「新時代不同歌合」歌仙。新三十六歌仙。

藤原忠良(ふじわらのただよし) 長寛二~嘉禄元(1164-1225) 号:鳴滝大納言

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tadayosi.html

 法性寺殿忠通の孫。六条摂政基実の次男。母は左京大夫藤原顕輔の娘。摂政内大臣基通の弟。兼実・慈円らの甥で、良経の従兄。また清輔の甥にあたる。子の衣笠内大臣家良・大納言基良も勅撰歌人。
 永万二年(1166)、三歳の時、父を亡くす。治承四年(1180)、元服して正五位下に叙せらる。養和元年(1181)、従四位下に昇り、侍従より左中将に転ず。寿永二年(1183)、従三位。同年右兵衛督に任ぜられ、年末に右権中将に遷る。文治三年(1187)十二月、権中納言。同五年七月、中納言に転ず。建久二年(1191)三月、権大納言に進む。建仁二年(1202)、大納言に至るが、同四年三月、辞職した。承久三年(1221)、出家。嘉禄元年(1225)五月十六日、六十二歳で薨ず。最終官位は正二位。藤原定家の日記『明月記』に評して「雖非器之性、柔和心操歟」とある。
 後鳥羽院主催の「正治二年初度百首」「老若五十首歌合」「新宮撰歌合」「千五百番歌合」などに出詠。「千五百番」では判者も務めた。また建仁元年(1201)三月の「通親亭影供歌合」にも参加し、正治二年(1200)の「三百六十番歌合」に選ばれている。千載集初出。勅撰入集六十九首。

(補注)

「※仁和寺宮」は、下記の「※※※守覚法親王」の通称でもあるが、この「※※※守覚法親王」(北院御室)は、後鳥羽院撰(伝承)の「新三十六歌仙」には入集されていない。そして、「新三十六歌仙」には、「和泉市久保惣記念美術館蔵」の「入道二品親王道助(※※道助親王)」(光台院御室)が入集されており、その一首での「バーチャル歌合」としている。
 
※※※守覚法親王(しゅかくほっしんのう) 久安六~建仁二(1150-1202) 通称:北院御室(きたいんおむろ)・喜多院御室・仁和寺宮
 
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syukaku.html


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