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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その十一) [三十六歌仙]

(その十一)参議雅経(飛鳥井雅経)と二条院讃岐

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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十一・参議雅経」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009404

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(左方十一・参議雅経)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019793

讃岐.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十一・二条院讃岐)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009422

(バーチャル歌合)

左方十一・参議雅経(飛鳥井雅経)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010696000.html

 しら雲のたえまになびく青柳の/かつらぎやまに春かぜぞふく

右方十一・二条院讃岐
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010697000.html

 やまたかみみねの嵐にちる花の/つきにあまぎるあけかたのそら

判詞(宗偽)

 『千五百番歌合』(『建仁元年千五百番歌合』)の百十一番は、次の「秀能と雅経」のものである。

百十一番    
     左     季能卿
かざごしの峯には春や立たざらん麓の空に霞へだてて
     右 勝   雅経
白雲の絶へ間になびく青柳のかつらぎやまに春風ぞふく
右歌、姿よろしく侍り。(判者 権大納言忠良)

 この歌合の判者は藤原忠良で、その判詞は「右歌、姿よろしく侍り」と簡単なもので「右方の雅経の勝」となっている。
 ここで、七百十三番のもの(左=讃岐、右=定家、判者=御判=後鳥羽院で「折句歌」の判詞)を次に紹介したい。

七百十三番
      左     讃岐
あはれなる山田の庵のね覚め哉いなばの風に初かりの声
      右 勝   定家朝臣
もみぢする月の桂にさそはれてしたのなげきも色ぞうつろふ
物思へばみだれて露ぞちりまがふ夜はにね覚めをしかの声より(御判折句歌)

 この後鳥羽院の判詞は「折句歌」(各句の上に物名などを一文字ずつおいたもの)で、その「物思へばみだれて露ぞちりまがふ夜はにね覚めをしかの声より」は、次のように「もみぢよし」の折句になっていて、右方の「もみぢする月の桂にさそはれてしたのなげきも色ぞうつろふ」の「もみぢ」の定家の歌(右方)の「勝」と洒落ているのである。

物思へば    → も
みだれて露ぞ  → み
ちりまがふ   → ぢ
夜はにね覚めを → よ
しかの声より  → し

 ちなみに、この『千五百番歌合』で後鳥羽院が担当した「秋二・秋三」は、この「折句歌」が判詞に添えられているようである。いかにも、「一代の才子・和歌の帝王」の「後鳥羽院」の判詞のように思われる。
 この後鳥羽院の「折句歌」形式の判詞を借用したい。

    左
しら雲のたえまになびく青柳の/かつらぎやまに春かぜぞふく  (雅経)
    右 勝
やまたかみみねの嵐にちる花の/つきにあまぎるあけかたのそら (讃岐)
  判詞=折句歌
みね嵐/ギヤマンの月/野辺の花/かぎろひながら/散りし雅経 (宗偽) 
  付言
み → みね嵐
ぎ → ギヤマンの月
の → 野辺の花
か → かぎろひながら
ち → 散りし雅経

『後鳥羽院御口伝』余話(宗偽)

「雅経は殊(こと)に案じかへりて歌よみしものなり。いたくたけある(格調のある)歌などはむねとおほくはみえざりしかども、手だり(上手)とみえき。」(『後鳥羽院御口伝』)

 『後鳥羽院御口伝』の「歌人評」は、「近き世の上手」として平安末期の「歌道」(和歌の家=専門歌人の家系による規範化していく)の家系と深く結びついている。
具体的には、「源経信(つねのぶ)―俊頼(としより)―俊恵(しゅんえ)」と続く「六条源家(ろくじょうげんけ)」、続いて「藤原顕季(あきすえ)―顕輔(あきすけ)―清輔(きよすけ)」の「六条藤家(とうけ)」、さらに「藤原俊成(しゅんぜい)―定家(ていか)―為家(ためいえ)以下現代にまで続いている「御子左(みこひだり)家」の、それらの平安末期(院政期)から鎌倉時代にかけての歌人の評が中心になっている。この「御子左家」は、為家の子の代に生じた二条家・京極家(血統は南北朝期に絶える)と冷泉(れいぜい)家とは江戸時代にも及んで歌界に大きな影響を与えることになる。
 ここに、藤原定家らとともに『新古今和歌集』を撰した。「蹴鞠(けまり)」にもすぐれ、「歌鞠(かきく)二道」の「飛鳥井家」の祖の、「参議雅経(飛鳥井雅経)」が加わることになる。

飛鳥井雅経の一首

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masatune.html#SM

   千五百番歌合に、春歌
白雲のたえまになびく青柳のかづらき山に春風ぞ吹く(新古74)

【通釈】白雲の絶え間に靡く、若葉の美しい柳――その青柳を鬘(かずら)にするという葛城山に、今まさに春風が吹いている。
【語釈】◇白雲(しらくも)のたえまになびく 青柳の序であるとともに、「春風の吹く葛城山」を修飾するはたらきをする。◇青柳の 葛城山の枕詞。柳を鬘(髪飾り)にした風習から。下記本歌参照。◇かづらき山 大和・河内国境の連山。主峰は葛木神社のある葛木岳(通称金剛山)。桜の名所とされた。今は「かつらぎ」と訓むが、昔は「かづらき」。鬘(かづら)の意が掛かる。
【補記】「白きと青きとを取り合はせたり」(『新古今増抄』)。雲の白と柳の青(若緑)を配合して春らしい彩り。丈高い姿。
【他出】千五百番歌合、自讃歌、定家八代抄、歌枕名寄、六華集
【参考歌】「柿本人丸集」
青柳のかづらき山にゐる雲のたちてもゐても君をこそおもへ
【主な派生歌】
みふゆつぎ春しきぬれば青柳のかづらき山に霞たなびく(源実朝)
春がすみ絶間になびく青柳のめより色にはあらはれにけり(香川景樹)

二条院讃岐の一首

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/n_sanuki.html#SP

   百首歌たてまつりし時、春の歌
山たかみ嶺(みね)の嵐に散る花の月にあまぎる明け方の空(新古130)

【通釈】高い山にあるので、峰の嵐によって散る桜――その花が、月の光をさえぎり、曇らせている、明け方の空よ。
【語釈】◇嶺の嵐 嶺(山の頂)から吹き降ろす嵐。◇月にあまぎる 月に大量の落花がかぶさって光を見えにくくしているさま。この月は有明の月。「あまぎる」は「天霧る」で、天が霞む意。
【補記】正治二年(1200)、後鳥羽院に奉った百首歌。
【他出】三百六十番歌合、定家八代抄、女房三十六人歌合
【鑑賞】「落花を曙の薄明のうちに見るのは、当時愛されていた心である。また、自然を広く捉えようとするのも、当時の心である。更にまた、静的よりも動的なところに趣を感じるのも、当時の風である。この歌はそのすべてを持っている」(窪田空穂『新古今和歌集評釈』)
【主な派生歌】
み吉野の月にあまぎる花の色に空さへにほふ春の明ぼの(後鳥羽院)
春ふかみ峰のあらしに散る花のさだめなきよに恋つまぞふる(源実朝)
にほひもて我がはやをらん春霞月にあまぎる夜はの梅が枝(飛鳥井雅有)
ふりかすむ空に光はへだたりて月にあまぎる夜はの白雪(伏見院)
梅の花それにはあらでさえかへり月にあまぎる雪の山風(正広)

(参考)二条院讃岐と定家との歌合(『千五百番歌合』より)

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/teika/1500ban_t.html

二百六十三番
      左 勝   讃岐
0524 こぬ人をうらみやすらん喚子鳥しほたれ山の夕暮の声
      右     定家朝臣
0525 とまらぬは桜ばかりを色に出でてちりのまがひにくるる春哉
左、しほたれ山のよぶこ鳥、誠にうらみやすらんと聞え侍るを、右、「桜ばかりを色に出でて」といへる心いと心えわかず侍れば、以左まさると申すべくや。(判者釈阿)
四百八十八番
      左 勝   讃岐
0974 夏のよの月のかつらの下もみぢかつがつ秋のひかりなりけり
      右     定家朝臣
0975 夏のよはまだよひのまとながめつつぬるや川べのしののめの空
只翫桂華秋色深 夏宵不憶一夢成 (判者左大臣後京極摂政良経)
七百十三番
      左     讃岐
1424 あはれなる山田の庵のね覚め哉いなばの風に初かりの声
      右 勝   定家朝臣
1425 もみぢする月の桂にさそはれてしたのなげきも色ぞうつろふ
物思へばみだれて露ぞちりまがふ夜はにね覚めをしかの声より(御判折句歌)
九百卅八番
      左 持   讃岐
1874 露は霜水は氷にとぢられて宿かりわぶる冬のよの月
      右     定家朝臣
1875 まきのやに時雨あられは夜がれせでこほるかけひの音信ぞなき
左右ともに心をかしく侍れば、勝劣難決。(判者蓮経 季経入道)
千百六十三番
      左     讃岐
2324 蛙なく神なび河にさく花のいはぬ色をも人のとへかし
      右 勝   定家朝臣
2325 たれか又物おもふ事ををしへおきし枕ひとつをしる人にして
左の、「神なび河にさく花のいはぬ色」などは、ふるまはれて侍り。右の「枕をしる人にして」「物思ふ事を誰かをしへし」などうたがはれたるこそ、風情めづらしく見所侍れ。勝にや侍らん。(判者生蓮)
千三百八十八番
      左     讃岐
2776 心あらば行きてみるべき身なれ共音にこそきけ松がうら島
      右 勝   定家朝臣
2777 いく世へぬかざしをりけんいにしへに三輪のひばらの苔の通ひ路
すむあまの心あるべき松が浦もみわのひばらに及ぶべきかは 以右為勝。(判者前権僧正)

飛鳥井雅経(あすかいまさつね(-がけい)) 嘉応二年~承久三(1170-1221)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masatune.html#SM

関白師実の玄孫。刑部卿頼輔の孫。従四位下刑部卿頼経の二男。母は権大納言源顕雅の娘。刑部卿宗長の弟。子に教雅・教定ほかがいる。飛鳥井雅有・雅縁・雅世・雅親ほか、子孫は歌道家を継いで繁栄した。飛鳥井と号し、同流蹴鞠の祖。
少年期、蹴鞠の才を祖父頼輔に見出され、特訓を受けたという。治承四年(1180)十一月、叙爵。文治元年(1185)、父頼経は源義経との親交に責を負って安房国に流され、一度はゆるされて帰京するが、文治五年(1189)、今度は伊豆に流された。十代だった雅経は処分を免れたが、京を去って鎌倉に下向、大江広元のむすめを妻とし、蹴鞠を好んだ源頼家に厚遇された。
建久八年(1197)二月、後鳥羽院の命により上洛。同年十二月、侍従に任ぜられ、院の蹴鞠の師を務める。同九年正月、従五位上。建仁元年(1201)正月、右少将に任ぜられる(兼越前介)。同二年正月、正五位下。元久二年(1205)正月、加賀権介。建永元年(1206)正月、従四位下に昇り、左少将に還任される。承元二年(1208)十二月、左中将。同三年正月、周防権介。同四年正月、従四位上。建保二年(1214)正月、正四位下に昇り、伊予介に任ぜられる。同四年三月、右兵衛督。建保六年(1218)正月、従三位。承久二年(1220)十二月、参議。承久三年(1221)三月十一日、薨。五十二歳。
建久九年(1198)の鳥羽百首をはじめ、正治後度百首・千五百番歌合・老若五十首歌合・新宮撰歌合など多くの歌会・歌合に参加。ことに「老若五十首歌合」では大活躍し、出詠歌五十首中九首もが新古今集に採られることになる。建仁元年(1201)、和歌所寄人となり、さらに新古今集撰者の一人に加えられた。その後も後鳥羽院歌壇の中心メンバーとして活躍、建仁二年(1202)の水無瀬恋十五首歌合・八幡若宮撰歌合、元久元年(1204)の春日社歌合、承元元年(1207)の最勝四天王院障子和歌などに出詠。順徳天皇歌壇の内裏歌合にも常連として名を列ねた。たびたび京と鎌倉の間を往復し、源実朝と親交を持った。定家と実朝の仲を取り持ったのも雅経である。建暦元年(1211)には鴨長明を伴って鎌倉に下向、実朝・長明対面の機会を作るなどした。
新古今集に二十二首。以下勅撰集に計百三十四首入集。家集『明日香井和歌集』(以下「明日香井集」と略)、著書『蹴鞠略記』などがある。

二条院讃岐(にじょういんのさぬき) 生没年未詳(1141?-1217以後)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/n_sanuki.html

源頼政の娘。母は源忠清女。仲綱の異母妹。宜秋門院丹後は従姉。はじめ二条天皇に仕えたが、永万元年(1165)の同天皇崩後、陸奥守などを勤めた藤原重頼(葉室流。顕能の孫)と結婚し、重光(遠江守)・有頼(宜秋門院判官代)らをもうけた。治承四年(1180)、父頼政と兄仲綱は宇治川の合戦で平氏に敗れ、自害。その後、後鳥羽天皇の中宮任子(のちの宜秋門院)に再出仕する。建久七年(1196)、宮仕えを退き、出家した。
若くして二条天皇の内裏歌会に出詠し、父と親しかった俊恵法師の歌林苑での歌会にも参加している。建久六年(1195)には藤原経房主催の民部卿家歌合に出詠。出家後も後鳥羽院歌壇で活躍し、正治二年(1200)の院初度百首、建仁元年(1201)の新宮撰歌合、同二~三年頃の千五百番歌合などに出詠した。順徳天皇の建暦三年(1213)内裏歌合、建保四年(1216)百番歌合の作者にもなった。家集『二条院讃岐集』がある。女房三十六歌仙。小倉百人一首にも歌を採られている(この歌によって「沖の石の讃岐」と称されたという)。千載集初出、勅撰入集計七十三首。
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