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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その五) [三十六歌仙]

その五 後法性寺入道前関白太政大臣と土御門内大臣

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狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(後法性寺入道前関白太政大臣・九条兼実)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056399

源通親一.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(土御門内大臣・源通親)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056400

左方五・後法性寺入道前関白太政大臣(九条兼実)

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010684000.html

かすみしく春のしほぢをみわたせば/みどりをわくるおきつしらなみ(『千載』8)

右方五・土御門内大臣(源通親)

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010685000.html

おりしもあれ月はにしにも成りぬらん/雲のみなみにはつかりのこゑ

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-28

藤原忠道.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方五・後法性寺入道前関白太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009398

源通親.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方五・土御門内大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009416

(周辺メモ)

 九条兼実と源通親との番いというのは実に絶妙という思いを深くする。九条兼実は、五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。平氏滅亡後、源頼朝に支持されて摂政、太政大臣、関白となり、頼朝の征夷大将軍宣下(せんげ)をとりはからう。建久七年(一一九六)政敵の源通親(みちちか)に追われて失脚、法然に帰依して出家した。通称は月輪殿、後法性寺殿。法名は円証。和歌は初め六条家の清輔を師としたが、その死後、俊成を迎えた。承安から治承にかけてさかんに歌会・歌合を開催し、九条家歌壇の基礎をつくった。この歌壇は息子の良経に引き継がれて、慈円・定家ら新風歌人たちの活躍の場となる。
 一方の源通親は、六波羅(ろくはら)時代に、平氏との間に婚姻を通じて政治家としての地歩を築き、また高倉天皇の近臣として重んぜられた。しかし平氏の都落ちに際しては、これを離れて後白河院のもとにとどまり、その近臣としてしだいに勢力を得た。また新興の関東政権とも連携して宮廷での地歩確保に努め、関白九条兼実の執政と対立した。建久七年(一一九六)、近衛家を擁して九条家を失脚させ、事実上政権を独占する勢いを示した。やがて後鳥羽天皇が上皇として院政をみるや、院の意を迎えて、いよいよその権勢を固めた。院の別荘水無瀬殿(みなせどの)は通親の造営するところである。通親も和歌・文章に巧みで、後鳥羽院の近臣源家長の『家長日記』にはとくに歌人として高く評価されている。
 この当時の時代を二分した実力者且つ有力歌人の二人を番いさせたのは、この二人に通暁している、且つ、この二人の上に君臨した帝王・後鳥羽院その人という思いを深くする。

(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

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(周辺メモ)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』については、次のとおり紹介されている。

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/lib-sin36.html

【狩野洞雲(狩野益信・1625-1694)画 絹本金銀泥彩色画 本紙  たて 31.7cm  よこ 24.6cm 折帖装  箱入

歌仙絵とは和歌に秀でた歌人の画像で、普通歌人の肖像にその歌の一首を、ときに略伝を添えたものを指す。鎌倉時代から江戸時代に非常に流行し、藤原公任 (966-1041) 撰の「三十六人撰」所収歌人を称した「三十六歌仙」をはじまりとする種々の歌仙絵が制作された。歌仙絵は和歌文学、日本美術、また、装束や色彩といった日本文化全般にわたる古典文化研究を深める上で、貴重な資料のひとつといえる。
本画帖の「新三十六歌仙」は後鳥羽院 (1180-1239) が撰んだといわれる歌仙を描き、表に絵色紙、裏に詞色紙を貼付している。「新三十六歌仙」は「三十六歌仙」との対比の上で重要な作品であり、また後鳥羽院の問題、鎌倉歌人の後代の受容など、多くの研究課題を有した作品である。
作者の狩野洞雲は本名益信、 11 歳で狩野探幽の養子となるが、探幽に実子が誕生したため離別し、駿河台狩野家を興す。徳川家光に寵遇され、功績を積んだものに贈られる位階の一つである法眼 ( ホウゲン ) に叙せられた。 】

狩野益信(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

狩野 益信(かのう ますのぶ、寛永2年(1625年) - 元禄7年1月8日(1694年2月1日))は、日本の江戸時代前期に活動した狩野派の絵師。幼名は山三郎、通称は采女、号は洞雲・宗深道人・松蔭子。別号は、松蔭斎、薄友斎。狩野探幽の養子で、江戸幕府御用絵師の中で奥絵師4家に次ぐ家格を持つ表絵師筆頭(御坊主格)駿河台狩野家の祖。後述する号から狩野洞雲とも言われる。
彫金家・後藤勘兵衛家の後藤立乗の長子として生まれる[1]。伯父に勘兵衛家を嗣いだ後藤覚乗がいる。幼少時、書を松花堂昭乗に学び、画を好んだ。その画技を見込まれて1635年(寛永12年)11歳で探幽の養子となる。後藤家と狩野家とは共に幕府の御用を務め、日蓮宗信者といった共通点を持ち、狩野元信の代に遡ると言われるほど古くから繋がりがあったようだ。狩野安信に可愛がられその娘を妻とし(『狩野五家譜』)、徳川家光に寵愛された。しかし探幽に実子・探信・探雪ができると、1659年(万治2年)35歳の時南光坊天海の紹介で別家し、1667年(寛文7年)新たに駿河台に屋敷を拝領し、駿河台狩野家を興こす。1682年(天和2年)新たに20人扶持を得て、他の表絵師の5人扶持(山下狩野家10人扶持を除く)より高い格式を得た。
承応・寛文年度の京都御所造営に伴う障壁画制作に参加。1665年(寛文5年)9月、益信の絵を見た隠元隆琦から絶賛され、「洞雲」の号を与えられる。以後の作品には、「洞雲」印または「洞雲筆」などの落款が伴うことが多い。晩年の1691年(元禄4年)には湯島聖殿に「七十二賢及先儒ノ像」を描き、住吉具慶、北村季吟らと共に法眼に叙されたが、その3年後に没した。70歳。法名は智光院法眼洞雲宗深居士、墓所は護国寺。跡は、探幽の実子で勘当されていた五右衛門(勘当の理由は不明)の子・洞春福信を養子として継がせた。弟子に小原慶山、佐久間洞巖、清水洞郁、増井貞三など
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