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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その四) [三十六歌仙]

その四 二品法親王道助と前大納言忠良

道助親王.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(二品法親王道助)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056397

藤原忠良.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(前大納言忠良)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056398

左方四・道助法親王(仁和寺宮)

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010681000.html


 萩のはに風の音せぬ秋もあらば/なみだのほかに月はみてまし(『新勅撰』223)

右方四・前大納言忠良(藤原忠良)

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010683000.html

 ゆふづく日さすやいほりの柴の戸に/さびしくもあるかひぐらしのこゑ(『新古』269)

(周辺メモ)

 この左方の「道助親王(どうじょしんのう)」は、後鳥羽院の第二皇子。母は内大臣坊門信清女。土御門院の異母弟。順徳院・雅成親王の異母兄。建仁元年(1201)十一月、仁和寺に入り、建永元年(1206)、十一歳で出家、光台院に住む。承元四年(1210)十一月、叙二品。建暦二年(1212)十二月、道法法親王により伝法灌頂を受ける。建保二年(1214)十一月、第八世仁和寺御室に補せられた。
 「探幽本」では、「仁和寺宮」の表記であるが、「左方一・後鳥羽院」→「左方二・土御門院」→「左方三・順徳院」からすると「左方四・二品法親王道助」の方が分かり易いであろう。

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-27

仁和寺宮.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方四・仁和寺宮」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009397

藤原忠良.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方四・前大納言忠良」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009415

(探幽本と永納本周辺メモ)

京狩野のやまと絵について(日並彩乃)

https://ci.nii.ac.jp/naid/120005738266

【京狩野の 画域拡大をやまと絵作品の方へと推し進めたのは、やはり永納であろう。永納のやまと絵作品にみられる素朴さや堅さは、永納が粉本に頼らず積極的にやまと絵を自身で勉強学習したために描き慣れていないこと、また江戸狩野を学習したためと、筆者は考える。永敬になると画風 が整って、描き慣れた印象を受ける。永敬の技量の高さはさることながら、京狩野に少なくはないやまと絵の需要があったことを示していよう。永敬は、京狩野のやまと絵の伝統を保持し ながらも、琳派や江戸狩野、土佐派など同時代の他流派作品を積極的に学んだと考えられる。 そして、彼らの作品の近似性や影響関係は、九条家や二条家など主だった需要者の好みによって、必然的に引き起こされたと考えられる。永伯の代になって、二条家と疎遠になったという 事実は、永伯自身の技量に加えて、需要者の趣向と画風との一致が重要な問題となっていよう。】

上記の「九条家や二条家」の「二条家」は、五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)の二条家で、歌道と鞠道を家業とした「御子左家」の嫡流の「二条家」ではない。
 また、「永伯の代になって、二条家と疎遠になった」の、「永伯」は、「京狩野」の「山楽(初代)→山雪(二代)→永納(三代)→永敬(四代)→永伯(五代)」と続く「京狩野五代目・狩野永伯」で、「元禄15年(1702年)16歳でその父を亡くしてしまう。父の代からと関係があった二条家には、尾形光琳や山本素軒、片山尚景といったベテラン絵師たちも出入りしており、彼らに比べて若年の永伯は苦境にたたされたと推測される。しかし、宝暦5年(1708年)の御所障壁画制作では、京狩野家代々の禁裏御用での履歴を強調し、その筋目に当たる自分が参加出来ないと家筋が断絶してしまうと訴え、参加を認められた。以降、朝廷の仕事を請け負うようになったらしく、延享4年(1747年)桃園天皇即位に伴う御用でも、土佐光芳、土佐光淳、鶴澤探鯨らと共に参加している。こうした朝廷との繋がりが他の京絵師たちとの差となり、京狩野家は別格の存在となっていったと推測される。」(出典:『ウィキペディア(Wikipedia))

【個性的な永敬が永納の後を継ぎ、二条家、九条家などの公家衆や、西本願寺・仁和寺などの仕事をした。近年、永敬と光琳の影響関係が注目されている。】(『別冊太陽 江戸絵画入門(河野元昭監修)』)

ここで、「京狩野」と「仁和寺」の関係がクローズアップされてくる。

(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

道助親王.jpg

藤原忠良.jpg

仁和寺(仁和寺と道助親王)

【仁和寺はその後も皇族や貴族の保護を受け、明治時代に至るまで、覚法法親王など皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務め(最後の皇族出身の門跡は伏見宮純仁法親王、後の小松宮彰仁親王)、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括していた。非皇族で仁和寺門跡になった人物に九条道家の子法助と足利義満の子法尊の2名がいるが、ともに当時の朝廷における絶対的な権力者の息子でかつ後に准后に叙せられるなど皇族門跡に匹敵する社会的地位を有していた。】(出典:『ウィキペディア(Wikipedia))

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