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鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その十七) [光悦・宗達・素庵]

(その十七)I図『鶴下絵和歌巻』(13藤原清正)

鶴下絵和歌巻I図.jpg

13藤原清正 子の日しに占めつる野辺の姫小松 引かでや千代の蔭を待たまし(「撰」「俊」)
(釈文)年濃日し尓しめ徒流野邊乃日めこまつ日可天や千代濃蔭をま多まし
藤原興風 誰をかも知る人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに(「撰」「俊」)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

13 子の日してしめつる野辺の姫小松引かでや千代の蔭を待たまし(新古今709)

歌意は、「子の日を祝い、標しをして置いた野辺の姫小松を引き抜いたりしないで、長い年月をかけ、千代の陰を待つことにしよう。」
(語釈)子の日=十二支の「子(ね)」に当たる日。 正月の最初の子の日に、人々が野外に出て小松を引き抜いたり若菜を摘んだりし、宴遊を行って千代(ちよ)の長寿を祝う行事。 のちに、正月七日の行事となった。 子の日の遊び。

藤原清正一.jpg

藤原清正/妙法院宮堯然親王:狩野尚信/慶安元年(1648) 金刀比羅宮宝物館蔵
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kiyotada.html

   殿上はなれ侍りてよみ侍りける
天(あま)つ風ふけひの浦にゐる鶴(たづ)のなどか雲居にかへらざるべき(新古1723)

【通釈】天つ風が吹くという名の吹飯の浦にいる鶴が、どうして雲の上に帰らないことなどあろうか。――そのように、私もいつかは再び昇殿を許されるであろう。
【語釈】◇天つ風 「吹く」から「ふけひ(吹飯)の浦」にかかる枕詞。◇ふけひの浦 和泉国の歌枕に吹飯の浦があるが、紀伊国の歌枕吹上(ふきあげ)の浜と古来混同され、掲出歌でも紀伊国の歌枕として詠んでいるらしい。◇雲居 殿上。
【補記】『清正集』の詞書は「紀のかみになりて、まだ殿上もせざりしに」とあり、紀伊国守となって都を離れる時、紀伊の歌枕「ふけゐの浦」に言寄せて、いつか帰京し昇殿を許されることを願って詠んだ歌。但し『忠見集』によれば、清正が紀伊守となった頃、壬生忠見が清正に代わって少弐命婦に贈った歌とある。清正の代表歌とされ、彼が三十六歌仙に選ばれたのもこの歌あってのことに違いない。因みに清正が紀伊守に就いたのは天暦十年(956)正月で、同年十月には還昇を果たしている。

(周辺メモ)尭然入道親王 (ぎょうねんにゅうどうしんのう)

没年:寛文1.閏8.22(1661.10.15)
生年:慶長7.10.3(1602.11.16)
江戸前期の天台宗の僧で,妙法院第33世。後陽成天皇の第6子。母は持明院基孝の娘孝子。幼名六宮。諱は常嘉。慶長8(1603)年に常胤法親王の資として妙法院に入室。同18年親王宣下。元和2(1616)年12月に得度し,同9年二品に叙せられ,天海から灌頂を受けた。江戸で東照宮の十三回忌,十七回忌,二十一回忌法要の導師を勤め,宮中では五大尊行法や北斗尊星王法を修した。寛永17(1640)年,正保2(1645)年,承応2(1653)年と3度天台座主を勤めた。能書として知られ,江戸の護持院,山王権現の額を染筆。幕府御用絵師の狩野探幽とも親しく,花鳥・山水画を残し,茶の湯,和歌,香にも秀でた文化人であった。<参考文献>『諸門跡譜』『天台座主記』『妙法院在住親王伝』,洞院満季選『本朝皇胤紹運録』
(岡佳子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

藤原清正二.jpg

『三十六歌仙』(藤原清正)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

天(あま)つ風ふけひの浦にゐる鶴(たづ)のなどか雲居にかへらざるべき(新古1723)

(追記)「蔦の細道図屏風」(伝俵屋宗達画・烏丸光広書)周辺メモ

蔦の細道左.jpg

「蔦の細道図屏風(左隻)」(伝俵屋宗達画・烏丸光広書)六曲一双 相国寺蔵 重要文化財 紙本着色 各159.0×361.0㎝
(光広「自詠歌」五首=濁点なし)
行さきもつたのした道しけるより花は昨日のあとのやまふみ
夏山のしつくを見えは青葉もや今一入のつたのしたみち
宇津の山蔦の青葉のしけりつつゆめにもうとき花の面影
書もあへすみやこに送る玉章よいてことつてむひとはいつらは
あとつけていくらの人のかよふらんちよもかはらぬ蔦の細道

蔦の細道右.jpg

「蔦の細道図屏風(右隻)」(伝俵屋宗達画・烏丸光広書)六曲一双 相国寺蔵 重要文化財 紙本着色 各159.0×361.0㎝
(光広「自詠歌」二首=濁点なし)
茂りてそむかしの跡も残りけるたとらはたとれ蔦のほそ道
ゆかりて見る宇津の山辺はうつしゑのまことわすれてゆめかとそおもふ

蔦の細道光広.jpg

「左隻」の「第二扇」に「光廣」という署名がある。この小さな二字の署名が、東下りをする『伊勢物語』の主人公「業平」に託しての「光広」自身の投影であろうか。

【 六曲一双の金地屏風に、緑青一色の濃淡だけで蔦の葉と土坡を画いている。『伊勢物語』(第八段)の業平東下りのうち宇津山の蔦の細道を描いたものだが、斬新な意匠と大胆な色彩の対照に驚かされる。図上には烏山光広<1579-1638>が賛の和歌を加えているが、定家流の書風から、かれの壮年期の揮毫と見られる。 】(『創立百年記念特別展「琳派」目録・東京国立博物館・1972』)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-15

(再掲)「慶長年間の光悦・宗達・素庵・光広・黒雪」(一部修正)

慶長三年(一五九八)豊臣秀吉没 ★光広(20)細川幽斎に師事(「烏山光広略年譜」))。 光悦(41)、宗達(31?)、素庵(28)、黒雪(32)。
同五年(一六〇〇)光悦(43)このころ嵯峨本「月の歌和歌巻」書くか。関が原戦い。
☆素庵(30)光悦との親交深まる(「角倉素庵年譜」)。
同六年(一六〇一)光悦(44)このころ「鹿下絵和歌巻」書くか。
同七年(一六〇二)宗達(35?)「平家納経」補修、見返し絵を描くか。
同八年(一六〇三)★光広(25)細川幽斎から古今伝授を受ける。徳川家康征夷大将軍となる。
同九年(一六〇四)☆素庵(34)、林蘿山と出会い、惺窩に紹介する。嵯峨本の刊行始まる(「角倉素庵年譜」)。
同十年(一六〇五)宗達「隆達節小歌巻」描くか。黒雪(39?)後藤庄三郎に謡本を送る。
徳川秀忠将軍となる。
同十一年(一六〇六)光悦(49)「光悦色紙」(11月11日署名あり)。
同十三年(一六〇八)光悦(51)「嵯峨本・伊勢物語」刊行。
同十四年(一六〇九)光悦(52)「嵯峨本・伊勢物語肖聞抄」刊行。★光広(31)勅勘を蒙る(猪熊事件)(「烏山光広略年譜」)。
同十五年(一六一〇)光悦(53)「嵯峨本・方丈記」刊行。
同十七年(一六一二)光悦(55)☆光悦、軽い中風を患うか(「光悦略年譜」)。
同十九年(一六一四)近衛信尹没(50)、角倉了以没(61) 大阪冬の陣。
元和元年(一六一五)光悦(58)家康より洛北鷹が峰の地を与えられ以後に光悦町を営む。古田織部自刃(62)、海北友松没(83)。大阪夏の陣。宗達(48?)、素庵(45)、黒雪(49)、光広(37)。

☆「光悦略年譜」=『光悦 琳派の創始者(河野元昭編)』。「角倉素庵年譜」=『角倉素庵(林屋辰三郎著)』。★「烏山光広略年譜」=(『松永貞徳と烏山光広・略年譜・高梨素子著』)

(周辺メモ)「烏山光広」の歌周辺

 開けて見ぬ甲斐もありけり玉手箱再び返す浦島の波 (出典:黄葉集一六二五)

歌意は、「師匠が死を覚悟して形見の本を送ってくださったのを、勝利を信じて箱を開けないで待っておりましたら、その甲斐がありました。浦島太郎は乙姫からもらった玉手箱を開けましたが、私は開けないまま島の波に載せて、師匠に再び送り返します。」

【 慶長五年(一六〇〇)、徳川・豊臣の二大勢力が対決して、天下分け目といわれる関ヶ原の戦いが起きた。光広の師の細川幽斎は本来は徳川家の武将であり、この戦いの時に丹後国(京都府北部)田辺城で豊臣方の軍勢に囲まれ籠城を余儀なくされた。幽斎は死を覚悟して、後陽成天皇や光広などに自分が収集、書写した歌書を送った。その時幽斎は、歌書の入った箱に添えて光広に「藻塩草かきあつめたる跡留めて昔に返せ和歌の浦波」(黄葉集一六二四)という歌を贈った。古い和歌を搔き集めて書き残した筆跡を留めて、昔のように平和な時代に戻ったら世に返してほしい、和歌の弟子であるあなたに通う和歌の浦の波よ、という意味である。戦いは幽斎の劣勢だったが、後陽成天皇から命を助けよとの命令が出されて、幽斎は生きながらえることができた。その後光広は、幽斎が贈った箱を開かずに、冒頭の歌を添えて返却したのである。
 後陽成天皇は、幽斎が古今伝授を受け継ぐ唯一の人であることから、勅使を派遣し幽斎の命を助けた。これによって古今伝授の権威が一挙に高まった事件である。箱を開けないまま返された幽斎は、若い光広の自分を信じる熱い信頼心と配慮が嬉しかったに違いない。
そこで、「浦島や光を添えて玉手箱開けてだに見ず返す波かな」(黄葉集一六二七)という返歌を光広に贈っている。これは、信頼という心の光を添えて、玉手箱を開けてさえ見ずに返してよこした浦島の波があるのだね、という意味である。冒頭の歌は、この話に象徴される光広の真っ直ぐな心情と暖かい人間性をよく示す歌と思われる。  】(『松永貞徳と烏山光広・高梨素子著』)

 光広が細川幽斎に師事したのは、慶長三年(一五九八)の豊臣秀吉が没した年で、年齢、二十歳の時であった。その翌々年の慶長五年(一六〇〇)に「関ヶ原の戦い」があり、上記の「幽斎と光広」との問答歌は、その「関ヶ原の戦い」に際してのものであった。
 光広が、その幽斎より「古今伝授」を受けたのは、慶長八年(一六〇三)、二十五歳の時である。この年、光悦、四十六歳の時で、この光悦の『本阿弥行状記』の最終の段(「下巻・三八〇段」)に、次のような「細川幽斎」に関する記述がある。

【 源氏物語は和国の奇筆也。細川玄旨法印(注・藤孝)の扈従(注・付き人)に、宮木善左衛門孝庸といひし武士、因州(注・鳥取県の東部)の牧に仕え給ふ。余(注・光悦)若年の時より随ひて、委細を伝授して承り終りぬ。かたの如く口決共有。或時に孝庸、玄旨法印に、世間の便になる書は、何を第一と仕べきと尋ねさせければ、源氏物語と答へ給ひし。又歌学の博覧第一の物はと問へば、同じく源氏と答させ給ふとぞ。何もかも源氏にて済ぬる事と承りぬ。源氏を百へんつぶさに見たものは、歌学成就のよしの給ふとぞ。孝庸は語り給ふ。 】(『本阿弥行状記と光悦(正木篤三著)』)

 この他にも「細川幽斎」や「古今伝授」に関することが、『本阿弥行状記』には記されており、光悦の甥・光益の実子の佐野(別姓・灰野)紹益の『にぎわひ草(下巻)』などを見ると、伝授証明状は受け取っていないが、光悦もまた、烏山光広と同じく、細川幽斎に連なる「古今伝授」の実質的な継受者の一人とも解せられる。
 そして、光広が「古今伝授」を細川幽斎より継受した慶長八年(一六〇三)当時には、二十一歳年長の光悦門の一人として、主として、光悦より「書」の指導をうけていたと解せられる。これらのことについては、下記のアドレスの「(追記二)堂上歌人烏丸光弘と光悦・宗達など」で触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-15

 そして、この慶長年間(「関が原戦い」~「大阪冬の陣」)には、「光悦・宗達・素庵」の「嵯峨本(光悦本・素庵本)」そして「下絵和歌巻(宗達画・光悦書)」の時代であったが、
元和元年(一六一五)の光悦の「洛北鷹が峰」移住後は、「嵯峨本(光悦本・素庵本)」は、素庵の病気による隠遁などを契機として影を潜め、その「下絵和歌巻(宗達画・光悦書)」は、「画(宗達)・書(光広)」の時代へと軸足を移行して行くようになる。その軸足を「画(宗達)・書(光広)」の時代のエッポク的な作品が、冒頭に掲げた「蔦の細道図屏風」(伝俵屋宗達画・烏丸光広書)ということになろう。
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