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醍醐寺などでの宗達(その二・「醍醐寺の扇面画」) [宗達と光広]

その二 醍醐寺の扇面画(「扇面散屏風(俵屋宗達筆)」)周辺

https://spice.eplus.jp/articles/209491

扇面散図屏風.jpg

「金地著色扇面散(図)屏風(伝宗達筆/二曲一双屏風)」(重要文化財)醍醐寺三宝院蔵 
各一五六・〇×一六八・〇㎝
【 二曲一双の屏風に十一枚の扇面を貼ったもの、主題は「保元物語」などの戦記文学や、風景、動物などの画が含まれている。「田家早春図」はとくにすぐれ、扇形の特殊な画面を巧みに活かし、重厚な色調をもっており、宗達扇面画の最高傑作とされている。 】(『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録)

(右隻の右三扇=上・中・下)

上 「鵜飼図扇面」(骨なし、原典=「執金剛神縁起」)
→※能「鵜飼」(甲斐国石和)→地謡「面白の有樣や。底にも見ゆる篝火に。」→「鵜飼舟あはれとぞ見るもののふの八十宇治川の夕闇の空」(慈円) 
中 「柴舟と僧侶・女人図扇面」(骨あり、原典=「保元物語絵巻」)
  →※能「通盛」(阿波国鳴門)→地謡「そもそも此一の谷と申すに。前は海。上は険しき鵯越。」→「我こひはほそ谷河のまろ木ばしふみかへされてぬるゝ袖かな」(平通盛) 
下 「重い柴を運ぶ牛と農夫図扇面」(骨なし、原典=「西行物語絵巻」「保元物語絵巻」)
→※能「唐船」(筑前国箱崎)→地謡「あれを見よ野飼いの牛の、声々に。野飼いの牛の、声々に。」→「君がため蓬が島もよりぬべし生薬とる住吉の浦」(藤原家隆)

(右隻の左二扇=上・下)

上 「伊勢物語第五段関守図扇面」(骨あり、原典=「異本伊勢物語絵巻」)
→※『伊勢物語五段』(ひんがしの五条)→「人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ」
下 「犬図扇面」(骨あり、原典=「六道人道不浄相図」「九想図絵巻」)
→※能「殺生石」(下野国那須野)→地謡「野干は犬に似たれば犬にて稽古。あるべしと
て百日犬をぞ射たりける。これ犬追物の始めとかや。」→「白露に風の吹しく秋の野は
つらぬきとめぬ玉ぞ散りける」(文屋朝康)

(左隻の右三扇=上・中・下)

上 「僧侶と輿図」(骨あり、原典=「保元物語絵巻」)
→※「伊勢物語九段」(駿河宇津・富士)→「駿河なる宇津の山辺のうつゝにも夢にも人にあはぬなりけり」
中 「曳き舟図扇面」(骨あり、原典=「保元物語絵巻」
→※「伊勢物語九段」(武蔵・隅田川)→「名にしおはゞいざこと問はむ都鳥わが思ふ人
はありやなしやと」
下 「伊勢物語第十一段東下り図扇面」(骨なし、原典=「異本伊勢物語絵巻」)
→※「伊勢物語十一段」(武蔵国入間)→「忘るなよほどは雲居になりぬるとも空ゆく月の
 めぐりあふまで」

(左隻の左三扇=上・中・下)

上 「田家早春図扇面」=(骨ありし、原典=「執金剛神縁起」)
→※能「桜川」(常陸国桜川)→「常よりも春べになれば桜花波の花こそ間なく寄すらめ」

中 「伊勢物語第九段富士山図」(骨あり、原典=「異本伊勢物語絵巻」)
→※「伊勢物語九段」(駿河・富士)→「時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ」

下 「重い荷車を曳き、河を渡る牛図扇面」(骨あり、原典=「保元物語絵巻」)
→※能「唐船」(筑前国箱崎)→地謡「いざや家路に帰らん。いざや家路に帰らん。」


 上記の各扇面図(十一図)の「ネーミング・原典」などは、『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文社)』に因っている。そこでは、特に、「田歌早春図扇面」については、「桜の花が咲く春の野辺、長閑な田舎家の風景のうちに、人に生と死があることを示した『無常の絵画』なのだ(P42)とし、「犬図扇面」については、「苅り田や土坡や畦道、銀泥で縁取られた金雲を背景とし、おだやかな農村の日常生活のひとコマのなかに併存する『畜生道』を表現した」(P47)としている。
 これらのことに関しては、次のアドレスの「宗達画を検証する」に、その見解の全容の一端を知ることができる。

http://atelierrusses.jugem.jp/?eid=432

 しかし、ここでは、「宗達と能」(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p89)などに関連させて、その鑑賞の一端を進めたい。
 上記の「※印」(そして下段)のものが、その鑑賞の一端のメモで、以下、その説明(メモ)をしていきたい。その説明に入る前に、全体的な事項について触れたい。

一 「扇面散(ちらし)屏風」、「扇面貼付(はりつけ)屏風」そして「扇面貼交(はりまぜ)屏風」

 上記の「『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録」の説明の「二曲一双の屏風に十一枚の扇面を貼ったもの」とすると、「扇面貼付屏風」のネーミングの方が、よりイメージとしては「扇面散屏風」よりも鮮明な感じがする。
 要は、「屏風」に数枚の「扇面」(扇子画)を「散らし」たもので、それには「貼り付けた」ものと「描いた」ものと、それらが「混在しもの」と、色々な種類があるということ、さらに、それらが、「未使用のもの」と「使用したもの」とか、あるいは、「同一人が描いたもの」か「複数人の描いたもの」なのかとか、その用例も分けて区分するのが妥当なのかも知れないが、ここでは、それらの使い分けはしていない。

二 屏風に「下絵の有る」ものと「下絵の無いもの」、また扇子に「骨の有る」ものと「骨が無いもの」、そして「屏風歌」など

 この醍醐寺の「扇面散屏風」は、「金地着色扇面散屏風」で、無地(下絵無し)の「金地屏風」に「扇面画」を貼付したものだが、「金地」ではなく「銀地」のものや、「無地」ではなく、「下絵」を施したものとか、いろいろな種類がある。
 また、その「扇面画」も「骨の有る」ものと「骨の無い」ものとか、「扇面画」ではなく、「色紙」や「短冊」(それらに「和歌」を書写する)を貼付したものとか、これまた、いろいろのものがあるが、これらのものの原初的なスタイルは、『古今集』『新古今集』の平安時代に盛行した「屏風歌」(「屏風に描かれている絵の主題に合わせてよまれた歌」など)に由来があるように思われる。
 この「屏風歌」については、下記のアドレスの「平安中期の屏風絵と屏風歌の関係 : 網代を例として(田島智子稿)」などが参考となる。

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/54507/shirin57_001.pdf

三 「扇面構図論」と「宗達屏風構図論」など

 「扇面構図論―宗達画構図研究への序論」そして「宗達屏風構図論」は、『琳派(水尾比呂志著・芸艸堂)』に収載されている。その論稿の骨子は、「扇面画といふ特殊な画面形式の構図法の基本的な原則とその形成事由」を考察し、「扇面画と密接な関係にある宗達の構図法を究明する」ということを眼目にしている。
 そこで、扇面画の構図上の特性として次の三点を挙げている。

放射性=画面の外の扇の要を中心としてモチーフを放射状に配置する
彎曲性=扇面の弧に沿ってモチーフを彎曲させて配置する
進行性=右から左への時間的進行動きを伝えるようにモチーフを配置する

 これらのことについては、下記のアドレスの「扇面画の空間表現の歪みについて(面出和子稿)」などが参考となる。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsgs1967/40/Supplement1/40_Supplement1_139/_pdf/-char/ja

 この扇面画の特性の一つの「進行性」というのは、「巻物」(右から左へと進行する)、そして「屏風」(右から左へと進行する)の特性とも一致している。そして、それは、「連歌・俳諧」を書きつける「懐紙」の折りとも一致してくる。この「連歌・俳諧・式目・懐紙」などは、下記のアドレスの「古典への招待(連歌・俳諧・連句)」などが参考となる。 

https://japanknowledge.com/articles/koten/shoutai_61.html

 ここで、上記のことなどを前提として、この醍醐寺の扇面画(「扇面散屏風(俵屋宗達筆)」)の余興的な「絵解き」(絵から「歌・俳諧」などを連想する)を試みたい。


四 (右隻の「右三扇=上・中・下」と「左二扇=上・下」)=説明(メモ)

右隻.jpg

四の一 (右隻の右三扇=上・中・下)=説明(メモ)

上 「鵜飼図扇面」(骨なし、原典=「執金剛神縁起」)
→※能「鵜飼」(甲斐国石和)→地謡「面白の有樣や。底にも見ゆる篝火に。」→「鵜飼舟あはれとぞ見るもののふの八十宇治川の夕闇の空」(慈円) →「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉( 芭蕉 )」
(メモ)謡曲「鵜飼」は、甲斐国の石和が舞台。その地謡に「面白の有樣や。底にも見ゆる篝火に。」、ここから芭蕉の「「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉」の名句が誕生したのかも知れない。この扇面画は「骨無し」で「景気(景色)」の場面か(?)

中 「柴舟と僧侶・女人図扇面」(骨あり、原典=「保元物語絵巻」)
→※能「通盛」(阿波国鳴門)→地謡「そもそも此一の谷と申すに。前は海。上は険しき鵯越。」→「我こひはほそ谷河のまろ木ばしふみかへされてぬるゝ袖かな」(平通盛) →「一の谷のいくさ破れ 討たれし平家の公達あわれ 暁寒き須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛」(文部省「唱歌」)
(メモ)文部省「唱歌」は敦盛の「青葉の笛」だが、謡曲「通盛」の地謡は、「そもそも此一の谷と申すに。前は海。上は険しき鵯越。」、この「通盛と小宰相」については、下記のアドレスが参考となる。「骨あり」で「人事(恋)の場面。

https://www.arc.ritsumei.ac.jp/opengadaiwiki/index.php/%E5%B0%8F%E5%AE%B0%E7%9B%B8

下 「重い柴を運ぶ牛と農夫図扇面」(骨なし、原典=「西行物語絵巻」「保元物語絵巻」)
→※能「唐船」(筑前国箱崎)→地謡「あれを見よ野飼いの牛の、声々に。野飼いの牛の、声々に。」→「君がため蓬が島もよりぬべし生薬とる住吉の浦」(藤原家隆)
(メモ)「牛と農夫図」は、「西行物語絵巻」にほんの少し出て来るが、そこから西行関連の和歌はなかなか思い浮かばない。ここは、異色の謡曲「唐船」の地謡「あれを見よ野飼いの牛の、声々に。野飼いの牛の、声々に。」、その関連での藤原家隆の歌が、「私撰・私歌集歌と謡曲(松田存稿)」で紹介されていた。この「扇面画」は「骨無し」で「景気(景色)」の場面。

四の二 (右隻の左二扇=上・下) =説明(メモ)

上 「伊勢物語第五段関守図扇面」(骨あり、原典=「異本伊勢物語絵巻」)
 →※『伊勢物語五段』(ひんがしの五条)→「人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ」
(メモ)「伊勢物語」と「能(謡曲)」との関連は、次のアドレスなどが参考となる。「骨有り」で「人事(恋)の場面。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/56/7/56_KJ00009652523/_pdf/-char/ja

下 「犬図扇面」(骨あり、原典=「六道人道不浄相図」「九想図絵巻」)
→※能「殺生石」(下野国那須野)→地謡「野干は犬に似たれば犬にて稽古。あるべしとて百日犬をぞ射たりける。これ犬追物の始めとかや。」
(メモ)この扇面画は難解である。『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文社)』では、「女性の死体が朽ち果て白骨になる経過がリアルに描かれている。『犬図』は女の死肉を食らう野犬がもとになっている」(P45)と、「晴れ」の「金屏風」の「犬図」にしては何とも凄まじい。せめて、謡曲「殺生石」地謡の「犬追物」の「犬」図か。本来、「骨有り」(上図)だが、下の扇面画は「骨無し」で、「景気(景色)」の場面に「見立て」替えしている。

犬図.jpg

五 (左隻の「右三扇=上・中・下」と「左二扇=上・下」)=説明(メモ)

左隻.jpg

五の一 (左隻の右三扇=上・中・下) =説明(メモ)

上 「僧侶と輿図」(骨あり、原典=「保元物語絵巻」)
→※「伊勢物語九段」(駿河宇津)→「駿河なる宇津の山辺のうつゝにも夢にも人にあはぬなりけり」
(メモ) 『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文社)』の出典は「保元物語絵巻」だが、宗達に続く「光琳・抱一」らが好んで画題とした「宇津の山越え」(「伊勢物語九段」)でも可か。骨有りで「人事(恋)の場面。

中 「曳き舟図扇面」(骨あり、原典=「保元物語絵巻」
→※「伊勢物語九段」(武蔵・隅田川)→「名にしおはゞいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」
(メモ)ここも「曳き舟」と来ると、「伊勢物語九段」(武蔵・隅田川)が必須である。これもまた、骨有りで「人事(恋)」の場面が続く。

下 「伊勢物語第十一段東下り図扇面」(骨なし、原典=「異本伊勢物語絵巻」)
→※「伊勢物語十一段」(武蔵国入間)→「忘るなよほどは雲居になりぬるとも空ゆく月のめぐりあふまで」
(メモ) 「伊勢物語九段」(東下り)の場面の後の「伊勢物語第十一段」(空行く月)、「骨無し」の「景気(景色)」の場面で、「月」の定座の月が輝いている。


五の二 (左隻の左三扇=上・中・下) =説明(メモ)

上 「田家早春図扇面」=(骨あり、原典=「執金剛神縁起」)
→※能「桜川」(常陸国桜川)→「常よりも春べになれば桜花波の花こそ間なく寄すらめ」

田家早春図.jpg

(メモ) 『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文社)』では、「桜が咲き、鄙びた山里に、また春がめぐってくる。多くの人を魅了した名品。流水を描く柔らかな線描は、宗達の特徴だ。流水と桜は、無常の表象」(P30)と紹介されている。そして、『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』では謡曲「桜川」との関連を指摘している(P89)。
 謡曲「桜川」の舞台は、「常陸国桜川」、そのストーリーなどは、次のアドレスが参考となる。そこに出てくる紀貫之の「常よりも春べになれば桜花波の花こそ間なく寄すらめ」(「後撰和歌集」)は、「連歌・俳諧」の「桜花」(晩春)と「波の花」(晩冬)と、「季語」的な働きは、「春べになれば櫻花」の晩冬の「桜花」で、「波の花」は比喩的な用例として鑑賞することになる。
 それらに関連することなのかどうか、新日本古典文学大系六『後撰和歌集』巻三・春下(片桐洋一校注、岩波書店)では、「常よりも春べになればさくら河花の浪こそ間なく寄すらめ」の「花の浪」が採られている。
 因みに、芭蕉の二十五歳時の、寛文八年(一一六八)の句に、「浪の花と雪もや水に返り花」(「浪の花」=晩冬、「雪」=晩冬、「返り花」=初冬)と、これは、明らかに、謡曲「桜川」の「浪の花」に由来のある、若き日の芭蕉の問題提起的な実験句的な作と解したい。          
 この「田家早春図扇面」も、本来は「骨有り」だが、上記は「骨無し」の図で、これまた、問題提起的に、「景気(景色)」、そして、「花の定座」の場面ということになる。

http://sybrma.sakura.ne.jp/56youkyoku.sakuragawa.html

【シテ「桜花、散りにし風の名残(なごり)には、」
地謡「水なき空に、波ぞ立つ。」
 シテ「思ひも深き花の雪、」
地謡「散るは涙の、川やらん。」

地謡「常よりも、春べになれば桜川、春べになれば桜川、
波の花こそ間(ま)なく寄すらめ
と詠みたれば
花の雪も貫之も
古き名のみ
残る世の、
桜川、
瀬々(せぜ)の白波繁ければ、霞うながす、
信太(しだ)の浮島の浮かめ浮かめ水の花
げに面白き河瀬(かわせ)かな
げに面白き河瀬かな。」            】

中 「伊勢物語第九段富士山図」(骨なし、原典=「異本伊勢物語絵巻」)
→※「伊勢物語九段」(駿河・富士)→「時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ」
(メモ)この『伊勢物語』の歌も「鹿の子」(三夏)と「雪」(晩冬)と、「連歌・俳諧」の「季の歌・季の句」としては、どちらを採るかは問題にされるのだが、この歌は「鹿の子模様の斑雪を頂いた富士の嶺」として、「斑雪」(三春)の歌として鑑賞されるのかも知れない。この歌を念頭においての芭蕉の「灌仏の日に生まれあふ鹿の子哉」(「笈の小文」)の句がある。この「鹿の子」は「灌仏の日」(仏生会、旧暦の四月八日、釈尊の誕生の日の法会)の日と特定している。「骨無し」の景気(景色)」の場面。

下 「重い荷車を曳き、河を渡る牛図扇面」(骨あり、原典=「保元物語絵巻」)
  →※能「唐船」(筑前国箱崎)→地謡「いざや家路に帰らん。いざや家路に帰らん。」
(メモ) 地謡の「いざや家路に帰らん。いざや家路に帰らん。」に着眼すると、ここは、蕪村の「花に暮れぬ我が住む京に帰去来(かへりらむ)」(『蕪村遺稿』)となるが、やはり、芭蕉
の「牛部屋に蚊の声よはし秋の風」(『星合集』)の発句と、それを発句とする俳諧(歌仙)の流れが収まりが良い。

 (表の六句)
牛部屋に蚊の声よはし秋の風(芭蕉) → 骨無し=景気、秋の風
 下桶(び)の上に葡萄重なる(露通) → 骨無し=景気、葡萄
酒しぼる雫ながらに月暮れて(史邦) → 骨無し=景気、月(引き上げ)
 扇四五本書きなぐりけり(丈草)  → 骨有り=人情、無
呉竹に置きなをしたる涼床(去来)  → 骨有り=人情、涼床
 蓮の巻葉の解けかゝる頃(野童)  → 骨無し=景気、蓮の巻葉(浮葉) 

(追記一) 宗達の「扇面貼付屏風」など   

①醍醐寺三宝院本 ― 扇面貼付屏風    二曲一双 十一面
②御物本     ― 扇面貼付屏風    八曲一双 四十八面
③フーリア美術館本― 扇面散らし貼付屏風 六曲一隻 三十面
④大倉集古館本  ― 扇面流し図屏風   六曲一双 四十面

(追記二)  宗達に関する「文献史料」など

①西行物語絵巻の烏丸光広筆奥書
②一条兼遐書状
③宗達自筆書状
④千少庵書状
➄『中院通村日記』
⑥仮名草子『竹斎』の一節
⑦菅原氏松田本阿弥家図

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yahantei

 宗達とその一門が、当時、どれほどの「扇面画」を描いたのか、「あふぎ(扇)は都たわらや(俵屋)がひかるげんじ(光源氏)のゆふがほ(夕顔)のまき(巻)えぐ(絵具)をあかせ(飽かせ=贅沢に)てかいたりけり」(『竹斎・守髄憲治校訂・岩波文庫』p28)と、それを業として制作しているとなると、これは膨大なものなのであろう。
 そして、その扇面画を屏風などに貼付して、生活用品の一つとして、身近に置いて楽しむなどということは、当時の建物との関連や、その生活様式との関連で、永い歴史的な変遷が背後に横たわっていることだろう。
 その扇面画の原典が、「源氏物語」や「伊勢物語」、そして、「保元物語」「平家物語」等々と、これまた結びついていて、その原典の一部は、禁中の貴重品などもあるとすると、宗達周辺というのは、当時の上層公家衆等々とのネットワークの中で考慮されるべきものなのであろう。そして、「烏丸光広・中院通村・一条兼遐」など、後水尾天皇の側近中の側近との繋がりを見ていくと、「光悦・素庵」の「本阿弥家・角倉家」に匹敵する「俵屋家」(蓮池家、そして、その菩提寺の「頂妙寺」)という、そういう視点から見ていく必要があるかも知れない。
 そして、「光悦と能」、「光広と能」との関連を見ていくと、「宗達と能」との関連も、これは等閑視することは出来ないであろう。
 この宗達らの次の時代の「芭蕉・蕪村」も、無類の「能・謡曲狂い」であった。ついつい、本来、触れるべきではないようなことにまで、触手を伸ばしてしまった。
by yahantei (2021-02-01 14:59) 

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