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醍醐寺などでの宗達(その三・「醍醐寺の装飾画」) [宗達と光広]

その三 「舞樂図屏風〈俵屋宗達筆〉」周辺

舞樂図屏風.jpg

「金地著色舞楽図〈宗達筆/二曲一双屏風〉」(重要文化財) 紙本金地着色 各 一九〇・〇×一五五・〇㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青」朱文円印 醍醐寺三宝院
https://www.daigoji.or.jp/about/cultural_asset.html

 下記のアドレスの「宗達筆『舞楽図屏風』の制作背景(本田光子稿)」を足掛かりにして、その周辺を見ていきたい。

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~artist/gakkai2008/presentation/presentation12.pdf

【 宗達筆「舞楽図屏風」(醍醐寺蔵)の先行研究は、辻惟雄氏による舞楽図の包括的な系譜研究のほか構図の分析等が進められ、しばしば同時代の舞楽図屏風との造形上の比較を通して、宗達の独自性や伝統に対する自由な態度について言及されてきた。近年、五十嵐公一氏の紹介により同寺に伝来した「源氏物語関屋及澪標図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵)が醍醐寺座主覚定(1607-61)の注文による寛永 8 年(1631)の完成であることがほぼ確定し、醍醐寺と宗達の密接なつながりが立証されたことで、改めて宗達作品をめぐる人的ネットワークが注目されるようになった。
本発表では、これまであまり論じられてこなかった宗達筆本舞楽図屏風の制作背景について、近世初頭の醍醐寺における伝統儀式の再興という面から、特に覚定の師である前座主義演(1558-1626)とのつながりを検討する。
 近世初頭は京と江戸及び日光を軸に、朝廷と幕府を中心とした大規模な舞楽復興の動きがあり、このことは主に狩野家により多数描かれた舞楽図屏風の制作背景としても重要である。さらに醍醐寺においては中興の祖、義演が伽藍の再建や聖教・寺伝類の整理編集に加えて伝統儀式の復活に取り組んだことが注目される。
 そこで『桜会類聚』、『義演准后日記』の記述を見ると、義演が桜会という童舞を伴い桜花爛漫の季節に行われる中世以来の伝統的な法会を再興させようとしていたことが判明する。つまり同時代の王朝文化復興の機運の中でも、醍醐寺と舞楽の間には固有のつながりが見出され、宗達筆本の注文の背景として考慮され得るだろう。
 ただし法橋の落款や作品の様式からは義演没年(寛永 3 年〈1626〉)より遡る制作とは考えにくく、実際の制作と復興運動との関係については踏み込んだ検討が必要となる。その点について考証すると、『桜会類聚』はもと義演が憧憬を寄せた醍醐寺座主満済(1378-1435)が桜会の復興を期して書写させたものを、後世に義演が類聚したものである。義演は「満済像」(醍醐寺蔵)に裏書を記しているが、満済像の姿を踏襲した「義演像」(同)の裏書には、無量寿院の門跡堯円が、義演の没した翌年に後継の覚定が同像の開眼供養を行った旨を記している。無量寿院には、宗達筆「芦鴨図衝立」(同)が壁貼付として伝承したとされる。 
 ここに満済、義演、堯円と覚定という人物の縦のつながりが見出せ、よって義演の没後に周辺の人物がその意思を継承し、追慕の意を込め描かせたとする解釈が可能となる。
 以上のことから、宗達筆本成立の背景には醍醐寺における義演の古儀復興が一因としてあり、具体的な注文主としては次世代の覚定、堯円の蓋然性が高いと思われる。松に寄り添う影のように描かれた桜樹に桜と縁の深い醍醐寺の象徴をみるとともに、さらに造形を通して舞楽図の系譜における本作品の位置付けや、宗達作品の特質を再考する一歩としたい。】

舞樂図右隻.jpg

「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)右隻(右上に「法橋宗達」の落款と「対青」朱文円印)

「右隻右扇」→「採桑老(さいそうろう・さいしょうろう)」=雅楽。唐楽。盤渉(ばんしき)調で古楽の中曲。舞は一人舞で、老翁の面をつけ、鳩杖(はとづえ)をついて、歩行も耐えがたい姿で舞う。
「右隻左扇」→「納曾利(なそり)」=雅楽。高麗楽(こまがく)。高麗壱越(こまいちこつ)調の小曲。舞は二人の走り舞で、一人で舞うときは落蹲(らくそん)という。番舞(つがいまい)は蘭陵王(らんりょうおう)。双竜舞(そうりゅうのまい)。

舞樂図左隻.jpg

「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)左隻(左下に「法橋宗達」の落款)

「左隻右扇」→(上)=「還城楽」(げんじょうらく)=雅楽の舞曲。唐楽。太食(たいしき)調で、古楽。舞は一人による走舞(はしりまい)。怪奇な面をつけ、桴(ばち)を持ち、作り物の蛇を捕らえて勇壮に舞う。一説に、西域の人が好物の蛇を見つけて喜ぶさまを写したものという。番舞(つがいまい)は抜頭(ばとう)など。見蛇(げんじゃ)楽。還京楽。
→(下)=「蘭陵王」(らんりょうおう)=雅楽。唐楽。壱越(いちこつ)調で古楽の中曲。林邑(りんゆう)楽の一。舞は一人舞の走り舞。中国、北斉の蘭陵王が周軍を破る姿を写したものとされる。番舞(つがいまい)は納曽利(なそり)。羅陵王(らりょうおう)。陵王。
「左隻左扇」→「崑崙八仙」(こんろんはっせん)=《崑崙(こんろん)山の八仙人の意》=雅楽。高麗楽(こまがく)。高麗壱越(いちこつ)調の小曲。舞は四人舞で、鶴が舞い遊ぶ姿を表す。崑崙八仙。ころはせ。くろはせ。鶴舞。

奉納舞.jpg

醍醐寺の「桜会中日恵印法要」(「羅陵王」?)
https://www.daigoji.or.jp/events/events_detail2.html

 慶長三年(一五九八)、豊臣秀吉は、その六十三年の生涯を閉じる。その最期の年に敢行した「醍醐の花見」は、今に続く、「豊太閤花見行列」(四月第二日曜日・全山)として醍醐寺の年中行事の一つとなっている。
 この年、光悦、四十一歳、宗達、三十一歳、素庵、二十八歳、そして、光広が二十歳の頃で、「烏丸光広と俵屋宗達・関係略年譜」(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館)』所収)では、「八月、細川幽斎に師事す。この年より『耳底記』の記事始まり同七年まで続く」とある。
 この「醍醐の花見」の所管で且つその総指揮を秀吉より命ぜられたのは、当時の京都所司代の「前田玄以」で、前田利家(二代利長、三代利常等)や古田織部と親交のあった光悦や、当時の後陽成天皇の側近中の側近であった光広(天皇と同年齢)は、直接か間接かを問わず、この秀吉の最期を飾る一世一代のイベントと全くの無関係ということは有り得ないことであったろう。
 そして、この前田玄以は、当時の御所に隣接していた、宗達の本家筋とされる蓮池家の菩提寺である日蓮宗「頂妙寺」の扁額(豊臣秀吉による宗門布教の許状の扁額=前田玄以署名)に、その名が刻まれているということに関連させると、これまた、全くの無関係ということではなかったことであろう。
 その醍醐寺の「醍醐の花見」は、その一環として「桜会中日恵印法要」(金堂)があり、その法要には、宮廷などに伝わる「舞樂」(雅楽を伴奏として演じる舞踊)が演じられる。宗達の描いた「舞樂図屏風」は、この「桜会(さくらえ)」に関連するものをモチーフにしているが、その醍醐寺の「桜会中日恵印法要」の「舞樂図」の、その「採桑老(さいそうろう)」「納曾利(なそり)」「還城楽(げんじょうらく)」「羅陵王(らりょうおう)」「崑崙八仙(こんろんはっせん)」を直接的に描いたものではない。
 これらは、別々に演じられるもので、宗達のこの「舞樂図」は、右から「採桑老(さいそうろう)」(一人舞)、「納曾利(なそり)」(二人舞)、「還城楽」(げんじょうらく)と羅陵王(らりょうおう)」(番舞=セットでの上演)、そして「「崑崙八仙(こんろんはっせん)」(四人舞)
を、同一画面に、あたかも競演しているかのように描いている。
 この「舞楽図」の典拠になっているものとして、日光・輪王寺所蔵の金地著色「舞樂図屏風」(六曲一双)などが挙げられ、それを宗達風にアレンジして仕上げている。その輪王寺本は、宗達の醍醐寺本よりも後に狩野派の絵師たちによって描かれたもののようであるが、その輪王寺本と同種の「舞楽図」の粉本などをモデルにして制作していることは、下記の輪王寺本の、それにの形姿を見比べて行くと明らかになってくる。

https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/000/406/52/N000/000/105/154191512425323911179_Panf_2.jpg

輪王寺右隻.jpg

「輪王寺・舞樂図屏風右隻」(「四扇」下段=「採桑老」)

 まず、宗達は、この輪王寺本(右隻)の「一扇・二扇」下段の「握舎」(幔幕)と「大太鼓と大鉦鼓」を、右隻の「一扇」の下段に描く。そして、その「大太鼓」の左側に、輪王寺本の「四扇」下段の白装束をまとった「採桑老」を、ほとんどそのままに描いている。そして、「二扇」の「納曽利」(二人舞)は、下記の「輪王寺・舞樂図屏風左隻」の「五扇・六扇」下段の緑の装束をまとった「納曽利」(二人舞)を、上と下とにバランスよく配置して描いている。

https://www.rinnoji.or.jp/activity/926-2/

輪王寺左隻.jpg

「輪王寺・舞樂図屏風左隻」(「一扇」下段=「還城楽」、「四扇」下段=「崑崙八仙」、「五扇」中段=「蘭陵王」、「五扇」下段と「六扇」下段=「納曾利」)

 次に、宗達は、左隻の「一扇」に、輪王寺本の「五扇」中段の「蘭陵王」と「一扇」下段=「還城楽」とを、「番舞」(二曲をセットにしての舞)にして描く。上に「還城楽」、下に「蘭陵王」である。その「還城楽」も「蘭陵王」も、お揃いのような赤装束を靡かせている。
 そして、その「二扇」に、輪王寺本の「四扇」下段の白装束の「崑崙八仙」を何と青い装束に着せ替えて輪舞しているように描いている。この「崑崙八仙」の実際の装束は、下記のアドレスの「崑崙八仙」のように、輪王寺本の「白装束」で演じられるのを、右隻「一扇」の「採桑老」の「白装束」を回避するように、ここでは「青装束」に改変して描いているということになる。

崑崙八仙.jpg

「崑崙八仙」(実際の装束)
http://kaz3275.sitemix.jp/gagaku/komagaku/kichi/kichi07.htm

 ここで、宗達は、この「醍醐寺」(「醍醐寺三宝院門跡」の依頼による制作)の、この「舞樂図屏風」(「二曲一双屏風」の四面に描かれた「舞樂図」)に、何をイメージ(心象風景=心に思い描いているイメージ)しているのかの、その一端について、思いつくままに記して置きたい。
その前提として、「光悦・宗達・素庵・光広」等の世界は、当時の「能・謡曲」との関連が一つのキイワードになるということで、ここでは、「舞樂図」の「採桑老・抜頭」の用語が出てくる、初番目物(脇能)の「難波」(世阿弥作)の、その詞章などを基本に据えたい。

http://www.syuneikai.net/naniwa.htm

http://www5.plala.or.jp/obara123/u1021nan.htm

(全体の主題=「難波」の最終場面の地謡=「万歳楽」=左舞で舞人は四人、まれには六人で襲装束を着けて舞う。祝賀の宴に用いられた。右舞の延喜楽と共に平舞の代表的なものである。)

【「入り日を招き返す手に。入り日を招き返す手に。今の太鼓は波なれば。寄りては打ち、返りては打つ。この音楽に引かれて。聖人御代にまた出で。天下を守り治むる。天下を守り治むる。万歳楽ぞめでたき。万歳楽ぞめでたき。」】

(右隻=右舞=朝鮮半島系の高麗楽を源流とする右方の舞=「豊太閤の醍醐の花見」)

【《前半の「ワキ=臣下」と「前シテ=老翁」→「「納曾利」》
ワキ「げにげに難波の梅の事。名木やらんと尋ねしは。愚かなりける問い事かな。
   然れば歌にも難波津に。咲くやこの花冬籠り。
   今は春べと咲くやこの。花の春冬かけてよめる」
   歌の心はいかなるぞ
シテ「それこそ君をそへ歌の。心詞は顕はれたれ。難波の御子は皇子ながら。
   未だ位につき給はねば。冬咲く梅の花の如し」
ワキ「御即位ありて難波の君の・位に備はり給いし時は
シテ「今こそ時の花の如し」
ワキ「天下の春を知ろし召せば
シテ「今は春べと咲くやこの
ワキ「花も盛りは大さざきの
シテ「帝を花にそえ歌の
ワキ「風も治まり
シテワキ「立つ波も
地謡「難波津に咲くやこの花冬ごもり。咲くやこの花冬ごもり。
今は春べに匂い来て。吹けども梅の風。枝を鳴らさぬ御代とかや。
げにや津の国の。難波の事に至るまで。豊かなる代の例こそ。
げに道広き治めなれげに道広き治めなれ            】

(左隻=左舞=中国の唐楽を源流とする左の舞=「パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」)

【《後半=中入後の「後シテ=王仁」と「地(ロンギ)=問答形式の地謡」→「還城楽」と「蘭陵王」そして「崑崙八仙」》

地(ロンギ)「あら面白の音楽や。時の調子にかたどりて。春鶯囀の楽をば
後シテ   「春風と諸共に。花を散らしてどうと打つ
地(ロンギ) 「秋風楽はいかにや
後シテ   「秋の風諸共に。波を響かしどうど打つ
地(ロンギ) 「万歳楽は
後シテ   「よろづうつ
地(ロンギ) 「青海波とは青海の
後シテ   「波立てうつは。採桑老
地(ロンギ) 「抜頭の曲は
後シテ   「かへり打つ
地謡    「入日を招き返す手に。入日を招き返す手に。今の太鼓は波なれば。
       よりてはうち、かへりてはうち。此の音楽に引かれつつ。
聖人御代にまた出で。天下を守り治むる。天下を守り治むる。
万歳楽ぞめでたき。万歳楽ぞめき。 】

(補足説明)

一 右隻(二曲)・右扇の右上に「法橋宗達」の落款と「対青」朱文円印が捺されている。そして、左隻(二曲)・左扇の左下には「法橋宗達」の落款が、両面の対角に配置されている。同様に、右隻右下に「大太鼓と握舎」が描かれ、そして、左隻左上には「常緑の『松』と満開の『桜』」とが、これまた、対角に配置されている。この右隻の「「大太鼓と握舎」とは、「室内」(「醍醐寺」の「室内」)を暗示し、左隻の「常緑の『松』と満開の『桜』」は「室外」(「醍醐寺」の室外)を暗示している。

二 この「二曲一双」の「右隻」と「左隻」とは、丁度、「舞樂」の「右舞」(高麗楽系の舞=原則として緑の装束)と「左舞」(唐樂系の舞=原則として赤の装束)との区別のように、「右隻」の世界と「左隻」の世界とは別の世界を示唆していて、それが「二曲一双」と合体すると、「番舞」(セットの舞)のように、連なった世界をも示唆している。これを「能樂」(能と謡曲)の世界ですると、例えば、「難波」(世阿弥作)ですると「前半」(「中入」の前)と「後半」(「中入」の後)の場面(世界)ということになる。

三 この「二曲一双」の「右隻」(前半)は、その「前半の一」(右扇)は「採桑老」(唐樂系)で「前半の二」(左扇)は「納曾利」(高麗楽景)で、全体の世界は「豊太閤の醍醐の花見」の場面と解したい。そして、この「採桑老」の形姿は、醍醐の花見時の「豊太閤秀吉」をイメージしてのものと解したい。これに続く「納曾利」(二人舞)は、「豊太閤秀吉」とその一粒種の「秀頼」とのイメージで、この「納曾利」は別名「落蹲(らくそん)」で「蹲(うずくま)」方の「納曾利」は「秀吉」のイメージである。この「納曾利」の二人舞の場面は、能楽「難波」ですると、次の詞章の場面である。

シテ「それこそ君をそへ歌の。心詞は顕はれたれ。難波の御子は皇子ながら。
   未だ位につき給はねば。冬咲く梅の花の如し」
ワキ「御即位ありて難波の君の・位に備はり給いし時は
シテ「今こそ時の花の如し」

四 続いて、「二曲一双」の「左隻」(後半)に入り、その右扇(後半の一)は「還城楽」(唐樂系)と「羅陵王」(唐樂系)の「番舞」で、さらに、この「羅陵王」は「右隻」(前半の二)の「納曾利」と「番舞」として上演されるのが常である。「還城楽」も「羅陵王」も赤装束で、どちらも勇壮華麗な「走舞」で、緑装束の「右隻」の「走舞」の「納曾利」と著しい対称を為す。この「納曾利」から「「還城楽」と「羅陵王」への転換は、当時の「関ヶ原合戦」(慶長五年=一六〇〇)、「徳川家康征夷大将軍叙任」(慶長八年=一六〇三)、「大阪夏の陣」(慶長十九年=一六一四)、そして「大阪夏の陣」(慶長二十年・元和元年=一六一五)による「豊臣家滅亡」を示唆しているように思えてくる。この場面は、能楽の「難波」では、次の詞章の場面ということになる。

地(ロンギ)「あら面白の音楽や。時の調子にかたどりて。春鶯囀の楽をば
後シテ   「春風と諸共に。花を散らしてどうと打つ
地(ロンギ) 「秋風楽はいかにや
後シテ   「秋の風諸共に。波を響かしどうど打つ

五 これに続いて、「左隻」の「左扇」(後半の二)は「崑崙八仙」(高麗樂系)の「鶴の舞」である。この「鶴の舞」の「崑崙八仙」は、本来は「鶴」を象徴する「白装束」であるが、ここを「白装束」にすると、「右隻」の「右扇」の「豊太閤」を形姿している「白装束」の「採桑老」のイメージと重なり、「豊臣家」の「万歳楽」の「崑崙八仙」のイメージを避けて、「白(装束)」でもなく、「緑(装束)」でも「赤(装束)」でもなく、何と「青(装束)」の「崑崙八仙」(鶴の舞)を、宗達は描いている。即ち、宗達は、「豊太閤の醍醐の花見」の後の、それに続く、「パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」の、この「青装束」の「崑崙八仙」(鶴の舞)に託したものと解したい。
 そして、それを示唆するのが、左隻の「左扇」の上部の「常緑の『松』と満開の『桜』」
で、「桜(豊臣家)は散り、「松」(徳川家)は常緑を保つ」ということになる。そして、それは、能楽の「難波」では、次の詞章の場面ということになる。

地(ロンギ) 「万歳楽は
後シテ   「よろづうつ
地(ロンギ) 「青海波とは青海の
後シテ   「波立てうつは。採桑老
地(ロンギ) 「抜頭の曲は
後シテ   「かへり打つ
地謡    「入日を招き返す手に。入日を招き返す手に。今の太鼓は波なれば。
       よりてはうち、かへりてはうち。此の音楽に引かれつつ。
聖人御代にまた出で。天下を守り治むる。天下を守り治むる。
万歳楽ぞめでたき。万歳楽ぞめき。

(追記メモ:その一) 「採桑老」周辺

https://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php/%E6%8E%A1%E6%A1%91%E8%80%81

『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文社)』では、「採桑老」の詠詞「『三十情方盛、四十気力微、五十至衰老、六十行歩宜、七十懸杖立、八十座魏々、九十得重病、百歳死無疑』を主題とするとし、宗達の二曲一双「舞楽図屏風」について、次のように、左から右への、「時間の推移」を提示する。

① 青色の崑崙八仙の「少年期」
② 赤色の羅陵王と還城楽の「青年期」
③ 緑色の納曾利の「壮年期」
④ 白色の採桑老の「老年期」

 その上で、次のような見解を提示している。

【 装束の色彩は、①青色 ②赤色 ③緑色 ④白色、と変わる。舞人の動きと色彩の変化によって、人の一生の段階を表す。画面左隅に描かれた満開の桜と常盤の松の楼樹は無常を象徴し「生と死の輪廻」を暗示する。醍醐寺本『舞楽図屏風』の主題は、「老いの坂図」と同じで、いのちのはかなさ、無常を表したものだ。華やいだ舞楽のうちにも、「死」は忍び寄る。本図は、『田家早春図扇面』『犬図扇面』と同じ主題である。 】


(追記メモ:その二) 宗達の「署名・印章」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-27

【 ここで、宗達の落款の「署名」と「印章」について触れたい。宗達の落款における署名は、次の二種類のみである(『日本美術絵画全集第一四巻 俵屋宗達(源豊宗・橋本綾子著)』所収「俵屋宗達(源豊宗稿))。

A 法橋宗達
B 宗達法橋

 宗達の法橋叙位は、元和七年(一六二一)、京都養源院再建に伴う、その障壁画(松図襖十二面、杉戸絵四面・八図)を制作した頃とされており(『源・橋本前掲書』所収「俵屋宗達年表」)、上記の二種類の署名は、それ以降のものということになる。
 その款印は、次の三種類のものである。

a 対青  (朱文円印 直径六・四㎝)
b 対青軒 (朱文円印 直径七・六㎝)
c 伊年  (朱文円印 直径四・九㎝)

 このcの「伊年」印は、宗達の法橋叙位以前の慶長時代にも使われており、これは、「俵屋工房(画房)」を表象する「工房(画房)」印と理解されており、その「工房(画房)」主(リーダー)たる宗達が、集団で制作した作品と、さらには、宗達個人が制作した作品とを峻別せずに、押印したものと一般的に理解されている(『源・橋本前掲書』)。
 そして、宗達が没して、その後継者の、法橋位を受け継いだ「宗雪」は、このcの「伊年」印を承継し、寛永十四年(一六三七)前後に製作した堺の養寿寺の杉戸絵の「楓に鹿」「竹に虎」図に、このcの「伊年」印が使われているという。また、宗達没後、宗雪以外の「宗達工房(画房)」の画人の何人かは、cの「伊年」印以外の「伊年」印を使用することが許容され、その種の使用例も見られるという(『源・橋本前掲書』)。
 ここで、その「伊年」印は除外しての、落款形式別の作例は、次のとおりとなる(『源・橋本前掲書』に※『宗達の水墨画(徳川義恭著)』口絵図を加える)。

一 A・a形式(法橋宗達・「対青」印)
作例「松島図屏風」(フーリア美術館蔵)
  「舞樂図屏風」(醍醐寺三宝院蔵)
  「槇図屏風」(山川美術財団旧蔵・現石川県立美術館蔵)
http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/collection/index.php?app=shiryo&mode=detail&data_id=1278
  「雙竜図屏風(雲龍図屏風)」(フーリア美術館蔵)  

二 A・b形式(法橋宗達・「対青軒」印)
作例「源氏物語澪標関屋図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵) 
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html
※「鴛鴦図一」(個人蔵)

三 B・b形式(宗達法橋・「対青軒」印)
作例「関屋図屏風」(烏丸光広賛 現東京国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/459227
  「牛図」(頂妙寺蔵・烏丸光広賛)
  「鳥窠和尚像」(クリーヴランド美術館蔵) 
※「牡丹図」(東京国立博物館蔵)
※「鴛鴦図二」(個人蔵)
※「兎」図(東京国立博物館蔵)
※「狗子」図)
※「鴨」図) 】
タグ:装飾画
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yahantei

 前回の「醍醐寺の扇面画」に続き、今回の「舞樂図屏風」についても、「能楽」との視点を基本に据えたが、「雅楽」「能楽」など、知らない用語が目白押しだった。しかし、それらの用語は、何処かで、これまでにも遭遇しているもので、それらを丹念にネット情報で繋いて行くと、今まで以上に、「和歌・連歌・俳諧・絵画」等々の世界と密接不可分に結びついていることに、いまさらながらに驚愕した。
 宗達の「舞楽図屏風」と世阿弥の「難波」とは、当初、それほど関連はしたいないと思っていたのだが、「難波」の二部構成の進行を見て、俄然、「二曲一双」の屏風形式との関連が浮かび上がってきた。
 それにしても、「採桑老」も「崑崙八仙」も、その周辺というのは、色々な新たな問題を提示してくる。
 「扇面散屏風」→「舞樂図屏風」と来ると、今度は、「関屋・澪標図屏風」の「源氏物語」が道筋だが、これは、「水墨画」「装飾画」から「大和絵」への世界と、これまた険しい感じがする。
by yahantei (2021-02-06 17:17) 

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