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「津田青楓」管見(その六) [東洋城・豊隆・青楓]

その六「大正六年(一九一七)『ホトトギス』(虚子)と画家達」周辺

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「『ホトトギス』の表紙を飾った画家達そして津田青楓」(「大正六年『ホトトギス発行所』の招待により参集した画家達」)(「自撰年譜(津田青楓著)」)
[「ホトトギス発行所(虚子・島田青峯ら三人)」(上段)と「招待された画家達(下段「青峯の右から時計回りに『橋口五葉→平福百穂→津田青峯→石井柏亭→斎藤與里→川端龍子』」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1905748/1/5

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橋口五葉画「森」(第16巻第1号/ 大正元年(1912)10月)
http://www.hototogisu.co.jp/
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6467/

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[ 橋口五葉(はしぐちごよう)/ 明治14年(1881)12月21日 〜 大正10年(1921)2月24日

版画家、装幀家。日本画を橋本雅邦に学ぶが、黒田清輝の勧めで洋画に転じ、明治38(1905)年東京美術校西洋画科卒。在学中、白馬会に洋画を出品する。夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』で装幀家として注目され、以降、多数の文学作品の装幀を手掛けた。44年三越呉服店のポスター公募で当選した「此美人」が好評を博す。浮世絵研究でも知られ、歌川広重や喜多川歌麿を中心に多くの論稿を発表した。大正4(1915)年、版元渡辺版画店から「浴場の女」を発表し、以降は亡くなるまで木版画に取り組んだ。](「近代人の肖像(国立国会図書館)」)

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平福百穂画「舞妓」(第16巻第4号/大正2年(1913)1月)
http://www.hototogisu.co.jp/
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E7%A6%8F%E7%99%BE%E7%A9%82-14824

[平福百穂(ひらふくひゃくすい)/1877年(明治10年)12月28日 - 1933年(昭和8年)10月30日)
日本画家。四条派の画家平福穂庵(すいあん)の四男として秋田県角館(かくのだて)(現仙北市)に生まれる。本名貞蔵。初め父について絵を習うが13歳で死別。1894年(明治27)上京して川端玉章(ぎょくしょう)の塾に入り、97年東京美術学校日本画科に編入学し、2年で卒業した。『田舎(いなか)の嫁入』は卒業制作。川端塾で結城素明(ゆうきそめい)と親しくなり、1900年(明治33)素明ら6人の同志と自然主義を唱えて无声(むせい)会を結成した。03年から翌年にかけて母校の西洋画科に通いデッサンを学んでいる。日常の情景を写実的にとらえた作品を无声会の展覧会に出品。このころ伊藤左千夫(さちお)、長塚節(たかし)、斎藤茂吉、岡麓(ふもと)らと知り合って短歌を始め、雑誌『アララギ』の表紙絵も描いた。
 1907年国民新聞社に入社。同僚に川端龍子(りゅうし)がいた。翌年石井柏亭(はくてい)の勧めで雑誌『方寸(ほうすん)』の編集同人になる。09年の第3回文展に『アイヌ』を出品、以後主として文展、帝展で活躍した。16年(大正5)素明、鏑木清方(かぶらききよかた)、吉川霊華(きっかわれいか)、松岡映丘(えいきゅう)と金鈴(きんれい)社を結成。翌年第11回文展で『予譲(よじょう)』が特選になる。自然主義から琳派(りんぱ)風の装飾的な構成への転換を示すが、晩年は南画の手法を加えて清明な画風に到達した。30年(昭和5)にヨーロッパを旅行。この年帝国美術院会員にあげられ、32年から東京美術学校教授を務めた。ほかに『七面鳥』『荒磯(ありそ)』『堅田(かたた)の一休(いっきゅう)』『小松山』などが代表作。歌集『寒竹』がある。(原田実稿)](「出典/小学館/日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)」)

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津田青楓画「花かご」(第16巻第2号/大正元年(1912)11月)
http://www.hototogisu.co.jp/
https://kotobank.jp/word/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E9%9D%92%E6%A5%93-19162#goog_rewarded

[津田青楓(つだせいふう)
 画家。京都生まれ。生家西川家から母方の養子となって津田姓を嗣(つ)ぐ。竹川友広、谷口香嶠(こうきょう)に日本画を学び、京都市立染織学校を経て、1899年(明治32)に浅井忠(ちゅう)の関西美術院に入る。京都高島屋図案部勤務ののち、1907年(明治40)から10年までパリに留学し、アカデミー・ジュリアンでジャン・ポール・ローランスに学ぶ。帰国後、夏目漱石(そうせき)に油絵を教え、14年(大正3)には二科会の創立に参加。翌15年、津田洋画塾を開いて京都画壇に一勢力をなした。その後しだいに左翼運動に近づき、31年(昭和6)の第18回二科展に『ブルジョワ議会と民衆の生活』を出品したが、33年の検挙後に転向して二科会を退会。以後はふたたび日本画に転じ、また良寛(りょうかん)研究に専念した。晩年は南画風の自由な作品に独特の情趣を示し、また絵画のほかにも、詩、書、短歌、装丁を手がけるなど、幅広い活動をみせた。(二階堂充稿) ](出典/小学館/日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)」)

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石井柏亭「落椿」(第16巻第5号/大正2年(1913)5月)
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https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6349/

[石井柏亭(いしいはくてい)/明治15年(1882)3月28日 〜 昭和33年(1958)12月29日

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 洋画家。父鼎湖に日本画を、浅井忠に洋画を学ぶ。明治34(1901)年自然主義を標榜する无声会、翌年太平洋画会に参加。37年東京美術学校(後の東京芸術大学)洋画科に入学するも、翌年中退した。40年森田恒友、山本鼎と雑誌『方寸』を創刊し、創作版画運動を先駆した。大正3(1914)年二科会の創立に参加。昭和10(1935)年帝国美術院会員となり、二科会を離れて同志と一水会を創立した。堅実な自然主義的な画風の作品を残し、水彩画の発達にも貢献した。代表作に「草上の小憩」等。彫刻家の石井鶴三は弟。](「近代人の肖像(国立国会図書館)」)

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斎藤與里「ダリア」(第15巻第11号/大正元年(1912)8月)
http://www.hototogisu.co.jp/
https://www.kazo-dmuseum.jp/06art/01artist/saitou.htm

[斎藤與里(さいとうより) (1885-1959)

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明治18年(1885)、現在の加須市下樋遣川に生まれました。同38年(1905)京都に出て、浅井忠、鹿子木孟郎に学び、同38年(1906)から2年間、鹿子木とともにパリに留学しました。帰国後は、文筆活動を積極的に行い雑誌『白樺』などでゴッホ、セザンヌ、ゴーギャンなどの後期印象派を初めて日本に紹介しました。大正元年(1912)、岸田劉生、高村光太郎らと「フュウザン会」という若手画家たちのグループを結成。その後、大阪美術学校の創立に参加。また、美術団体の槐樹社結成に参加し、機関誌『美術新論』の主幹として活躍しました。同社解散後は東光会を組織し会頭となるなど画家として、評論家として明治末から大正期の近代洋画の進展に大きな役割を果たしました。大正4年(1915)第9回文展に初出品した《朝》が初入選し、同5年(1916)第10回文展に出品した「収穫」 が文展最初の特選となり、昭和2年(1927)第8回帝展でも「水郷の夏」が特選となっています。昭和34年(1959)4月に加須市の名誉市民第1号に推挙されましたが、同年5月3日、74歳で世を去りました。 ](「加須インターネット博物館 埼玉県加須市教育委員会 生涯学習部 生涯学習課」)

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川端龍子画「品川の海」(第16巻第3号/大正元年(1912)12月)
http://www.hototogisu.co.jp/

[川端龍子(かわばたりゅうし、1885年〈明治18年〉6月6日 - 1966年〈昭和41年〉4月10日)は、日本画家、俳人。弟(異母弟)は『ホトトギス』の俳人川端茅舍(ぼうしゃ)であり、龍子も『ホトトギス』同人であった。本名は川端 昇太郎。

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(生涯)
 現在の和歌山県和歌山市で生まれる。幼少の頃、空に舞う色とりどりの鯉のぼりを見て、風にゆらめく圧倒的な鯉の躍動感に心引かれた龍子は、職人の下に通いつめると、その描き方を何度も真似をした。自分もこんな絵を描けるようになりたい、とこのとき思ったのが、画家龍子の原点であった。1895年(明治28年)、10歳の頃に家族とともに東京へ転居した。
 城東高等小学校から東京府立第一中学校入学。一中分校から発展して東京府立第三中学校が設立されたことで三中に移籍。府立三中在学中の1903年(明治36年)に読売新聞社が『明治三十年画史』を一般募集した際に龍子は30作品を応募した。このうち『西南戦争の熊本城』と『軍艦富士の廻航』の2点が入選し40円(1点20円)の賞金を得た。これが本格的に画家を志すきっかけとなった。
 画家としての龍子は、当初は白馬会絵画研究所および太平洋画会研究所に所属して洋画を描いていた。修善寺温泉で横山大観ら画家や俳人、歌人、文豪のパトロンになっていた新井旅館に籠って画作に励んで資金を蓄え、1913年(大正2年)に渡米した。西洋画を学び、それで身を立てようと思っていたが、憧れの地アメリカで待っていたのは厳しい現実であった。日本人が描いた西洋画など誰も見向きもしない。西洋画への道に行き詰まりを感じていた。失意の中、立ち寄ったボストン美術館にて鎌倉時代の絵巻物の名作『平治物語絵巻』を見て感動したことがきっかけとなり、帰国後、日本画に転向した。
 1915年(大正4年)、平福百穂らと「珊瑚会」を結成。同年、院展(再興日本美術院展)に初入選し、独学で日本画を習得した龍子は、4年という早さで1917年(大正6年)に近代日本画の巨匠横山大観率いる日本美術院同人となる。そして1921年(大正10年)に発表された作品『火生』は日本神話の英雄「ヤマトタケル」を描いた。赤い体を包むのは黄金の炎。命を宿したかのような動き、若き画家の野望がみなぎる、激しさに満ちた作品である。しかし、この絵が物議をかもした。当時の日本画壇では、個人が小さな空間で絵を鑑賞する「床の間芸術」と呼ばれるようなものが主流であった。繊細で優美な作品が持てはやされていた。龍子の激しい色使いと筆致は、粗暴で鑑賞に耐えないといわれた。
 その後、1928年(昭和3年)には院展同人を辞し、翌1929年(昭和4年)には、「床の間芸術」と一線を画した「会場芸術」としての日本画を主張して「青龍社」を旗揚げして独自の道を歩んだ。縦1m85cm・幅8m38㎝の大画面に展開する、鮮やかな群青の海と白い波との鮮烈なコンストラスト。激しくぶつかり合う水と水、波しぶき。壮大な水の世界を描いた『鳴門』は、当時の常識をくつがえす型破りな作品であった。その後も大作主義を標榜し、大画面の豪放な屏風画を得意とした。大正 - 昭和戦前の日本画壇においては異色の存在であった。
 1931年(昭和6年)に朝日文化賞受賞。 1935年(昭和10年)、帝国美術院(帝国芸術院の前身)の改革に伴い会員[2]、さらに1937年(昭和12年)には帝国芸術院会員となったが、1941年(昭和16年)に会員を辞任した。
 1937年(昭和12年)に『潮騒』を発表。幅14mの超大作で、岸壁の海岸、深い海の青が浅くなるにつれ、透明度の高い緑に変化していく様子を鮮やかに描いている。この作品で龍子の筆致は大きく変わった。岩に激しくぶつかる水、そこには輪郭線がない。想像だけで描いた『鳴門』と比較すると繊細な波の動きがよりリアルに表現されていることが分かる。新たな水の表現を獲得した龍子であった。
 1939年(昭和14年)、時世に応じて他の作家とともに陸軍美術協会に入会[3]。1941年(昭和16年)に太平洋戦争勃発。自由に絵を描くことが許されない中で、龍子は作品を発表し続けた。1944年(昭和19年)の『水雷神』で、水にすむ神々が持ち上げているのは魚雷であり、暗く深い海の底、その水は重く濁っている。龍子はこの神々に命を投げ出し、突き進む特攻隊員の姿を重ねた。
 龍子は戦前に長男と次女を亡くし、1941年(昭和16年)には弟の茅舎が病没。戦中は三男が戦地で亡くなり、1944年(昭和19年)7月17日に妻に先立たれた[1]。重々しい色使いは龍子の心情の表れかも知れない。
 終戦を翌々日に控えた1945年(昭和20年)8月13日には龍子の自宅も空襲に遭った。使用人2人が亡くなり、家屋のほか食糧難をしのぐため庭で育てていた野菜も被害を受けた。この後すぐ『爆弾散華』(2m49cm×1m88cm)を描き上げた。金箔や金色の砂子の背景にトマトが爆風でちぎれ飛ぶ様を描いたこの作品は、戦死者への追悼も込められているとみる解釈もある。また爆撃によりできた穴を「爆弾散華の池」として残した。
 第二次大戦後の1950年(昭和25年)、65歳になっていた龍子は妻と息子の供養のため、四国八十八ヵ所巡礼を始める。6年がかりで全札所を回り、各札所で淡彩のスケッチ(画家自らは「草描」と呼ぶ)を残した。これらは、札所で詠んだ俳句とともに画文集『四国遍路』として出版されている。
 1959年(昭和34年)、文化勲章受章。没年の1966年(昭和41年)には、居宅に近い東京都大田区の池上本門寺大堂天井画として奉納すべく『龍』を描いたが未完のまま死去。墓所は、弟の茅舎とともに修善寺の裏手にある。渡米前に滞在した修善寺は気に入った場所で別荘も構え、その庭を描いた『龍子垣』という作品も残るほか、修善寺で苔むさせた東京の自宅に運ぶこともした。世話になった新井旅館の改装にも協力している。
 後日、遺族の相談を受け龍子の遺作を実見した日本画家の奥村土牛は作品を激賞。奥村が画龍点睛して開眼の上、作品は大堂に奉納された。 ](「ウィキペディア」)

(補記その一)「ホトトギス」記念号の表紙を飾った画家達(創刊号~1000号)

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「虚子記念文学館報(2021年4月第40号)
http://www.kyoshi.or.jp/j-eitopi/kanpo/040.pdf

創刊号(明治30年1月)→題字は「下村為山」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8B%E6%9D%91%20%E7%82%BA%E5%B1%B1-1646904
[ 下村為山(しもむらいざん)
生年・慶応1年5月21日(1865年)/没年・昭和24(1949)年7月10日/出生地・伊予国松山(愛媛県)/本名・下村 純孝/別名・別号=百歩,牛伴
経歴上京して洋画を小山正太郎に学び、不同舎塾の後輩に中村不折がいる。のち日本画を久保田米遷に学び、俳画に一家をなした。明治22年内国勧業博覧会で受賞。俳句は正岡子規に師事し、洋画写生の優越姓を不折に先立って子規に説いたと伝えられる。27年松山に日本派俳句会の松風会を興し、日本派の俳人として活躍、句風は子規に「精微」と評された。30年松山版「ホトトギス」創刊時に初号の題字を書いたといわれる。その後も東京発行の「ホトトギス」や「新俳句」に表紙・挿画などを寄せ、同派に貢献した。句は「俳句二葉集」「春夏秋冬」などに見られる。](「日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)」)

100号(明治38年4月)→表紙画「橋口五葉」→ 上記に紹介
200号(大正2年5月)→ 同  「小川千甕」
https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/ogawasenyou/
[ 小川千甕(おがわせんよう/1882〜1971)
明治末期から昭和期までの長きにわたって、仏画師・洋画家・漫画家・日本画家として活躍しました。京都の書肆「柳枝軒」の家に生まれた千甕は、少年時代は仏画を描いていました。その後、浅井忠に洋画を学ぶ一方で、新感覚の日本画も発表し始めます。同じ頃、京都市立陶磁器試験場の絵付け技手となったことをきっかけに「千甕」(せんよう)の雅号を自ら名付けますが、俳画や挿絵の画家としては「ちかめ」の名でも親しまれていました。明治末、28歳で東京へ越し、『ホトトギス』などに挿絵、漫画を発表して人気を博します。さらに1913年(大正2)には渡欧し、印象派の巨匠ルノワールにも会っています。帰国後は日本美術院に出品し、本格的な日本画家として活躍しました。その後、少年時代に憧れた富岡鉄斎を思わせるダイナミックな筆遣いの南画(文人画)で愛されました。](「京都文化博物館」)

300号(大正10年9月)→表紙画「津田青楓」→ 上記と下記のアドレスで紹介
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

400号(昭和4年12月)→表紙画「石井柏亭」→ 上記に紹介
500号(昭和13年4月)→ 同 「小川芋銭」 
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E8%8A%8B%E9%8A%AD-17715
[ 小川芋銭 (おがわうせん)/生没年:1868-1938(明治1-昭和13)
日本画家。東京赤坂の牛久藩邸に生まれたが,牛久村(現,茨城県牛久市)に帰農。幼名不動太郎のち茂吉。別号牛里,草汁庵,芋銭子など。1880年ころ上京,働きながら,本多錦吉郎の画塾彰技堂で洋画を学び,のち日本画を独修した。91年,《朝野新聞》に第1回帝国議会のスケッチが掲載され,93年牛久に帰り農業に従事しながら,《茨城日報》や《いはらき》など,郷里のジャーナリズムに田園風刺漫画を掲載しはじめる。1903年ころ幸徳秋水を知り,《平民新聞》に風刺漫画を発表。08年以降《草汁漫画》の刊行,鹿島桜巷編《漫画百種》,《漫画春秋》,《ホトトギス》などに多くの漫画や挿絵を執筆し,風刺漫画家,河童(かつぱ)の画家としてしだいにその名を知られるようになった。15年,平福百穂,山村耕花,森田恒友,川端竜子らとともに珊瑚会を結成してからは,牛久沼をめぐる水魅,河童などの精霊たちを主題とする田園の幻想を水墨表現に託した作品を発表。《水虎とその眷族(けんぞく)》や《夕風》《狐の嫁入》などは,百穂,恒友,小杉放庵(未醒)などの新しい水墨表現と並んで,彼が近代文人画表現というべき新しい画境を開拓したことを示している。17年から日本美術院同人となる。晩年に《河童百図》がある。](株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)

600号(昭和21年12月)→表紙画「石井柏亭」→ 上記に紹介
700号(昭和30年4月)→ 同  「川端龍子」→ 上記に紹介  
800号(昭和38年8月)→ 同  「川端龍子」→ 上記に紹介
900号(昭和46年12月)→ 同  「小倉游亀」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E5%80%89%E9%81%8A%E4%BA%80-17748
[ 小倉遊亀(おぐらゆき)/(1895―2000)
本画家。旧姓溝上(みぞがみ)。滋賀県大津に生まれる。1917年(大正6)奈良女子高等師範学校国語漢文部を卒業後、しばらく教壇に立ったのち、安田靫彦(ゆきひこ)に師事する。1926年第13回院展に『胡瓜(きゅうり)』が初入選、1928年(昭和3)に日本美術院院友、1932年同人に推された。1938年小倉鉄樹と結婚したが1944年に死別した。古典を基礎に、大胆でおおらかな構成と、さわやかな情感がにじむ画風を築いて今日に至っている。初期では『浴女』、第二次世界大戦後では『O夫人坐像(ざぞう)』『月』『良夜』『越(コー)ちゃんの休日』『舞妓(まいこ)』『姉妹』などがよく知られている。1976年(昭和51)女性では上村松園(うえむらしょうえん)に次いで日本芸術院会員に推された。1980年に文化勲章を受章。1990~1996年日本美術院理事長。晩年、一時体調を崩したものの、105歳で亡くなるまで制作を続けた。](「小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」)

1000号(昭和55年4月)→ 表紙画「小倉游亀」→ 上記に紹介

「補記その二」「津田青楓の従軍体験」周辺

http://www.hototogisu.co.jp/

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「ホトトギス」(第8巻第8号/明治37年10月)目次

※ 明治37年(1904)2月10日、日露両国は相互に宣戦布告し、日露戦争の火ぶたが切られた。津田青楓(二十四歳)の時で、戦時招集令により後備歩兵第三十八連隊に入隊となる。八月、旅順総攻撃に参加、以後、海鼠山、東鶏冠山、二〇三高地と転戦する。この時の従軍記録の一部が、「ホトトギス(第8巻第8号/明治37年10月)」に、「戦争に関する写生文(其三「敵襲」)」(上記の「目次」のとおり)として掲載される。青楓の「ホトトギス」でのデビューである。
 この時の「ホトトギス(第8巻第8号/明治37年10月)」(目次)に登場する面々は、「内藤鳴雪(五十七歳)・夏目漱石(三十七歳)・河東碧梧桐(三十一歳)・高浜虚子(三十歳)・松根東洋城(二十六歳)」(下記の「参考」) で、「連句(漱石・阪本四方太・虚子・東洋城・小沢碧堂)」・「俳体詩(漱石・虚子・野間奇瓢)」・「蕪村遺稿講義(鳴雪・碧悟桐・虚子)」など、「ホトトギス」の、「碧(碧悟桐)・虚(虚子)対立」以前の、子規亡き後の、漱石の「吾輩は猫である」が、「ホトトギス」(明治三十八年一月連載)に登場する、その一年前のことということになる。

(参考) 「明治三十七年・日露開戦勃発時の『漱石・虚子・青楓』周辺の人物像

内藤鳴雪 847年〜1926年(弘化4年〜大正15年) 57才
浅井 忠  1856年〜1907年(安政3年〜明治40年) 48才
夏目 漱石 1867年〜1916年(慶応3年〜大正5年) 37才
河東碧梧桐 1873年~1937年(明治6年〜昭和12年) 31才
高浜 虚子 1874年~1959年(明治7年〜昭和34年) 30才
長谷川如是閑 1875年〜1969年(明治8年〜昭和44年) 29才
松根東洋城  1878年〜1964年(明治11年〜昭和39年) 26才
寺田 寅彦 1878年〜1935年(明治11年〜昭和10年) 26才

津田 青楓   1880年〜1978年(明治13年〜昭和53年) 24才

石井 柏亭 1882年〜1958年(明治15年〜昭和33年) 22才
高村光太郎 1883年〜1956年(明治16年〜昭和31年) 21才
安倍 能成 1883年~1966年(明治16年~昭和41年) 21才
小宮 豊隆  1884年~1966年(明治17年〜昭和41年) 20才 
川端 龍子  1885年~1966年(明治18年~昭和41年〉 19才
山脇 敏子 1887年〜1960年(明治20年〜昭和35年) 17才
安井曾太郎 1888年~1955年(明治21年〜昭和30年) 16才
芥川龍之介 1892年〜1927年(明治25年〜昭和2年) 12才
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