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「津田青楓」管見(その五) [東洋城・豊隆・青楓]

その五「夏目漱石と十弟子そして津田青楓」』周辺

口絵スケッチ「漱石先生客間.jpg

『自撰年譜(津田青楓著)』所収「口絵スケッチ「漱石先生客間」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1905748/1/4
「九竹草堂絵日記(津田青楓画)」(1917年/紙本墨画淡彩/23.2×32.0/「笛吹市青楓美術館」蔵) (『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』)

[明治四十四年(一九一一)、三十二歳
六月、東京へ移転す。茅野氏(※茅野蕭々)より小宮豊隆への紹介状もらふ。豊隆氏の紹介にて漱石先生を訪ふ。その後漱石門下の野上臼川(※野上豊一郎)、森田草平、鈴木三重吉諸氏を知りて訪ふ。
 最初の住居を小石川区高田老松町に定む。家賃六円なにがしなりき。漱石先生ある日ここを訪問さる。薩摩上布に紗の袴をはかれたり。後木曜会に集まる弟子たちへ、「津田はひどい家に住んでゐるよ。」といはる。](『自撰年譜(津田青楓著)』)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

漱石山房と其弟子達A.jpg

「漱石山房と其弟子達」(津田青楓画)(制作年不詳/紙本墨画淡彩/33.0×45.8/「日本近代文学館」蔵) (『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』)
≪「上段の左から」→則天居士(夏目漱石)・寅彦(寺田寅彦)・能成(阿部能成)・式部官(松根東洋城)・野上(野上豊一郎)・三重吉(鈴木三重吉)・岩波(岩波茂雄)・桁平(赤木桁平)・百閒(内田百閒)
「下段の左から」→豊隆(小宮豊隆)・阿部次郎・森田草平/花瓶の傍の黒猫(『吾輩は猫である』の吾輩が、「苦沙弥」先生と「其門下生」を観察している。) ≫

[※大正七年(一九一八) 三十九歳
「俳画展」に「漱石と十弟子」と題する二曲屏風半双を為す。(この作品今小山店主の主の有也。) 画中の人物、安倍能成・寺田寅彦・鈴木三重吉・阿部次郎・小宮豊隆・森田草平・野上臼川・赤木桁平・岩波茂雄・松根東洋城の十氏なり。(『自撰年譜(津田青楓著)』)

「蕉門の十哲といふ絵を見たことがある。芭蕉のお弟子十人を蕪村が俳画風にかいたものなのだ。私は大正七年ある人の主催で現代俳画展なるものの催のあつたとき、慫慂されたので、蕪村にならつて漱石と十弟子を思ひついて、二曲屏風半双を描いて出陳した。
 それはいい工合に今度の空襲で灰になつてしまつた。当時は生存中の十人を一人々々写生し張りきつて描いた。それにもかかはらず後になつてみると随分未熟で見られなかつた。機を見てかき直しませうと、当時の持主に約束してゐたが、其の後戦争が勃発して持主の家も什器も焼けてしまつた。私は安心した。(後略) 」(『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』) ]

寺田寅彦スケッチ(津田青楓画).jpg

『寅彦と三重吉(津田青楓著)』所収「寺田寅彦スケッチ(津田青楓画)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1069464

[ 漱石のすぐ隣には寺田寅彦が背広で片膝を立ててそれをかかへている。画中の寺田さんは若い。「先生、そんなにもらうことが好きなら僕はゲンナマを持つてきませうか。」と小さな声でつぶやいて、ペロリと舌のさきを出し、嬉しそうに笑ふ。寺田さんの皮肉には漱石も一寸まゐることがある。](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

[ 私(※青楓)は漱石没後しばしば寺田さんの家へ出掛けて危機に瀕した家庭のことを訴へた。そして、この危機を打開する方法はその時の家内(※山脇敏子)と離婚するより他に方法がない。対処療法はいくら繰り返しも決着がつかない。思ひ切つて大手術をした方がいい。早ければ早い方がいい。そんなことを興奮して寺田さんに訴へた。寺田さんは冷静な態度で反対され、現状維持を主張された。 ](『春秋九十な五年(津田青楓著)』)

(再掲)  https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-17

渋柿(寺田寅彦追悼号の巻頭頁).jpg

「渋柿(寺田寅彦追悼号の巻頭頁)」(第262号、昭和11年2月)(『寺田寅彦全集第十二巻』)
[ありし日の寺田寅彦 /A ペンを措きて /B 心明るく /C 家居 /D 晴れたる野]

鈴木三重吉スケッチ(津田青楓画).jpg

『寅彦と三重吉(津田青楓著)』所収「鈴木三重吉スケッチ(津田青楓画)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1069464/1/4

[ 三重吉君(※鈴木三重吉)がその隣にフロックを着て、東洋城が片手をかざしてゐる火鉢の前に、両膝をかかへながら片手を火鉢の上に出してゐる。三重吉君らしい無作法さだ。三重吉とフロックは不似合のやうに思ふが、当時成田中学の先生に就任したてで、背広がないから誰かのものを借用に及んだか、或はもらつてきたものらしい。三重吉君は酔へば広島弁まるだしで、
「屁はショセン風ぢやけんの、へ理屈はヨセヤイ。」
 そんな調子で雲上人(※松根東洋城)でも貴族院議員(※安倍能成)でも誰でもやつつける。酔へば誰かに当たりちらさなきやおさまらない趣味なんだ。痛快なこともしばしば言つた。 ](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

漱石忌・昭和三十七年(一九六二).jpg

『老画家の一生(津田青楓著)』所収「漱石忌/昭和三十七年(一九六二)十二月/神樂坂署/p577」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/296
[前列向かって右から林原耕三、松岡譲、著者(※津田青楓)、安倍能成、松根東洋城、後列右から夏目純一、坂崎坦、野上彌生子・岩波雄二郎氏 ](『春秋九十五年(津田青楓著)』)

[ 昭和三十七年(一九六二) 八十三歳
十二月八日(土)、夕方漱石忌に行く。赤坂山王「山の茶屋」。参会者安倍(※安倍能成)、松根(※松根東洋城) 、松岡、松浦、坂崎、弥生子、岩波、純一君、余(※津田青楓)。松根君漱石の句碑を松山の滝のある山中に作つた話。碑面の自書の文字を見せる。
  漱石忌師走の街を横切りて
  十弟子は三弟子となり漱石忌  ]

※ この時、津田青楓、八十三歳、安倍能成、八十歳、松根東洋城、八十五歳の時で、東洋城は、この二年後に、そして、能成と小宮豊隆(この漱石忌は病床にあり欠席)は、四年後に亡くなる。

安倍能成君像.jpg

上左は、1955年(昭和30)に完成した安井曾太郎『安倍能成君像』。上右は、1953年(昭和28)7月に湯河原の旧・竹内栖鳳アトリエで制作中の安井曾太郎とモデルの安倍能成。下左は、上の写真で制作中の習作とみられる作品。下右は、同作デッサンの1枚。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2011-01-11

[ その隣の安倍君(※安倍能成)は首をうなだれて、和服で座つてゐるが、眼が落ちくぼんで陰気くさい。どう見ても貧乏な哲学者だ。三十年後の今日は、白髪童顔で福々しく、文部大臣として閣議に列席しても他の大臣諸公に比してその堂々たる貫禄は決してひけをとらない。野にある時は大きなことを言つてゐる人間でも、一度大臣となると急に人気とりのこと言つたり、大衆に媚びるやうな言葉を吐く者が多いが、同君は大臣中いつでも自説をまげずにアメリカさんに対しても教組に対しても、正々堂々と思ふところをまげずに貫ぬいてきたのは我々年配者をよろこばせてくれた。 ](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

寺田寅彦の描いたスケッチ.jpg

「寺田寅彦の描いたスケッチ」(上=松根東洋城、下右=小宮豊隆、下左=津田青楓、昭和2年9月2日、塩原塩の湯明賀屋にて) (『寺田寅彦全集第十二巻』・月報12・1997年11月)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-17

松根東洋城スケッチ(寺田寅彦画).jpg

「松根東洋城スケッチ(寺田寅彦画)」(同上「寺田寅彦の描いたスケッチ」部分拡大図)

[ その隣には松根東洋城君が黒羽二重の紋付き羽織で仙台平かなんかの袴で、野人仲間には鶏群の鶴のやうにお行儀よくナマズヒゲをビンと立てて、いかにも宮内省事務官らしい。今でこそ宮内省に共産党が赤旗を立てて押しよせ、天皇にあはせろとかなんとか、だだをこねて座り込み戦術をやるやうな世の中になつたが、昔の宮内省は全くの雲の上で我々素町人が口にするさへモッタナイやうに思ひこませられてゐた。美男子で宮内省事務官といふと、まるで人種がちがふやうな気がしてゐた。話はすべた雲上人の秘事にわたることで、貧乏くさい文士や画家は半ばケイベツし半分うらやましがつた。
 今は「渋柿」といふ俳諧雑誌を主宰し十徳かなんかをきて宗匠になりきつてござる。そのころからズートと独身で押し通してゐることろ何か主義でもあるのかしらん。](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

小宮豊隆(寺田寅彦画).jpg

「小宮豊隆(寺田寅彦画)」(同上「寺田寅彦の描いたスケッチ」部分拡大図)

[ 小宮豊隆君の昔のスケッチを出してみると、つかい古しの鉈(なた)豆キセルのやうに上下にのびて筋が多い筋が多い。同君は豊後の方の旧家の坊ちやんだが、自分ではいつぱし世の中の酸いも甘いもなめつくしてゐるつもりだが、根が坊ちやんだから世間学では小学生なんだ。このごろは音楽学校校長さんで、流行の教授連のストライキで校長排斥とかなんとかフンガイしたり悩んだりしてゐることと思ふが、漱石にきいてみたら、
「豊隆は素裸体になれない男だから、知らぬ奴は反感を起すが悪気はないよ。」といふことだつた。 ](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

野上豊一郎と野上弥生子.jpg

「野上豊一郎と野上弥生子(1939年)」(「ウィキペディア」)

[ 三重吉君と東洋城との間にはさまつて、後に野上臼川君(※野上豊一郎)がゐる。野上君は額が少し禿げ上つてゐるが右横の方で綺麗に頭髪を分けてゐる。十弟子中一番癖のない温厚な紳士だ。三重吉や草平君が酔へば八重子(※弥生子)夫人のことをガヤガヤとひやかしたり、羨ましがつたりしてゐた。 ](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

漱石門下の四人.jpg

「漱石門下の森田草平(後列左)と阿部次郎(同右)、小宮豊隆(前列左)、安倍能成(同右))」
(『阿部次郎全集』第2巻、角川書店1961)
https://stoica.jp/stoica/104

[ 森田君(※森田草平)はそのころ天神鬚を生やしてゐた。他の連中にくらべて老けてゐる。雷鳥女史(※平塚らいてう)とのゴタゴタのあつたあとで『煤煙』の構想を腹の中に考へてござる最中だつた。天真爛漫で三重吉のやうに毒舌は吐かぬが、正直に肚の底を言ふ人だ。嘗て君は「大ていの書物には読みあきてしまつたが、クリスト伝だけは何度読んでも、心をうたれるものがあつてあきない」と洩らしたことがある。最近共産党へ入つたといふ新聞のニュースがあつたが、年寄のひや水といつて笑ふ人があるかも知れぬが、君は矢張り正直者で善人なんだ。信州の山の中とかで時々酒をあふつて気を吐いてござるといふことである。]
(『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

[ 阿部次郎君と小宮豊隆君が左の隅の方に一つの火鉢を囲んで、次郎君はむかうを向いてゐる後姿だ。後頭部の毛がはや少しうすくなつて地肌の赤みが出てゐる。『三太郎の日記』以後の阿部君は、東北大学の教授におさまつて以来、文学者としても学者としてもあまり発表されず、ジミな存在となってしまつた。 ](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

漱石忌.jpg

「漱石忌(12/9)と九日会」(「漱石の肉筆を後世へ!漱石文庫デジタルアーカイブプロジェクト」東北大学附属図書館) → 部分拡大図 (左=小宮豊隆、中央=岩波茂雄、右=阿部次郎)
https://readyfor.jp/projects/soseki-library/announcements/118615
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-22

茂雄と桁平.jpg

「岩波茂雄と赤木桁平(津田青楓「スケッチ画」)」(『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

[ 岩波氏(※岩波茂雄)の顔も、桁平氏(※赤木桁平)の顔も画家から言ふと捨てがたい珍品なのだ。岩波ときたら禅月大師十六羅漢像の、なかからぬけ出した一人の羅漢像のやうで、画中の白眉なんだ。線の太い大形な羅漢のとなりに、これは又貧弱な色の青白い、当時大学を出たてのほやほやの法学士、赤木桁平君は、そのころのインテリゲンチャの風采を代表してゐるかに見える。
 それが隅っこの方で岩波が本を見てゐると桁平君が首をのばして、その本をのぞき込んでゐる。その顔の対照が面白いからこの二人はやめられないのだ。岩波はそのころ女学校の先生をやめて、神田にケチくさい古本屋の店を出してゐた。それが漱石のものを手はじめに出版をぽちぽちやり出し、仲間の学者連のものをちらほら出してゐるうちに、変り種の本屋として老舗となり、こつちの知らぬまに多額納税者とやら貴族院議員とやらになつてゐた。
趣味のない男だから岩波本が世間に出るやうになつてから、本の装幀はカチカチになつてしまつた。
 桁平は、近江秋江や徳田秋声や田山花袋なぞの自然主義文学が癪だといつて、「遊蕩文学撲滅論」を書いて、文壇をさはがせた。支那戦争が段々英米戦争に発展せんとする段階に突入するころから、どこで学んだのか一ぱしの海軍通になり、
「日本の海軍は無敵だよ、イギリスとアメリカほむかうにまはしたつて毅然たるものだよ。」そんな元気で遂に「アメリカ恐るるに足らず」といふ一書を発表して軍国主義のおさき棒を勤めた。終戦後国会議員の責任が追及された時、真先きに辞任してひつ込んでしまつたのは賢明であつた。](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

(補記) 『漱石と十弟子(津田青楓著)』周辺

漱石と十弟子(津田青楓著)一.jpg


『漱石と十弟子(津田青楓著)』(右上から)「世界文庫・昭和24年版」/「朋文堂新社・昭和42年版」/(右下から)「芸艸堂・昭和49年版」/「芸艸堂(新装版)平成27年版)」
https://twitter.com/unsodo_hanga/status/1355015832892399617/photo/4

『漱石と十弟子(津田青楓著)』は、四種類(上図)のものがある。そして、上記に記述したものは、「芸艸堂・昭和49年版」に因るのもので、上記の「世界文庫・昭和24年版」・「朋文堂新社・昭和42年版」とは、「口絵写真」とか「挿絵(スケッチ画)」などが異なっている。

朋文堂新社・昭和42年版.jpg

『漱石と十弟子(津田青楓著)』の「朋文堂新社・昭和42年版」の口絵写真
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f450772422

漱石と十弟子C.jpg

『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊・昭和49年版)』所収「漱石と十弟子」(津田青楓画)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

(再掲)  「青楓・敏子(前妻)・あやめ(長女)」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-17

千草会会報追悼号.jpg

「千草会会報追悼号」(平成21年2月発行) 
https://yamawaki.ac.jp/pdf/chigusa_tsuitou.pdf

[ この年譜に、青楓が、昭和十五年(一九四〇)九月二十五日に発刊(非売品)した、下記アドレスの「自撰年譜」を重ね合わせることによって、「青楓と敏子」との、そのドラマというのは浮かび上がってくる。
  さらに、それられに付け加えて、「青楓と敏子」との、その「敏子」が亡くなった昭和三十五年(一九六〇)以後の、昭和四十九年(一九七四)七月に刊行された『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』の、その「新序文」(昭和四十九年七月一日付け)の中の、「私の娘婿Hは丁度銀座裏の陋屋(ロウオク)で細々と出版業をやっていた」と重ね合わせると、「青楓と敏子」と、その長女(あやめ)夫妻(「原愿雄=H」と「原あやめ)」とのドラマとが重ね合わさってくる。
 その「新序文」の「私の娘婿H=原愿雄」は、上記の「千草会会報追悼号」の年譜によると、「太平洋戦争」の終戦の前年(昭和十九年=一九四四)に亡くなっている。すなわち、この『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』の新訂前の、『漱石と十弟子((津田青楓著・世界文庫刊・昭和二十四年=一九四九)』は、「私の娘婿H=原愿雄」は眼にしていないであろう。
 そして、この『漱石と十弟子(津田青楓著・世界文庫刊・昭和二十四年=一九四九)』の、その刊行前の、昭和二十二年(一九四七)に、「私の娘婿H=原愿雄」が亡き、その「長女・原あやめ」が、「母・敏子の仕事を手伝うべく、神田駿河台に山脇服飾美術学院開設、副院長に就任」にした、「亡き夫・H=原愿雄」と「実母・山脇敏子の『山脇服飾美術学院開設』の、その『副院長』就任」を祝してのものと解することも、青楓の、その「漱石と十弟子(津田青楓著・世界文庫刊)』(昭和二十四年=一九四九)と、その新訂後の「漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』(昭和四十九年(一九七四))の、その著者(「津田青楓」)に対して、その面子を汚すこともなかろう。
 さらに、この『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』(昭和四十九年(一九七四)に、「(山脇)敏子」は、「百合子」の名で、漱石在世中の「青楓と敏子(そして、その家族)」の姿が活写されている。(ちなみに、青楓の『自撰年譜』の「昭和四年(一九二九)」には、「山脇(※敏子)無断で子供等を東京へつれ去る」とあり、当時の「青楓と敏子」との関係は、相当に深刻なものがあったことであろう。)
 そして、『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』に出てくる「百合子」(「(山脇)敏子」)とは、青楓が漱石亡き後の心の拠り所とした「河上肇」(経済学者。啓蒙的マルクス経済学者として大正,昭和初期の左翼運動に大きな影響を与えた)とも深く関与している「中條百合子・宮本百合子」(日本の左翼文学・民主主義文学、さらには日本の近代女流文学を代表する作家の一人)の、その「百合子」と解することも、これまた、その「漱石と十弟子(津田青楓著・世界文庫刊)』(昭和二十四年=一九四九)と、その新訂後の「漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』(昭和四十九年(一九七四))の、その著者(「津田青楓」)に対して、その面子を汚すこともなかろう。](未定稿)
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