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「津田青楓」管見(その七) [東洋城・豊隆・青楓]

その七「津田青楓の前景(その生い立ちから巴里滞在時前後の頃まで)」周辺

津田青楓が描く花の世界・生家.jpg

【笛吹市青楓美術館】ぶどう畑の中の最古の美術館(4) 「津田青楓が描く花の世界」を見に行く https://note.com/azusa183/n/n19c08a72e85e

[ 晩年になって、生家の様子を回想し描いた作品。青楓の父、西川一葉(本名・源治郎)は生け花を教えながら、花売りを商っていた。青楓は、幼少の頃より市場への花の買い出しなど家業を手伝っており、その時に使用した荷車や、店先で花売る父の姿が描き込まれている。
 青楓の津田姓は、母の生家に跡継ぎがなく、母方の祖父の養子となって継いだものである。津田家の先祖は明智光秀とか、その家来といった由緒もあったようだが、母が因襲をきらっており、祖父が亡くなった際、系図を屑屋に売り払ってしまったという。(「自撰年譜」)]
(『背く画家津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和(津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』)

[津田 青楓(つだ せいふう、1880年9月13日 - 1978年8月31日)は、京都府出身の画家、書家、随筆家、歌人。良寛研究家としても知られる。本名、津田亀治郎。旧姓、西川。津田は母方の姓。最初の妻の山脇敏子も洋画家である。](「ウィキペディア」)

[ 津田青楓の図案作品──京都の年代 (関西大学名誉教授  スコット・ジョンソン)

https://www.jissen.ac.jp/bungei/event/r28lrh0000003amq-att/eiribon9.pdf

 津田青楓(1880-1978)〔明治 13~昭和 53〕は、プロレタリア運動による彼の政治活動
だけでなく、夏目漱石や彼を慕う文人達との緊密な関係で有名です。

 彼の芸術家としての人生は京都で始まりました。それは小学校の6年を終えるとすぐの
事でした。彼は、最初に京都の呉服問屋である千切屋に奉公し、そのうち千切屋内で意匠
の仕事に携わるようになります。数年後、彼は京都市立染織学校に入り、同時に谷口香嶠
(1864-1915)の画塾にも入門、日本画を学びました。青楓が 18 才の頃には独立した図案
家となり、年長で既に高名であった神坂雪佳に対抗し始めていました。1902 年に浅井忠
が京都府立高等工芸学校でデザインを教え始めたとき、青楓は彼の影響を受けて、彼の関
西美術院で洋画を学びました。

 彼の最初の図案本は京都の本田市次郎の雲錦堂により刊行されました。後に雲錦堂は山
田直三郎の 艸堂と合併し、その後の青楓の図案本は 艸堂から発行されました。
 津田青楓の図案本は 1899 年から 1903 年〔明治 32~36〕に多く出版されました。しかし、渦中の 1900 年〔明治 33〕、20 才になったとき、彼は歩兵連隊に徴兵されて3年間の軍隊生活を送る事になります。彼は衛生兵に志願し、京都深草の師団内部にある衛戍病院で看護教育を受けました。彼は、衛生部志願によって出来た自由な時間を活用し、出版のため
の図案を作り続けることができました。

 1903 年 12 月に彼は除隊し、自由の身になったと思っていました。彼はこの頃に、精魂
を傾けて創造した図案を掲載する雑誌を作るという最も野心的なプロジェクトを始めまし
た。しかし、1904 年4月に日露戦争が起こり、彼は再び徴兵されました。彼の部隊は、
最も血なまぐさい戦闘があった 203 高地の戦いにも配属されており、彼は衛生兵の勤めを
果たしました。この戦争中、戦争前に完成させていたデザインに基づく図案本が、彼の兄
である西川一草亭(1878-1938)と彼の親友浅野古香(後の杉林古香)(1881-1913)によ
って編集されました。   
 青楓は 1906 年〔明治 39〕の春に日本に帰国しました。彼は戦争後に2冊の図案本を作
りました。しかし、2年の戦争は津田青楓を変えてしまいました。彼はもはや京都での生
活を幸せには思えませんでした。そして、1907 年〔明治 40〕に彼はフランスに渡りました。

そこで青楓はアカデミー・ジュリアンで絵画を研究しました。パリでの研究を終えた後に
青楓は京都に戻り、夏目漱石に出会うのです。漱石は彼に東京へ引っ越すよう促し、青楓
はそれを実行しました。

東京では、津田青楓は絵画の新しいスタイルを実験します。完全に急速に変化する東京
のライフスタイルを楽しみました。ですが、その前に、津田青楓は京都時代にこそ、最も
美しく最も独創的な図案本の出版で衝撃的な遺産を生み出していたのです。
 東京では、夏目漱石、与謝野晶子、鈴木三重吉やその他の作家達の本の装幀をしました。
それらの装幀図案が、後に京都の芸艸堂から『装幀図案集』という多色摺り木版本として
発行された事は、青楓がルーツである京都を忘れなかった事を示しているのでしょう。

初期の作品:1899~1903 の出版

 『青もみぢ 1~6』(30 のデザイン)

青もみぢ(第五巻).jpg

「青もみぢ(第五巻)・本田雲錦堂(一九〇〇・六月)」(『背く画家津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和(津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』)

津田青楓 図案と時代と.jpg

「津田青楓 図案と、時代と、」(2022年6月18日(土)~2022年8月14日(日/渋谷区立松濤美術館)
https://www.museum.or.jp/report/107692

 『図案集』8巻
 『染織図案』4巻

染織図案.jpg

「染織図案(一・二・三・四)」(山田芸艸堂/1904年3月)
thttps://www.pen-online.jp/article/010890.html#photo-gallery-10890-3

 『華橘』
 『華紋譜』2巻

華紋譜.jpg

右「華紋譜(花之巻)・本田雲錦堂(一八九九年六月)」
左「華紋譜(楓之巻)・本田雲錦堂(一九〇〇年四月)」
https://www.museum.or.jp/report/107692

 『うづら衣』3巻

うづら衣一.jpg

「うづら衣・山田芸艸堂(一九〇三年)」

うづら衣二.jpg

「うづら衣・山田芸艸堂(一九〇三年)」
https://note.com/azusa183/n/n19c08a72e85e

青楓の徴兵期間:1904 年の出版
 『小美術』1~6(西川一草亭、浅野古香と岡田朴亭による図版は木版多色摺りで、浅
井忠と谷口香嶠によるエッセイとコメント入り)

 『小美術図譜』

戦地図案.jpg

津田青楓「戦地図案其二(高梁中のアタアタ車)」『小美術図譜』(山田芸艸堂)より 1904年(明治37) 芸艸堂蔵
https://www.fashion-press.net/news/gallery/88330/1502044

 『ナツ草』

ナツ艸.jpg

津田青楓『ナツ艸』(山田芸艸堂)より 1904年(明治37) 個人蔵
https://www.fashion-press.net/news/gallery/88330/1502043

1906 年の出版
 『落柿』2巻(浅野古香と共著)
 『青もみぢ7~9』
1929 年の出版
 『装幀図案集』(装幀図案:夏目漱石・鈴木三重吉・森田草平・田山花袋・与謝野晶子・田村俊子・村田鳥江・松岡譲の単行本)

鈴木三重吉『櫛』.jpg

津田青楓(装幀) 鈴木三重吉『櫛』(春陽堂) 1913年(大正2) 笛吹市青楓美術館蔵
https://www.fashion-press.net/news/gallery/88330/1502045

[華道家で去風流家元の西川一葉の息子として京都市中京区押小路に生まれる。兄の西川一草亭も華道家で、去風流家元。小学校卒業後、京都の呉服問屋である千切屋に奉公し、そのうち千切屋内で意匠の仕事に携わるようになる。

はじめ四条派の升川友広に日本画を師事し、1897年、京都市立染織学校に入学。傍ら、谷口香嶠に日本画を師事[2]。同校卒業後、同校の助手を務める。1899年、関西美術院に入学し、浅井忠と鹿子木孟郎に日本画と洋画を師事。関西美術院で学びつつ京都髙島屋の図案部に勤め、1903年には図案集『うづら衣』(山田芸艸堂)を刊行した。

1904年、兄の西川一草亭らと共に小美術会を結成。

1907年から農商務省海外実業実習生として安井曾太郎と共にフランスの首都パリに留学し、アカデミー・ジュリアンにてジャン=ポール・ローランスに師事。アールヌーヴォーの影響を受ける。1909年に帰朝。在仏中に安井曽太郎、荻原守衛、高村光太郎ら画家・彫刻家と交遊した。1913年に文展を脱退し、1914年、二科会創立に参加。1929年、京都市東山区清閑寺霊山町に津田洋画塾を開く。 ](「ウィキペディア」)

青楓の肖像写真.jpg

「1908年の青楓の肖像写真」(「フランス留学時代の津田青楓」)
https://twitter.com/nerima_museum/status/1240190704569044992
「生誕140年記念 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和展」
https://rakukatsu.jp/tsuda-seifu-20200323/

書架の一隅.jpg

左「書架の一隅」(津田青楓画/1911年/「笛吹市青楓美術館」蔵)
右「花鳥図」(津田青楓画/制作年不詳/「笛吹市青楓美術館」蔵)
https://www.pen-online.jp/article/010890.html#photo-gallery-10890-9

ジャン=ポール・ローランス.jpg

ジャン=ポール・ローランス/Jean-Paul Laurens (「ウィキペディア」)

[ジャン=ポール・ローランス(Jean-Paul Laurens、1838年3月28日 - 1921年3月23日)は、フランスの彫刻家・画家である。エコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)や、私立美術学校アカデミー・ジュリアンで多くの画家を育てた。](「ウィキペディア」)

フランス留学時の津田青楓.jpg

「フランス留学時の津田青楓(左)と安井曽太郎(右)」(「明治四十一年(一九〇八)二月十五日」)
https://vkzg.cebagent.shop/index.php?main_page=product_info&products_id=27591

津田青楓(右)の安井曽太郎(左).jpg

「昭和十八年(一九四三)時の津田青楓(右)の安井曽太郎(左)」
『老画家の一生(津田青楓著)』所収「漱石忌/昭和三十七年(一九六二)十二月/神樂坂署/p577」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/296

(補記) 津田青楓略年譜(「年譜メモ=「津田青楓九十六年の歩み=小池唯則」抜粋メモ)

津田青楓略年譜.jpg

「津田青楓略年譜 出典 : 青楓美術館配布資料」
https://note.com/azusa183/n/n4e78d78b364a

(「年譜メモ」その一)

一八九一年(明治二十四年・十一才) 小学校卒業。三条室町「仙吉」に丁稚奉公。
一八九六年(明治二十九年・十六才) 芸艸堂から八枚の版画の図案集「宮古錦」を「青楓」の号で出版。題も雅号も兄・一草亭が付けた。
一八九七年(明治三十年・十七才) 谷口香嶠へ入門し本格的に修業する。当時、香嶠は竹内
 栖鳳らと高島屋染織部にいた。絵模様の過程が知りたくて京都市立染織学校速成染織科へ入学。
一八九九年(明治三十二年・十九才)  芸艸堂から出版した図案集が高島屋の大番頭に認められて入店。京都高等工芸学校に着任した浅井忠が、民間の関西美術院でも中心の指導者になったので高島屋の仕事のかたわら早速入学する。
一九〇〇(明治三十三年・二十才) 十二月深草歩兵三十八連隊入営。
一九〇一(明治三十四年・二十一才) この頃、兄・一草亭、浅井忠と互いに絵と生花の交換教授をする。
一九〇四(明治三十七年・二十四才) 除隊後、高島屋図案部に再就職。一草亭、浅井忠らを相談役として図案雑誌「小美術」を企画し、編集を一任される。二月、日露開戦。三月、戦時招集。「小美術」廃刊。四月、大阪港出港、乃木将軍の部隊に配属。八月旅順、次いで二〇三高地の激戦に参加。「ホトトギス(第8巻第8号/明治37年10月)」に、「戦争に関する写生文(其三「敵襲」)」(上記の「目次」のとおり)として掲載される。

(「津田青楓の従軍体験」周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-14

一九〇六(明治三十九年・二十六才) 軍隊生活の七年は終わった。永観堂の近くに住み、高島屋図案部に勤め関西美術院に通い、また香嶠塾の研究会にも出席する。

一九〇七(明治四十年・二十七才)  香嶠塾で、女子美出身の山脇敏子を知り、生家の奥座敷で胸式。高島屋の大番頭飯田新兵衛の運動で農商務省実習練習生の許可を得る。父の弟子に安井曽太郎の姉があり、その懇願で、曽太郎、当年、二十才を同伴、四月二十日、諏訪丸で大阪港を出港。同船に徳望家の本多光太郎博士がいた。マルセーユで下船、六月はじめパリ着。英語もフランス語も習っていなかったので、アカデミー・ジュリアン(戦後四年制のデザイン学校に変わった)の入学手続きは安井が一しょにしてくれる。日本人の通訳でジャン・ポール・ローランスの指導を受ける。先輩に斎藤与里、荻原碌山らがいた。当時の留学生は学校に入学する者、画塾に一人通ったり、貸アトリエでモデルに金を払って自由に練習するなどさまざまだった。この頃、湯浅一郎、藤島武二、白滝幾之助、有島生馬、山下新太郎らがいた。レストランに集まると画学生たちは漱石の『坊ちゃん』『草枕』を朗読し話題にして議論した。

山脇敏子.jpg

「山脇敏子(1848年当時)」(「ウィキペディア」)
[1887年(明治20年) 広島県呉市の医師の家庭に生まれ、竹原市で育つ。
1899年(明治32年) 竹原市立東野小学校を卒業して上京。
1905年(明治38年) 女子美術学校(現・女子美術大学)日本画科卒業。日本画の手ほどきは、殆ど河鍋暁翠から習ったという。女子美術学校の卒業生として、初の文部省留学生に選ばれ渡欧。洋画も学ぶ。
1907年(明治40年) 夏目漱石と親交のあった津田青楓と結婚。漱石を中心に集まる内田百閒や鈴木三重吉ら「木曜会」[3]の作家や、寺田寅彦やセルゲイ・エリセーエフらの学者、また文展に不満を持つ藤島武二や南薫造ら若い芸術家と親交を持った。漱石の絶筆『明暗』のモデルともされる[1]。
1918年(大正7年) 二科美術展覧会に洋画入選。
1919年(大正8年) 他の女流画家たちと日本で初めての女子洋画団体「朱葉会」[4]を結成。命名はやはり創立委員だった与謝野晶子。
1923年(大正12年) 西村伊作が創設した文化学院の講師。まもなく農商務省の委嘱で婦人副業視察に再び渡欧、フランスに1年滞在。この間青楓に愛人ができ1926年(大正15年)離婚。傷心の敏子は画家を諦め、自立への道を服飾に賭けた。三度渡欧し昼は手芸、夜は裁断を二年間必死に勉強。また経済的窮地をパリを訪れていた細川侯爵夫人に救われた。これが縁で後に学習院・常磐会で手芸や洋裁を教えた。
1929年(昭和4年) 東京麹町内幸町に「山脇洋裁学院」(現・山脇美術専門学院)を開設。また日本のオートクチュールの草分け、洋裁店「アザレ」を銀座に開店。官家や知名人の服飾を手がけ格調あるモードは高い評価を得た。
1935年(昭和10年) 陸軍被服廠嘱託。文化服装学院講師。
1947年(昭和22年) 戦後の洋裁ブームの中「山脇服飾美術学院」を設立、理事長・院長となる。
1960年(昭和35年) 脳出血で死去。小平霊園に眠る。](「ウィキペディア」)

一九〇八年(明治四十一年・二十八歳) パリから投じた「掃除女」が「ホトトギス」に掲載され、小宮豊隆が朝日の文芸欄で久保田万太郎の小説と比較して褒めてくれた。
一九一〇年(明治四十三年・三十歳) テアトルの下宿に白滝幾之助、高村光太郎、大隈為三らが寄宿。「ホトトギス」へ「グルーズの少女」他小説数篇を発表。二月、留学の期限が来たので、ふたたびマルセーユから帰る。船中で浅井忠の訃報を聞く。 
一九一一年(明治四十四年・三十一歳) 「ホトトギス」に挿絵を描く。五月、長女あやめ出生。六月、東京小石川の高田老松町へ転居。妻の敏子は近くに住む羽仁夫妻の「婦人の友」社へ出入りする。漱石の「木曜会」の常連となり、いわゆる漱石の十弟子と親しくなる。

(「夏目漱石と十弟子そして津田青楓」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-11

一九一四年(大正三年・三十四歳) 文展に反抗して二科会結成を企てたが、藤島武二、田辺至らは加わらず、開会まで残ったのは、「石井柏亭、津田青楓、梅原龍三郎、山下新太郎、有島生馬、湯浅一郎、斎藤豊作、熊谷守一、坂本繁二郎の九名。二科会第一回展を三越本店で開く。

(「二科会の沿革(津田青楓の「二科会」の歩み)」周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-07

一九一六年(大正五年・三十六歳) 十二月九日、漱石永眠、死面を描く。

(「漱石の死に顔のスケッチ(津田青楓画)」周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-19

一九一七年(大正六年・三十七歳) 安井曽太郎と水野はまの結婚媒酌を夫妻でつとめる。

安井曽太郎.jpg

「安井曽太郎」(「近代 日本人の肖像」)
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/4153/
[明治21年5月17日 〜 昭和30年12月14日/(1888年5月17日 〜 1955年12月14日)
洋画家。明治37(1904)年聖護院洋画研究所(後の関西美術院)に入り、浅井忠に学ぶ。40(1907)年渡仏、ジャン・ポール・ローレンスに師事、その後ピサロやセザンヌの影響を受ける。大正3(1914)年帰国。4(1915)年二科会で注目され会員になる。昭和10(1935)年帝国美術院会員。(1936)年一水会を創立。19(1944)年東京美術学校(後の東京芸術大学)教授。主観主義的な近代写実絵画を確立した。昭和27(1952)年文化勲章を受章。代表作に「婦人像」「金蓉(きんよう)」など。 ](「近代 日本人の肖像」)

一九二二年(大正十一年・四十二歳) 三月、妻敏子の外遊を送る。長女あやめ、次女ふよう、目白女子大付属小学校に通っていたが、三女ひかる(二歳)は友人の画家の懇望あり預ける。
一九二三年(大正十二年・四十三歳) 九月一日、関東大震災起こる。二科会招待日とて寺田寅彦と会場内の喫茶室にいた。途中火災の中を歩いて自宅に帰る。京都に転居を決意。二科会を閉じ、船で作品を運び、十月末大阪で再開。京都吉田町に河上肇先生を初めて訪ねる。河上を介して、京大関係者(狩野直喜・和辻哲郎・河田嗣郎ら)の画会(「翰墨会」)を作ってくれた。
一九二四年(大正十三年・四十四歳) 四月、震災の報に驚き敏子フランスから帰る。二人の子供を伴い神戸港に迎えた。二人は結局別々の生活を択ぶことに話が進んだ。
一九二六年(大正十五年・四十六歳) 晩秋、京都浄土寺去風洞で、河上肇の司会で、名古屋の人、鈴木浜子との結婚披露宴を開く。和辻哲郎、志賀直哉、九里四郎、近藤浩一路、有島生馬、浜子の兄ら列席。五月合議成立した山脇敏子との離婚を十二月届け出。

河上肇.jpg

「河上肇」(「近代 日本人の肖像」)
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/256/
[明治12年10月20日 〜 昭和21年1月30日(1879年10月20日 〜 1946年1月30日)
 経済学者。明治35(1902)年東京帝大法科大学政治学科を卒業し、翌年東京帝大農科大学実科講師となる。38年12月教職を辞して、伊藤証信の無我苑に入るが、翌年2月離脱。41年京都帝大講師、42年助教授。大正2(1913)年から4年までヨーロッパに留学。3年法学博士、翌年教授となる。5年『貧乏物語』を大阪朝日新聞に連載し反響を呼んだ。昭和3年京都帝大を辞職。7年共産党に入党。翌年検挙され入獄し、12年6月出獄。以後は漢詩などに親しみ『自叙伝』を執筆。代表的著作は『資本論入門』(1928~9)、『経済学大綱』(1929)。](「近代 日本人の肖像」)

一九二九年(昭和四年・四十九歳) 四月、山脇敏子、生母を慕うあやめ姉妹らを無断で東京へ連れ去る。河上肇、京大を去り労農党入党、東京へ転居。
一九三〇年(昭和五年・五十歳) 十二月、東京荻窪の前田寛治のアトリエが売りに出たので、京都の家を売り払って、希望の塾生(「津田洋画塾」)と共に東京へ転居。以後、京都(一草亭邸内別棟)、名古屋(弟子の画室)、東京(東京・荻窪自家アトリエと、池の端=美校生の合宿所)に画塾があり、西下は月二回にして指導した。
一九三一年(昭和六年・五十一歳) 東京第一回塾展。
一九三二年(昭和七年・五十二歳) 五月四日から八日、東京堂二階で「津田塾二回展」を開く。東京、名古屋、京都の塾生も出品。
一九三三年(昭和八年・五十三歳) この年、塾生の数、京都・名古屋・東京、合計百数十名に及び、京都のみで五十余名を数えた。一月、河上肇検挙される。七月十六日、「犠牲者」を制作中、杉並署へ連行される。翌日、神楽坂署に留置、二十一日の或る新聞は四段ぬきで社会面トップに・・・「二科会の重鎮、津田青楓氏留置」(新議会)の作者・・・という三行の大見出しで報じた。八月七日起訴保留で釈放されると、集まった新聞記者の質問に次のように答えた。「洋画がある程度の水準に達した今日、さらに発展させるには、マルキシズムの観点によって進まなければ進展が望めない。しかし、これを実行すると非合法運動になる。現状ではつまらぬことと思うので、昔描いた日本画は東洋哲学にもとづいて開拓すべき道があるから、西行や良寛のような立場から、今後は日本画に精進したい」。八月十七日の日付で、「津田青楓先生、今回洋画制作ヲ廃シ専ラ日本画ニ精進スルコトヲ決意セラレタル付」という解散声明書を塾の名でハガキに印刷して発送した。熱心な引き止めもあったが二科会を脱会した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-28

(「ブルジョア議会と民衆の生活(青楓画)」・「疾風怒涛(青楓画)」・「犠牲者(青楓画)」周辺)

青楓の転向を報じる当時の新聞.jpg

「青楓の転向を報じる当時の新聞」
https://artexhibition.jp/topics/news/20200228-AEJ184798/ ](『津田青楓デッサン集(津田青楓著・小池唯則解説)所収「津田青楓九十六年の歩み ー 解説にかえて ー (小池唯則)」)
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