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「津田青楓」管見(その九) [東洋城・豊隆・青楓]

その九「津田青楓と寺田寅彦(寅彦の美術評論)その二」周辺

「告春歌」他.jpg

左図「告春歌」(1965年/紙本墨画淡彩/133.2×65.0/個人蔵)
[昭和乙己歳初夏 青楓亀試筆]
中図「白梅丹頂鶴」(1950年/紙本墨画淡彩/131.0×66.0/笛吹市青楓美術館蔵)
[いにしへの人のえがけるけだかさを/我もためさむ鶴にやき/かな 明宣宗皇帝筆模倣/游鶴自添庭中梅花庚寅歳春日/亀青楓]
右図「寝覚の床図」(1965年/紙本墨画淡彩/131.0×65.0/笛吹市青楓美術館蔵))
[昭和乙己歳初夏 青楓亀写 下から見る寝覚の床を絵に/描けば躑躅霧島古き巌かな 昭和甲寅補筆芙蓉花盛り老聾亀九十五叟]
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』)

https://rakukatsu.jp/tsuda-seifu-20200323/

[「津田青楓君の画と南画の芸術的価値(寺田寅彦)」抜粋

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/43280_23766.html

「 津田君は先達て催した作画展覧会の目録の序で自白しているように「技巧一点張主義を廃し新なる眼を開いて自然を見直し無技巧無細工の自然描写に還り」たいという考えをもっている人である。
作画に対する根本の出発点が既にこういうところにあるとすれば津田君の画を論ずるに伝説的の技巧や手法を盾に取ってするのはそもそも見当違いな事である。
小笠原流の礼法を標準としてロシアの百姓《ムジーク》の動作を批評するようなものかもしれない。あるいはむしろ自分のような純粋な素人《しろうと》の評の方が却《かえ》って適切であり得るかもしれない。一体津田君の主張するように常に新たな眼で自然を見直すという事は科学者にとっても甚《はなは》だ重要な事である。」

「洋画家並びに図案家としての津田君は既に世間に知られている。
しかし自分が日本画家あるいは南画家としての津田君に接したのは比較的に新しい事である。そしてだんだんその作品に親しんで行くうちに、同君の天品が最もよく発揮し得られるのは正《まさ》しくこの方面であると信ずるようになったのである。
 津田君はかつて桃山に閑居していた事がある。そこで久しく人間から遠ざかって朝暮ただ鳥声に親しんでいた頃、音楽というものはこの鳥の声のようなものから出発すべきものではないかと考えた事があるそうである。
津田君が今日その作品に附する態度はやはりこれと同じようなものであるらしい。出来るだけ伝統的の型を離れるには一度あらゆるものを破壊し投棄して原始的の草昧時代《そうまいじだい》に帰り、原始人の眼をもって自然を見る事が必要である。こういう主張は実は単なる言詞としては決して新しいものではないだろうが、日本画家で実際にこの点に努力し実行しつつある人が幾人あるという事が問題である。」 ] 

渓六曲屏風.jpg

「渓六曲屏風」(制作年不詳/紙本墨画淡彩/136.5×271.8/個人蔵(林要旧蔵))
[歩随流水覓渓源 行/到源頭卻惘然 始悟/眞/源/行/不到
 倚笻随/處奔潺湲/懶青楓七十一 ]
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説213」)

https://rakukatsu.jp/tsuda-seifu-20200323/

[林要(はやしかなめ、1894年5月3日-1991年12月26日)は日本のマルクス経済学者。
 山口県出身。1920年東京帝国大学法学部卒、大原社会問題研究所助手となり『日本労働年鑑』の編集にあたる。1923年同志社大学教授。東大新人会で活動以来のマルクス主義者で、そのため1936年、同僚の野村重臣から赤化教授と糾弾されて大学を追われ、38年には執筆も禁止される。
 戦後は愛知大学教授、関東学院大学教授。1979年退職。妻は林てる。](「ウィキペディア」)

[ 林要とのつきあいは、青楓が洋画断筆をしたころから始まった。マルクス主義経済学者であった林要は、反戦思想ゆえ、一九三六年(昭和十一)に勤めていた同志社大学を追われており、青楓とは軍国主義の時代に抗する姿勢や体験をわかつ仲間でもあった。戦後は、林が師友とよぶ青楓と評論家長谷川如是閑や画家正宗得三郎を交えて、談論風発の集まりを持ち、席上で余興に筆をとることもしばしばであった。](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「交友の記念品(喜多孝臣稿)」)

長谷川如是閑(右)と津田青楓(左.jpg

『老画家の一生(津田青楓著)』所収「長谷川如是閑(右)と津田青楓(左)(昭和二十四年四月)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/296

[長谷川如是閑(はせがわにょぜかん、1875年(明治8年)11月30日 - 1969年(昭和44年)11月11日)は、日本のジャーナリスト、文明批評家、評論家、小説家。明治・大正・昭和と三代にわたり、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行と約3000本もの作品を著した。大山郁夫らとともに雑誌『我等』(後に『批判』)を創刊し、大正デモクラシー期の代表的論客の一人。「如是閑」は雅号、本名は萬次郎。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。](「ウィキペディア」)

如是閑像.jpg

「如是閑像」(制作年次不詳/紙本墨画淡彩/79.0×28.4/個人蔵(林要旧蔵)/)
[題如是閑像/ふたつなき馬つら顔/どおもえども羽仁の/五郎と瓜二つかな/青楓亀]
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説221」)

林要像如・是閑賛.jpg

「林要像如是閑賛」(制作年不詳/紙本墨画淡彩/133.5×65.24/個人蔵(林要旧蔵)/))
[あけつらふはやしのにかの/あんこうことポウズどな/れりさに教/ろ□□かも/盲亀兼題/
写林君 於韮山 青楓/
抱腹絶倒/抱膝沈思/如是閑題](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説220」)

※ 寺田寅彦が、「津田青楓君の絵と南画の芸術的」を「中央公論」に掲載した、大正七年(一九一八)、青楓、三十八歳の頃、当時、美術雑誌「研精美術」の記者で、画家志望の「酒井億尋」(1894-1983)が取材に来て、爾来、青楓が亡くなるまで、その交友関係は途切れることはなかった。
 後に、酒井億尋は、実業家の道を選び、荏原製作所の二代目社長までつとめ、その美術好きは終生変わらず、「安井曽太郎・津田青楓・川上涼花・セザンヌ・ルノワール」などの作品を蒐集する大コレクターでもあった。
 一九三〇年代には、青楓が共産党員をかくまうために、酒井億尋の別荘を提供してもらったり、戦後、青楓が疎開先(茨城県小田村=現・つくば市)から東京に戻る際の住居の世話など、全て、酒井億尋の手を煩わせた。青楓は、「酒井氏私のためには、ある時はよきパトロンとなり、ある時は心の友となり、私にとっては一日もなくてはいられぬ人であった」と記述している(津田青楓「交遊抄 酒井億尋氏のこと」『日本経済新聞』1963年7月5日。)。

「 畠山一清と酒井徳尋(「川上涼花《麦秋》と日本画制作について(田所夏子稿)」抜粋)

file:///C:/Users/user/Downloads/bulletin_2022_tadokoro_jp%20(1).pdf

荏原製作所の創業者畠山一清は金沢市の生まれで、日本最大規模の山城のひとつとされる能登国七尾城主の末裔であった。東京帝国大学機械工学科で井口在屋博士に師事し、博士
とともに1911年にゐのくち式機械事務所を創立した。畠山は事業のかたわら、茶道具をはじめとする日本や中国、朝鮮などの古美術品の蒐集をおこなっており、それらは現在公益財団法人畠山記念館に収蔵されている。
酒井は叔父である畠山の側近として事業拡大に大きく貢献し、その後畠山の長女睦(むつ)
と結婚、1962年には荏原製作所二代目社長に就任した。
 実業家として腕を振るう一方で、酒井は叔父同様芸術への造詣が深く、日本洋画や西洋絵画の蒐集を行っていた。能楽や茶の湯を嗜み日本や東洋の古美術品に親しんだ畠山に対し、酒井はむしろ洋画や西洋音楽を好んだという。自身も洋画を学び、一時期本郷洋画研究所に通っていたが、もともとかなりの近眼であったところに網膜剥離を起こし、画家になることを断念している。
洋画家の中村彝(つね)を尊敬し、彝が下宿していた中村屋裏のアトリエや、その後引き移った下落合のアトリエにも出入りしていた。彝の没後発足した中村忌会にも参加し、荏原製作所の熱海寮で会を開いたりもしている。
涼花をはじめ、安井曾太郎(1888–1955)、津田青楓(1880–1978)らとも交友があり、批
評家として数多くの文章を残した。なかでも涼花との親交は古く、1912年のフュウザン会に涼花が作品を発表した直後から交流が始まった。
また、津田青楓は「私のごく親しい友だちは、ただ一人。それは酒井億尋という人」と語っており、酒井と親しかった様子がうかがえる。そして「酒井氏は絵が好きだし、鑑賞眼もするどい。度の強い近視眼だが、それでよく絵の良し悪しがわかるのだから不思議だ。多分心眼という感性が発達しているのかもしれぬ」とし、コレクターとしての酒井の眼を賞賛し
ている。
蒐集した美術品には、交流のあった日本の画家たちだけでなく、印象派やその他20世紀フランスの代表的な画家なども含まれていた。 ]

※ 酒井億尋の兄は、良寛研究家の「酒井千尋」で、青楓が良寛の遺跡を巡る際には、その道案内などをつとめたことなどが、青楓の年譜などから読み取れる。
青楓と「酒井千尋・億尋」との関係というのは、青楓が、昭和八年(一九九三)八月十七日の日付で、「津田青楓先生、今回洋画制作ヲ廃シ専ラ日本画ニ精進スルコトヲ決意セラレタル」の、青楓の「二科会脱退」後の、「日本画(主として「南画」)と「書」(主として「良寛の遺墨」)との、青楓の後半生(昭和八年(一九九三)=五十三歳以後~)の、その大きな拠り所の、その物心両面でのサポータという位置を占めることになる。

酒井億尋.jpg

「酒井億尋」 (1894-1983)
http://www.shiro1000.jp/tau-history/murata/sakai.html

秋天敦煌.jpg

「秋天敦煌」(1941/紙本墨画/135.0×61.0/「酒井億尋コレクション」)
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説202」)

良寛和尚の像.jpg

「良寛和尚の像」(1974年頃/紙本墨画淡彩/46.5×66.4/「笛吹市青楓美術館」蔵)
https://www.asahi.com/articles/DA3S14406292.html?iref=pc_photo_gallery_bottom
[生涯立身懶 騰々/米 炉邊一束薪/誰問迷悟跡 何知/名利塵 夜雨草/菴裡雙脚等/閑伸 良寛和尚/像幷詩題/亀青楓
わびぬれど/わが菴/□なれ/ばかえ/るなり/こころや/すきを/おもひ出と/して  ](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説196」)

[「津田青楓君の画と南画の芸術的価値(寺田寅彦)」抜粋(続き)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/43280_23766.html

「 津田君が南画に精力を集注し始めた初期の作品を見ると一つの面白い現象を発見する。例えば樹の枝に鳥が止まっている。よく見ると樹の枝は鳥の胴体を貫通していて鳥はあたかも透明な物体であるように出来上がっている。
津田君は別にこれに対して何とも不都合を感じていないようである。樹枝を画く時にここへ後から鳥を止まらせる用意としてあらかじめ書き残しをしておくような細工はしないのである。
これは一見没常識のように見えるかもしれぬが、そこに津田君の出発点の特徴が最も明白に現われているのである。そういう遣り方が写真として不都合であっても絵画としてはそれほど不都合な事ではないという事が初めから明らかに理解されている証拠である。
また下書きなどをしてその上を綺麗(きれい)に塗りつぶす月並なやり方の通弊を脱し得る所以(ゆえん)であるまいか。本当の意味の書家が例えば十の字を書く時に始め「※一」を左から右へ引き通す際に後から来る「※Ⅰ」の事など考えるだろうか、それを考えれば書の魂は抜けはしまいか。たとえ胴中を枝の貫通した鳥の絵は富豪の床の間の掛物として工合が悪いかもしれぬが、そういう事を無視して絵を画く人が存在するという事実自身が一つの注目すべき啓示レヴェレーションではあるまいか。
自分は少し見ているうちにこの種の非科学的な点はもうすっかり馴れてしまって何らの不都合をも感じなくなった。おそらく誰でも同様であろう。ただ在来の月並の不合理や出来合の矛盾にのみ馴れてそれを忘れている眼にほんの一時的の反感を起させるに過ぎないであろう。」

 (中略)

「 津田君の絵には、どのような軽快な種類のものでも一種の重々しいところがある。戯れに描いた漫画風のものにまでもそういう気分が現われている。その重々しさは四条派の絵などには到底見られないところで、却って無名の古い画家の縁起絵巻物などに瞥見(べっけん)するところである。これを何と形容したら適当であるか、例えばここに饒舌(じょうぜつ)な空談者と訥弁(とつべん)な思索者とを並べた時に後者から受ける印象が多少これに類しているかもしれない。そして技巧を誇る一流の作品は前者に相応するかもしれない。饒舌の雄弁固もとより悪くはないかもしれぬが、自分は津田君の絵の訥弁な雄弁の方から遥かに多くの印象を得、また貴重な暗示を受けるものである。
このような種々な美点は勿論津田君の人格と天品とから自然に生れるものであろうが、しかし同君は全く無意識にこれを発揮しているのではないと思われる。断えざる研究と努力の結果であることはその作品の行き方が非常な目まぐるしい速度で変化しつつある事からも想像される。
近頃某氏のために揮毫(きごう)した野菜類の画帖を見ると、それには従来の絵に見るような奔放なところは少しもなくて全部が大人しい謹厳な描き方で一貫している、そして線描の落着いたしかも敏感な鋭さと没骨描法(もっこつびょうほう)の豊潤な情熱的な温かみとが巧みに織り成されて、ここにも一種の美しい交響楽シンフォニーが出来ている。
この調子で進んで行ったらあるいは近いうちに「仕上げ」のかかった、しかも魂の抜けない作品に接する日が来るかもしれない、自分はむしろそういう時のなるべく遅く来る事を望みたいと思うものである。
津田君の絵についてもう一つ云い落してはならぬ大事な点がある。それは同君の色彩に関する鋭敏な感覚である。自分は永い前から同君の油画や図案を見ながらこういう点に注意を引かれていた。なんだか人好きの悪そうな風景画や静物画に対するごとに何よりもその作者の色彩に対する独創的な感覚と表現法によって不思議な快感を促されていた。
それはあるいは伝習を固執するアカデミックな画家や鑑賞家の眼からは甚だ不都合なものであるかもしれないが、ともかくも自分だけは自然の色彩に関する新しい見方と味わい方を教えられて来たのである。
それからまた同君の図案を集めた帖などを一枚一枚見て行くうちにもそういう讃美の念がますます強められる。自分は不幸にして未来派の画やカンジンスキーのシンクロミーなどというものに対して理解を持ち兼ねるものであるが、ただ三色版などで見るこれらの絵について自分が多少でも面白味を感ずる色彩の諧調は津田君の図案帖に遺憾なく現われている。
時には甚だしく単純な明るい原色が支那人のやるような生々しいあるいは烈しい対照をして錯雑していながら、それが愉快に無理なく調和されて生気に充ちた長音階の音楽を奏している。ある時は複雑な沈鬱な混色ばかりが次から次へと排列されて一種の半音階的の旋律を表わしているのである。」

(中略)

「 津田君の日本画とセザンヌやゴーホの作品との間の交渉は種々の点で認められる。単にその技巧の上から見ても津田君の例えばある樹幹の描き方や水流の写法にはどことなくゴーホを想起させるような狂熱的な点がある。あるいは津田君の画にしばしば出現する不恰好な雀や粟の穂はセザンヌの林檎りんごや壷のような一種の象徴的の気分を喚起するものである。
君が往々用いる黄と青の配合までもまた後者を聯想(れんそう)せしめる事がある。このような共通点の存在するのは、根本の出発点において共通なところのある事から考えれば何の不思議もない事ではあるまいか。あるいはまた津田君の寡黙な温和な人格の内部に燃えている強烈な情熱の焔(ほのお)が、前記の後期印象派画家と似通ったところがあるとすれば猶更なおさらの事であろう。

(中略)

 青楓(せいふう論と題しながら遂に一種の頌辞(しょうじ)のようなものになってしまった。しかしあらを捜したり皮肉をいうばかりが批評でもあるまい。少しでも不満を感ずるような点があるくらいならば始めからこのような畑違いのものを書く気にはなり得なかったに相違ない。
 津田君の画はまだ要するにXである。何時(いつ)如何(いか)なる辺に赴くかは津田君自身にもおそらく分らないだろう。
しかしその出発原点と大体の加速度の方向とが同君として最も適切なところに嵌っている事は疑いもない事である。そして既に現在の作品が群を抜いた立派なものである事も確かである。それで自分は特別な興味と期待と同情とをもって同君の将来に嘱目している。
そして何時までも安心したりおさまったりする事なしに、何時までも迷って煩悶して進んで行く事を祈るものである。
芸術の世界に限らず科学の世界でも何か新しい事を始めようとする人に対する世間の軽侮、冷笑ないし迫害は、往々にして勇気を沮喪(そそう)させたがるものである。
しかし自分の知っている津田君にはそんな事はあるまいと思う。かつて日露戦役に従ってあらゆる痛苦と欠乏に堪えた時の話を同君の口から聞かされてから以来はこういう心配は先ずあるまいと信ずるようになったのである。 ]

薔薇鶏之図.jpg

「薔薇鶏之図」(1917年/絹本着彩/114.7×26.0/「笛吹市青楓美術館」蔵)
https://www.fashion-press.net/news/gallery/56714/982209
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説175」)

古都一休寺.jpg

津田青楓「古都一休寺」(1940年/紙本墨画淡彩/45.0×53.4/「浜松市美術館」蔵)
https://rakukatsu.jp/tsuda-seifu-20200323/
[ (1940年(昭和5)に開催した津田青楓個展出品作。京田辺にある酬恩一休寺の庭と塀を描いたものであろう。画賛した一休禅師の意偈のあとに「老聾亀補筆」とあり、六十一歳時の作品に後年になって讃をいれた、新旧青楓の合作である。一休の意偈は、自らがたどり着いた禅の境地は自分だけのものであるという心持ちを詠んだものである。青楓は、この一休の言葉に晩年の自らの心情を重ねたのであろうか。青楓は老いてのち、過去作ら手をいれることをしばしばおこなっており、過去との対話を楽しんで時を過ごしたようだ。

須弥南/畔誰/会我/禅虚/堂来/也/不直半銭 老聾亀/補筆  ](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説200」)
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