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「津田青楓」管見(その八) [東洋城・豊隆・青楓]

その八「津田青楓と寺田寅彦(寅彦の美術評論)その一」周辺

[「昭和二年の二科会と美術院(寺田寅彦)」(「霊山美術」1927(昭和2)年11月)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card42213.html

 二科会(カタログ順)

 有島生馬《ありしまいくま》氏。 この人の色彩が私にはあまり愉快でない。いつも色と色とがけんかをしているようで不安を感じさせられる。ことしの絵も同様である。生得の柔和な人が故意に強がっているようなわざとらしさを感じる。それかと言ってルノアルふうの風景小品にもルノアルの甘みは出ていない。無気味さがある。少し色けを殺すとこの人の美しい素質が輝いて来ると思う。
(補記)

有島生馬「鬼」.jpg

第1回展に出品された有島生馬「鬼」(1914年・東京都現代美術館蔵) - 時代彩った122点並ぶ 「伝説の洋画家たち 二科100年展」 -
https://www.nishinippon.co.jp/image/4927/

 ビッシエール。 この人の絵には落ち着いた渋みの奥にエロティックに近い甘さがある。ことしのは少し錆《さび》が勝っている。近ごろだいぶこの人のまねをする人があるが、外形であの味のまねはできない。できてもつまらない。
(補記)
ロジェ ビシエール(Roger Bissière)
[1888.9.22 - 1964.1.22 フランスの画家。ヴィルレアル(フランス)生まれ。
ボルドー美術学校で学び、1910年パリに行き雑誌記者をしながら絵を書く。’21年ブラックと出会い立体派の影響を受け、’24年ランソン画塾の教師を経て、’46年ドルアン画廊で初の個展を開く。’58年パリの国立近代美術館で回顧展を開き、’60年からメス大聖堂のステンドグラスを制作する。荘重で宗教的静けさの抽象的構図の中にフランス絵画の伝統を生かす独自の作風を確立する。](日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊))

花を持つ婦人.jpg

花を持つ婦人 Woman with Flowers (「国立西洋美術館」蔵)
https://collection.nmwa.go.jp/P.1965-0001.html

石井柏亭《いしいはくてい》。 「牡丹《ぼたん》」の絵は前景がちょっと日本画の屏風絵《びょうぶえ》のようであり遠景がいつもの石井さんの風景のような気がして、少しチグハグな変な気がする。「衛戍病院《えいじゅびょういん》」はさし絵の味が勝っている。こういう画題をさし絵でなくするのはむつかしいものであろうとは思うがなんとかそこに機微なある物が一つあるであろうとは思う。「クローデル」はよくその人が出ているところがある。私はこの画家が時々もっと気まぐれを出していろいろな「試み」をやってくれる事を常に望んでいる。
(補記)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-14

 小出楢重《こいでならしげ》。 この人の色は強烈でありながらちゃんとつりあいが取れていて自分のような弱虫でも圧迫を感じない。「裸女結髪」の女の躯体《くたい》には古瓢《こひょう》のおもしろみがある。近ごろガラス絵を研究されるそうだがことしの絵にはどこかガラス絵の味が出ている。大きな裸体も美しい。
(補記)
[ 小出楢重【ならしげ】は、大阪に生まれ、岸田劉生【りゅうせい】や中村彝【つね】らと同時代の画家であり、黒田清輝以来主流となっていた白馬会系の当時の洋画壇に飽きたらず、単なる洋画の輸入ではなく日本独自の油絵を確立しようと真摯に努めた画家の一人である。「Nの家族」は大正八年の第七回二科展に出品され、他の二点とともに有望な新人に与えられる樗牛賞を贈られ、それまで不遇であった画家が画壇に地歩を築くきっかけとなった作品である。
 小出は、「Nの家族」制作において、明らかにこのような意識のもとに、確固とした構図と技法による本格的な油絵を描こうとしていたことが推測されるが、後年、自ら「日本人の油絵の共通した欠点は、絵の心ではなく、絵の組織と古格と伝統の欠乏である」(『油絵新技法』)と記し、一方で「高橋由一、川村清雄、あるいは原田直次郎等の絵を見ても如何に西洋の古格を模しているかがわかる」(同前)と述べており、そのような信念の萌芽が看取されよう。蝋燭の光を思わせる陰影や、フランドル等の室内画を思わせる背景に描かれた鏡やカーテン、ホルバインの画集、そしてセザンヌ風の手前の静物など、雑多な要素を連想させるうえに、三人の人物は画面いっぱいの大きさに描かれているというように、ともすれば煩雑で不統一の画面になりかねない構成であるが、実際にはきわめて均衡のとれた緊密な構図と重厚な色彩をもった、密度の高い作品となっている。
 制作当時、すでに劉生や河野通勢等の画家が北欧ルネサンス風の写実的な表現を追求していたが、本図の画風はそれらの影響というよりは、小出自身の必然的な欲求に起因するものというべきであろう。画家の関心は描かれる対象自体の写生ではなく、あくまでも画面における造形的な均衡と充実にあり、そのような姿勢は大正十年の渡欧を経て晩年に至る、小出の裸婦や静物画群においても一貫しているといえよう。
 本図は小出楢重の前期の代表作であるばかりでなく、その緊密で力強い構成と表現により大正時代の洋画を代表する一作といえよう。](「文化遺産オンライン」)

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Nの家族(小出楢重筆 一九一九/油絵 麻布)(「財団法人大原美術館」蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/135664

 熊谷守一《くまがいもりいち》。 この人の小品はいつも見る人になぞをかけて困らせて喜んでいるような気がする。人を親しませないところがある。しかしある美しさはある。
(補記)

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『麥畑(むぎばたけ)』 昭和14(1939)年 油彩/板 愛知県美術館蔵(木村定三コレクション)
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/220967/

 黒田重太郎《くろだしげたろう》。 「湖畔の朝」でもその他でもなんだか騒がしくて落ち着きがなくて愉快でない。ロート張りの裸体の群れでも気のきいたところも鋭さもなくただ雑然として物足りない。もう少し落ち着いてほしい。
(補記)

黒田重太郎.gif

「黒田重太郎が十代のころに描いた鉛筆素描」(明治38年(1905)年4月15日に描かれた「花園村」=画像右=など)
https://hanabun.press/2018/10/06/kurodajyutarou/
[黒田は小出楢重らと大阪で信濃橋洋画研究所を開設。京都市立美術専門学校(現・京都市芸大)の教授となり後進を育成した。日本芸術院恩賜賞受賞、勲三等瑞宝章受章。1870(昭和45)年82歳で没した。昨年(2017年)が生誕150年。2020年に没後50年を迎える。]

 正宗得三郎《まさむねとくさぶろう》。 この人の絵も私にはいつもなんとなく騒がしくわずらわしい感じがあって楽しめない。もう少し物事を簡潔につかんで作者が何を表現しようとしているかをわかりやすくしてほしいと思う。その人の「世界」を創造してほしい。
(補記)

瀬戸内海.jpg

「瀬戸内海」(油彩,カンヴァス 36.0×45.0cm)
https://www.hiroshima-museum.jp/collection/jp/masamune_t.html
[戦前は二科会で、戦後は二紀会の創設会員として同展を中心に活動した洋画家です。明るく新鮮な色調で存在感のある風景画を多く描きました。富岡鉄斎の研究でも知られ、著書に『鉄斎』などがあります。また、長兄は小説家・文学者の忠夫(正宗白鳥)、次兄は国文学者の敦夫です。]

 鍋井克之《なべいかつゆき》。 この人の絵はわりに好きなほうであったが、近年少しわざとらしい強がりを見せられて困っている。ことしのにはまたこの人の持ち味の自然さが復活しかけて来たようである。しかしあの大きいほうの風景のどす黒い色彩はこの人の固有のものでないと思う。小さな家のある風景がよい。
(補記)
[大阪府出身。旧姓は田丸。東京美術学校卒。1915年「秋の連山」で二科賞。フランスなどに留学後、1923年二科会会員となり、1924年小出楢重、黒田重太郎らと大阪に信濃橋洋画研究所を設立。1947年二紀会の結成に参加。1950年「朝の勝浦港」などで芸術院賞受賞。1964年浪速芸術大学教授。宇野浩二と親しくその挿絵を多く描いた。](「ウィキペディア」)

鴨飛ぶ湖畔.jpg

「鴨飛ぶ湖畔」(昭和7年(1932)「大阪市立美術館蔵(鍋井澄江氏寄贈)」
https://www.osaka-art-museum.jp/def_evt/50thnabeikatsuyuki

 中川紀元《なかがわきげん》。 いつも、もっとずっと縮めたらいいと思われる絵を、どうしてああ大きく引き延ばさなければならないかが私にはわからない。誇張の気分を少し減らすとおもしろいところもないではないが。
(補記)

アラベスク.gif

「アラベスク」(1921年/辰野美術館蔵)
https://www.musashino.or.jp/museum/1002006/1002258/1002259/1002394/1002400.html
[中川紀元は1892(明治25)年2月11日、木曽駒ケ岳を間近に望む長野県上伊那郡朝日村(現辰野町樋口)に生まれました。
1912(明治45)年、東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科に入学しますが、旧体質の指導に失望、また制作にも自信を失い退学。その後、太平洋画会研究所、本郷研究所へ通い洋画に転向、藤島武二にデッサンの指導を受け、また、二科会の重鎮であった石井柏亭や正宗得三郎にも師事しました。1915(大正4)年、第2回二科展に初入選。1919(大正8)年には渡仏し、エコールド・パリの空気の中、マチスに師事するという幸運に恵まれました。
滞仏中の1920(大正9)年に「ロダンの家」等で樗牛賞を受賞、帰国後滞欧作7点を出品し二科賞を受賞するなど、そのフォーブな画風は当時の日本画壇に新鮮な衝撃をもたらしました。前衛傾向の画家達とグループ・アクションの結成に参加し活発な活動を展開したのもこの時期です。
1924(大正13)年にアクション解散、油彩画に倦怠を感じた中川は次第に日本画への関心を深め、1930(昭和5)年には中村岳陵ら日本画家たちと六潮会を結成します。
以後、二科会と六潮会という全く異なる展覧会を発表の場としながら制作活動を続けますが、二科会解散後は、熊谷守一らと第二紀会を結成、ここを舞台に水墨画的な油彩画という新しい境地を開拓しました。若い日にパリで学んだ自由な画風に東洋画の伝統が一体となった中川独自の表現はこうして形成されました。中川はその生涯を長野と東京に過ごしましたが、武蔵野市には1956(昭和31)年に転居して以降、1972(昭和47)年に79歳で亡くなるまで居住しました。」

 坂本繁次郎《さかもとしげじろう》。 おもしろいと言えばおもしろいがそれは白日の夢のおもしろさで絵画としてのおもしろみであるかどうか私にはわからない。この人の傾向を徹底させて行くとつまりは何もかいてないカンバスの面がいちばんいい事になりはしないか。
(補記)

坂本繁次郎.jpg

坂本繁二郎《月》1966年 油彩・カンヴァス 無量寿院蔵(福岡県立美術館寄託)
https://artexhibition.jp/topics/news/20220513-AEJ768717/
[坂本繁二郎は1882年、福岡県久留米市生まれの画家。青木繁と同世代にあたり、互いに切磋琢磨する青年期を過ごした。その後、20歳で青木を追うように上京。小山正太郎主宰の不同舎で学び、展覧会出品作が数々の賞を受賞するなど順風満帆な画業をスタートさせた。39歳のときに渡仏。3年間の留学生活を終えて久留米に帰郷し、以降、画壇の煩わしさを避けて郷里にほど近い八女にアトリエで制作に没頭した。
ヨーロッパ留学から最晩年にかけ、牛、馬、周囲の静物、そして月と、平凡な主題を選びながら厳かな静謐さを秘めた作品を描いた坂本。画壇と距離を置いていたものの、戦前と変らぬ穏やかさを湛えた作品群が評価され、74歳で文化勲章を受章した。]()

 津田青楓《つだせいふう》。「黒きマント」は脚から足のぐあいが少し変である。そのために一種サディズムのにおいのあるエロティックな深刻味があって近代ドイツ派の好きな人には喜ばれるかもしれないが、甘みのすきな私にはこれよりももう一つの「裸婦」のほうが美しく感ぜられる。やはり鋭いものの中に柔らかい甘みがある。この絵の味は主として線から来ると思う。この人の固有の線の美しさが発揮されている。「海水着少女」は見るほうでも力こぶがはいる。職業的美術批評家の目で見ると日傘《ひがさ》や帽子の赤が勝って画面の中心があまり高い所にあるとも言われる。これはおそらく壁面へずっと低く掲げればちょうどよくなると思う。静物も美しい。これはこの人の独歩の世界である。
(補記)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-17

 山下新太郎《やましたしんたろう》。 この人の絵にはかつていやな絵というものを見ない。しかし興奮もさせられない。長所であり短所である。時々は世俗のいわゆる大作を見せてくださる事を切望する。
(補記)

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「自画像」」(1904年(明治37年))(「東京芸術大学大学美術館」蔵)
[山下 新太郎(やました しんたろう、1881年8月29日 - 1966年4月11日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。二科会および一水会創立者のひとり。
 画風はオーギュスト・ルノワールの影響を受けた美しい色彩が特徴である[2]。また、パリ滞在中に表具師の家に生まれたことから敦煌から招来された仏画の修理を手がけたのを切っ掛けに、油彩画の修復や保存も学び、この分野の日本に於ける草分けとなった。同時に留学中から額縁を蒐集し、自作の額装にも配慮を欠かさなかった。](「ウィキペディア」)

 安井會太郎《やすいそうたろう》。 「桐《きり》の花咲くころ」はこれまでの風景に比べて黄赤色が減じて白と黒とに分化している事に気がつく。これは白日の感じを出しているものと思われる。果物《くだもの》やばらのバックは新しいと思う。「初夏」の人物は昨年のより柔らかみが付け加わっている。私は「苺《いちご》」の静物の平淡な味を好む。少しのあぶなげもない。
(補記)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-17

 横井礼市《よこいれいいち》。 この人の絵はうるさいところがなくてよい。涼しい感じがある。この人の絵の態度は行きつまらない。どこまでも延びうると思う。
(補記)

横井礼市.jpg

「横井礼以自選画集 非売品」(「横井礼以自選画集刊行委員会 編」)
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=334272812
「横井 礼以(よこい れいじ、1886年〈明治19年〉10月1日 - 1980年〈昭和55年〉6月22日)は、日本の画家。勲等は勲四等。名古屋造形芸術短期大学名誉教授、社団法人二紀会名誉会員。本名は横井 禮一(よこい れいいち)。当初は横井 禮市(よこい れいいち)との筆名を用いた。なお、本名の「禮一」、および、かつての筆名の「禮市」の「禮」は「礼」の旧字体であるため、横井 礼一(よこい れいいち)、横井 礼市(よこい れいいち)とも表記される。なお、筆名の「礼以」については新字体を用いている。
 緑ヶ丘洋画研究所主宰、二科会参与、第二紀会委員、名古屋造形芸術短期大学造形芸術科教授などを歴任した。 ](「ウィキペディア」)

 湯浅一郎《ゆあさいちろう》。 巧拙にかかわらず一人の個人の歌集がおもしろいように個人画家の一代の作品の展覧はいろいろの意味で真味が深い。湯浅氏の回顧陳列もある意味で日本洋画界の歴史の側面を示すものである。これを見ると白馬会《はくばかい》時代からの洋画界のおさらえができるような気がする。ただこの人の昔の絵と今の絵との間にある大きな谷にどういう橋がかかっているかが私にはわからない。
(補記)

湯浅一郎.jpg

「室内婦人像/Woman in Interio」(「群馬県立美術館」蔵/ 1930(昭和5)油彩・カンヴァス・130.5×97.5cm・湯浅ゆくゑ氏・湯浅太助氏寄贈)
https://mmag.pref.gunma.jp/works/yuasa
[黒田清輝の指導の下、明治30年代に《徒然》《画室》など意欲あふれる作品を残した湯浅一郎は、明治38年の暮れから4年間、油彩の本場ヨーロッパに留学した。スペインでベラスケスの模写に精を出した湯浅は、人物画こそ油彩の本道であり、日本が学ばなければならないものだという確信を持って帰国する。ところが日本の近代洋画の歴史は、湯浅が行おうとした地道な努力とは別の、性急で表面的な模倣の道を選ぶ。
湯浅の晩年の作品であるこの作品は、画面右手前から光の差し込む室内で、揺りいすにくつろいで座り、新聞を読むゆくゑ夫人をモデルにしている。骨とう屋を回るのが好きだったという湯浅は、旅先でもさまざまなものを買い集めてきたようだ。本作に描き込まれた雑多な品々を見てもそのことがうかがえる。それにしても、これだけ数多くの物を描き込んでいながら画面が決して雑然としていないのは見事だ。ゆくゑ夫人の背後には変わった形の鏡が置かれ、そこにはこの作品を描いている湯浅自身が、画架を前にした姿で写っている。自画像をほとんど残さなかった湯浅は、晩年のこの作品の中に自らの姿をとどめた。湯浅が63年の生涯を閉じるのは翌年のことである。

 新しい人にもおもしろい絵があったが人と画題を忘却した。なんと言っても私には津田、安井二氏の絵を見るのが毎年の秋の楽しみの一つである。

   美術院

 近ごろの展覧会の日本画にはほとんど興味をなくしてしまった。すべてがただ紙の表面へたんねんに墨と絵の具をすりつけ盛り上げたものとしか感じられない。先日の朝日新聞社の大展覧会でみた雅邦《がほう》でもコケオドシとしか見えなかった。春挙《しゅんきょ》でも子供だましとしか思わなかった。そんな目で展覧会を見て評をするのは気の毒のような気もする。

 近藤浩一路《こんどうこういちろう》の四五点はおもしろいと思って見た。しかし用紙を一ぺんしわくちゃにして延ばしておいてかいたらしいあの技術にどれだけ眩惑《げんわく》された結果であるかまだよくわからない。ともかくもこの人の絵にはいつもあたまが働いているだけは確かである。頭のない空疎な絵ばかりの中ではどうしても目に立つ。
(補記)

近藤浩一路.jpg

「富士山/1940-50(昭和10-20年代)/紙本墨画・65.1×72.2cm/「静岡美術館」蔵」)
https://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/collection_vote/artist.php?AD=ka---kondo_koichiro


 川端竜子《かわばたりゅうし》の絵もある意味であたまは働いているが、いつも少し見当のちがったほうへ働いていはしないか。人に見せる絵と思わないで、自分で一人でしんみり楽しめるような絵をかくつもりでそのほうに頭を使ったら、ずっといい仕事のできる人だろうにと思う。
(補記)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-14

 横山大観《よこやまたいかん》の[瀟湘八景《しょうしょうはっけい》]はどうも魂が抜けている。塗り盆に白い砂でこしらえる盆景の感じそのままである。全部がこしらえものである。金粉を振ったのは大きな失敗でこれも展覧会意識の生み出した悪い企図である。
(補記)

横山大観.jpg

横山大観「曳船」明治34年 足立美術館
https://www.museum.or.jp/event/94077
[横山大観(1868-1958)は、明治・大正・昭和の画壇を牽引した近代日本画の第一人者です。70年に迫る画業の中、常に画壇の第一線に立って活躍し、近代美術史に数多くの名作を遺しました。没後60年以上を経た現在も、その名声は色あせることなく生彩を放っています。](「足立美術館」)

 速水御舟《はやみぎょしゅう》の「家」の絵は見つけどころに共鳴する。しかしこれはむしろやはり油絵の題材でないか。とにかくこの人の絵はまじめであるがことしのは失敗だと思う。
(補記)

速水御舟.jpg

「Hayami Gyoshu作品1(新緑/大正4年(1915) 125.0×81.0 cm)
https://www.adachi-museum.or.jp/archives/collection/hayami_gyoshu
[青々とした若葉が画面いっぱいに描かれ、新緑の爽やかさとともに作者の感動がそのままに伝わってくる。御舟の作品に共通する、不思議な新しい感覚は本作でも感じられ、大正初期に描かれたものとは思えないほど瑞々しさにあふれている。
速水御舟/明治27年(1894)~ 昭和10年(1935)
東京に生まれる。松本楓湖主宰の安雅堂画塾に入門し、日本や東洋古典の粉本模写を通じて技量を磨く。その後、今村紫紅に認められ紅児会に参加。紫紅を生涯の師と仰いだ。大正3年には紫紅や小茂田青樹らと赤曜会を結成。同会解散後は院展に作品を発表。絶えず新しい表現を追求し続け、画壇に大きな足跡を遺した。](「足立美術館」)

 富田渓仙《とみたけいせん》の巻物にはいいところがあるが少し奇を弄《ろう》したところと色彩の子供らしさとが目についた。
(補記)
[冨田 溪仙(とみた けいせん、1879年12月9日 - 1936年7月6日)は、明治から昭和初期に活躍した日本画家。初め狩野派、四条派に学んだが、それに飽きたらず、仏画、禅画、南画、更には西洋の表現主義を取り入れ、デフォルメの効いた自在で奔放な作風を開いた。](「ウィキペディア」)

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渓仙筆 前赤壁図 1921年(「ウィキペディア」)

 あれだけおおぜいの専門的な研究家が集まってよくもあれほどまでに無意味な反古紙《ほごがみ》のようなものをこしらえ上げうるものだという気がする。
 これに反して二科会では、まだあまり名の知られてないようなたぶん若い人たちでも、中には西洋人のまねをしている人はあるとしても――ともかくも何かしら魂のはいった絵をかく人が多い。一つは材料の差異によるにしても。
 最後に一個の希望として、来年あたりから二科会で日本画も募集する事にしたらおもしろいだろうと思う。ただし従来いわゆる日本画の教養を受けた人は出品の資格がないという事にして――これはコントロールがむつかしいかもしれないが――そうして新しい日本画を募集してみたらどうであろう。その結果はおそらく沈滞した日本画界に画時代的の影響を及ぼすようなものになりはしないか。そうなったら自分も一つやってみようかなどとこのようなたわいもない夢のような事を思うのもやはり美術シーズンの空気に酔わされた影響かもしれない。
 勝手なことを書いて礼を失したところが多いと思う。しかし私の悪口は絵に対しての悪口である。名前をあげた限りの「人」に対しては好意と敬愛のほか何物も持っていない事をこの機会に明らかにしておきたい。悪言多罪。](昭和二年十一月、霊山美術)  ]

(追記) 「霊山美術」周辺

霊山美術.jpg

「霊山美術3号(津田青楓編)」(1938=昭和13年)の表紙(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「コラム・津田青楓洋画塾の七年(清水智世稿)」)

※ 寺田寅彦の美術評論「昭和二年の二科会と美術院」の初出の「霊山美術」というのは、津田青楓が開設した「津田青楓洋画塾」(大正十五年=一九二六に、京都市下京区(現・東山区))霊山町に開設した)の、その「塾報」の「霊山美術(RIYOSEN-BIJUTSU)」なのである。
 これが、昭和三年(一九二八)九月に、「鹿ケ谷桜谷町」に移住したことにより、「青楓洋画塾々報(Fusin)=(ヒューザン)」と衣替えをして行く。
 この「ヒューザン」と、「大正元年(一九一二)に斎藤与里、岸田劉生、万鉄五郎、高村光太郎ら後期印象派やフォービスムの影響を受けた青年画家が結成した美術団体の『フューザン・フュウザン会』(同年一〇月に第一回展を銀座の読売新聞社で開き、翌年三月に第二回展を開いたが、その後解散。会名は木炭を意味するフランス語「フューザン」にちなむ)」
とは、その流れを汲む「新しい美術家集団」を目指したネーミングであろうが、直接的な関係はない。
 そして、高村光太郎ら結成した、大正元年(一九一二)の第一回「フューザン会展」に、夏目漱石と寺田寅彦とが来場されて、光太郎の「ツツジ」という作品を、寅彦が購入したことなどが、光太郎の「ヒウザン会とパンの会」(下記アドレス)の中で綴られている。

https://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46380_25635.html

 それだけではなく、当時、夏目漱石が「東京朝日新聞」に、「文展と芸術」という美術評論を書いていて、その中に、「芸術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである」という冒頭の書き出しに、高村光太郎が、「読売新聞」上の「「西洋画所見」という文展評の中で、「芸術は自己の表現に始まつて自己の表現に終るといふ陳腐な言をきく」が、この、漱石の『自己の表現に始つて』という言には承服できないということの反駁文を載せ、この二人の間に確執が生じるということが、両者をよく知る「寅彦と青楓」介在して表面化するという事件らしきものが、内在している。
 これらのことについては、下記アドレスの「漱石と光太郎・・・第六回文展評をめぐる綾・・・(佐々木充稿)」に詳しい。

https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900024588/KJ00004297097.pdf

 ちなみに、当時の「青楓洋画塾」の客員には、「中川紀元・清水登之・東郷青児・安井曽太郎・鈴木信太郎・古賀春江」が名を連ね、その学芸委員に「寺田寅彦・谷川徹三」

青楓塾展のポスター.gif


「青楓塾展のポスター」
https://rakukatsu.jp/tsuda-seifu-20200323/
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