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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その十一) [三十六歌仙]

その十一 三好長慶と毛利元就

三好長慶.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十一 三好長慶」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1479

毛利元就.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二九 毛利元就」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1499

(歌合)

歌人(左方十一) 三好長慶
歌題 寒蘆風衣
和歌 なにはがた入江にわたる風さえて あしの枯葉のおとぞさむけき
歌人概要  戦国期の武将。連歌作者

歌人(右方二九) 毛利元就
歌題 柳 
和歌 あをやぎのいとくり返すそのかみは たが小手巻のはじめ成るらむ
歌人概要 戦国期の武将。歌人、連歌作者  

(歌人周辺)

三好長慶(みよしながよし)生年:大永2.2.13(1522.3.10)  :永禄7.7.4(1564.8.10)

 戦国大名。父は阿波・山城守護代三好元長。幼名千熊丸,通称孫次郎,実名ははじめ範長。伊賀守,筑前守,修理大夫。父元長は天文1(1532)年主細川晴元に疎まれ,同6月一向一揆の攻撃で非業の死を遂げたが,長慶は翌年12歳にして早くも本願寺と晴元の講和を斡旋するなど軍略と勢威に非凡さをみせ,同3年10月には木沢長政の仲介で仇の晴元に帰参した。  
 同8年一時晴元に背くが,8月摂津越水城主となり摂津西半国守護代となる。同11年3月には河内太平寺で長政を敗死させ,晴元被官中最大勢力に成長した。同16年7月,摂津舎利寺の合戦で細川氏綱,遊佐長道の連合軍を破り,その勢いで晴れ初めから離反,宇治綱を擁し,同18年6月摂津江口の戦で晴元軍に大勝,入京して天下人となる。
 その後数年間は将軍足利義輝,細川晴元らと抗戦・和睦を繰り返すが,同22年7月義輝・晴元連合軍を京都霊山に破って将軍らを近江へ追放,事実上の独裁政権を樹立した。江口と霊山の戦勝は,明応2(1493)年以来畿内政治を規定してきた細川宗家による京兆家専制を解体し,のちの織田信長政権のモデルとなる権力を構想したもので意義は大きい。
 以後永禄1(1558)年末まで,旧室町幕府政所執事伊勢貞孝らの補佐を得ながら畿内の最高権力者として専制政治を敷き,分国は山城,丹波,摂津,和泉,淡路,讃岐,阿波の7カ国におよんだ。永禄1年末には将軍義輝と和してその還京を許した。同年山城を失うが翌年河内和泉を,翌々年には大和を併合,本拠を摂津芥川から河内飯盛山に移し,分国数では北条氏と並ぶ大大名に成長する。その領国経営は旧勢力根絶には至らず微温的施策にとどまり,堺や安宅水軍を擁し鉄砲など最先端の軍事技術を保有する半面,キリシタンを受容するなど特異な性格を持った。
 しかし晩年は家宰松永久秀の台頭に押され,嫡子義興を失い,将軍義輝との調整に悩みながら失意のうちに病死した。文芸に秀で,連歌の名手でもあった。<参考文献>今谷明『戦国三好一族』 (今谷明) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/motonari.html


毛利元就(もうりもとなり) 明応六~元亀二(1497-1571) 没年

 弘元の次男として安藝吉田荘(広島県高田郡吉田町)に生れる。母は祥の方。正室は美伊の方。子には隆元・元春・隆景・五龍ほかがいる。大永三年(1523)、兄興元とその子幸松丸の死に伴い、毛利宗家を継ぐ。はじめ尼子氏、ついで大内義隆に仕える。天文十年(1541)、尼子晴久を破る。
 天文二十年、義隆は重臣陶晴賢に離反され追手に囲まれ自害。元就は弘治元年(1555)、厳島合戦で晴賢を敗死させ、主君の仇を討った。同三年、大内義長を滅ぼし、安藝・長門・周防を領国とする。永禄九年(1566)、尼子氏を降し、山陽・山陰十国と豊前・伊予の一部にまで領土を拡げた。
和歌を能くし、『元就卿詠草』『贈従三位元就卿御詠草』『春霞集』(いずれも祖本は同一)と呼ばれる詠草がある。

(三好長慶と毛利元就)

(「三好四兄弟」の死)

https://kamurai.itspy.com/nobunaga/miyosi.htm

 斉藤道三が 息子・義龍に討たれ、織田信長が桶狭間で今川義元を倒した頃、三好家はその政略が実を結び、足利将軍家との講和に成功し、近畿地方の中央部から四国の東側まで広がる広大な領土を持つ大国となっていました。
 しかし近畿地方では相変わらず、政争や権力闘争、内乱が続いていました。細川家の残存勢力はまだ反攻を続けており、足利家も表向きは講和していましたが、裏では三好家の勢力を弱体化させるために様々な工作を行っていました。それらによって各地の勢力も反三好の活動を続けており、三好家 は政略と反乱鎮圧に奔走しなければならなかったのです。
 そんな中・・・ 三好家に、急速に暗雲が垂れ込める事になります。三好長慶 の弟の1人で、四国 における戦いで大活躍し、三好家の中で軍事的に重要な地位を占めていた 「十河一存」 が、急死したのです。
 彼が死んだのは、病死と 事故死 とも言われていますが・・・やや、暗い影が見えるという説もあります・・・さらにその翌年、同じく三好家において政治・軍事の両面で重要な役割を果たしていた 三好長慶 の弟 「三好義賢」 が、三好家に敵対する残存勢力との戦いで、命を落としてしまいます。
 さらに追い討ちをかけるように、評判が高く将来を嘱望されていた 三好長慶 の長男 「三好義興」 も、突然の病死を遂げてしまいます。次々と訪れる身内の不幸と、息子を失ったショックで 長慶 は落ち込み、政務への熱意も冷めてしまいます・・・これらの事件の裏には、三好家の謀略家「松永久秀」 の影があると言われています。
 加えて松永久秀は、三好家の軍事行動のポイントであった淡路島を拠点とする海賊衆「安宅水軍」の頭領で、長慶の弟でもあった「安宅冬康」に策謀をかけ、三好長慶に殺させてしまいます。
四国・近畿・海上、それぞれのトップの将軍をまとめて失った事は、三好家 瞬く間に衰退していく大きな要因となりました。さらに足利家や敵対勢力の裏工作なども続き、精神的に参ってしまった 三好長慶 は、弟や息子の後を追うように、それから間もなく病死してしまいます・・・ 享年、43 歳。

(毛利元就の「三子教訓状」)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第一条
何度も繰り返して申すことだが、毛利の苗字を末代まで廃れぬように心がけよ。

第二条
元春と隆景はそれぞれ他家(吉川家・小早川家)を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはならぬし、毛利を忘れることがあっては、全くもって正しからざることである。これは申すにも及ばぬことである。

第三条
改めて述べるまでもないことだが、三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。諸氏を破った毛利の子孫たる者は、特によその者たちに憎まれているのだから。たとえ、なんとか生きながらえることができたとしても、家名を失いながら、一人か二人が存続していられても、何の役に立つとも思われぬ。そうなったら、憂いは言葉には言い表せぬ程である。

第四条
隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。今でこそ元春と隆景は、それぞれの家中を抑えていくことができると思っているであろうが、もしも、毛利が弱くなるようなことになれば、家中の者たちの心も変わるものだから、このことをよくわきまえていなければならぬ。

第五条
この間も申したとおり、隆元は、元春・隆景と意見が合わないことがあっても、長男なのだから親心をもって毎々、よく耐えなければならぬ。また元春・隆景は、隆元と意見が合わないことがあっても、彼は長男だからおまえたちが従うのがものの順序である。元春・隆景がそのまま毛利本家にいたならば、家臣の福原や桂と上下になって、何としても、隆元の命令に従わなければならぬ筈である。ただ今、両人が他家を相続しているとしても内心には、その心持ちがあってもいいと思う。

第六条
この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。そうすれば、毛利・吉川・小早川の三家は何代でも続くと思う。しかし、そう願いはするけれども、末世のことまでは、何とも言えない。せめて三人の代だけは確かにこの心持ちがなくては、家名も利益も共になくしてしまうだろう。

第七条
亡き母、妙玖に対するみんなの追善も供養も、これに、過ぎたるものはないであろう。

第八条
五龍城主の宍戸隆家に嫁いだ一女のことを自分は不憫に思っているので、三人共どうか私と同じ気持ちになって、その一代の間は三人と同じ待遇をしなければ、私の気持ちとして誠に不本意であり、そのときは三人を恨むであろう。

第九条
今、虫けらのような分別のない子どもたちがいる。それは、七歳の元清、六歳の元秋、三歳の元倶などである。これらのうちで、将来、知能も完全に心も人並みに成人した者があるならば、憐憫を加えられ、いずれの遠い場所にでも領地を与えてやって欲しい。もし、愚鈍で無力であったら、いかように処置をとられても結構である。何の異存もない。しかしながら三人と五龍の仲が少しでも悪くなったならば、私に対する不幸この上もないことである。

第十条
私は意外にも、合戦で多数の人命を失ったから、この因果は必ずあることと心ひそかに悲しく思っている。それ故、各々方も充分にこのことを考慮せられて謹慎せられることが肝要である。元就一生の間にこの因果が現れるならば三人には、さらに申す必要もないことである。

第十一条
私、元就は二十歳のときに兄の興元に死に別れ、それ以来、今日まで四十余年の歳月が流れている。その間、大浪小浪に揉まれ毛利家も、よその家も多くの敵と戦い、さまざまな変化を遂げてきた。そんな中を、私一人がうまく切り抜けて今日あるを得たことは、言葉に尽し得ぬ程不思議なことである。我が身を振り返ってみて格別心がけのよろしきものにあらず、筋骨すぐれて強健なものにもあらず、知恵や才が人一倍あるでもなく、さればとて、正直一徹のお陰で神仏から、とりわけご加護をいただくほどの者でもなく、何とて、とくに優れてもいないのに、このように難局を切り抜け得られたのはいったい何の故であるのか、自分ながら、その了解にさえ苦しむところであり、言葉に言い表せないほど不思議なことである。それ故に、今は一日も早く引退して平穏な余生を送り、心静かに後生の願望をも、お祈りしたいと思っているけれども、今の世の有様では不可能であるのは、是非もないことである。

第十二条
十一歳のとき、猿掛城のふもとの土居に過ごしていたが、その節、井上元兼の所へ一人の旅の僧がやってきて、念仏の秘事を説く講が開かれた。大方様も出席して伝授を受けられた。その時、私も同様に十一歳で伝授を受けたが、今なお、毎朝祈願を欠かさず続けている。それは、朝日を拝んで念仏を十遍ずつとなえることである。そうすれば、行く末はむろん、現世の幸せも祈願することになるとのことである。また、我々は、昔の事例にならって、現世の願望をお日様に対してお祈り申し上げるのである。もし、このようにすることが一身の守護ともなればと考えて、特に大切なことと思う故、三人も毎朝怠ることなくこれを実行して欲しいと思う。もっとも、お日様、お月様、いずれも同様であろうと思う。

第十三条
私は、昔から不思議なほど厳島神社を大切にする気持ちがあって、長い間、信仰してきている。折敷畑の合戦の時も、既に始まった時に、厳島から使者石田六郎左衛門尉が御供米と戦勝祈祷の巻物を持参して来たので、さては神意のあることと思い、奮闘した結果、勝つことが出来た。その後、厳島に要害を築こうと思って船を渡していた時、意外にも敵の軍船が三艘来襲したので、交戦の結果、多数の者を討ち取って、その首を要害のふもとに並べて置いた。その時、私が思い当たったのは、さては、それが厳島での大勝利の前兆であろうということで、いざ私が渡ろうとする時にこのようなことがあったのだと信じ、なんと有難い厳島大明神のご加護であろうと、心中大いに安堵することができた。それ故、皆々も厳島神社を信仰することが肝心であって、私としてもこの上なく希望するところである。

第十四条
これまでしきりにいっておきたいと思っていたことを、この際ことごとく申し述べた。もはや、これ以上何もお話しすることはない。ついでとはいえ言いたいことを全部言ってしまって、本望この上もなく大慶の至りである。めでたいめでたい。

(「バーチャル歌合」(「三好長慶」対「毛利元就」)

歌人(左方十一) 三好長慶
歌題 寒蘆風衣
和歌 なにはがた入江にわたる風さえて あしの枯葉のおとぞさむけき

歌人(右方二九) 毛利元就
歌題 柳 
和歌 あをやぎのいとくり返すそのかみは たが小手巻のはじめ成るらむ

(判詞=宗偽)
 「左方」の歌、「寒蘆風衣」の題を得て、「平明・直叙」の作風は可とするが、「あし(蘆)の枯葉」と「おと(音)のさむけ(寒気)き」に推敲の余地あり。対する、「右方」の句は、歌題の「柳」を「あおやぎ(青柳)」と特定し、続く、「いとくり返すそのかみは」の、その「かみ(「上」と「髪」)」と趣向を凝らし、さらに、「だが(誰か)小手巻(「小手巻き」返しの「技」)と、その連続の「わざ(技)」は見事也。依って、「右方」を「勝」とす。

(毛利元就の一句)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/motonari.html

   躑躅
岩つつじ岩根の水にうつる火の影とみるまで眺めくらしぬ(『春霞集』)

【通釈】岩躑躅が夕日に照り映えて岩根の水に映る火影かと見えるようになるまで、眺め暮らしてしまった。
【語釈】◇岩根 どっしりと大地に根付いた岩。「岩根の水」は岩を巡らした庭池を言うか。◇火の影 水面に映った炎の反映。
【補記】躑躅の赤い花が入日に映えて、燃え上がるような紅へと移りゆく。その変化に見とれるうちに日が暮れてしまったというのである

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

三好長慶二.jpg

三好長慶(狩野蓮長画)

毛利元就二.jpg

毛利元就(狩野蓮長画)
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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その十) [三十六歌仙]

その十 太田持資(道灌)と心前

道灌.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「一〇 太田持資」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1478

心前.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二八 心前」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1497

(歌合)

歌人(左方一〇) 太田持資(道灌)
歌題 冬野
和歌 かり衣すそのの原の花すすき ほの見しかげもしもがれにけり
歌人概要 太田道灌。室町後期の武将  

歌人(右方二八) 心前
歌題 行路時雨
和歌 かへりみるあとの山風ふきしより やがて時雨のみちいそぐらし
歌人概要 桃山期の連歌師 

(歌人周辺)

太田道灌(おおたどうかん) 永享四~文明十八(1432-1486)

 清和源氏、源頼政の末裔と伝わる。扇谷上杉家の執事太田資清の子。幼名は鶴千代、本名は資長(持資とも)。のちに剃髪して法号道灌。相模国に生れる。幼くして鎌倉建長寺等に預けられ勉学に励む。文安三年(1446)、元服して資長を名のり、享徳二年(1453)、従五位下左衛門大夫に叙任される。康正元年(1455)、家督を嗣ぎ、扇谷上杉家の家宰として仕える。翌年、古河公方の南進から扇谷上杉家を守るため江戸城の築城に着手し、長禄元年(1457)、完成入城。文明八年(1476)、山内上杉家の家臣長尾景春が謀反を起こすと、武蔵・相模・下総に景春の軍と戦い、同十二年(1480)、ついに乱を鎮圧した。
 名声は関東に響きわたるが、却って道灌に対する猜疑心・警戒心を主君に抱かせる結果ともなった。同十八年、道灌に謀反の心ありとの讒訴を受け、上杉定正は同年七月二十六日、道灌を相模国糟屋館に誘い出し、刺客に暗殺させた。風呂場で殺される際、道灌は「当方滅亡」と叫んだと伝わる。墓は神奈川県伊勢原市上糟屋の洞昌院などにある。
 和歌を好み、飛鳥井雅世・雅親・心敬に指導を受けた。また冷泉為富や木戸孝範との交友も知られる。文明六年(1474)六月十七日、江戸城内で「武州江戸歌合」を開催。家集『慕景集』が伝わるが、父資清(入道道真)の家集の誤伝とする説など、古くから道灌の家集であることに疑義が呈されている。他に飛鳥井雅親に点を請うた『花月百首』など。

心前(しんぜん) ?-1589? 戦国-織豊時代の僧,連歌師。

 真言宗奈良元興寺の高坊(たかんぼう)にすむ。のち京都にうつり,里村紹巴(じょうは)の側近となり,おおくの連歌にくわわる。代表作に母の十三回忌追善の独吟「心前千句」。天正(てんしょう)17年11月16日?死去。俗姓は蘆中。号は蘆箏斎,蘆中庵。 (出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて)

(太田道灌の「武州江戸歌合」など)

武州江戸歌合.jpg

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0204-034707

 この太田道灌が主宰した「武州江戸歌合」は、文明六年(一四七四)六月十七日に、道灌が築城した「江戸城」で興行された。判者は心敬(「集外三十六歌仙図画帖(抱一筆)」の「右方三〇 心敬」)その人である。心敬は、この翌年(文明七年=一四七五)、その七十年の生涯を閉じている。

 上記の、「海上夕立 心敬判 三井寺心敬僧都」の「海上夕立」は、当興行の、その「御(お)題=歌題」である。
 そのトップ(一番)は、「左方 平盛」で、「右方 心敬」との「組合せ」(番い)である。
その二番手が、「左方 孝範」と「右方 道灌」との「組合せ」(番い)である。
 
「左方 孝範(たかのり)」
 ↓
潮(しほ)を吹く沖の鯨のわざならで一筋くもる夕立の空     木戸孝範
(潮を吹く 沖の鯨の技のように、一筋曇る 夕立の空)

 「右方 道灌(どうかん)」
  ↓
海原(うなばら)や水巻く竜の雲の浪はやくもかへす夕立の雨  太田道灌
(海原の その竜巻の雲の浪、一瞬にして化す 夕立の雨)

(木戸孝範)きべたかのり(きど-) 永享六~文亀二以後(1434-1502以後)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/takanori_k.html


 上野国木部邑(今の群馬県邑楽郡大泉町)出身の豪族。木戸氏は清和源氏新田流とも言うが、『兼載雑談』は孝範を桜町中納言の末裔で藤家の血筋と伝える。代々関東管領の重臣の家柄。父小府は連歌の上手であったという(『雲玉和歌抄』)。
 永享八、九年(1436~7)頃、父が自殺し、嘉吉二年(1442)、九歳の時に将軍義教のはからいで上洛する。下冷泉持為に和歌を学び、貞常親王や正徹の指南も受けたらしい。文明以後は関東に住み、文明六年(1474)、太田道灌主催の「武州江戸歌合」(心敬判)に参加するなど、関東歌壇で活躍。自ら歌合の判者を務めることもあった。
 心敬・道灌・宗祇等との親交が知られる。文亀二年(1502)七月までの生存が確認でき(六十九歳)、その後まもなく没したか。自撰と思われる家集『孝範集』には百数十首の歌を残す。他に『自讃歌注』等の著がある。

 どちらも、当代きっての武将に相応しい、豪快なイメージの歌である。この二首の「歌合」の判定(判者=心敬)は、「右方道灌」の「勝」となっている。ここは、この「歌合」の実質的な主宰者である太田道灌に意を払ってのもののように思われる。

(「歌合」概要と用語) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

概要

審判役を判者(はんざ)、判定の詞(ことば)を判詞(はんし)という。この判詞はだんだんと文学的な性格を帯びるようになり、歌論へとつながっていった。役割は判者の他に方人(かたうど;歌を提出する者)、念人(おもいびと;自陣の歌を褒め、弁護する役)とがあり、左右両陣の念人による一種のディベートによって判者の判定を導くものである。
平安時代に始まり、記録にあるものとしては仁和元年(885年)の在民部卿家歌合が最古のものとされる。他に天徳4年(960年)の天徳内裏歌合、建久3年(1192年)の六百番歌合、建仁元年(1201年)の千五百番歌合などが名高い。基本的に「遊び」であるが、平安期には歌の優劣が出世にもかかわる重大事であったため今日行われるような気軽なものではない。また、時代が下るにつれて文学性が高くなり、前述のように「判詞」が文学論・歌論としての位置づけを持つようになった。
近代短歌以後、「遊び」の要素が嫌われて一旦廃れたが、1980年代ころからまた行われるようになってきている。念人は歌をどれだけ高く評価し、その良さを引き出すことができるか、という読みの力を試され、また方人はその掘り下げに耐える深みのある歌を作る力を試されることになり、これは近代以降の文学としての短歌にとっても有用なことであると考えられるようになったためである。

用語

●方人(かたうど)
歌合の歌を提出する者。作者。平安期には身分の低い者に詠ませることがあり、その場合には歌合には方人は出席しないが今日では念人と同一である場合がほとんどである。
●念人(おもいびと)
自陣の歌を褒め、敵陣の歌の欠点を指摘して議論を有利に導く。方人と同一視されることも多い。複数が左右に別れて評定(ひょうじょう;ディベート)を行う。
●判者(はんざ)
左右の歌の優劣を判定して勝敗を決める。持(じ;引き分け)とする場合もある。主に歌壇の重鎮が務める。新古今時代以降、衆議判と言って、参加者によって優劣が判定されることも多くなった。
●講師(こうじ)
歌合の場で歌を読み上げる役。読み上げることを披講(ひこう)という。披講は左方を先に行う。平安時代は左右それぞれにいたが、のちに一人となった。現代では特に置かないことが多い。
●判詞(はんし)
判者が述べる判定の理由。
●題(だい)
優劣の判断がつくように歌合の歌は現代においても題詠である。
●左方(ひだりかた)・右方(みぎかた)
高舞台の上に左右各5人に分かれて着座し、左方は青の装束、右方は赤の装束を着用して、歌合を行う。

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

道灌二.jpg

太田持資(道灌)(狩野蓮長画)

心前二.jpg

心前(狩野蓮長画)

(参考)「愛宕百韻」での「心前」の句(十五句)

初表
06  かたしく袖は有明の霜         心前  冬(霜)・夜分・降物・衣装
初裏
13  漕ぎかへる蜑(あま)の小舟の跡遠み  心前  雑・水辺
20  我よりさきにたれちぎるらん      心前  雑・恋・人倫
二表
25  泊瀬路やおもはぬ方にいざなわれ    心前  雑・旅
30  あらためかこふ奥の古寺        心前  雑・釈教
二裏
39  鴛(をし)鴨や下りゐて羽をかはすらん 心前  冬(鴛・鴨)・水辺・鳥
48  所々にちる柳陰            心前  秋(ちる柳)・木
三表
51  下(した)解くる雪の雫の音すなり   心前  春(解くる雪)・降物
62  夕さびしき小(さ)雄鹿の声      心前  秋(小雄鹿)・獣
三裏
65  みどり子の生い立つ末を思ひやり    心前  雑・述懐・人倫
72  秋の螢やくれいそぐらん        心前  秋(秋の蛍)・虫
78  引きすてられし横雲の空        心前  雑・聳物
名残表
81  むら蘆の葉隠れ寒き入日影       心前  冬(寒き)・光物・水辺・草
90  石間(いはま)の苔はいづくなるらん  心前  雑・草
名残裏
99  色も香も酔をすすむる花の本      心前  春(花)・木

(補注)
「06 かたしく袖は有明の霜」の「かたしく袖」は「ひとり寝の袖」。
「13 漕ぎかへる蜑(あま)の小舟の跡遠み」の「蜑の小舟」は「漁夫の釣りする小さな船」。
「25 泊瀬路(はつせぢ)や」の「泊瀬路」は『源氏物語』(玉鬘)の「奈良県桜井市初瀬」の「初瀬詣で」の意。
「99 色も香も酔をすすむる花の本」は「花のもと露のなさけは程もあらじゑひなすすめそ春の山かぜ」(『新古今』寂然)の本歌取り。
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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その九) [三十六歌仙]

その九 兼裁と細川玄旨

兼裁.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「九 兼裁」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1477

「幽斎.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二七 細川玄旨」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1496

(歌合)

歌人(左方九) 耕閑斎兼載
歌題 浦擣衣
和歌 秋ふかくなるをのうらの蜑人(あまびと)は しほたれ衣いまやうつらむ
歌人概要  室町期の連歌師

歌人(右方二七) 細川玄旨(幽斎)
歌題 田鹿
和歌 さすがまた小田もる賤(しづ)も鹿の音の 遠ざかるをばしたひてや聞く
歌人概要 細川幽斎。桃山~江戸期の武将。歌人、連歌作者  

(歌人周辺)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kensai.html

兼載( けんさい) 享徳元~永正七(1452-1510) 号:相園坊・耕閑軒

 奥州の名族、猪苗代氏の出。式部少輔盛実の子。初名、宗春。若くして出家したらしい。文明二年(1470)頃、応仁の乱を避けて関東流浪中の身であった心敬に師事する。心敬没後、文明七年(1475)前後に上京し、以後京の連歌界で活躍する。この間和歌にも精進し、飛鳥井雅親・雅康ら和歌宗匠や姉小路基綱・三条西実隆ら公家歌人と親交を持った。地方に下っては木戸孝範ら武家歌人とも交わる。文明十八年(1486)頃、初めて兼載を名乗る。
 延徳元年(1489)、宗祇の辞任に伴い、北野連歌会所奉行・連歌宗匠に三十八歳の若さで就任する。明応三年(1494)、堯恵に入門し、古今集の講説を受ける(堯恵からは『愚問賢注』『井蛙抄』なども授けられた)。同四年、宗祇を助けて『新撰菟玖波集』を編纂するが、入集句をめぐって意見の対立があった。この間、山口・阿波・関東・奥羽などを巡り、各地の大名を歴訪している。明応九年(1500)、京の大火で住居を焼失、翌年の文亀元年(1501)、京を離れて岩城に草庵を結ぶ。のち会津や古河に住み、永正七年六月六日、古河にて病没した。五十九歳。墓は栃木県下都賀郡野木町の満福寺にある。
 句集に『園塵』、連歌論書に『心敬僧都庭訓』『連歌延徳抄』ほかがある。また弟子の兼純が筆録した『兼載雑談』がある。和歌関係の著書としては『万葉集之歌百首聞書』『新古今抜書抄』『自讃歌聞書』『兼載名所方角和歌』などがある。家集『閑塵集』に三百七十余首の歌を残す。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yusai.html

細川幽斎( ほそかわゆうさい) 天文三~慶長一五(1534~1610) 号:玄旨

 本名藤孝。三淵伊賀守晴員の次男(実父は将軍足利義晴という)。母は清原宣賢の娘。忠興の父。七歳の時、伯父細川常元の養子となり、足利将軍家に仕える。永禄八年(1565)、将軍義輝が三好党に攻められて自殺した後、奈良興福寺に幽閉されていた義輝の遺児覚慶(のちの義昭)を救出し、近江へ逃れる。その後、義昭を将軍に擁立した織田信長の勢力下に入り、明智光秀とともに丹波・丹後の攻略などに参加。これらの功により、信長から丹後を与えられた。
 光秀とは親しく、縁戚関係にあったが、天正十年(1582)本能寺の変に際しては剃髪して信長への追悼の意を表した。その後豊臣秀吉に迎えられ、武将として小田原征伐などに従う一方、千利休らとともに側近の文人として寵遇された。慶長五年(1600)、丹後田辺城にあった時、城を石田三成の軍に囲まれたが、古今伝授の唯一の継承者であった幽斎の死を惜しんだ後陽成天皇の勅により、難を逃れた。徳川家康のもとでも優遇され、亀山城に隠棲。晩年は京都に閑居した。熊本細川藩の祖である。
 剣術・茶道ほか武芸百般に精通した大教養人であった。歌は三条西実枝に学び、古今伝授を受け、二条派正統を継承した。門人には智仁親王・烏丸光広・中院通勝などがいる。また松永貞徳・木下長嘯子らも幽斎の指導を受けた。後人の編纂になる家集『衆妙集』がある。『詠歌大概抄』『古今和歌集聞書』『百人一首抄』などの歌書のほか、『九州道の記』『東国陣道の記』など多くの著書を残す。

(「幽斎逸話」と「古今伝授」周辺)

一 上記の「実父は将軍足利義晴という」というのは、「「幽斎逸話」の一つで、幽斎の生母の「智慶院」(清原宣賢の娘)は、室町幕府第十二代将軍足利義晴の側女で、その「義晴」のご落胤という説に由来する。とすると、幽斎と、足利将軍義輝(第十三代)、義昭(第十五代)とは異母兄弟ということになる。

https://sengoku-history.com/2017/08/03/busyo-yusai/

 さらに、この『集外三十六歌仙図画帖(抱一筆)』に登場する唯一の女性の「浄通尼」(「左方三」)は、その第十二代将軍足利義晴の生母なのである。

二 上記の「古今伝授の唯一の継承者であった幽斎の死を惜しんだ後陽成天皇の勅により、難を逃れた」との、「古今伝授の唯一の継承者」というのは、『集外三十六歌仙図画帖(抱一筆)』の「平(東)常縁」(「左方一」)「宗祇」(「右方一九」)「宗長」(「左方四」)「永閑」(左方六)と深く関わりがあるもので、「永閑」(左方六)で紹介した「伝授系図(古今伝授)」(『戦国武将と連歌師(綿貫豊昭著)』所収)は、この幽斎への「古今伝授」を主としてのものと思われる。

伝授系図.jpg

(『戦国武将と連歌師(綿貫豊昭著)』)

四 古今伝授(こきんでんじゅ)または古今伝受とは、勅撰和歌集である古今和歌集の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えたもの。狭義では東常縁から宗祇に伝えられ(上記「系図」の「常縁から宗祇へ)、以降相伝されたものを指す。

五 宗祇は三条西実隆と肖柏に伝授を行い、肖柏が林宗二に伝えたことによって、古今伝授の系統は三つに分かれることになった。三条西家に伝えられたものは後に「御所伝授」、肖柏が堺の町人に伝えた系譜は「堺伝授」、林宗二の系統は「奈良伝授」と呼ばれている。
(上記の「系図」は、この「御所伝授」のものと解せられる。この「系図」には、肖柏と林竹二は出てこない。)

六 堺伝授は堺の町人の家に代々受け継がれていったが、歌人でない当主も多く、ただ切紙の入った箱を厳重に封印して受け継ぐ「箱伝授」であった。一方で世間には伝来のない古今伝授の内容が流布され、民間歌人の間で珍重されるようになった。しかし和歌にかわって俳諧が広まり、国学の発展によって古今和歌集解釈が新たに行われるようになると、伝授は次第に影響力を失っていった。

七 「御所伝授」
三条西家は代々一家で相伝していたが、三条西実枝はその子がまだ幼かったため、後に子孫に伝授を行うという約束で細川幽斎に伝授を行った。ところが慶長5年(1600年)、幽斎の居城田辺城は石田三成方の小野木重次らに包囲された(田辺城の戦い)。幽斎が古今伝授を行わないうちに死亡し、古今伝授が絶えることをおそれた朝廷は勅使を派遣し、幽斎の身柄を保護して開城させた。幽斎は八条宮智仁親王、三条西実条、烏丸光広らに伝授を行い、1625年(寛永2年)、後水尾上皇は八条宮から伝受をうけ、以降この系統は御所伝授と呼ばれる。

八 「御所伝授」の内容
御所伝授は口伝と紙に記したものを伝える「切紙伝授」(きりがみでんじゅ)によって構成されている。烏丸家には現存最古とされる切紙と、その付属書類が伝わっており、その内容を知ることができる。切紙は単に受け継がれただけではなく、近衛尚通や幽斎によって書かれたものも存在しており、また時代が下ると次第に内容が書き加えられていく傾向があった。また師が弟子に伝達したことを認可する証明書も含まれている。幽斎は肖柏の一族から堺伝授の切紙を買い上げており、その経緯もともに伝授されている。

 上記の「四~七」については、「出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」のものである(川瀬一馬「古今伝授について : 細川幽斎所伝の切紙書類を中心として」 『青山學院女子短期大學紀要』第15号、青山學院女子短期大學)。

(『三鳥・三木・三草秘伝之書』周辺)

 上記の「系図」(『戦国武将と連歌師(綿貫豊昭著)』所収)は、『三鳥・三木・三草秘伝之書』に収載されているものなのだが、「古今伝授」の内容の一つに「三鳥・三木・三草」に関するものがある。

三鳥・三木・三草.jpg


http://tombo-topos.blogspot.com/2011/09/blog-post_12.html


三鳥
百千鳥(ももちどり)
稲負鳥(いなおほせどり)
呼子鳥(よぶこどり)

三木
御賀玉木(をがたまの木)
※河菜草(かはなくさ)→ やまがきの木  
※蓍に削り花(めどにけづりばな)→ かには桜

三草
※川菜草(かはな草)
※蓍に削り花(めどにけづり花)
呉の母(くれのおも) → さがり苔

一 この「三鳥・三木・三草」については、「紙」に書かれたものと「口伝」のものとがある。上記の「三鳥・三木・三草」の内容は「紙」に書かれたもので、これが、「口伝」になると、例えば、「三鳥」は、次のような比喩のようである(『戦国武将と連歌師(綿貫豊昭著)』)。

三鳥
百千鳥(ももちどり)→「臣」の比喩→さえずる様が群臣の王命に従うようだから
呼子鳥(よぶこどり)→「関白」の比喩→当期を知らせるから
稲負鳥(いなおほせどり)→「帝」の比喩→すべての鳥の根源だから

28 ももちどり(百千鳥)さへづる春は物ごとにあらたまれども我ぞふり行く(よみ人しらず)
29 をちこちのたづき(立つ木)もしらぬ山なかにおぼつかなくもよぶこどり(呼子鳥)かな(同上)
208 わが門(かど)にいなおほせ鳥(稲負鳥)のなくなへにけさ吹く風に雁(かり)は来にけり(同上)
306 山田もる秋のかりいほ(庵)におく露はいなおほせ鳥(稲負鳥)涙なりけり」(ただみね=壬生忠峯)

『角川ソフィア文庫 古今和歌集(窪田章一郎校注)』


二 また、この「三鳥・三木・三草」に関して、この「三鳥」については、「百千鳥(ももちどり)・稲負鳥(いなおほせどり)・呼子鳥(よぶこどり)」の説が定説のようなのだが、「三木・三草」については、説が分かれるようである。

https://blog.goo.ne.jp/kotodama2009/e/83ab18a7ea25e9134494888a7ed2751c

「三鳥・三木・三草」(A説)
 三鳥(百千鳥・稲負鳥・呼子鳥)・三木(をがたまの木・やまがきの木・かには桜)・三草(かはな草・めどにけづり花・さがり苔)

「三鳥・三木」(B説)
  三鳥(百千鳥・稲負鳥・呼子鳥)・三木(をがたまの木・かはな草・めどにけづり花)

 この他に、「三鳥・三木・一草」(C説)もあるようである。

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0020-65703

三 この「三鳥・三木・三草」関連については、主として、『古今和歌集』「巻十物名(もののな)」に由来があるようである。

431   をがたまの木
  みよしののよしのの滝にうかびいずる あわをかたまのきゆ(「をがたまのき)と見ゆら  
  む     とものり(紀友則)  
(脚注)泡「をか玉の消」ゆに、題を読み込む。

449    かはなぐさ
  うばたまの夢に何かはなぐさ(かはなぐさ)まむ うつつにだにもあかぬ心を  
         ふかやぶ(清原深養父)
(脚注)何(なに)「かはぐさ」まむに、題を詠み込む。

445 二条の后、春宮のみやすん所と申しける時に、
    「※めどにけづり花」させりけるをよませたまひける
  花の木にあらざらめども咲きにけり ふりにしこのみなるときもがな
         文屋やすひで(文屋康秀)
(※補注)詞書の「めど」に両説がある。一つは蓍。めどはぎ・めど・めどぎ・めどくさなどと呼ぶ植物。まめ科の灌木状の多年生草本。茎は直立して一メートル
ほど。初夏、花が咲く。この茎を占に用いる筮(めどき)とする。「けずり花」との関係は、この茎を結い集めて挿してあったろうとする。他の一つは馬道(めど・めどう)。殿舎内の長廊下、または殿舎をつなぐために厚い板を渡し、取りはずしのできる廊下で、そこに「けづり花」が挿してあったことになる。「けづり花」は、十二月の御仏名のときに用いたもので、木を削って花の形に作ったものである。歌意は、「花の咲くような木ではなさそうですが、花の咲いたことです。この上は、古くなった果実(このみ)のなる時があって欲しいと思います」という意を詠み込んでいる。題の「めど」とは関係なく、内容は二条の后への訴えである。

『角川ソフィア文庫 古今和歌集(窪田章一郎校注)』


(稲負鳥)
http://birdnewsjapan.seesaa.net/article/426345011.html

秋の季語に「稲(いな)負(おおせ)鳥(どり)」がある。和歌の秘伝「古今伝授(こきんでんじゅ)」が挙げる鳥の一つだが、正体は諸説があって分からない。藤(ふじ)原(わらの)定家(さだいえ)はセキレイ説、江戸時代の歌人・香川景樹(かがわかげき)はカワラヒワ説、同じく国学者の本居宣長(もとおりのりなが)はニュウナイスズメ説という(夏井(なつい)いつき著「絶滅寸前季語辞典」)▲秘伝がらみで、正体は謎というのが、俳人の遊び心を刺激してきたのだろうか。そうそうたる歌人らが諸説をくり広げてきたのもおもしろい。なかには稲の種を背負って日本にもたらした鳥だという言い伝えもあるようだ。

(百千鳥)
https://blog.goo.ne.jp/oldcat001/e/59ea64bd02ef62989e4fef4cdf0e58be

百千鳥、呼子鳥、稲負鳥の古今伝授の三鳥と言われるが、何の鳥を指すかは不明であった。鶯を指すという説もあったようだが、これは否定されている。現在は百千鳥と言えば、囀と同義語と考えられるが、囀は声に重点を置くのに対して、百千鳥はいろいろな鳥の姿に重点が掛かると考えたい。鳥が集まるのだから鳴き声は聞こえている。

    入り乱れ入り乱れては百千鳥  正岡子規

 描写が平明であるから誰にでもよくわかる句である。と言ってもこれは百千鳥の説明ではなく描写である。いくつかの鳥が木の枝に止まったり飛んだりしているのだが、どれも目まぐるしく動きまわっているのだ。どれ一羽としてじっとしているものはない。もちろん鳴き声も聞こえて騒がしい限りである。百千鳥を平明な表現で写生している。
  ↑
 この正岡子規の一句、古今伝授の説が、「入り乱れ・入り乱れ」て、その一つが「百千鳥」と解すると面白い。『宗祇袖下』では、「百千鳥は鶯のことにや。ただし、初春は万鳥のことにや。句の体によるべし」とある。子規居士は、宗祇御大などの「古今伝授」の「入り乱れ・入り乱れて」の、その様を一句にしているのかも知れない。

(呼子鳥)
http://akaitori.tobiiro.jp/kokin.htm

「カッコウ説/ツツドリ説(中西悟堂)/ヒヨドリ説/アオバト説/ゴイサギ説/アトリ説/猿説/山彦説」

駒なづむ木曽のかけ路の呼子鳥誰ともわかぬこゑきこゆなり  山家集
瀧の上の三船の山ゆ秋津辺に来鳴きわたるは誰呼児鳥     作者不詳
尋常に聞くは苦しき呼子鳥声なつかしき時にはなりぬ     大伴坂上郎女
をちこちのたつきも知らぬ山中におぼつかなくも呼子鳥哉   古今集
むつかしや 猿にしておけ 呼子鳥             室井其角
 ↑
 この最終尾の其角の一句「むつかしや猿にしておけ呼子鳥」(『五元集脱漏』)は、西鶴の「呼子鳥はねに替て毛がはへた」(『大矢数』)を念頭においての一句なのかも知れない。西鶴の句は、「呼子鳥は、いつのまにか、その羽に代わって、毛を生やして、猿になってしまった」という句らしい(『戦国武将と連歌師(綿貫豊昭著)』)。

 上記のアドレスの記事によると、「稲負鳥」の「ニュウナイスズメ説」は「本居宣長」の説とか(?)
 その本居宣長の「古今伝授」観は、次のとおり。

「古今伝授大いに歌道のさまたげにて、此道の大厄也」(『排蘆小船(あしわけおぶね)』)

https://philosophy.hix05.com/Japanese/Norinaga/norinaga06.ashiwake.html

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

兼裁二.jpg

耕閑斎兼裁(狩野蓮長画)

幽斎二.jpg

細川玄旨(幽斎)(狩野蓮長画)

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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その八) [三十六歌仙]

その八 沙門正広と宗牧

正広.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「八 沙門正廣」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1512

宗牧.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二六 宗牧」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1495

(歌合)

歌人(左方八) 沙門正廣
歌題 初逢恋
和歌 鉤簾(こす)の外(と)にひとりや月のふけぬらむ 夜ごろの袖の涙たづねて
歌人概要  正徹門人

歌人(右方二六) 宗牧
歌題 初冬時雨
和歌 けふつひに秋の時雨のあらましを そらごとにせぬ冬は来にけり
歌人概要  戦国期の連歌師

(歌人周辺)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syoukou.html

正広(しょうこう) 応永十九~明応三(1412-1494)

 近江源氏佐々木氏の一族、松下氏の出。正晃・正晄とも。別号晴雲。初め東福寺に所属したらしい。十三歳の時、正徹に入門し、以後、師の没する長禄三年(1459)まで親しく仕え、教えを受けた。正徹没後、招月庵を継承し、師の遺草を集めて『草根集』を編纂する。応仁の乱のため都を離れ、奈良・関東・北陸等を放浪したが、その間も各地の歌会・歌合に招かれ、判者を務めるなどした。 将軍足利義尚に和歌を指導したこともある。最晩年まで創作力は衰えなかったが、明応二年~三年頃、亡くなったと推測される。代表作「小簾のとにひとりや月の更けぬらん日比の袖の涙たづねて」に因み、「日比(ひごろ)の正広」の通称があった。
 康正三年(1457)九月の招月庵一門とその歌友が集まった「武家歌合」、文明十四年(1482)六月の将軍足利義尚開催の「将軍家歌合」などに参加。家集『松下集』があり、文明六、七年頃の詠を集めた『正広詠歌』、文明五年(1473)駿河に下った際の紀行『正広日記』等もある。一条兼良・宗長・飛鳥井雅親(栄雅)・今川範政など、公家・武家・地下を問わず幅広い交友を持った。門弟に桂厚・正韵がいる。

谷宗牧(たにそうぼく)生年:生年不詳 没年:天文14.9.22(1545.10.27)

 戦国時代の連歌師。越前国一乗谷(福井市)出身といわれる。号は孤竹斎。子に宗養がいる。宗碩に連歌を学び,宗長にも師事し,飯尾宗祇,猪苗代兼載の句風を理想として修業をした。伊勢,近江,関東,中国,九州など地方にたびたび下向。宗長,宗碩亡きあと,連歌界の第一人者となり,天文5(1536)年9月には連歌宗匠になっている。繊細で巧みな句風で,発句に「水遠きかりがね送る柳かな」,「月みばとのみ契り置く秋」の前句に付けた「色々の花はあれども萩の露」などがある。三条西家,近衛家とつながりを持ち,死に臨んでは近衛稙家に,一子宗養の庇護を願っている。連歌論に宗養のために記した『当風連歌秘事』や『四道九品』『闇夜一灯』などがある。(伊藤伸江)  出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(正広の恋の一首)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syoukou.html

逢恋
小簾(こす)のとにひとりや月の更けぬらん日比(ひごろ)の袖の涙たづねて(『松下集』)

【通釈】簾の外で、月はひとり残されたまま夜を更かすのだろうか。常々宿っていた、私の袖の涙を探し求めて。

【補記】平生、訪れない恋人を恨んで女は涙に袖を濡らし、そこに月を映していたのだが、今宵は珍しく恋人と逢っているために、月の光は宿る場所を失って家の外で途方に暮れている、というのである。一首に恋物語を凝縮したようなこの歌は評判となり、作者は「日比の正広」の通称を得た。『三百六十番自歌合』、恋雑二十七番左。『正広詠歌』にも見え、配列からすると文明七年、住吉での作か。

『集外三十六歌仙図画帖(抱一筆)』での一首は次のものである。

初逢恋
鉤簾(こす)の外(と)にひとりや月のふけぬらむ夜ごろの袖の涙たづねて(『集外三十六歌仙図画帖(抱一筆)』)

 「日比(ひごろ)の袖の涙たづねて」(『松下集』)と「夜ごろの袖の涙たづねて」(『集外三十六歌仙図画帖(抱一筆)』)との「日比(ひごろ)」(幾日もの意か?)と「夜ごろ」(幾夜の意か?)とは、ややニュアンスが異なるような印象を受ける。「補注」の「日比の正広」の通称を得たとなると「日比(ひごろ)」の方が一般的なのかも知れない。

『丹鶴叢書. 草根(そうこん)集 上』(翻刻)は、次のアドレスで閲覧することが出来る。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088305

正広二.jpg

沙門正廣(狩野蓮長画)

宗牧二.jpg

宗牧(狩野蓮長画)
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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その七) [三十六歌仙]

その七 正徹と紹巴

正徹.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「左方七 正徹」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1511

紹巴.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「右方二五 紹巴」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1494

(歌合)

歌人(左方七) 正徹
歌題 月前雁
和歌 しらさぎの雲井遥かに飛びきえて おのが羽こぼす雪のあけぼの
歌人概要  室町中期の歌人

歌人(右方二四)紹巴
歌題 佛名
和歌 夕々(ゆふべゆふべ)ほとけのみなをとなへつつ つみもきえ行く衣手のつゆ
歌人概要 戦国期~桃山期の連歌師

(歌人周辺)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syoutetu.html

正徹(しょうてつ) 永徳元~長禄三(1381-1459) 庵号:松月庵 道号:清巌(せいがん)

 備中国小田郡小田庄、神戸山城主小松康清(または秀清)の子と伝える。幼名は尊明または尊明丸。長じて正清(信清とも)と名のった。
 幼くして父母に従い上洛。十四五歳の頃、冷泉派の歌会に交わり、やがて冷泉為尹・今川了俊に師事する。若くして仏道に志し、東山霊山称名寺に草庵を構えるなどしていたが、応永十七年(1410)以後、東福寺に入り、東漸和尚に師事した(寺では書記を勤めたため、「徹書記」と通称され)。
 東福寺の塔頭の一つ栗棘庵の一室を松月庵と名付けて住んだ(のち招月庵と改める)。この間歌道にも精進し、同二十一年(1414)四月、頓証寺法楽一日千首には著名歌人と共に出詠し、ひとかどの歌人と認められていたことが窺える。やがて春日西洞院に住み、今熊野の草庵に移ったが、この草庵は永享四年(1432)四月火災に遭い、三十余帖に書写した二万六七千首の自作和歌が灰燼に帰したと言う。
 若い頃は冷泉家の歌学に影響を受けたが、その後藤原定家の風骨を学び、夢幻的・象徴的とも評される独自の歌境を切り拓くに至った。一条兼良の信任を受け、上流武家歌人との交友は広く、京洛歌壇で抜きん出た存在となるが、永享期に六代将軍足利義教の怒りに触れ、草庵領小田庄を没収されるという憂き目に遭った。永享十一年(1439)に完成した新続古今集の撰に漏れたのも、義教の忌避の影響が及んだものであろうと言う。
 義教の死後は歌壇に復帰し、京都・堺周辺の公家・武家・寺社で催された歌合・歌会で活躍した。八代将軍義政には厚遇され、源氏物語を講義するなどした。康正二年(1456)、義教によって没収されていた小田庄を恢復。長禄三年(1459)五月九日、七十九歳で死去した。
 弟子に正広・心敬・宗砌・智蘊・細川勝元などがいる。弟子の正広が編纂した家集『草根集』に和歌一万千余首を収める。また同集の抄出本『正徹千首』(一条兼良編か)がある。歌論書に永享元年(1429)頃執筆の『正徹物語』、紀行文に『なぐさめ草』がある。草仮名の書家としても名をなす。古典の書写は多く残るが、ことに『徒然草』正徹本は名高い。勅撰集への入集は無い。

里村紹巴(さとむらじょうは) 生年:大永5(1525) 没年:慶長7.4.12(1602.6.2)

 安土桃山時代の連歌師。号,臨江斎。奈良興福寺一乗院の小者松井昌祐の子と伝えられる。里村姓は師里村昌休の姓による。連歌を周桂,昌休に,和歌,古典を三条西公条に学んだ。永禄7(1564)年谷宗養が没して連歌界の第一人者となり,近衛稙家,三好長慶,細川幽斎らと交友を深める一方,明智光秀や豊臣秀吉の信任を得た。光秀との『愛宕百韻』,秀吉毛利攻めの戦勝祈願『羽柴千句』などが有名。文禄4(1595)年,豊臣秀次の事件に連座,のちに許されたが失意のうちに没した。
 剛直にして細心,したたかに乱世を生き抜いた人物で,弟子の松永貞徳は「正直正路」「力も心も大剛の人」と評し,辻切りの刀を奪い取って織田信長にほめられた逸話を記している。連歌論に『至宝抄』『連歌教訓』,紀行に『紹巴富士見道記』などがあり,一座した連歌はすこぶる多い。<参考文献>小高敏郎『ある連歌師の生涯』,奥田勲『連歌師―その行動と文学』
(沢井耐三)( 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について)

(正徹と紹巴)

 正徹は、十四世紀の「連歌時代」がスタートする頃の「地下(じげ)連歌」(「殿上連歌」に対する)をリードしていた代表的な「歌人」、そして、紹巴は、十六世紀の「連歌時代」(「殿上連歌」と「地下連歌」を止揚した「連歌の時代」)のゴールする頃の代表的な「連歌師」として、直接的な接点はない。
 ここで、この十四世紀から十六世紀の「連歌の時代」というのは、「救済・周阿時代(十四世紀)」の「熱狂」から、「心敬・宗祇時代(十五世紀)」の「洗練」、そして、「宗養・紹巴(十六世紀)」の「過度」との、「三つのピークで連歌史を把えることができる」(『連歌師---その行動と文学---(奥田勲著)』)を背景とすると、「正徹と紹巴」との二人の関係が明白となってくる。
 すなわち、「連歌時代」をスタートさせたのは「正徹」その人で、その「連歌時代」がゴール地点は「紹巴」その人ということになる。


(参考)愛宕百韻 → 『新潮日本古典集成 連歌集(島津忠夫校注)』など

天正十年愛宕百韻(賦何人連歌)
          天正十年(一五八二)五月二十四日 於愛宕山威徳院

(初表)                      (式目=句材分析など)
01  ときは今天(あま)が下しる五月哉   光秀  夏(五月)・切字(哉)
02  水上(みなかみ)まさる庭の夏山    行祐  夏(夏山)・山類・水辺・居所
03  花落つる池の流れをせきとめて     紹巴  春(花)・水辺・木
04  風に霞を吹き送るくれ         宥源  春(霞)・聳物
05  春も猶(なほ)鐘のひびきや冴えぬらん 昌叱  春(春)
06  かたしく袖は有明の霜         心前 冬(霜)・夜分・降物・衣装
07  うらがれになりぬる草の枕して     兼如  秋(うらがれ)・旅
08  聞きなれにたる野辺の松虫       行澄  秋(松虫)・旅・虫
(初裏)
09  秋は只(ただ)涼しき方に行きかへり  行祐  秋(秋)
10  尾上(をのへ)の朝け夕ぐれの空    光秀  雑・山類
11  立ちつづく松の梢やふかからん     宥源  雑・木
12  波のまがひの入海(いりうみ)の里   紹巴  雑・水辺・居所
13  漕ぎかへる蜑(あま)の小舟の跡遠み  心前  雑・水辺
14  隔たりぬるも友千鳥啼く        昌叱  冬(千鳥)・鳥
15  しばし只(ただ)嵐の音もしづまりて  兼如  雑
16  ただよふ雲はいづちなるらん      行祐  雑・聳物
17  月は秋秋はもなかの夜(よ)はの月   光秀  秋(月)・光物・夜分
18  それとばかりの声ほのかなり      宥源  秋(雁)(「かり」=掛け)・鳥 
19  たたく戸の答へ程ふる袖の露      紹巴  秋(露)・降物・居所・衣装
20  我よりさきにたれちぎるらん      心前  雑・恋・人倫
21  いとけなきけはひならぬは妬まれて   昌叱  雑・恋
22  といひかくいひそむくくるしさ     兼如  雑・恋
(二表)
23  度々の化(あだ)の情はなにかせん   行祐  雑・恋
24  たのみがたきは猶(なほ)後の親    紹巴  雑・人倫 
25  泊瀬路やおもはぬ方にいざなわれ    心前  雑・旅
26  深く尋ぬる山ほととぎす        光秀  夏(ほととぎす)・鳥 
27  谷の戸に草の庵をしめ置きて      宥源  雑・山類
28  薪(たきぎ)も水も絶えやらぬ陰    昌叱  雑・山類・居所
29  松が枝(え)の朽ちそひにたる岩伝い  兼如  雑・山類・木
30  あらためかこふ奥の古寺        心前  雑・釈教
31  春日野やあたりも広き道にして     紹巴  雑
32  うらめづらしき衣手(ころもで)の月  行祐  秋(月)・光物・夜分・衣装
33  葛のはのみだるる露や玉ならん     光秀  秋(露)・降物・草
34  たわわになびくいと萩の色       紹巴  秋(いと萩)・草
35  秋風もしらぬ夕(ゆふべ)やぬる胡蝶  昌叱  秋(秋風)・虫
36  みぎりも深く霧をこめたる       兼如  秋(霧)・聳物
(二裏)
37  呉竹(くれたけ)の泡雪ながら片よりて 紹巴  冬(泡雪)・降物・草
38  岩ねをひたす波の薄氷(うすらひ)   昌叱  冬(薄氷)・水辺
39  鴛(をし)鴨や下りゐて羽をかはすらん 心前  冬(鴛・鴨)・水辺・鳥
40  みだれふしたる菖蒲(あやめ)菅原   光秀  夏(菖蒲)・水辺・草
41  山風の吹きそふ音はたえやらで     紹巴  雑
42  とぢはてにたる住(すま)ゐ寂しも   宥源  雑
43  とふ人もくれぬるままに立ちかへり   兼如  雑
44  心のうちに合ふやうらなひ       紹巴  雑
45  はかなきも頼みかけたる夢語り     昌叱  雑・恋
46  おもひに永き夜は明石(あかし)がた  光秀  秋(永き夜)・恋・夜分・水辺
47  舟は只(ただ)月にぞ浮かぶ波の上   宥源  秋(月)・光物・夜分・水辺
48  所々にちる柳陰            心前  秋(ちる柳)・木
49  秋の色を花の春迄移しきて       光秀  春(花の春)・木
50  山は水無瀬の霞たつくれ        昌叱  春(霞)・聳物・山類
(三表)
51  下(した)解くる雪の雫の音すなり   心前  春(解くる雪)・降物
52  猶も折りたく柴の屋(や)の内     兼如  雑・居所
53  しほれしを重ね侘びたる小夜(さよ)衣 紹巴  雑・恋・衣装
54  おもひなれたる妻もへだつる      光秀  雑・恋・人倫
55  浅からぬ文(ふみ)の数々よみぬらし  行祐  雑・恋
56  とけるも法(のり)は聞きうるにこそ  昌叱  雑・釈教
57  賢きは時を待ちつつ出づる世に     兼如  雑・人倫
58  心ありけり釣(つり)のいとなみ    光秀  雑
59  行く行くも浜辺づたいひの霧晴れて   宥源  秋(霧)・聳物・水辺
60  一筋白し月の川水(かはみづ)     紹巴  秋(月)・光物・夜分・水辺
61  紅葉(もみぢ)ばを分くる龍田の峰颪  昌叱  秋(紅葉)・木
62  夕さびしき小(さ)雄鹿の声      心前  秋(小雄鹿)・獣
63  里遠き庵も哀(あはれ)に住み馴れて  紹巴  雑・居所
64  捨てしうき身もほだしこそあれ     行祐  雑・述懐・人倫
(三裏)
65  みどり子の生い立つ末を思ひやり    心前  雑・述懐・人倫
66  猶永(なが)かれの命ならずや     昌叱  雑・述懐
67  契り只(ただ)かけつつ酌める盃に   宥源  雑
68  わかれてこそはあふ坂の関       紹巴  雑・山類
69  旅なるをけふはあすはの神もしれ    光秀  雑・旅・神祇
70  ひとりながむる浅茅生(あさぢふ)の月 兼如  秋・光物・夜分
71  爰(ここ)かしこ流るる水の冷やかに  行祐  秋(冷やか)・水辺
72  秋の螢やくれいそぐらん        心前  秋(秋の蛍)・虫
73  急雨(むらさめ)の跡よりも猶霧降りて 紹巴  秋(霧)・降物・聳物
74  露はらひつつ人のかへるさ       宥源  秋(霧)・降物・人倫
75  宿とする木陰も花の散り尽くし     昌叱  春(花)・木
76  山より山にうつる鶯          紹巴  春(鶯)・山類・鳥
77  朝霞薄きがうへに重なりて       光秀  春(霞)・聳物
78  引きすてられし横雲の空        心前  雑・聳物
(名残表)
79  出でぬれど波風かはるとまり船     兼如  雑・旅・水辺
80  めぐる時雨の遠き浦々         昌叱  冬(時雨)・旅・降物・水辺
81  むら蘆の葉隠れ寒き入日影       心前  冬(寒き)・光物・水辺・草
82  たちさわぎては鴫の羽(はね)がき   光秀  秋(鴫)・鳥
83  行く人もあらぬ田の面(も)の秋過ぎて 紹巴  秋(秋)・人倫
84  かたぶくままの笘茨(とまぶき)の露  宥源  秋(露)・降物
85  月みつつうちもやあかす麻衣      昌叱  秋(月)・光物・夜分・衣装
86  寝もせぬ袖のよはの休(やす)らい   行祐  雑・恋・夜分・衣装
87  しづまらば更けてこんとの契りにて   光秀  雑・恋・夜分
88  あまたの門(かど)を中の通ひ路    兼如  雑・恋・居所
89  埋(うづ)みつる竹はかけ樋の水の音  紹巴  雑・水辺・草
90  石間(いはま)の苔はいづくなるらん  心前  雑・草
91  みず垣は千代も経ぬべきとばかりに   行祐  雑・神祇
92  翁さびたる袖の白木綿(しらゆふ)   昌叱  雑・神祇・衣装
(名残裏)
93  明くる迄霜よの神楽さやかにて    兼如  冬(霜よの神楽)・神祇・夜分
94  とりどりにしもうたふ声添ふ     紹巴  雑
95  はるばると里の前田の植ゑわたし   宥源  夏(田を植う)・居所 
96  縄手(なはて)の行衛ただちとはしれ 光秀  雑
97  いさむればいさむるままの馬の上   昌叱  雑・獣
98  うちみえつつもつるる伴ひ      行祐  雑・人倫
99  色も香も酔をすすむる花の本     心前  春(花)・木
100 国々は猶(なほ)のどかなるころ   光慶  春(のどか)・

(補注)

一 天正十年(一五八二)五月二十四日、愛宕西之坊威徳院で張行。表向きは毛利征伐の戦勝祈念、実は織田信長を本能寺で破るための明智光秀の祈念をひそかにこめたものと伝える。

二 光秀(明智日向守。惟任=これとう)=)十五句、行祐(ぎょうゆう)=愛宕西之坊威徳院住職=十一句、紹巴(じょぅは)=当代第一の連歌師=十八句、宥源(ゆうげん)=愛宕上之坊大善院住=十一句、昌叱(しょうしつ)=紹巴門の連歌師=十六句、心前(しんぜん)=紹巴門の連歌師=十五句、兼如(けんにょ)=猪苗代家の連歌師(紹巴門)=十二句、行祐(ゆうずみ)=光秀家臣=一句、光慶(みつよし)=光秀の子=一句

愛宕百韻.jpg

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko20/bunko20_00042/bunko20_00042_p0003.jpg

天正十二年五月廿四日於愛宕山明智光秀興行連歌 / 紹巴 [ほか撰](早稲田大学図書館蔵=伊地知鉄男文庫)

三 『島津校注』の底本は「静嘉堂文庫蔵『連歌集書一七』」、校合本として「京都大学蔵平松本」「大阪市立大学森文庫蔵本」「大阪天満宮文庫蔵本」などである。上記の「早稲田大学伊地知鉄男文庫蔵本」の発句は、「時は今雨の下知る五月哉」と『島津校注本』の「ときは今天(あま)が下しる五月哉」と句形が異なる。
   
  時は今雨の下知る五月哉  (「伊地知鉄男文庫蔵本」=A)
  ときは今天が下しる五月哉 (『島津校注本』=B)
  ときは今天が下なる五月哉 (『島津校注本』「京都大学蔵平松本」=C)

「時は今雨の下知る五月哉」(A)の、「時」は明智光秀の本姓の「土岐」氏、「雨の下しる」は「天の下しる」との「天下しる」の、それらの掛詞ということになる。
 同様に、「ときは今天(あま)が下しる五月哉」(B)の、「とき」は「時と土岐」、「天と雨」との、それらの掛詞ということになる。
そして、「ときは今天(あま)が下しる五月哉」(B)の「下しる」と、「ときは今天が下なる五月哉」(C)の「下なる」とは、「光秀失脚後、本能寺の変を事前に承知していたということで責められた紹巴が、もとは「天が下なる」であったと申し開きしたという「紹巴逸話」に由来のある句形である。
 紹巴は、「公家の三条西公条をはじめ、織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・三好長慶・細川幽斎・島津義久・最上義光など多数の武将とも交流を持ち」、徳川幕府下にあっても、「里村家は徳川宗家に仕え、幕府連歌師として連歌界に君臨し続けた」、戦国時代の乱世をしたたかに潜り抜けた大立者である。
 紹巴の晩年の弟子、松永貞徳が、紹巴の死を細川幽斎に告げた時、幽斎は深く惜しんで、「ああ、あれほどの者は、もう出て来ないであろう」と言ったという逸話が今に遺されている(『戴恩記』など)。

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

正徹二.jpg

沙門正徹(狩野蓮長画)

紹巴二.jpg

臨江斎紹巴(狩野蓮長画)
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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その六) [三十六歌仙]

その六 永閑と安達冬康

永閑.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「六 永閑」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1510

冬康.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二四 安達冬康」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1493

(歌合)

歌人(左方六) 永閑
歌題 月前雁
和歌 ききそむる雲井の雁の声よりも おどろかれぬる月のかげかな
歌人概要  室町後期から戦国期の連歌師

歌人(右方二四) 安達(宅)冬康
歌題 暁神楽
和歌 うたふ夜のあか月ふかく声さえて 神代ながらのすずの音かな
歌人概要  戦国期の武将、三好長慶の弟

(歌人周辺)

永閑(えいかん)→ 能登永閑 ?-? 戦国期の連歌師

能登(石川県)の人。宗碩(そうせき)にまなび,京都を中心とした連歌壇で活躍。古典に精通し,天文14年(1545)「源氏物語」の注釈書「万水一露」をあらわした。宗碩の異母弟との説もある。別号に宗閑。(出典・講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて)

安達(宅)冬康(あたぎ ふゆやす)享禄元年(1528年)?~永禄7年(1564)

戦国時代の武将。三好氏の家臣。三好元長の三男。安宅氏へ養子に入り淡路水軍を統率し、三好政権を支えたが、兄・三好長慶によって殺害された。経緯・理由については様々な見解があり不明な部分が多い。
冬康は和歌に優れ『安宅冬康句集』『冬康長慶宗養三吟何人百韻』『冬康独吟何路百韻』『冬康賦何船連歌百韻付考証』など、数々の歌集を残し、「歌道の達者」の異名を持った。中でも代表的な歌は、「古を 記せる文の 後もうし さらずばくだる 世ともしらじを」である。この歌には冬康の温和な性格がよく現れている。歌の師は里村紹巴、宗養、長慶である。なお、細川幽斎は著書『耳底記』の中で、安宅冬康の歌を「ぐつとあちらへつきとほすやうな歌」と評している。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

(永閑の『万水一露』)

連歌師月村斎宗碩の門人である連歌師能登永閑の作とされる。『山下水』や『岷江入楚』などの室町時代後期の多くの注釈書と同様に、諸註集成の性格を強く持った注釈書であり、『河海抄』や『花鳥余情』『細流抄』『弄花抄』の4書を「『源氏物語』を理解するための必須の注釈書であり、これらはどれが欠けても不都合である」としてこの4書の肝要な部分の省略することなく一書にまとめたのが本書であるとする。なお、本書では先行する諸注釈書に記されている説の他に、「碩」として永閑の師月村斎宗碩の説や「閑」として永閑自身の説を多く引いており、連歌師の源氏学の集大成としての性格を持っている。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

(冬康の人物像・多芸を極める男)

https://sengoku-his.com/226

和歌や書に巧みであった冬康は、連歌句集「安宅冬康句集」を編纂するほどであった。他にも「冬康長慶宗養三吟何人百韻」や「冬康独吟何路百韻」、「冬康賦何船連歌百韻付考証」といった、彼の名を冠した歌集をいくつか発表している。
温厚で心穏やかな性格であった冬康は、復讐心に駆られて恩人や敵対人物を次々と殺戮していた長慶を、たびたび諌めていた。現在でも記録に残っているのは鈴虫を贈った時の言であり、「夏虫でもよく飼えば冬まで生きる。まして人間はなおさらである」と言ったという。武勲をおさめる優秀な武人であったにも関わらず、平素は無益な殺生を好まない人物であった。南海道の戦国期をまとめた書「南海治乱記」においても、冬康は優秀な将として評されているほどである。

冬康二.jpg

安宅冬康像(国立国会図書館蔵)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287625

 これは冬康の肖像画である。冬康は、永禄七年(一五六四)に「兄の三好長慶の居城・飯盛山城に呼び出されて自害させられた」とも伝えられている。時に、三十七歳とも三十九歳ともいわれている。
 冬康の歌の師は「里村紹巴、宗養、兄の長慶」とされ、細川幽斎は、三好長慶と、その弟の安宅冬康を高く評価していたことが、松永貞徳の『戴恩記』などに記されている。
 この『集外三十六歌仙図画帖(抱一筆)』には、「三好長慶(左方一一)・宗養(左方一二)・里村紹巴(右方二五)・宗牧(右方二六)・細川幽斎(右方二七)・里村昌叱(右方三四)・松永貞徳(右方三六)」と、今回の「永閑と冬康」とに深く関わってくる武将と連歌師の面々が登場して来るので、それらの人物像を紹介するときに、その都度触れて行くことにする。
 ここでは、先に「常縁(左方一)と宗祇(右方一九)」で触れた「古今伝授」の、その「伝授系図」が、『三鳥三木三草秘伝之書』で、次のように記されている(『戦国武将と連歌師(綿貫豊昭著)』)ことに触れたい。

(『古今伝授』系図)

常縁(左方一)→宗祇(右方一九)→宗長(左方四)→※永閑(左方六)→宗牧(右方二六)→宗養(左方一二)→昌叱(右方三四)→細川幽斎(右方二七)

伝授系図.jpg

(『戦国武将と連歌師(綿貫豊昭著)』)

 この「伝授系図」で、「※永閑」は「久我諸太夫能登守」とあり、公家の「久我家」に仕え、先の『源氏物語』の注釈書『『万水一露』などに携わり、連歌師として『源氏物語』や古典の講釈などに携わっていたのであろうか。
 そして、その「伝授系図」に出てくる「宗牧・宗養(親子)」や「里村紹叱」、そして、紹叱の義父の「里村紹巴」や「細川幽斎」は、「三好長慶・安宅冬康(三好兄弟)」と、同じ連歌ネットワークで結ばれており、冬康の連歌は「永閑・紹巴」の流れに位置するように思われる。

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

永閑二.jpg

永閑(狩野蓮長画)

冬康三.jpg

安達(安宅)冬康(狩野蓮長画)
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