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四季草花下絵千載集和歌巻(その二) [光悦・宗達・素庵]

(その二) 和歌巻(その二)

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「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

73 花の色にひかりさしそふ春の夜ぞ木のまの月は見るべかりける(上西門院兵衛「千載集」)
(美しい花の色に月が光を照り添える春の夜は、そのほのかに白い花の木の間から月は眺めるべきものであるよ。)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/josai_hy.html

【上西門院兵衛 (生没年未詳 別称:待賢門院兵衛)
村上源氏。右大臣顕房の孫。父は神祇伯をつとめ歌人としても名高い顕仲。姉妹の待賢門院堀河・顕仲女(重通妾)・大夫典侍はいずれも勅撰歌人。
はじめ待賢門院璋子(鳥羽天皇中宮)に、のち斎院統子内親王(上西門院)に仕えた。上西門院の落飾に伴い出家。没年は寿永二、三年(1183~4)頃かという。
崇徳院主催の『久安百首』の作者の一人。金葉集初出。勅撰入集二十九首。   】

(参考)

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「四季花卉下絵千載和歌巻」(「四季草花下絵千載集和歌巻」・「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」)その一・その二(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』所収)

釈文(揮毫上の書体)=上図左側

華乃色尓(に)光左(さ)し曾(そ)ふ春濃(の)夜曾(ぞ)こ濃間(のま)能(の)月ハ(は)見るべ可里気流(かりける)

※華乃色=花の色
※春濃夜曾=春の夜ぞ
※こ濃間能月=木の間の月
※見るべ可里気流=見るべかりける

【 これが古く曼殊院宮に伝わっていたとすれば、あるいは曼殊院良恕法親王(一五七四―一六四三)に贈られたものではないか。良恕法親王は光悦と同じく青蓮院尊朝法親王に書を学び、入木道においてとくにすぐれ、そのかなは実に見事なものが伝えられている。光悦の和歌巻を所望されて献上したものがこれではないか。おそらくよくぞそのこのみにかなったのではなかろうか。 】(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

(追記メモ)

※曼殊院良恕法親王(一五七四―一六四三)

https://kotobank.jp/word/%E6%9B%BC%E6%AE%8A%E9%99%A2%E8%89%AF%E6%81%95%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B-20985

江戸初期の親王。曼殊院門跡。陽光院誠仁親王第三皇子。後陽成天皇の弟。初名勝輔、法名覚円のち良恕。幼称は三宮、号は忠桓。尊朝親王のもとで得度、伝法灌頂を受ける。第百七十代天台座主となり、二品に叙せられる。書画・和歌・連歌を能くした。著書に『厳島参詣記』がある。寛永20年(1643)薨去、70才。

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曼珠院門跡 良恕法親王・古筆切(右近少将教長。藤原実方朝臣 和歌二首)

※曼殊院

https://www.manshuinmonzeki.jp/

(追記メモ)

 曼殊院良恕法親王(一五七四―一六四三)は、光悦(一五五八-一六三七)より十六歳程度年少で、第一〇七代天皇の後陽成天皇の実弟である。後陽成天皇の在位期間は、天正十四年(一五八六)から慶長十六年(一六一一)で、豊臣秀吉から徳川家康,秀忠父子の時代にあたり,皇室が久しい式微の状態から脱して一応尊厳を回復した時期であった。
 光悦の、この「四季草花下絵千載集和歌巻」の署名は「大虚庵 光悦(花押)」で、この「大虚庵」の庵号は、元和元年(一六一五)の鷹峯の地へ移住後で、後陽成天皇の時代の次の後水尾天皇(一五九六―一六八〇、在位期間=一六一一―一六二九)の時代である。
 この後水尾天皇は、歌道を「智仁親王(初代八条宮)・三条西実条・烏丸光広・中院通村」に師事し、寛永二年(一六二五)智仁親王から古今伝授を受けている。のちに宮廷歌壇の最高指導者として稽古会や古典講釈を催し、後継の親王や公卿に古今伝授を行い御所伝授による宮廷歌壇を確立したことで知られている。
 この、智仁親王(初代八条宮)は、「後陽成天皇(和仁親王(後陽成天皇)・空性法親王(天王寺別当)・良恕法親王(天台座主)・興意法親王(織田信長猶子))の末弟で、豊臣秀吉の猶子にもなっている。
 これらの「後陽成天皇・後水尾天皇」の「慶長・元和・寛永」の時代は、同時に、「後陽成天皇・後水尾天皇」周辺の「後陽成・後水尾院文化サロン」的な場を形成していていた。
それらは、「歌道」(「智仁親王(初代八条宮)・三条西実条・烏丸光広・中院通村」等の「古今伝授」継受者等を中心とする)」、「茶道」(「後水尾院・公家・宮家・門跡」等の「仙洞茶会」・「大納言日野資勝」等の「公家と町衆(光悦等)」の茶会、「町衆(光悦等)と武家・大名(古田織部・小堀遠州・前田利常・加藤嘉明等々)」との茶会・「千宗旦・近衛家等と町衆(光悦等)との茶会等々)、「華道」(「池坊専好」等)、「書道」(「「歌道」と密接不可分の世界)、「能・能楽」(「観世大夫身愛(黒雪)」等の世界)、「画(俵屋宗達等)・工芸(蒔絵師五十嵐家等、陶芸師楽家・紙師宗二等々)との世界)と、それらが輻輳した、その象徴的な世界が、「光悦と宗達等々」との「和歌巻」の世界であると解することも出来よう。
それらの「後陽成・後水尾文化サロン」の「歌道」「書道」「茶道」「華道」「能・能楽」「画・工芸」の諸分野に精通し、それらの分野の第一人者(「歌道=烏丸光広等」「書道=松花堂昭乗等」「茶道=千宗旦等」「華道=池坊専好等」「能・能楽=観世黒雪等」「画=俵屋宗達等、蒔絵=五十嵐家等、陶芸=楽家等、嵯峨本=角倉素庵等、唐紙=宗二等)から、先達(先に立って案内する人)として仰がれていた人物こそ、本阿弥光悦と解したい。

※三条西実条(一五七五―一六四〇)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E8%A5%BF%E5%AE%9F%E6%9D%A1

三条西家の家職は歌道であり、実条の高祖父で戦国時代前期の当主・三条西実隆は当代随一の歌人と評された。実隆・公条・実枝の三代はいずれも歌道に優れており、家職として歌道を継承した(古今伝授)。しかし実枝は子の公国が幼かったため、弟子の一人であった細川幽斎に中継ぎとして歌道を継承した。公国成人後、幽斎は歌道を継承しようとしたが、公国が32歳で死去したため、幽斎は改めて公国の子である実条に歌学伝授を行い、師・実枝との約束を果たした。

※烏丸光広(一五七九―一六三八)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E4%B8%B8%E5%85%89%E5%BA%83

後水尾上皇からの信任厚く、公武間の連絡上重要な人物として事あるごとに江戸に下り、公卿の中でも特に江戸幕府側に好意を寄せていた。また、自由闊達な性格で逸話にも富み、多才多芸な宮廷文化人として、和歌や書・茶道を得意とした。とりわけ歌道は慶長八年(一六〇三)に細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、将軍・徳川家光の歌道指南役をも勤めている。書については、大変ユニークではあったが、寛永の三筆に決して劣らず、光広流と称される。本阿弥光悦や俵屋宗達など江戸の文化人と交流があり、また、清原宣賢に儒学を学び、沢庵宗彭・一糸文守(いっしもんじゅ)に帰依して禅をも修めた。

※中院通村

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%A2%E9%80%9A%E6%9D%91

三代将軍・徳川家光に古今伝授を所望されたが、これを断ったという硬骨漢である。
後水尾天皇の譲位を幕府に報告しなかった理由について、京都所司代の板倉重宗から問われた通村は「洩らすな」との勅命があったことを告白。これに対し重宗は「内々に知らせるべきであった」としたが、通村は「勅命に背いて君臣仁義を破り、人に内応する者がありましょうか。もしそなたが、関東から都の人に知らせるなと聞かれましたら、そなたも洩らしはなさるまい。我らは天子の臣でござる。関東の臣ではござらぬ」と答えた。これには重宗も言葉がなかったという。

※古今伝授(こきんでんじゅ)

https://kotobank.jp/word/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E4%BC%9D%E6%8E%88-63700

(再掲)

『古今和歌集』の解釈上の問題点を,師匠から弟子へ教授し,伝えていくこと。「三木三鳥」などと呼ばれる,同集所見の植物や鳥についての解釈を秘説として,これを短冊形の切り紙に書き,秘伝として特定の弟子に授ける,いわゆる切り紙伝授が特に有名。しかし,本来は同集全体についての講義を行い,証本を授与することもあったらしい。その萌芽は,藤原俊成が藤原基俊に入門し,『古今集』について教えを受けたことにある。俊成は息子の定家にこれを伝え,定家は『僻案抄』ほかを著わして,若干の弟子に教えている。伝授の形式は,基俊,俊成,定家以来の教えを伝えていると称する東常縁 (とうつねより) が,宗祇に伝授したときから整えられた。宗祇以後,御所伝授 (宗祇-三条西実隆-細川幽斎-智仁親王-後水尾院) ,堺伝授 (宗祇-肖柏-宗伯) ,奈良伝授 (肖柏-林宗二) などの各流が派生した。本来は純然たる古典研究であったが,中世神秘思想の影響を受けて,室町時代以降,空疎な内容,末梢的な事柄を秘事として尊信する形式主義に流れ,近世の国学者の批判を受けた。しかし文化史的意義は見逃せない。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

※入木道(じゅぼくどう)

(再掲)

https://kotobank.jp/word/%E5%85%A5%E6%9C%A8%E9%81%93-78221


書道の異称。書聖と仰がれる晋の王羲之の書の筆力が強く,木に書いた墨が3分もしみこんだという故事による。日本では平安時代以後,流儀書道の世尊寺流,青蓮院流,持明院流などで書道のことを入木道と称した。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

http://www.shodo.co.jp/blog/review/2013/04/1994.html

(再掲)

こうした「入木道」の伝授書は、公家社会の儀式における書の揮毫について、たとえば屏風や門額などをどのように書くか、またその心得などが記されていました。それが家の中で「秘伝」として伝えられてきたのです。14世紀の尊円親王による書論書『入木抄』はその代表格です。
著者が強調するのは、この時代における「書の日常性」ということです。つまり、「書」は現在の社会ではどちらかというと非日常的な行為としてありますが、この時代の公家社会にとっては「言語生活の基盤」であったということなのです。そのことの一つの現れとして、公家の日記から興味深いことが分かります。それによると、公家はだいたい六、七歳頃から手習いを始めるのですが、成人してからも、古典籍の書写が日常的に大きなウエートを占める習慣としてあり、毎日かなりの量の文献を書き写しています。この行為は古今和歌集や源氏物語をはじめとする書物をまずなにより読むため、そして書物として伝承する意味を持っています。三条西実隆は古今集約1100あまりの歌をだいたい5日間くらいで書き写したということです。ひるがえって、現在の私たちの言語生活の基盤は何でしょうか。
こうした中世の公家の「入木道」のありかたは、私たちがぼんやりと考えている「定型化した(つまらない)書」というイメージとは 大きく異なっています。むしろこの本に描かれる中世は、ひたすらに「書く」ことで成り立っていたのではないかと思わせ、「書くこと」が言語生活の基盤で あった社会とはどのようなものだろうと想像をかき立てられるのです。(「中世における「書」を考える──新井榮蔵『「書」の秘伝』)

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