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本阿弥光悦筆「千載集『序』和歌巻」その七 [光悦・宗達・素庵]

その七 「いにしへより……」
(桃山時代 17c 紙本雲母摺絵墨書 H-24.9 W-1459.7 所蔵 MIHO MUSEUM 猪原家旧蔵) (以下の※「校注」などは『新日本古典文学大系10 千載和歌集』などを参考)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00002693.htm

7-1 (「書図」無し)

いにしへより勅をうけたまはりて集をえらぶこと
あるいはそのくらゐ(位)たか(高)く
あるいはそのしな(品)くだ(下)れるも
ひさ(久)しくこの道をまな(学)び
ふか(深)くそのこころ(心)をさと(悟)れるともがらは
つと(勤)めきたれるなか(中)に

※位高く=「拾遺集」の撰者の藤原公任を指す。
※品下れる=「古今集」の紀貫之、「後撰集」の藤原元輔を指す。

7-2

序7-2.jpg

松のとぼそに
のがれ
苔のたもと
しほれたるもの、
これをえらべる
あとなんなかり
けれど
宇治山の僧喜撰と
いひけるなむ
すべらぎのみこと
のりをうけたまはりて
やまと(大和)うた(歌)のしき(式)を
つくれりける

※松のとぼそに遁れ……=山家に隠遁し僧衣をまとった者。
※大和歌の式=倭歌作式(喜撰式)。喜撰に仮託した和歌作法書。

7-3 (「書図」無し)

式をつくり集を
えらぶこと
かのむかし(昔)の
あとによりいま(今)このなずらへあるがうへに
和歌のうら(浦)のみち(道)にたづさひては
ななそぢ(七十)のしほ(潮)にもすぎ
わがのり(法)のすべらぎにつかへたてまつりては
むそぢ(六十)になんあまりにければ
いへいへ(家々)のこと(事)のは(葉)
うらうら(浦々)のもしほ(藻塩)草かきあつめ
たてまつるべき
みことのりを
もうけたまはれるならし
この集、かくこのたびしる(記)しおかれぬれば
すみよし(住吉)のまつ(松)のかぜ(風)ひさ(久)しくつたはり
玉つしま(津島)の浪ながくしづかにして
ちぢ(千々)のはるあき(春秋)をおくり

※和歌の浦の道=歌道を和歌の浦という地名になぞられた。
※七十の潮にも過ぎ=俊成は文治三年(一一八七)七十四歳。
※法のすべらぎ=法皇。後白河法皇は嘉応元年(一一六九)出家、文治三年(一一八七)六十一歳。
※家々の事の葉=和歌の家々の多くの歌人たちの作品。
※浦々の藻塩草=それぞれの歌壇、歌会での詠草。「藻塩草」は詠草の比喩。
※住吉=摂津の国の枕詞。ここは住吉神社を指す。和歌及び航路の神。
※玉津島=紀伊の国の枕詞。ここは玉津島神社を指す。同じく和歌の神として住吉神社と対した。


7-4

序7-4.jpg

よよ(世々)の
ほししも(星雲)を
かさね
ざらめや
文治みつ(三)のとし(年)の
あき(秋)ながづき(長月)の
なか(中)のとをかに
えらび
たてまつりぬる
になんあり
ける
印(光悦)

※文治三の年の……=文治三年(一一八七)の秋、九月二十日。奏覧の日付。実際に奏覧したのは翌年四月以降(明月記、親宗卿記)。


(参考その一)

http://www2.dhii.jp/nijl_opendata/searchlist.php?md=thumbs&bib=200004592

序・正一.jpg

大和みことの歌は、ちはやぶる神代よりはじまりて、楢の葉の名におふ宮にひろまれり。玉敷き平の都にして、延喜のひじりの御世には古今集を撰ばれ、天暦のかしこき御時(おほむとき)には、後撰集を集めたまひき。白河の御世には後拾遺を勅せしめ、堀川の先帝は百千(ももち)の歌をたてまつらしめたまへり。おほよそこのことわざ我が世の風俗として、これをこのみもてあそ

べば名を世々にのこし、これを学びたづさはらざるは面を垣にしてたてらむがごとし。かかりければ、この世に生れと生れ、我が国に来たりと来る人は、高きも下れるもこの歌をよまざるは少なし。聖徳太子は片岡山の御言(みこと)をのべ、伝教大師は我がたつ杣の言葉をのこせり。よりて世々の御かどもこの道をば捨て給はざるをや。ただし又、集を撰び給ふあとは猶まれになんありける。我が君世をしろしめして、保ちはじめ給うふと名づけしと年より、ももしきの古きあとを(バ)

序・正二.jpg

(バ)紫の庭玉の台(うてな)千歳(ちとせ)久しかるべきみぎりとみがきおき給ひ、はこや(藐姑射)の山のしづかなるすみかをば、青き谷菊の水、よろづ代住むべき境としめ定めたまふ。かれこれおしあはせてみそぢ(三十)あまりみ(三)かえりのはるあきになんなりにける、あまねきおほん(御)うつくしみ秋津島のほかまでおよび、ひろきおほん(御)恵み春の園の花よりもかうばし。近くなれ仕うまつり、遠く聞きつたふるたぐひまで、事にふれ折にのぞみてむなしく過ぐさず情おほし。春の花のあした、秋の月のゆふべ、思ひをのべ、心を

うごかさずといふことなし。ある時には糸竹の声しらべをととのへ、ある時には大和もろこしの歌言葉をあらそふ。敷島の道もさかりにおこりて、言葉の泉いにしへよりも深く、言葉の林むかしよりも繁し。ここに今の世の道をこのむともがらの言葉をもきこしめし、昔の時の折につけたる人の心をも見そなはさんことによりて、かの後拾遺集に撰びのこされたる歌、かみ正暦のころほひよりしも文治の今にいたるまでの大和歌を撰びたてまつるべき仰せ言なんありける。かの御ときより、

序・正三.jpg

この方、年はふたもも(二百)ちあまりにおよび、世はと(十)つぎあまりななよ(七代)になんなりにける。過ぎにける方も年久しく、今行く先もはるかにとどまらむため、この集を名づけて千載和歌集といふ。かの後拾遺集ののち、同じく勅撰になずらへて撰べるところ、金葉、詞華の二つの集あり。しかれども部類ひろからず歌の数少なくして、残れる歌おほし。そのほか今の世までの歌をとり撰べるならし。
そもそもこの歌の道を学ぶる事をいふに、唐国に日の本のひろき文の道をも学びず、鹿の園わしの峰の深き御のり(法)をさ

とるにしもあらず、ただ仮名のよそぢ(四十)あまりななもじ(七文字)のうちをいでずして、心に思ふ事をこ言葉にまかせて言ひつらぬるならひなるがゆゑに、みそもじ(三十文字)あまりひともじ(一文字)をだによみつらねつるものは、出雲八雲のそこをしのぎ、敷島大和みこと(御言)のさかひに入りすぎにたりとのみ思へるなるべし。しかはあれども、まことにはきればいよいよ堅く、仰げばいよいよ高きものはこの大和歌の道になむありける。春の林の花、秋の山の木の葉、錦色いろに、玉声ごゑなりとのみ思へれど、山の中の古きなを

序・正四.jpg

からざる事おほく、難波江の蘆をかしき節ある事はかたくなんありけれど、かつは好む心ざしをあはれび、かつは道を絶やさざらんがために、瓦の窓、芝の庵の言の葉をも、見るによろしく聞くにさかへざるをばもらす事なし、勒して千歌(ちうた)二百(ふたももち)あまり、二十巻(はたまき)とせり。いにしへより、勅をうけたまはりて集を撰ぶこと、あるいはその位たかく、あるいはその品下れりれるも、久しくこの道を学び、深くその心を悟れるともがらは勤めきたれる中に、松のとぼそに遁れれ苔の袂にしをれたる者、これを撰べるあとなんなかりけれど、

宇治山の僧喜撰といひけるなむ、すべらぎのみことのりをうけたまはりて大和歌の式をつくれりける、式をつくり集を撰ぶこと、かの昔のあとにより今このなずらへあるがうへに、和歌の浦の道にたづさひては、七十の潮にもすぎ、我が法のすべらぎにつかへたてまつりては、六十になんあまりにければ、いへいへの事の葉、浦々の藻塩草かきあつめたてまつるべきみことのりをもうけたまはれるならし。この集、かくこのたびしるしおかれぬれば、すみよしのまつのかぜひさしくつたはり、玉つしまの浪ながくしづかにして、ちぢ(千々)の

序・正五.jpg

 春秋をおくり、世々の星霜をかさねざらめや、文治みつ(三)のとしの秋、長月の中のとをかに、撰びたてまつりぬるになんありける。


(参考その二)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/gkokugokokubun/50/0/50_233/_pdf/-char/ja

「光悦流」資料に見られる仮名字体……「光悦和歌巻」の平仮名字体の分析を通じて……(宮本淳子稿)

(再掲)

光悦和歌巻.jpg

(表一)

光悦仮名一.jpg

(表三・四)

光悦仮名三.jpg

(表五)

光悦仮名五.jpg

(追記メモ) 「光悦」の「の」(濃・乃・能・の)と北園克衛の「の」

http://yahantei.blogspot.com/2009/02/blog-post.html

(再掲)

単調な空間(北園克衛)

白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の黒い四角
のなか
の黒い四角
のなか
の黄色い四角
のなかの
黄色い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角


の中の白
の中の黒
の中の黒
の中の黄
の中の黄
の中の白
の中の白


の三角
の髭
のガラス


の三角
の馬
のパラソル


の三角
の煙

ビルディング


の三角
の星

ハンカチイフ

白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角

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