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四季草花下絵千載集和歌巻(その七) [光悦・宗達・素庵]

(その七) 和歌巻(その七)

和歌巻6.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      御子にをはしましける時、鳥羽殿にわたらせたま
      へけるころ池上花といへる心をよませたまうける
78 池水にみぎはのさくらちりしきて波の花こそさかりなりけれ(院御製)
(池の水に池畔の桜が一面に散り敷いて、波の花は今が盛りだよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

池水尓(いけみずに)見支ハ能(みぎはの)左具ら(さくら)知里(ちり)しき天(て)浪乃(なみの)ハな(花)こ曾(そ)佐可里成介禮(さかりなりけれ)

※見支ハ能(みぎはの)=水(み)際(ぎは)の=汀(みぎは)の。水ぎわの。水のほとりの。
※左具ら(さくら)=桜。
※知里(ちり)しき天(て=散り敷きて。
※浪乃(なみの)ハな=浪の花。池のおもて一面に散り敷く落花に、そよ風が吹いて小波が立ち、まさに「浪の花」の風情。前歌(白河院御歌)の「陸」より「水」への「転じ」。鳥羽殿の各御所は池辺に建てられていた。
※※「詞書」は、「千載集」撰集下命者の後白河院(鳥羽天皇第四皇子)への配慮からの、撰者(俊成)の創作したもの。この歌は、仁平・久寿の頃(一一五一~五六)、崇徳院主催の、鳥羽離宮(田中御所)での歌会の作。
※※池上花=「池ノ上ノ花」の題詠。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/gosiraka.html
 
【 後白河院(ごしらかわのいん) 大治二~建久三(1127-1192) 諱:雅仁 法諱:行真

鳥羽天皇第四皇子。母は待賢門院璋子(藤原公実女)。崇徳天皇の同母弟。覚性法親王の同母兄。近衛天皇の異母兄。守仁親王(二条天皇)・守覚法親王・以仁王・式子内親王・憲仁親王(高倉天皇)らの父。
久寿二年(1155)、近衛天皇の崩御により二十九歳で即位。崇徳院と対立し、翌年の保元元年(1156)、鳥羽院が崩御すると、源義朝・平清盛らを用いて崇徳院方を破った(保元の乱)。同三年(1158)、守仁親王(二条天皇)に譲位し、その後五代三十四年にわたり院政を布くことになる。
平治元年(1159)、院側近の信西を打倒しようとする藤原信頼・源義朝らに御所を奇襲されたが、再び清盛の力により乱を抑えた(平治の乱)。翌年、初めての熊野御幸に発つ。以後、同地への参詣は三十四回を数える。長寛二年(1164)には清盛に命じて蓮華王院(三十三間堂)を建立させた。
永万元年(1165)、二条天皇は子の六条天皇に譲位し、一カ月後に崩御。仁安三年(1168)、後白河院は子の高倉天皇(母は平清盛のむすめ滋子)を即位させた。嘉応元年(1169)、出家して法皇となる。法名は行真。
平氏の専横が強まるにつれ、清盛との関係も悪化し、安元三年(1177)、清盛排除を画策した鹿ヶ谷の陰謀が発覚、院政を止められ鳥羽殿に幽閉された。治承四年(1180)、安徳天皇(母は清盛女、徳子)践祚の直後、以仁王が平氏追討の令旨を発すると、各地で源氏が蜂起、ついに平氏は都落ちへと追いやられることになる。この間、高倉上皇が崩じたため、院政を再開する。寿永二年(1183)、孫の尊成(たかひら)親王を皇位に就けた(後鳥羽天皇)。
寿永三年(1184)、源頼朝と手を組んで木曽義仲を討つ。翌年、源義経の要請に応じて頼朝追討の宣旨を発したが、結果的に頼朝の要求を受け入れ、義経ら追討の院宣とともに、守護・地頭の設置を承認することとなった。但し頼朝による征夷大将軍任命の要請は、死に至るまで拒み続けた。
今様を愛好し、雑謡とあわせて集大成した『梁塵秘抄』、および『梁塵秘抄口伝集』を撰述した。晩年には和歌にも関心を寄せ、小規模ではあるが歌会を催したり、歌書の収集を行なったりした。寿永二年(1183)、藤原俊成に命じて『千載和歌集』を撰進させた(完成は五年後の文治四年)。千載集初出。


(追記メモ) 「保元・平治の乱」の頃の「鳥羽殿」(鳥羽離宮)周辺

https://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/cdb9011d528786d083eea6c3ba4818ea

鳥羽離宮.jpg


 「千載集(巻第二・春歌下)」の、この「白河院」と「後白河院」の二首続きは、撰者(藤原俊成)の最大限の配慮があるのであろう。

鳥羽殿にをはしましけるころ、常見花といへる心
      ををのこどもつかうまつりけるついでによませた
      まうける
77 咲きしよりちるまで見れば木の本に花も日かずもつもりぬるかな(白河院御製)

      御子にをはしましける時、鳥羽殿にわたらせたま
      へけるころ池上花といへる心をよませたまうける
78 池水にみぎはのさくらちりしきて波の花こそさかりなりけれ(院御製=後白河院御製)

 この二首の「詞書」にある「鳥羽殿」は、平安時代後期に洛南鳥羽の地に、白河・鳥羽両上皇が造営した譲位後の御所である。しかし、単なる離宮ではなく、「白河院・後白河院」の、その絶大な専制君主的「院政政治」の象徴的な拠点となった所である。
 そして、この二首には、保元元年(一一五六)に勃発した「保元の乱」(「崇徳上皇・藤原頼長」対「後白河天皇・藤原忠通」の争い)も、平治元年(一一五九)に起きた「平治の乱」(「後白河院政派・源義朝」対「二条親政派・平清盛」の争い)も、その影は微塵も感じさせない。
 しかし、この背後には、その敗者の「崇徳上皇・藤原頼長」派の面々、そして、それに続く「後白河院政派・源義朝」派の面々の、その怨念が無限に横たわっている。
そして、それは紛れもなく、この「千載集」撰集下命者の「後白河院(鳥羽天皇第四皇子)」の、その敗死に追いやった「崇徳院(鳥羽天皇第一皇子))」への鎮魂の勅撰集であることは、その入集数(二十三首)(「俊頼(五十二首)→俊成(三十六首)→基俊(二十六首)に次ぐ四番手の入集数)から見ても、それを肯定することには違和感はなかろう。

    鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな(蕪村「蕪村句集」)

保元元年(一一五六)七月、鳥羽上皇は、鳥羽殿(鳥羽離宮)の「東殿」(安楽寿院)」で崩御する。この臨終の直前に、崇徳新院は父鳥羽上皇のもとを訪れるが、対面することを許されず、東殿の西側に位置する「田中殿」で七日程とどまってから、白河にある「白河」北殿(白河法皇の崩御後、鳥羽院の御所となり、その後は上西門院統子(崇徳院の同母妹)の御所、保元の乱では崇徳院方の本拠地となる)に移り、そこへ宇治から藤原頼長が駆けつけ、これが保元の乱の勃発である(『保元物語)。
 この「田中殿」(鳥羽上皇が皇女八条院の御所として建立)には、「保元の乱」後の「平治の乱」では、「保元の乱」の勝者の後白河院は、「保元の乱」の味方であった平清盛と争い、今度は敗者となり、治承三年(一一七七)の政変(「鹿ケ谷陰謀事件」)で、その政変の黒幕とされた後白河院は、平清盛によってここに幽閉されるということになる。
 この近傍の「城南寺」付近に、「西行寺址」があり、ここは、西行(佐藤義清)が鳥羽上皇の北面の武士であった頃の邸宅跡と伝えられている。

  伏見過ぎぬ岡屋になほとどまらじ日野まで行きて駒心見ん(西行「山家集」1438)

  これは、北面の武士であった西行が、鳥羽殿から、「岡屋(おかのや)」(宇治の北)、そして、「日野」(醍醐近辺)まで遠馬をしたことに関連する一首であろうか。この「岡屋(おかのや)」は、「日暮れなば岡屋こそ臥しみなめ明けて渡らん櫃河(ひつかわ)の橋」(梁塵秘抄)に由来する遊郭地のようである。若き日の北面の武士であった西行の一スナップのような一首なのかも知れない。
 この鳥羽殿の一角の「西行寺址」の付近に「馬場殿」があり、この城南寺の鎮守神として創祀されたと伝えられている「城南宮」は、競馬や流鏑馬(やぶさめ)の鎮守社である。そして、承久三年(一二二一)に,後鳥羽上皇が鎌倉幕府倒幕を宣言したのも、この「城南宮」の「流鏑馬汰へ」(やぶさめぞろえ)が、その発端と伝えられている。
 この「鳥羽殿」(鳥羽離宮)は、南北朝の動乱により、その大半が焼失し、現在では、安楽寿院、白河・鳥羽・近衛各天皇陵、城南宮、秋の山(築山)を残すのみとなってしまった。

夕されば野辺の秋風身にしみてうづらなくなり深草のさと(皇太后宮大夫俊成=藤原俊成「千載集」269)
(夕暮が迫ると、野面を渡ってくる風を身にしみて感じて、鶉が鳴いているのが聞こえる。この深草の里では。)

 この鴨長明の『無名抄(「深草の里」)』の中で、俊成自身が、「これをなん、身にとりてはおもて歌と思い給ふる」(これこそが、私にとっては代表歌という思いがする)とした、この一首は、俊成の臨終の地である、「鳥羽殿」(鳥羽離宮)から「伏見稲荷大社」へ行く手前の「深草」里の作である。

深草の里.jpg

(『都名所図会』(1780年)巻五「深艸・欣浄寺・四位少将古跡」)

  俊成の「おもての歌」(代表歌)とした、この深草の里の一首は、次の『伊勢物語』(第一二三段)の「本歌取り」の一首なのである。

【 むかし、男ありけり。深草に住みける女を、ようよう、あきがたにや思ひけむ、かかる歌をよみけり。
  年を経て住みこし里を出でていなば いとゞ深草野とやなりなむ
女、返し、
   野とならば鶉となりて鳴きをらむ 狩にだにやは君は来ざらむ   】
『伊勢物語』第一二三段)

 この『伊勢物語』(第一二三段)の、この俊成が「本歌取り」にした、その「本歌」の「鶉となりて鳴きをらむ」という、これこそが、俊成の「おもての歌」(代表歌)の「身にしみて」の思いで、それは、俊成和歌の神髄の「もののあはれ」(もののあわれ、物の哀れ=「平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的理念の一つ。 折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁である」)なのであろう。

八代集.jpg

「八代集」(「勅撰和歌集」=『ウィキペディア(Wikipedia)』よりの抜粋)

 白河天皇(白河院)は、『後拾遺和歌集』と『金葉和歌集』と二度にわたって、勅撰集編纂の下命をしている。これに続く、『詞花和歌集』は、「保元の乱」で讃岐に流刑された崇徳院下命の勅撰集である。
 この『古今和歌集』から『詞花和歌集』までの六勅撰集は、とにもかくにも平安な都での天子の治世を賛美する、その象徴的なものとしての勅撰集に他ならないが、こと、この第七勅撰集の『千載和歌集』に限っては、その第六勅撰集『詞花集』の崇徳院時代を抹殺するような「保元の乱」、それに続く、武家政権が確立して行く「平治の乱」、さらに、その「平家政権」が樹立した「治承・寿永の乱」、その「平家政権」が「源氏政権(鎌倉幕府)」へと移行する「源平の戦い」と、それは、平安時代の末期の「院政時代」(「白河・後白河」の院政時代)の終末を告げるものであることが、この『千載和歌集』の「白河院」と「後白河院」の二首(「白河院=常見花=盛花」と「後白河院=池上花=落花」)からも、察知される。

      鳥羽殿にをはしましけるころ、常見花といへる心
      ををのこどもつかうまつりけるついでによませた
      まうける
77 咲きしよりちるまで見れば木の本に花も日かずもつもりぬるかな(白河院御製)

      御子にをはしましける時、鳥羽殿にわたらせたま
      へけるころ池上花といへる心をよませたまうける
78 池水にみぎはのさくらちりしきて波の花こそさかりなりけれ(院御製=後白河院御製)
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