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四季草花下絵千載集和歌巻(その十二) [光悦・宗達・素庵]

(その十二) 和歌巻(その十二)

和歌巻10.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      落花満山路(山路ニ満ツ)といへる心をよめる  
83 ふめばをしふまではゆかむかたもなし心づくしのやまざくらかな(上東門赤染衛門) 
(山路に散り敷く桜は、踏めば惜しいし、さりとて踏まずに進むこともかなわぬ。いろいろと物思いをさせる山桜だよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
踏(ふめ)ハ(ば)おしふま天(で)ハ(は)行無(ゆかむ)可多(かた)もなし心盡(こころづくし)濃(の)山桜哉(かな)

※ふま天(で)ハ(は=踏までは。
※)行無(ゆかむ)=行かむ。
※可多(かた)もなし=進み行く方も無し。
※心盡(こころづくし)=様々に物思いする。

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin//akazome.html

【赤染衛門(あかぞめえもん) 生没年未詳
生年は天徳四年(960)以前、没年は長久二年(1041)以後かという(『赤染衛門集全釈』解説による)。赤染時用(時望)の娘。『中古歌仙伝』『袋草紙』などによれば、実父は平兼盛。赤染衛門の母は兼盛の胤を宿して時用に再嫁したのだという。貞元元年(976)頃、のち学者・文人として名を馳せる大江匡衡(まさひら)の妻となり、挙周(たかちか)・江侍従を生む。権中納言匡房は曾孫。藤原道長の室、源倫子(源雅信女。上東門院彰子の母)に仕え、養父の姓と官職(衛門志)から赤染衛門と呼ばれた。『紫式部日記』には「匡衡衛門」の名で歌人としての評価が見える。夫の親族(一説に姪)であったらしい和泉式部とは何度か歌を贈答し、親しかったことが窺える。
長保三年(1001)と寛弘六年(1009)、二度にわたり尾張守に任ぜられた夫と共に任国に下る。長和元年(1012)、匡衡に先立たれ、多くの哀傷歌を詠んだ。長久二年(1041)の「弘徽殿女御生子歌合」に出詠したのを最後の記録とし、まもなく没したかと思われる。家集『赤染衛門集』がある。拾遺集初出。後拾遺集では和泉式部・相模に次ぎ第三位の入集数。二十一代の勅撰集入集歌は九十七首(金葉集三奏本を除く)。『栄花物語』正編の著者として有力視される。中古三十六歌仙。女房三十六歌仙。 】

(追記メモ) 「千載集」(巻第九)の「哀傷歌」など(その一)

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   上東門院にまゐりて侍りけるに、一条院の御事など思し
   出でたる御気色なりけるあしたに、たてまつりける
つねよりもまたぬれそひし袂かな昔をかけておちし涙に(赤染衛門「千載566」)
【通釈】常にもまして濡れまさった袂ですことよ。ご存命中の昔に思いをかけて溢れ落ちました涙に。
【語釈】◇上東門院 藤原彰子。◇一条院御事 一条天皇は寛弘八年(1011)六月、譲位の直後に崩じた。◇昔をかけて 一条院在世中の昔に想いをかけて。

   御返し
うつつとも思ひ分かれで過ぐるまに見し世の夢を何語りけん(上東門院「千載566」)
【通釈】昨夜あなたと夢うつつに昔話をして過ごす間に、見た夜の夢をどう語ったのだろう。
【補記】彰子のもとに参上し、亡き一条帝の思い出話に耽った赤染衛門から贈られた歌への返歌。

    後一条院かくれさせ給うての年、
    時鳥の鳴きけるに詠ませ給うける
ひと声も君に告げなむ時鳥この五月雨は闇にまどふと(上東門院「千載555」)
【通釈】一声だけでも、亡き我が君に告げてほしい。ほととぎすよ、私はこの五月雨(さみだれ)の夜、「子を思う闇」に惑っていると。
【補記】子の後一条天皇が崩御した長元九年(1036)の歌。時鳥は死出の山を越えると信じられたので、亡き子に言伝を頼んだのである。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syousi.html

【 藤原彰子(ふじわらのしょうし) 永延二~承保一(988-1074) 号:上東門院
藤原道長の娘。母は源雅信女、倫子。頼通の同母姉、頼宗・長家の異母姉。
長保元年(999)、一条天皇に入内し、翌年中宮となる。彰子のもとには紫式部・赤染衛門・伊勢大輔・和泉式部らが出仕した。寛弘五年(1008)、敦成親王(のちの後一条天皇)を、同六年に敦良親王(のちの後朱雀天皇)を出産。寛弘八年六月、一条天皇は譲位して間もなく崩御。万寿三年(1026)出家し、院号を賜わり、法名清浄覚を号す。長元五年(1032)、兄頼通の後見で菊合を催行した。承保元年(1074)十月三日、八十七歳で崩御。
後拾遺集初出。勅撰入集二十八首(金葉集は二度本で勘定)。『新時代不同歌合』歌仙。 】

(参考)『紫式部日記』の「和泉式部・赤染衛門・清少納言」評

http://from2ndfloor.qcweb.jp/classical_literature/izumitoseisho.html

(和泉式部)

(原文)
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書き交はしける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわりまことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり。
 それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず。
(現代語訳)
和泉式部という人とは、じつに趣深く文通をしたものだ。しかし和泉には感心しない面があるものの、気を許して手紙をさらっと書いたところ、その方面での才能がある人で、ちょっとした言葉遣いの中にも気品が見えるようです。和歌はたいそう趣深いことだ。古い和歌についての知識、和歌の理論については本当の歌詠みという様子ではないとはいえ、口にまかせて詠んだ歌などに、かならず魅力のある一節を、目にとまるように詠み添えています。
 そうであっても、他人の詠んだ歌について、非難して批評しているようであるのは、さて、それほどまでは(和歌のことを)わかってはいないでしょう。口先ですらすらと自然に歌が詠まれてしまうらしいと、(その方面について)見てすぐにわかる筋(の人々)にはわかってしまう。(こちらが)恥ずかしさを感じる(ほどすごいと思う)歌人だとは思いません。

(赤染衛門)

(原文)
丹波の守の正妻のことを、宮(=中宮彰子)や殿(=藤原道長)の近辺では、匡衡衛門と言っています。特に家柄が優れているというわけではないけれど、実に風格があり、歌人だからと言って何事に付けてもやたらと詠むようなことはないけれど、知っている限りでは、ちょっとした折節のことも、それこそこちらが恥ずかしくなる(ほど上手な)詠みぶりです。
 (赤染衛門ほどの力量のない人が)どうかすると、腰(和歌の第三句)が離れそうになるほど下手くそな歌を詠み上げて、言いようのない気取った言動をして、私はすごいぞと思っている人は、憎らしくもあり、また気の毒だと思うことです。
(現代語訳)
丹波の守の正妻のことを、宮(=中宮彰子)や殿(=藤原道長)の近辺では、匡衡衛門と言っています。特に家柄が優れているというわけではないけれど、実に風格があり、歌人だからと言って何事に付けてもやたらと詠むようなことはないけれど、知っている限りでは、ちょっとした折節のことも、それこそこちらが恥ずかしくなる(ほど上手な)詠みぶりです。
 (赤染衛門ほどの力量のない人が)どうかすると、腰(和歌の第三句)が離れそうになるほど下手くそな歌を詠み上げて、言いようのない気取った言動をして、私はすごいぞと思っている人は、憎らしくもあり、また気の毒だと思うことです。

(清少納言)

(原文)
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名まな書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。
 かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶えんになりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。
(現代語訳)
清少納言は、なんとも得意そうな顔でひどく偉そうにしていた人だ。あれほどお利口ぶって漢字を書き散らしています程度も、よくよく見てみると、まだ全然足りないことが多い。
 このように、人より優れていようと心がけて行動する人は、かならず見劣りして、行く末は悪くなっていくだけなのですから、風流ぶる癖が付いてしまった人は、とても寂しくなんということもないときでも、しみじみと趣があるように振る舞い、風流なことも見逃さないように自然と見当外れで浮ついた様子になってしまうのでしょう。そういったふうになった(浮ついた)人の行く先は、どうして良いことがありましょうか。(いや、良くはならないでしょう。)
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