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四季草花下絵千載集和歌巻(その五) [光悦・宗達・素庵]

(その五) 和歌巻(その五)

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「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      十首歌人によませ侍ける時、花のうたとてよめる
76 み吉野の花のさかりけふ見れば越(こし)の白根に春風ぞ吹く(皇太后大夫俊成)
(吉野山の花盛りを今日眺めると、白雲を頂いた越の白山に春風が吹いているようだよ。)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html

【 「皇太后大夫俊成」=「藤原俊成」(ふじわらのとしなり・しゅんぜい) 永久二年~元久元年(1114-1204) 法号:釈阿 通称:五条三位)

 藤原道長の系譜を引く御子左(みこひだり)家の出。権中納言俊忠の子。母は藤原敦家女。藤原親忠女(美福門院加賀)との間に成家・定家を、為忠女との間に後白河院京極局を、六条院宣旨との間に八条院坊門局をもうけた。歌人の寂蓮(実の甥)・俊成女(実の孫)は養子である。
 保安四年(1123)、十歳の時、父俊忠が死去し、この頃、義兄(姉の夫)にあたる権中納言藤原(葉室)顕頼の養子となる。これに伴い顕広と改名する。大治二年(1127)正月十九日、従五位下に叙され、美作守に任ぜられる。加賀守・遠江守を経て、久安元年(1145)十一月二十三日、三十二歳で従五位上に昇叙。同年三河守に遷り、のち丹後守を経て、久安六年(1150)正月六日、正五位下。同七年正月六日、従四位下。久寿二年(1155)十月二十三日、従四位上。保元二年(1157)十月二十二日、正四位下。仁安元年(1166)八月二十七日、従三位に叙せられ、五十三歳にして公卿の地位に就く。翌年正月二十八日、正三位。また同年、本流に復し、俊成と改名した。承安二年(1172)、皇太后宮大夫となり、姪にあたる後白河皇后忻子に仕える。安元二年(1176)、六十三歳の時、重病に臥し、出家して釈阿と号す。元久元年(1204)十一月三十日、病により薨去。九十一歳。
 長承二年(1133)前後、丹後守為忠朝臣家百首に出詠し、歌人としての活動を本格的に始める。保延年間(1135~41)には崇徳天皇に親近し、内裏歌壇の一員として歌会に参加した。保延四年、晩年の藤原基俊に入門。久安六年(1150)完成の『久安百首』に詠進し、また崇徳院に命ぜられて同百首和歌を部類に編集するなど、歌壇に確実な地歩を固めた。六条家の藤原清輔の勢力には圧倒されながらも、歌合判者の依頼を多く受けるようになる。治承元年(1177)、清輔が没すると、政界の実力者九条兼実に迎えられて、歌壇の重鎮としての地位を不動とする。寿永二年(1183)、後白河院の下命により七番目の勅撰和歌集『千載和歌集』の撰進に着手し、息子定家の助力も得て、文治四年(1188)に完成した。建久四年(1193)、『六百番歌合』判者。同八年、式子内親王の下命に応じ、歌論書『古来風躰抄』を献ずる。
 この頃歌壇は後鳥羽院の仙洞に中心を移すが、俊成は院からも厚遇され、建仁元年(1201)には『千五百番歌合』に詠進し、また判者を務めた。同三年、院より九十賀の宴を賜る。最晩年に至っても作歌活動は衰えなかった。詞花集に顕広の名で初入集、千載集には三十六首、新古今集には七十二首採られ、勅撰二十一代集には計四百二十二首を入集している。家集に自撰の『長秋詠藻』(子孫により増補)、『長秋草』(『俊成家集』とも。冷泉家に伝来した家集)、『保延のころほひ』、他撰の『続長秋詠藻』がある。歌論書には上述の『古来風躰抄』の外、『萬葉集時代考』『正治奏状』などがある。

「俊頼が後には、釈阿・西行なり。釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり」(後鳥羽院「後鳥羽院御口伝」)。

「ただ釈阿・西行の言葉のみ、かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも、あはれなるところ多し。後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも『これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる』とのたまひはべりしとかや。されば、この御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふことなかれ」(芭蕉「許六別離の詞」)。 】

(参考)

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(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

釈文(揮毫上の書体)=上図右側

三芳野濃(の)華の盛(さかり)を今日三禮盤(みれば)こし濃(の)しら年(ね)尓(に)ハる可瀬(かぜ)(ぞ)吹(ふく)

※三芳野=み吉野=吉野山。「み」は言葉の頭につける美称。
※華の盛=花の盛り。
※三禮盤(みれば)=見れば。
※こし濃(の)しら年(ね)=越の白根。加賀白山。石川・岐阜県境。四時雪の消えない山とされた。
※ハる可瀬(かぜ)=春風。

【 下絵に桜をはじめとしているのは、この巻が桜の和歌をえらんで書かれているのと相応するもののようである。この和歌巻は一に「桜和歌巻」とよばれているとおり、桜を主題としているものである。さきの桜下絵(「桜下絵新古今和歌巻」) に比べると桜の絵は描きかたがことなっている。この巻の桜の林立する幹や、丸い花の束のようになったすがたなど、よく意匠をこらしている。藤、躑躅、萩、薄、松原、千鳥など、嵯峨本の雲母紋様と通ずるものがあり、この巻の製作には嵯峨本との何らかの関連がありそうである。】(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

※「鷹ケ峰芸術村」周辺

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■鷹ケ峰芸術村

 から紙作りは、もともと都であった京が発祥の地であり、その技術も洗練されていった。 近世初期の、本阿弥(ほんあみ)光悦(こうえつ)の鷹ケ峰(たかがみね)芸術村では、「嵯峨本(さがほん)」などの料紙(りょうし)としてのから紙を制作し、京から紙の技術をさらに洗練させ、京の唐紙師がその伝統を継承していった。
 本阿弥光悦(1558ー1637)は、室町幕府の御用をつとめた刀剣の鑑別・研磨を業(なりわい)とした本阿弥家の、多賀宗春を祖とする分家に生まれ、本阿弥宗家の光心の養子となっている。本阿弥光悦の父である光二は、応仁(おうにん)の乱の当時、京都所司代として権勢を振るった多賀高忠の孫と伝えられている。室町幕府に出仕する武家と深い関係を有していた。本阿弥光悦は、このような出自から、刀剣の鑑別・研磨をはじめとして、さらに絵画・蒔絵(まきえ)・陶芸にも独創的な才能を発揮した。また書道でも寛永の三筆の一人といわれ、工芸に多彩な才能を発揮した。
 本阿弥光悦の晩年の元和(げんな)元年(1615)、徳川家康からその芸術の才能を愛され、洛北の鷹ケ峰に約9万坪という広大な敷地を与えられ各種の工芸家を集め、本阿弥光悦流の芸術精神で統一した芸術村を営むことになった。本阿弥光悦の芸術の重要なテーマは、王朝文化の復興であり、その一つとして王朝時代の詠草料紙の復活と「から紙」を作り、書道の料紙とするとともに、嵯峨本の料紙とすることであった。
 嵯峨本とは、別名角倉本(すみのくらほん)、光悦本ともいい、京の三長者に数えられる嵯峨の素封家角倉素庵が開版し、多くは本阿弥光悦の書体になる文字摺の国文学の出版であった。慶長(けいちよう)13年(1608)開版の嵯峨本『伊勢物語』は、挿し絵が版刻された最初のものであった。嵯峨本の影響を受けて、仮名草紙(そうし)(仮名書きの物語・日記・歌などの総称)、浄瑠璃(じょうるり)本、評判記なども版刻の挿し絵を採用するようになった。仮名草紙の普及で、のちに西鶴文学が生まれ、挿し絵と文字を組み合わせた印刷本が、庶民の要望に応えて量産されるようになった。
嵯峨本は、豪華さと典雅さを特徴とし、装丁・料紙・挿し絵のデザインのきわめて優れたものであった。
 料紙は王朝文化の伝統に、新しい装飾性を加えた図案を俵屋宗達が描いている。俵屋宗達は、慶長から寛永にかけて活躍した絵師で、光悦の芸術村に参加している。俵屋宗達の独特の表現と技術を凝らした画風が評判となり、のちに宮廷にも認められ、狩野派など一流画壇の絵師たちと並んで仕事を請け負うようになった。町の絵師の出身としては異例の「法橋(ほつきよう)」に叙任(じよにん)され、今日に残るふすま絵や屏風(びょうぶ)絵の名作を数多く描いている。
   (中略)
 この俵屋宗達の図案を版木に彫り、印刷してから料紙にする仕事を担当したのが紙師宗二である。紙師(かみし)宗二は、光悦の芸術村活動に参加した工芸家で、紙師(かみし)の文字は、紙を漉く工人を意味するのではなく、唐紙師の意で称されている。光悦の発想と宗達の意匠に、さらに宗二の加工技術が調和して、美しい「から紙」の料紙が生み出されたのである。芸術村で作られた「から紙」は、ほとんどが嵯峨本の出版用の料紙や詠草(えいそう)料紙(りょうし)であったが、近世の京唐紙師の一部にその技術が伝承され、京から紙の基礎を築いたともいえる。京からかみの紋様のなかに光悦桐や、宗達につながる琳派(りんぱ)の光琳(こうりん)松、光琳菊、光琳大波などのデザインがある。
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