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四季草花下絵千載集和歌巻(その十四・十五) [光悦・宗達・素庵]

(その十四・十五) 和歌巻(その十四・十五)

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「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

85 花のちる木のしたかげはをのづからそめぬさくらの衣をぞきる(藤原仲実朝臣)
(花が散る木陰にいると、花びらが身に添うて、おのずから染めない自然の桜襲(さくらかさね)の衣を着ることだよ。)

釈文(記号上の書体)=(「書道芸術第十八巻 本阿弥光悦」)
華濃知る(花のちる)こ乃した陰(木の下陰)ハ(は)を乃づ可ら(自づから)曾免ぬ(染めぬ)左久ら乃(桜の)衣を曾(そ)き流(着る)

※華濃知る(花のちる)=花の散る。
※こ乃した陰(木の下陰)ハ(は)=木の下陰は。
※を乃づ可ら(をのづから)=自づから。
※曾免ぬ(染めぬ)左久ら乃(桜の)=染めぬ桜の。染めない自然の桜襲(さくらかさね)の。春に着る桜襲の色目の衣。表は白、裏は赤花という。
※衣を曾(そ)き流(着る)=衣をぞ着る。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nakazane.html

【藤原仲実 (ふじわらのなかざね) 天喜五~元永元(1057-1118) 
藤原式家。越後守能成の息子。母は源則成女。蔵人・三河守・備中守・紀伊守・越前守を経て、正四位下中宮亮に至る。承暦二年(1078)内裏歌合、永保二年(1082)前出雲守経仲歌合、承暦四年(1080)及び永保三年(1083)の篤子内親王侍所歌合、康和二年(1100)宰相中将国信歌合、長治元年(1104)左近衛権中将俊忠歌合、天永元年(1110)帥時家歌合、永久四年(1116)の鳥羽殿北面歌合・六条宰相歌合・雲居寺結縁経後宴歌合などに出詠。「堀河百首」「永久百首」作者。堀河院歌壇の中心メンバーの一人として活躍した。『綺語抄』『古今和歌集目録』『類林抄』などの著がある。金葉集初出。勅撰入集二十三首。  】

86 春をへて花ちらましやをく山の風をさくらの心とおもはば(藤原基俊)
(奥山の風を桜の心と同じものと思うならば、春が過ぎても花の散ることはあるまいに、花は心ならずも風に散るのだよ。)

釈文(記号上の書体)=(「書道芸術第十八巻 本阿弥光悦」)
ハ(は)るをへ天(て)ハ(は)な知(ち)らしまや於久山濃(の)可勢(かぜ)を左久ら(さくら)濃(の)心とおもハ(は)々(ば)

※ハ(は)るをへ天(て)=春をへて。「春をへで」の読みもあり、この読みですると「春も終わらぬのに」の意になる。
※ハ(は)な知(ち)らしまや=花知らましや。花の散ることはあるまい。
※於久山濃(の)可勢(かぜ)=奥山の風。花を散らす奥山の風。
※左久ら(さくら)濃(の)心=桜の心。「奥山の風を桜の心と思うならば」。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mototosi.html

【 藤原基俊(ふじわらのもととし) 康平三~永治二(1060-1142) 
右大臣俊家の子。道長の曾孫にあたる。母は高階順業女。権大納言宗俊の弟、参議師兼・権大納言宗通の兄。名門の出身でありながら、官途には恵まれず、従五位上左衛門佐に終わった。永保二年(1082)三月以前にその職を辞し、以後は散官。長治元年(1104)成立の堀河百首の作者の一人。永久四年(1116)、雲居寺結縁経後宴歌合で判者を務める。この頃から藤原忠通に親近し、忠通主催の歌合に出詠したり判者を務めたりするようになる。源俊頼と共に院政期歌壇の重鎮とされ、好敵手と目された。保延四年(1138)、出家して法名覚俊を称した。また同年、当時二十五歳の藤原俊成を入門させている(『無名抄』)。家集『基俊集』がある。金葉集初出。千載集では俊頼・俊成に次ぎ入集歌数第三位。勅撰入集百五首。万葉集次点者の一人。古今集を尊重し、伝統的な詠風は、当時にあってむしろ異色の印象がある。漢詩にもすぐれ、『新撰朗詠集』を編纂し、『本朝無題詩』に作を残す。 】

(参考)  藤原基俊の「千載集」の歌など

   堀川院の御時、百首の歌奉りけるとき、春雨の心をよめる
春雨のふりそめしより片岡のすそ野の原ぞあさみどりなる(千載32)
【通釈】春雨が降り始めてから、片岡の山裾にひろがる野原は浅緑色になったのだ。
【語釈】◇片岡 奈良県北葛城郡王子町あたりの丘陵。聖徳太子が餓人の歌を詠んだ地。

   題しらず
風にちる花たちばなに袖しめて我がおもふ妹が手枕にせむ(千載172)
【通釈】風が吹き、橘の花が散る――その花の香りで袖を染み込ませて、恋しいあの子の手枕の代りにしよう。
【語釈】◇袖しめて (橘の香に)袖を浸透させて。

   堀川院の御時、百首の歌奉りける時、五月雨の歌とてよめる
いとどしく賤しづの庵のいぶせきに卯の花くたし五月雨ぞする(千載178)
【通釈】ただでさえ卑しい身分の我が家は鬱陶しいのに、この季節、卯の花を腐らして五月雨が降りつづき、いっそう気分がふさいでしまうよ。
【語釈】◇しづの庵(いほり) 卑しい身分の者が住む庵。ここでは官位に恵まれず不遇に過ごす自分の住居を卑下して言う。◇卯の花くたし 万葉集巻十に見える語句。卯の花を腐らせてしまうほど長く降り続ける雨を言う。

   題しらず
霜さえて枯れゆくを野の岡べなる楢の広葉(ひろは)に時雨ふるなり(千載401)
【通釈】草にひえびえと霜が置いて、枯れてゆく野――小高くなったあたりに楢の木が生えていて、その広葉に時雨が落ちてあたる。なんと寂しげな音が聞えてくることだ。
【語釈】◇を野の岡べ 「を野」はここでは普通名詞。「野」はふだん自然のままに放置された広がりのある土地、特に山裾の傾斜地などを言う。

   月前旅宿といへる心をよめる
あたら夜を伊勢の浜荻をりしきて妹恋しらに見つる月かな(千載500)
【通釈】もったいないような月夜なのに、私は伊勢の海辺で旅寝するために葦を折り敷いて寝床に作り、都の妻を恋しがりながら、こうして月を眺めることよ。
【語釈】◇伊勢の浜荻 伊勢の浜辺に生えている葦。「伊勢国には、葦を浜荻と云ふなり」(仙覚抄)。

   権中納言俊忠の家の歌合に、恋の歌とてよめる
みごもりにいはでふる屋の忍草しのぶとだにも知らせてしがな(千載655)
【通釈】思いを胸に秘め、口には出さずに過ごしてきた。俺はまるで陸奥の岩手の古屋に生える忍ぶ草だな。せめて、怺えているってことだけでも、あの人に知らせたいよ。
【語釈】◇みごもりに 水隠りに。水中に隠れて、の意から、心の中に秘めて外にあらわさないでいることを言う。◇いはで 「言はで」と地名「岩手」の掛詞。「いはて」「しのぶ」はともに陸奥の地名で縁語。◇ふる屋 「経る」「古屋」の掛詞。

   堀河院御時、百首歌たてまつりける時、述懐の心をよめる
唐国にしづみし人も我がごとく三代まであはぬ歎きをぞせし(千載1025)
【通釈】唐の国で不遇に沈んだ人、顔駟(がんし)も、私のように三代にわたって、取り立ててくれる天子に出逢えない嘆きをしたのだ。
【語釈】◇唐国にしづみし人 文選思玄賦注にみえる漢の顔駟。三代の皇帝のもと不遇に過ごした後、ようやく武帝に抜擢された。

契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり(千載1026)
【通釈】(詞書)律師光覚が維摩会の講師を請い願ったのに、たびたび人選に洩れたので、法性寺入道前太政大臣(藤原忠通)に不平を申したところ、「しめぢの原の(委せておきなさい、の意)」と返答があったけれども、その年もまた洩れてしまったので、(忠通に)詠んで贈った歌
(歌)「なほ頼めしめぢが原のさせも草」と、貴方はあれほどはっきりお約束してくださったのに。「させも草」に置く露のようにあてにならないではありませんか。それでも私はそのはかない露を、命の綱と頼むしかないのです。ああ、こんなふうにして、今年の秋もむなしく過ぎてゆくようです。
【語釈】◇律師光覚 基俊の子。◇維摩会 興福寺の維摩経講読の法会。毎年陰暦十月に催された。◇法性寺入道前太政大臣 藤原忠通。◇しめぢの原の 基俊の依頼に対し、忠通が「しめぢの原の」と答えたのである。清水観音の歌と伝わる「なほ頼めしめぢの原の…」(下記参考歌)を踏まえ、「まかせておきなさい」と請け合ったわけである。◇契りおきし あなたが約束しておいてくれた。作者が藤原忠通を通じ、息子を維摩会の講師にしてほしいと頼んだのに対し、忠通が請け負ってくれたことを指す。「おき」は「露」の縁語。◇させも させも草。ヨモギの別称という。「さしも」(あれほど)の意を掛ける。

   長月のつごもり頃、わづらふことありて、たのもしげなく
覚えければ、久しく問はぬ人につかはしける
秋はつる枯野の虫の声たえばありやなしやを人のとへかし(千載1093)
【通釈】秋も果てた頃、枯野の虫の声が絶えるように、私の消息が途絶えたら、生きているかどうかくらいは、尋ねて下さい。

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