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四季草花下絵千載集和歌巻(その二十二・二十三) [光悦・宗達・素庵]

(その二十二・二十三) 和歌巻(その二十二・二十三)

和歌巻18.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

     花の歌とてよめる
93 み吉野の山した風やはらふらむこずゑにかへる花のしら雪(俊恵法師)
(み吉野の山の麓を吹く風が落花を吹き上げるからだろうか、雪のような花が梢に咲き返るよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
見よし野乃(みよし野の)山し多可勢(山したかぜ)やハ(は)らふら無(む)こ須衛尓(こずゑ)尓(に)可(か)へる花乃(の)しら雪

※山した風=山の麓を吹く風。
※はらふ=風が落花をまきあげる。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syune.html

【俊恵(しゅんえ) 永久一(1113)~没年未詳 称:大夫公 
源俊頼の息子。母は木工助橘敦隆の娘。兄の伊勢守俊重、弟の叡山阿闍梨祐盛も千載集ほかに歌を載せる歌人。子には叡山僧頼円がいる(千載集に歌が入集している)。大治四年(1129)、十七歳の時、父と死別。その後、東大寺に入り僧となる。
永暦元年(1160)の清輔朝臣家歌合をはじめ、仁安二年(1167)の経盛朝臣家歌合、嘉応二年(1170)の住吉社歌合、承安二年(1172)の広田社歌合、治承三年(1179)の右大臣家歌合など多くの歌合・歌会に参加。白川にあった自らの僧坊を歌林苑と名付け、保元から治承に至る二十年ほどの間、藤原清輔・源頼政・登蓮・道因・二条院讃岐ら多くの歌人が集まって月次歌会や歌合が行なわれた。ほかにも源師光・藤原俊成ら、幅広い歌人との交流が知られる。私撰集『歌苑抄』ほかがあったらしいが、伝存しない。弟子の一人鴨長明の歌論書『無名抄』の随所に俊恵の歌論を窺うことができる。家集『林葉和歌集』がある(以下「林葉集」と略)。中古六歌仙。詞花集初出。勅撰入集八十四首。千載集では二十二首を採られ、歌数第五位。 】

94 一枝(ひとえだ)を折りてかへらむ山ざくら風にのみやはちらしはつべき(源有房)
(山桜を一枝は折って帰ろう。どうせ散る桜ゆえ、風にばかりまかせきってよいものか。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
一枝ハ(は)折天(折りて)可(か)へら無(む)やま左具羅(さくら)可勢(かぜ)尓(に)乃三(のみ)やハ(は)知(ち)らしハ(は)徒(つ)べ幾(き)

※ちらしはつ=すっかり散らしきる。

【有房(ありふさ) 源氏、伯大夫と号す。生没年未詳。
神祇伯顕仲男、あるいは仲房男か。任安二年(一一六七)斎院長官、正五位下、久安五年(一一四九)『山路歌合』に出詠。千載初出、三首。】(『新日本古典文学大系10 千載和歌集』)
※『新勅撰和歌集』(第九勅撰集)の「源有房」(号:周防中将)とは、同名異人。

(参考) 俊恵法師と「歌林苑」周辺

https://wakadokoro.com/wonderful-songs/dailysongs/%E3%81%BF%E5%90%89%E9%87%8E%E3%81%AE%E5%B1%B1%E3%81%97%E3%81%9F%E9%A2%A8%E3%82%84%E6%89%95%E3%81%B5%E3%82%89%E3%82%80%E6%A2%A2%E3%81%AB%E3%81%8B%E3%81%B8%E3%82%8B%E8%8A%B1%E3%81%AE%E3%81%97%E3%82%89/

【 み吉野の山した風や払ふらむ梢にかへる花のしら雪(俊恵法師)
今日の歌人は俊恵法師。父は金葉集の選者「源俊頼」、方丈記などの執筆でも有名な「鴨長明」は歌の弟子であった。父とは17歳で死別しそのまま仏門に入ったというが、もし彼が堂上歌壇に留まっていたら御子左家が勃興する機会はなかったかもしれない。長明の「無名抄」に俊成と自賛歌について論じている段があるが、このやり取り見る限り、俊恵の方がはるかに的確※であるのだ。「幽玄」は俊成の専売特許のように思われているが、その本質にいち早く気付いていたのは俊恵だったのかもしれない。今日の歌にもそれが表れている。花を白雪に見立てるのは常套的だが、それを風が払って「梢に帰る」とした。とたんに物語性を帯びて、情趣に響く歌となった。
※「景気を言ひ流して、ただそらに身にしみけんかしと思はせたるこそ、心にくくも優に侍れ」(無名抄) 】

http://mie-ict.sakura.ne.jp/100n1s/kajin/k085.html

【俊恵法師(しゅんえほうし。1113年~1191年頃)
71番・源経信(つねのぶ)の孫、74番・源俊頼(としより)の息子で、3代続けて百人一首に歌が選ばれています。「金葉集」の撰者である父・俊頼に歌を学びましたが、17歳で死別し、出家して奈良・東大寺の僧となりました。40代になると、京都白川の自分の別邸を「歌林苑(かりんえん)」と名付け、歌人たちを集めて月例会を持つなど、保元(1156)以降治承(1177)の頃までサロンとしました。40人を越す参加者の中には、源頼政、82番・道因法師、84番・藤原清輔、87番・寂蓮法師、90番・殷富門院大輔、92番・二条院讃岐、など、有名な歌人もいましたが、身分・性別の区別なく幅広い階層の人々が集まりました。流派にこだわらない自由な雰囲気で、度々歌合や歌会を催しています。ここに集まった歌人たちは、生活での困りごとなども相談し合う仲だったらしく、俊恵法師が面倒見のよい人物だったことがうかがえます。俊恵法師の和歌の弟子である鴨長明は、その著書「無名抄(むみょうしょう)」に、俊恵法師の歌論を伝えています。現在、俊恵作と伝えられている歌は千百首あまりですが、その多くは40歳以降に詠まれたものです。自然詠や恋の歌を得意としていました。「詞花集」以下の勅撰集に84首入集しています。俊恵の父・源俊頼と親しかった83番・藤原俊成は「千載和歌集」に俊恵の歌を一番多い22首撰入しています。自撰家集に「俊恵法師集(林葉和歌集)」があります。 】

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1980/129/1980_129_41/_pdf/-char/ja

【 「歌林苑歌壇の形成とその歌風 (上)」(大取一馬稿)……抜粋……
歌林苑の主宰者俊恵の初出は、父俊頼が催した歌合であった。当時一七歳であった俊恵は、恐らく作歌の練習のために詠んだもので、しかも代作の歌かも知れない。俊恵は、その後.久安二年三月左京大夫顕輔歌合」(当時俊恵三三歳) まで消息を断っている。俊恵自身、崇徳院との関係は全く不明であるが、『詞花集』に俊恵法師の名で載っている点からみると、『詞花集』撰集時の仁安元年にはすでに僧侶となっていたものと考えられる。俊恵の家集『林葉和歌集』によると、次の二条院との関係はその詞書に見られるが、父俊頼の関係か、あるいは清輔・頼政、その他の院の廷臣を通じてかかわっていたものと思える。又、清輔は為忠の歌合を初出としている。この歌合には清輔の父顕輔も出席しており、父に同行したものであろう。その後、清輔は崇徳院の催した『久安百首』の歌人に加えられているので、崇徳院近臣の教長、あるいは頼政とはこの時期に関係を持ったかと思われる。

歌林苑.jpg

(歌林苑の胎動期・生成期・発展期・衰退期・消滅期)

歌林苑・歌人たち.jpg

(歌林苑の主な歌人たち)          】

https://plaza.rakuten.co.jp/sekkourou/diary/200604020000/

【 『後鳥羽院御口伝』の「釋阿(俊成)・西行・清輔・俊惠」評など】

俊頼の後には釋阿・西行・俊惠なり。すがたことにあらぬ體なり。釋阿はやさしくゑんに、心もふかくあはれなる所もありき。殊に愚意に庶幾するすがたなり。西行はおもしろくてしかもこゝろに殊にふかくあはれなる、ありがたく、出來しがたきかたもともに相兼てみゆ。生得の歌人とおぼゆ。これによりて、おぼろげの人のまねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり。清輔はさせる事なけれども、さすがにふるめかしき事まゝみゆ。
   としへたる宇治のはしもりこととはむいくよになりぬ水のみなかみ
これ體なり。俊惠法師おだしき樣に侍り。五尺のあやめ草に水をかけたるやうに歌はよむべしと申けり。
   たつた山こずゑまばらになるまゝにふかくも簾のそよぐなるかな
釋阿、優なる歌に侍ると申き。

〔口訳〕源俊頼の次の世代では、藤原俊成、西行、俊恵である。歌の詞つづきがことにすぐれているという歌風ではない。ただし俊成は優艶で、艶っぽく、しみじみとした情趣に満ち、趣ぶかいところがあった。ことに私の好み理想とする歌風である。西行は機知や趣向に富み、しかも歌の心がまことに深く哀婉であって、なかなか世にめずらしい歌風であり、余人の真似がたい風を持っているようにも見える。生れつきの歌人というべきであろう。ただしそれゆえに初心の人の真似たり参考にしたりするような歌ではない。言葉にいいあらわしがたい名手である。藤原清輔はそれほどのこともないが、さすがに(歌学の大家であったらしく)古風なところが歌にところどころあらわれている。
     としへたる宇治のはしもりこととはむいくよになりぬ水のみなかみ
こういう歌風である。俊恵はおとなしい歌風である。彼は「五尺のあやあ草に水をかけたように(清爽たるさまの)歌を詠むべきである」と言っていた。
     たつた山こずゑまばらになるまゝにふかくも簾のそよぐなるかな
という歌があって、俊成はこれを優艶な歌であると言っていた。 】

(「俊恵と歌林苑のメモ」)

 『後鳥羽院御口伝』の「俊頼の後には釋阿・西行・俊惠なり」のとおり、俊恵の父の「俊頼の時代」(第五勅撰集『金葉和歌集』の撰者)の次の時代は、「釋阿(俊成)・西行・俊惠」(第七勅撰集『千載和歌集(俊成撰)』)の時代ということになろう。
 この「釋阿(俊成)・西行・俊惠」の時代は、「釋阿(俊成)」が主たる歌壇とする「殿上歌壇」(公的な宮廷歌壇)」の他に、「西行・俊恵」が主たる歌壇とする「在野歌壇」(個人的あるいは同好者的な私的な歌壇)が生成・発展した時代であった。
 この「在野歌壇」の代表的な歌壇が、俊恵が中心となった「歌林苑」ということになろう。
この「歌林苑」の時代は、「歌林苑歌壇の形成とその歌風 (上)」(大取一馬稿)によると、その生成期は、保元元年(一一五六)から仁安元年(一一六六)の「藤原清輔が判者として活躍した時代」(「六条藤家」の時代)」で、次の発展期(仁安二年=一一六七~治承元年=一一七七)は、「藤原清輔が没して、俊成が判者として活躍した『御子左家』の時代」としている。
 ここで、「殿上人歌壇」と「在野歌壇」とを、この「四季草花下絵千載集和歌巻」(光悦筆の『千載和歌集』)ですると、その『千載和歌集』の配列は、「官職名」が有るものが「殿上人歌壇」、「官職名」が無いものが「在野歌壇」と、一応の目安とすることも可能であろう。

(「殿上人歌壇」の作例)

87 あらしふく志賀の山辺のさくら花ちれば雲井にさゞ浪ぞたつ(右兵衛公行)
(志賀の山辺の桜花が、はげしい山風に吹き散らされると、空にはさざ波が立つよ。)

88 春風に志賀の山こゑ花ちれば峰にぞ浦のなみはたちける(前参議親隆)
(春風の中、花吹雪の志賀の山越えをして来ると、山の頂に浦の波が立つことだよ。)

89 さくら咲く比良の山風ふくまゝに花になりゆく志賀のうら浪(左近中将良経)
(桜咲く比良の峰々を山風が吹きおろすと、やがて志賀の浦波も花の白波となっていくよ。)

90 ちりかゝる花のにしきは着たれどもかへらむ事ぞわすられにける(右近大将実房)
(落花の下、花の錦は身につけたが、花に心を奪われて故郷へ帰ることを忘れてしまったよ。)

91 あかなくに袖につゝめばちる花をうれしと思ふになりぬべきかな(権大納言実国)
(散る花への飽きることのない愛惜の心から、それを袖に包みとると、花が散るのは悲しいのに、かえって喜んでいるようになってしまいそうだよ。)

92 桜花うき身にかふるためしあらば生きてちるをば惜しまざらまし(権中納言通親)
(桜の花が散るのを、この憂き身に代えて止めるというためしがあるのなら、私は(身代わりになるから)生き永らえて散る花を惜しむことはないであろう。)

 そして、これに続く、この「四季草花下絵千載集和歌巻」(光悦筆の『千載和歌集』)の、次の歌は、「在野歌壇」の歌ということになる。

(「在野歌壇」の作例)

93 み吉野の山した風やはらふらむこずゑにかへる花のしら雪(俊恵法師)
(み吉野の山の麓を吹く風が落花を吹き上げるからだろうか、雪のような花が梢に咲き返るよ。)

94 一枝(ひとえだ)を折りてかへらむ山ざくら風にのみやはちらしはつべき(源有房)
(山桜を一枝は折って帰ろう。どうせ散る桜ゆえ、風にばかりまかせきってよいものか。)

95 ちる花を身にかふばかり思へどもかなはで年の老ひにけるかな(道因法師)
(散る花を惜しむあまり、わが身にかえてもとひたすら思い続けて来たが、それにもかなわず、年ごとに花は散り、わが齢も老いてしまったことだよ。)

96 あかなくにちりぬる花のおもかげや風に知られぬさくらなるらむ(覚盛法師)
(花に飽きることがない心から、すでに散ってしまった桜を面影に抱き続けて来たが、それは風に知られぬ桜なのだろう。)

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