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四季草花下絵千載集和歌巻(その十九) [光悦・宗達・素庵]

(その十九) 和歌巻(その十九)

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「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

    花留客(花客ヲ留ム)といへる心をよみ侍ける
90 ちりかゝる花のにしきは着たれどもかへらむ事ぞわすられにける(右近大将実房)
(落花の下、花の錦は身につけたが、花に心を奪われて故郷へ帰ることを忘れてしまったよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
知利懸(ちりかかる)ハな(はな)能(の)錦盤(は)きた連(れ)ども帰無事(かへらむこと)曾(ぞ)わ須(す)ら禮(れ)尓(に)介流(ける)

※知利懸(ちりかかる)=散りかかる。
※ハな(はな)能(の)錦=花の錦。衣の上に花の散ったさまを錦に見立てた。
※きた連(れ)ども=着たれども。身にまとったが。
※帰無事(かへらむこと)=(花に心を奪われて)故郷へ帰らんことを。
※わ須(す)ら禮(れ)尓(に)介流(ける)=忘れにける。忘れてしまったよ。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sanehusa.html

【藤原実房(ふじわらのさねふさ) 久安三~嘉禄元(1147-1225) 号:三条入道左大臣 
三条内大臣公教の三男。母は権中納言藤原清隆女。権大納言実国の弟。太政大臣公房・権大納言公宣・同公氏の父。
仁平二年(1152)叙爵。左少将・右中将などを経て、永暦元年(1160)、蔵人頭。同年従三位。永万二年(1166)、権中納言。仁安二年(1167)、従二位に叙され中納言に転じる。同三年、権大納言。承安元年(1171)、正二位。寿永二年(1183)、大納言。文治五年(1189)、右大臣。建久元年(1190)、左大臣に至る。同七年、病により引退。法名は静空。
住吉社歌合・広田社歌合・御室五十首・文治六年(1190)女御入内御屏風歌・正治二年初度百首などの作者。日記『愚昧記』がある。千載集初出。勅撰入集三十首。『歌仙落書』に「義理を存候、言葉妙也。末床しきさまなり」の評がある。 】

(参考) 「建久七年(一一九六)の政変」(九条兼実・良経の失脚と源通親の台頭)周辺

 藤原俊成の編んだ『千載和歌集』の、「89左近中将良経→90右近大将実房→91権大納言実国→92権中納言通親」の収載配列(上記の和歌巻は、右側の部分図が前回の「89左近中将良経」の一首、左側が今回の「90右近大将実房」、「91権大納言実国」と「92権中納言通親」は、この後に続く)は、この十年後に勃発する「建久七年(一一九六)の政変」(九条兼実・良経の失脚と源通親の台頭)の予兆を感じさせるような趣で無くもない。
 今回の「90右近大将実房」は、本姓は「藤原」だが、三条内大臣公教の三男で「三条実房」、二男の「91権大納言実国」は「滋野井実国」と、その姓は「三条家」(実房)、そして「滋野井家」(実国)が通姓のようである。
 そして、この実房が、「大納言」と「右近衛大将」(右近衛に置かれた近衛大将)とを兼任したのは、文治二年(一一八六)のことで、この時に、「89左近中将良経」は、「正三位に昇叙、左近衛中将・播磨権守は元の如し」(若干十七歳)と、まさに、「九条兼実・良経」親子の絶頂期を迎える頃で、この「九条兼実・良経」親子のサポートの基に、「御子左家」(「藤原俊成・定家」親子等々の「歌道の家」)は、それまでの「六条藤家」(「藤原顕輔・清輔」親子等々の歌道の家)に代わり、それが俊成(「御子左家」)による、この第七勅撰集『千載和歌集』の撰集へと繋がっている。
 そして、この実房は、九条兼実を支える両翼の一人(もう一人は「徳大寺実定」)で、これらの、当時(文治二年=一一八六)の官職名等は次のとおりである。

九条兼実 → 摂政宣下。藤原氏長者宣下。右大臣如元(十月、辞任)。建久二年(一一九一)=関白宣下。准摂政宣下。
徳大寺実定→ 右大臣(十月)。文治五年(一一八九年)七月左大臣となり、兼実の片腕として朝幕間の取り次ぎに奔走する。
三条実房 → 右近衛大将を兼ねる(寿永二年=大納言)。文治四年(一一八八)=左近衛大将、翌年=右大臣(左大将兼務)、その翌年(建久元年)=左大臣。
九条良経 → 正三位に昇叙、左近衛中将・播磨権守は元の如し。建久六年(一一九五)=内大臣に転任。11月12日、左近衛大将は元の如し。

 これらの、当時の朝廷のトップ層の「九条兼実」派と当時の歌壇の主流となってきた「御子左家」派等が一同に名を連ねている「屏風歌」(長寿を祝う算賀、裳着(もぎ)、入内(じゅだい)、大嘗会等の行事のための屏風調進に伴って詠作される和歌)がある。
 それは、「文治六年(一一九〇) 女御入内御屏風歌」で、その作者(詠進歌人)は「兼実(関白)・実定(左大臣)・実房(右大臣)・良経(近衛大将)・季経(「御子左家」寄りの「六条藤家」)・隆信(「六条藤家」寄りの「御子左家」)・定家(「御子左家」の嫡子)・俊成(「御子左家」再興の祖)の八名である。
 この「文治六年(一一九〇) 女御入内御屏風歌」については、次のアドレスの「勅撰集の中の入内屏風和歌 : 作者・詞書を手がかりに(細川佐知子稿)」の論攷の中で、次のように紹介されている。

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/67625/shirin49_001.pdf

「文治六年(四月一一日より建久)正月に後鳥羽天皇に入内した、九条兼実の女任子の入内屏風和歌である。(中略) 月次一二帖(各月三面)三六面の屏風と夏・冬二面の泥絵記すために詠出されたものである。作者は、兼実・実定・実房・良経・季経・隆信・定家・俊成の八名で、各人が三八首詠じ、各面一首ずつ選定された。選定は俊成・実定が下選びをし、兼実が最終決定した。屏風歌に選定された歌だけでなく、全歌が作品として残る。」(「勅撰集の中の入内屏風和歌 : 作者・詞書を手がかりに(細川佐知子稿)」)

 ここで、『藤原定家『明月記』の世界(村井康彦著・岩波新書)』で、この「文治六年(一一九〇) 女御入内御屏風歌」の二年後の『明月記』(定家の五十五カ年にわたる漢文体の「日記」)の「建久三年(一一九二)三月六日の条を紹介したい。

【六日、天晴、巳時(午前十時頃)「院」に入る。人々多く参る。未刻(午後二時頃)退出し、「七条」(院)・「八条院」へ参り、「家」に帰る。昏(夕方)に「内」(内裏)に参る。人なきにより、独り「宮御方」(任子・宜秋門院)に参り、格子を下ぐる後、「大将殿」(九条良経)に参り見参の後、「宮御方」(任子)に帰り参る。深更、又「大将殿」(良経)に参り、暁鐘の程「蓬」(自宅)に戻る。 】(『藤原定家『明月記』の世界(村井康彦著・岩波新書)』所収「序章『明月記』とは」)

 ここに出てくる、定家の「出仕先」(公務として出向いた先)の「院」・「七条院」・「八条院」・「内」・「宮御方」・「大将殿」と、その「殿舎」(その出仕先の殿舎)は、次のとおりである。

※「大将殿」=九条良経(近衛大将)、「九条家」の「家司(けし)=貴人に供奉する秘書役など」として仕えた定家の「九条家の御曹司」)→「一条殿」(当時の「良経」の殿舎)
※「内」(「内裏」=「里内裏」)「宮御方」(後鳥羽中宮、任子、宜秋門院、兼実の息女、良経の妹)→「閑院(中宮御所)」(当時の「任子」の殿舎)
※「院」(後白河院、後白河院の崩御=建久三年三月十三日、上記の『明月記』=建久三年三月六日で、この一週間後「院」は亡くなる。)→「六条殿」→「建久3年(1192年)2月18日、雨の降る中を後鳥羽天皇が見舞いのため六条殿に行幸する(『玉葉』同日条)。後白河院は「事の外辛苦し給ふ」という病状だったが(『玉葉』2月17日条)大いに喜んで、後鳥羽の笛に合わせて今様を歌っている。後鳥羽帝が還御すると、後白河院は丹後局を使者として遺詔を伝えた。その内容は、法住寺殿・蓮華王院・六勝寺・鳥羽殿など主要な部分を天皇領に、他の院領は皇女の亮子・式子・好子・覲子にそれぞれ分与するというもので(『明月記』3月14日条)、後白河院に批判的な九条兼実も「御処分の体、誠に穏便なり」としている。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)
※「七条院(後鳥羽母)」=高倉天皇の後宮。後高倉院(守貞親王)と後鳥羽天皇の母=藤原 殖子 → 「三条殿」(七条院の殿舎)
※「八条院(鳥羽皇女、美福門院女)」=暲子内親王。「近衛天皇は同母弟、崇徳・後白河両天皇は異母兄にあたる。ほかに母を同じくする姉妹に、早世した叡子内親王と二条天皇中宮となった姝子内親王(高松院)がいる。終生、未婚であったが、甥の二条天皇の准母となったほか、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)らを養育した。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)
※「家」「蓬」(自宅)=当時の「定家」宅(九条宅)→「九条殿」(九条兼実の「殿舎」)に隣接している。定家の父の俊成宅は「五条京極邸」邸でそことは異なる。

 これらの解説(解読)は、『藤原定家『明月記』の世界(村井康彦著・岩波新書)』の、下記の「目次」の随所にわたって、図表入りで、その一端が論述されている。

「序章」 →『明月記』とは
「第一章」→五条京極邸 1 五条三位  2 百首歌の時代
「第二章」→政変の前後 1 兼実の失脚 2 女院たちの命運 3 後鳥羽院政の創始 4 定家の「官途絶望」
「第三章」→新古今への道 1 正治初度百首 2 和歌所と寄人 3 終わりなき切継ぎ 4 水無瀬の遊興

 ここでは、「文治六年(一一九〇) 女御入内御屏風歌」とその二年後の『明月記』(「建久三年=一一九二・三月六日の条」)の記載と「建久七年(一一九六)の政変」(九条兼実・良経の失脚と源通親の台頭)との関連などについて記して置きたい。

一 「建久七年(一一九六)の政変」(九条兼実・良経の失脚と源通親の台頭)とは、すべからく、『明月記』(「建久三年=一一九二・三月六日の条」)の、その一週間後の、建久三年(一一九二)三月十三日の「後白河院」の崩御を起因として勃発する。

二 この「後白河院政」から「後鳥羽院院政」への移行期を支えた体制は、「文治六年(一一九〇) 女御入内御屏風歌」の、「九条兼実体制(関白・兼実、左大臣・実定、右大臣・実房、近衛大将・良経)であったが、この時に、既に、「関白・兼実」の両翼の、「左大臣・実定」は「建久二年、病のため官を辞して出家、同年閏十二月に崩御」、「右大臣・実房」は、建久七年(一一九六)三月、病により左大臣を辞し、出家」している。
 すなわち、「建久七年(一一九六)の政変」(九条兼実・良経の失脚と源通親の台頭)とは、それまでの「後白河(後鳥羽)・兼実」体制から、新しく「後鳥羽・通親」体制への移行ということを意味する。

三 そして、この「建久七年(一一九六)の政変」の背後には、親幕(親鎌倉)派の「兼実」に対する反幕(反鎌倉)感情を強めていた後白河院の寵妃「丹後局(高階栄子)」と「兼実」の娘の中宮「任子(宜秋門院)」を退けて「通親」の養女「在子(承明門院)」を後宮入りさせる画策とが、後白河院の没後に結実したということが挙げられよう。

建久六年(一一九五)八月十二日 任子、第一皇女昇子内親王(後に「春華門院」)を出産。
  同     十一月一日 在子、第一皇子為仁親王(後に「土御門天皇)を出産。

四 この時(建久六年=一一九五)、任子、二十二歳、在子、二十四歳、後鳥羽天皇、十五歳、この後鳥羽天皇の外戚として、関白・兼実が強権を揮っていたが、この時を境に、権大納言・通親が実権を握り、その翌年(建久七年=一一九六)の十一月二十四日に、「八条院」(鳥羽皇女・美福門院女、兼実・四男=良輔と昇子内親王の養母)に居を移し、その翌日に、兼実は失脚している。これが、「建久七年(一一九六)の政変」の実態なのである。

五、しかし、この時点では、任子の再入内の余地は十分に残されていたのだが、正治元年(一一九六)、任子の兄の九条良経が左大臣となり政権に復帰した、その翌年の正治二年(一二〇〇)六月二十八日に、任子への「宜秋門院」の院号宣下があり、ここで、名実ともに、「後白河(後鳥羽)・兼実」体制から「後鳥羽・通親」体制へと移行することとなる。

六 ここで、「建久七年(一一九六)の政変」は、「クーデターでなく、兼実が目指していた外戚摂関再興の途が閉ざされたことによる『関白辞職』である」とする、下記のアドレスの論攷などは、やはり、上記の「建久七年(一一九六)の政変」の実態と併せ、その真実の一端を語っているものであろう。

https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=11199&item_no=1&page_id=13&block_id=83

「建久七年の九条兼実『関白辞職』」(遠城悦子稿)」

七 さらに、ここで、下記のアドレスで触れた「平安京条坊図(大内裏周辺)」と、上記で紹介した『藤原定家『明月記』の世界(村井康彦著・岩波新書)』の冒頭の『明月記』の「建久三年(一一九二)三月六日の条」とを重ね合わせると、様々なことかイメージ化されてくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-23

平安京条坊図(大内裏周辺)


大内裏周辺.jpg
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