SSブログ

四季草花下絵千載集和歌巻(その二十) [光悦・宗達・素庵]

(その二十) 和歌巻(その二十)

和歌巻16.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

    落花の心をよめる
91 あかなくに袖につゝめばちる花をうれしと思ふになりぬべきかな(権大納言実国)
(散る花への飽きることのない愛惜の心から、それを袖に包みとると、花が散るのは悲しいのに、かえって喜んでいるようになってしまいそうだよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
安可那久尓(あかなくに)袖尓(袖に)つ々め盤(ば)知る(ちる)ハな(花)をう連(れ)しとおもふ尓(に)な里(り)ぬべ幾(き)可那(かな)

※安可那久尓(あかなくに)=飽きることがないのに。

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin//sanekuni.html

【藤原実国(ふじわらのさねくに) 保延六~寿永二(1140-1183) 
太政大臣実行の孫。内大臣公教の子。左大臣実房の兄。母は家の女房。子には公時・公清ほかがいる。妻の藤原家成女は、藤原重家室と姉妹。
久安三年(1147)叙爵し、保元四年(1159)、蔵人頭。左衛門督などを歴任し、権大納言正二位に至る。寿永二年(1183)一月二日、四十四歳で薨ず。
縁戚関係のあった六条藤家と歌壇的にも深いつながりを持った。永万二年(1166)の中宮亮重家朝臣家歌合、嘉応二年(1170)十月の住吉社歌合・建春門院北面歌合、承安二年(1172)十二月の広田社歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合などに出詠。また嘉応二年(1170)五月、自邸で歌合を主催し(実国家歌合)、判者に六条藤家の清輔を招いた。
家集『実国集』がある。千載集初出。高倉天皇の笛の師。『古今著聞集』に歌人としての逸話を残している。滋野井実国とも。滋野井家の祖。  】

(参考) 「右近大将実房」と「権大納言実国」周辺

 『千載和歌集』が成った文治三年(一一八七)には、「権大納言実国」は亡くなっている(寿永二年=一一八三没)。この「権大納言」は実国の最後の官職名である。その弟の「右近大将実房」は、実国が亡くなった時には「大納言」で、「右近大将」を兼任したのは、『千載和歌集』が成る一年前の文治二年(一一八六)のことである。
 この実国は、高倉天皇の笛の師で、この高倉天皇の母(国母)の「建春門院(平慈子)」(後白河天皇の女御・皇太后・女院)である。この建春門院の院号を宣下された翌年の、嘉応二年(一一七〇)十月の「住吉社歌合・建春門院北面歌合」には、「公通(左)対※※※俊成(右)、実定(左)対※※重家(右)、隆季※※(左)対※※清輔(右)、※実房(左)対実家、※実国(左)対頼政(右)、実守(左)対※※※隆信(右)、脩範(左)対通親(右)」の名が見られる。

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he04/he04_03121/he04_03121_p0003.jpg

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he04/he04_03121/he04_03121_p0004.jpg

 この「建春門院北面歌合」には、「※実房(左)対実家、※実国(左)対頼政(右)」と、「※実国・※実房」兄弟は、「高倉天皇・建春門院」(後白河院政下)を支える、その一翼を担っていたのであろう。
 同時に、この当時は、「実定(左)対※※重家(右)、隆季※※(左)対※※清輔(右)」の「※※重家」(「六条藤家」の顕輔の四男、子に「顕家・有家」)、「※※隆季」(「六条藤家」の顕季→家保→隆季)、「※※清輔」(「六条藤家」の顕輔の二男)と、いわゆる「歌の家」の筆頭の「六条藤家」時代であったということであろう。
 同様に、この当時の、「御子左家」は、「公通(左)対※※※俊成(右)」「実守(左)対※※※隆信(右)」の「※※※俊成」と「実守(左)対※※※隆信(右)」の「※※※隆信」の二人であるが、この「※※※隆信」は、「母=美福門院加賀(藤原親忠女)、実父=藤原為経(寂超)、養父=俊成(美福門院加賀の再婚相手、定家は「異父弟」)で、「御子左家」に連なる歌人であるが、同時に「美福門院」(六条藤家の藤原清輔は従兄弟にあたる)と、「美福門院-八条院-二条天皇」の近臣でもあり、「六条藤家」と「御子左家」とを結びつける歌人というのが、より、その立つ位置を明瞭にしているのかも知れない。
 さらに、この「建春門院北面歌合」には、「脩範(左)対通親」の「通親」の名も見られ、その官職名は「少将」と詠める。
この当時は、「俊成」(皇后宮太夫)、「実国」(左衛門督)、「実国」(権大納言)、「顕輔」(権大納言)と同等というよりも下級職で、後に、「建久七年(一一九六)の政変」で、「関白・九条兼実」を失脚させて、「源博陸(はくりく・はくろく)」(博陸=関白の唐名)と権勢を極めた「土御門通親」の面影はない。
 ちなみに、この通親(右近衛少将)に対する「脩範(左近衛少将)」は、保元の乱(保元元年=一一五六)で勝者になった後白河院側の立役者の「信西=藤原通憲」の五男で、この乱後は
左近衛少将まで昇り上がるが、続く、平治の乱(保元四年=一一五九)で、信西は自害、信西の子息(俊憲・貞憲・成憲・脩憲)は全員流罪となり、脩憲(ながのり)は隠岐に流刑される。
 この平治の乱は、「後白河院政派(信西派と反信西派=信頼派)」と「二条天皇親政派(美福門院派)」との対立、「源氏一門(源義朝派=信頼派と源頼政派=美福門院派)」と「平氏一門」(信西派で信西派が放逐された後、信頼派と源義朝派を放逐)との対立、これらが、平治元年(一一五九)から同二年(一一六〇)にかけて合戦が続くのだが、結果的には、続く、治承三年(一一七九)の政変(平清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した事件)により、平清盛による「平氏政権の確立」と連なっている。
 しかし、この平氏政権も、次のような政変・合戦を経ながら、源氏政権(鎌倉幕府)へと移行して行くことになる。

治承四年(一一八〇)  以仁王の挙兵 → 「以仁王・源頼政」対「平氏」
治承五年(一一八一)  高倉上皇崩御後白河法皇院政復活、平清盛死去
           墨俣川の戦い → 「源行家・尾張源氏」対「平氏」
寿永二年(一一八三)  倶利伽羅峠の戦い → 「源(木曽)義仲」対「平氏」
          平氏都落ち、後鳥羽天皇践祚
法住寺合戦 →  「後白河法皇」対「源(木曽)義仲」
寿永三年(一一八四)  宇治川の戦い → 「源範頼・源義経」対「源(木曽)義仲」
          一ノ谷の戦い → 「源範頼・源義経」対「平氏」
元暦二年(一一八五)  屋島の戦い →  「源義経」対「平氏」
          壇ノ浦の戦い →  「源範頼・源義経」対「平氏」
建久元年(一一九〇) 頼朝上洛により鎌倉幕府と朝廷の協調体制樹立  
建久三年(一一九二) 後白河法皇が崩御、源頼朝の征夷大将軍の任命、鎌倉幕府確立
承久三年(一二二一) 承久の乱(院政終了)→「後鳥羽院」対「鎌倉幕府(北条義時・正子)」

 上記の「「住吉社歌合・建春門院北面歌合」は、嘉応二年(一一七〇)、関白・兼実の失脚する「建久七年の政変」は、建久七年(一一九六)のことである。すなわち、この「嘉応二年(一一七〇)~建久七年(一一九六)」の時代は、「平家政権から平家の滅亡、そして、源氏政権の樹立」という、大乱世の時代で、そこには、さまざまなドラマが渦巻いている。
 この『千載和歌集』が成った「文治三年(一一八七)」は、「壇ノ浦の戦い」の安徳天皇が入水崩御した二年後のことなのである。これらのさまざまなドラマが、この『千載和歌集の底流に流れている。

nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート