SSブログ

四季草花下絵千載集和歌巻(その十六) [光悦・宗達・素庵]

(その十六) 和歌巻(その十六)

和歌巻13-1.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      崇徳院御時、十五首たてまつりける時、花
      のうたをよめる
87 あらしふく志賀の山辺のさくら花ちれば雲井にさゞ浪ぞたつ(右兵衛公行)
(志賀の山辺の桜花が、はげしい山風に吹き散らされると、空にはさざ波が立つよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
安(あ)らしふ久(く)志賀濃(の)山邊乃(の)佐久ら華(ばな)知連(ちれ)(ば)雲井尓(に)左々波(さざなみ)曾(ぞ)多徒(たつ)

※安(あ)らしふ久(く)=嵐吹く。
※志賀濃(の)山=志賀の山。近江国の歌枕。
※佐久ら華(ばな)=桜花。
※知連(ちれ)(ば)=散れば。
※左々波(さざなみ)=さざ波。志賀の縁語。花吹雪の見立て。

※右兵衛公行(藤原公行=きんゆき)
藤原氏、長治二年(一一〇)生。久安4年(一一四八)六月二十二日没。四十四歳。八条太政大臣実行男。母は藤原顕季女。初名公輔。従三位右兵衛督。崇徳天皇内裏歌壇で活躍。詞華初出。

(参考) 『千載集』の詞書に出てくる「定数歌」周辺

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/62/7/62_2/_pdf

「単に「百首」 と言えば、 定数歌の百首歌のことを指す。定数歌には、他に、五十首、三十首、十五首、十首と百首より少ない例、逆に二百首、三百首、五百首、七百首、千首と多い例が存在する。また、歌仙やいろは歌にちなんだ三十六首や四十七首などで詠まれる場合もある。」

 上記の「87 あらしふく志賀の山辺のさくら花ちれば雲井にさゞ浪ぞたつ(右兵衛公行)」の一首は、その詞書の「崇徳院御時、十五首たてまつりける時、花のうたをよめる」からすると、「定数歌」(一定の数を定めて和歌を詠む創作手法、及びその催し、作品)の「十五首歌」の一首ということになる。

 先に見てきた、俊成の次の一首は、「十首歌」の例しなる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-10

      十首歌人によませ侍ける時、花のうたとてよめる
76 み吉野の花のさかりけふ見れば越(こし)の白根に春風ぞ吹く(皇太后大夫俊成)

 これらの「十首歌」とか「十五首歌」とは、「百首歌」の「部立・歌題」などに準じたもののように思われる。これらのことは、先の「堀河百首(堀河院百首和歌)」の例ですると、「三 (部立・題等) 春 20題 夏 15題 秋 20題 冬 15題 恋 10題 雑 20題」の、例えば、「春・十五首」または「花・十首」なとの、「百首歌」の前提となるような歌作のようにも思われる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-27

(参考)  [『今鏡』に登場する和歌を詠む人々(陳文瑶) ]周辺

今鏡・歌人たち.jpg

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/1/17608/2014101613121641411/KodaiChuseiKokubungaku_22_20.pdf

 この[『今鏡』に登場する和歌を詠む人々(陳文瑶) ]の論攷は、『今鏡』に登場する和歌を詠む人々(133人)について、「和歌作者への評価の目」「評価される人々の位相」「階級という視点から」などの視点から、そこに収載されている全首について考察した労作である。
 上記の図の「32」が「藤原公行」で、「45」が「藤原俊成」である。この「大鏡の作者による評価」は、「藤原公行(〇と△)」、「藤原俊成(〇)」で、同様に、「7白河院(△)」「8堀河院(△)」「9鳥羽院(〇)」「10崇徳院(〇)」「11近衛院(〇)」と、次の「後白河院」以降の「帝(天皇)」の記載はない。
 これらからすると、「大鏡の作者」は、「鳥羽・崇徳・近衛」天皇の在世中、特に、崇徳天皇に仕えた「大原三寂(又は常盤三寂)」の三兄弟(寂念=藤原為業・寂超=藤原為経・寂然=藤原頼業)の中の「寂超=藤原為経」が有力説(他に「中山忠親、源通親」説)になっていることを裏付けている感じでなくもない。
 ちなみに、「歴史物語」の「四鏡」(「大鏡」「今鏡」「水鏡」「増鏡」)の、この「今鏡」の前の時代を扱った「大鏡」の作者が、「寂超=藤原為経」の兄の「寂念=藤原為業」(摂関家やその縁戚の村上源氏に近い男性官人説の一人)であるとすると、なおさら、その感を大にする。
 そして、「大原三寂(又は常盤三寂)」の、その「三兄弟(寂念=藤原為業・寂超=藤原為経・寂然=藤原頼業)」の、もう一人の「寂然=藤原頼業)」が、西行の無二の同胞であることについては、下記のアドレスで触れてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-08-11

(再掲)

「大原三寂・御子左家系図」(『岩波新書西行(高橋貞夫著)』)

 『古今著聞集(巻十五、宿執第二十三)』に、「西行法師、出家よりさきは、徳大寺左大臣の家人にて侍る」と記されている。西行の出家は、保延六年(一一四一)、二十三歳のときであるが、それ以前は「徳大寺家の家人」で、鳥羽院の北面武士として奉仕していたことも記録に遺されている。
 この徳大寺家と俊成の「御子左家は、上記の系図のように近い姻族関係にあり、そして、この御子左家と「常盤三寂(大原三寂)」(「寂念・寂然・寂超」の三兄弟)で知られている「常盤家」と、寂超(藤原為経)の出家で離縁した妻の「美福門院加賀」が俊成の後妻に入り、「藤原定家」の生母となっているという、これまた、両家は因縁浅からぬ関係にある。
 さらに、この美福門院加賀と寂超の子が「藤原隆信」(歌人で「肖像画=「似せ絵」の名手)なのである。この美福門院加賀は、天才歌人・藤原定家と天才画人・藤原隆信の生母で、御子左家の継嗣・定家は、隆信の異父弟ということになる。
 上記の「大原三寂・御子左家系図」の左端の「徳大寺家」の「実能(さねよし)」に、西行は、佐藤義清時代は仕え、この実能の同母妹が「待賢門院璋子(しょうし)」(鳥羽天皇の皇后(中宮)、崇徳・後白河両天皇の母)なのである。
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート