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「シーボルトとフィッセル」の『日本』そして「北斎と慶賀」周辺(その五) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その五)「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」と「ブロンホフとフィッセル」周辺

出島俄芝居図 性急者-1.jpg

●作品名:出島俄芝居図 性急者-1
●Title:Play at Dejima, Opera
●分類/classification:阿蘭陀商館・阿蘭陀人/Duch and other
●形状・形態/form:紙本着色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:アムステルダム市立公文書館 Amsterdam City Archive
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3102&cfcid=146&search_div=kglist
(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」「第2図―ポルカムプ邸の屋内の図」。)

出島俄芝居図 性急者-2.jpg

●作品名:出島俄芝居図 性急者-2
(以下「Title・分類・形状・形態・所蔵館・アドレス」など上記に同じ)
(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」「第3図―ボルカムプ邸の屋内の図。下袖と上袖に`書きもの机'が二つ置かれている。」)

出島俄芝居図 性急者-3.jpg

●作品名:出島俄芝居図 性急者-3
(以下「Title・分類・形状・形態・所蔵館・アドレス」など上記に同じ)
(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」「第4図―ボルカムプ邸の屋内の図。登場人物が5名描かれている。」)

二人猟師乳汁売娘-1.gif

「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」(第5図一猟師ギリヨットがミルク売りの娘ペルレッテと出会う図。)→「作品名:出島俄芝居図 二人猟師乳汁売娘-1」

(追記の一)「猟師ギリヨットがミルク売りの娘ペルレッテと出会う図(上記第5図)」の原本図(黒船館蔵)

二人猟師乳汁娘1・黒船館.jpg

●作品名:阿蘭陀芝居図巻、二人猟師乳汁娘1
●Title:Play at Dejima
●分類/classification:阿蘭陀人/Duch and other
●形状・形態/form:紙本彩色、巻子/painting on paper, scroll
●所蔵館:黒船館 Kurofune Museum
●登録番号/registration No.:20070306-5
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3511&cfcid=164&search_div=kglist

出島俄芝居図 二人猟師乳汁売娘-2.jpg

●作品名:出島俄芝居図 二人猟師乳汁売娘-2
●Title:Play at Dejima, Opera
●分類/classification:阿蘭陀商館・阿蘭陀人/Duch and other
●形状・形態/form:紙本着色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:アムステルダム市立公文書館 Amsterdam City Archive
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3104&cfcid=146&search_div=kglist
「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」(第6図一失神した猟師. ラスとその体をかぎまわっている熊。)

出島俄芝居図 二人猟師乳汁売娘-3.jpg

●作品名:出島俄芝居図 二人猟師乳汁売娘-3
(以下「Title・分類・形状・形態・所蔵館・アドレス」など上記に同じ)
「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」(第7図一ペルレッテの父に許しを請うているタンケレートとその部下の図。)

上記の「紙本着色」の「出島俄芝居図」(5図=5葉)は、「川原慶賀が見た江戸時代の日本(1)」(「長崎歴史文化博物館)で紹介されている、「アムステルダム市立公文書館」所蔵関連のものである。
 その「紙本着色」の「出島俄芝居図」(5図=5葉)の中の「モノクロ(黒・白)の「第5図―猟師ギリョツトがミルク売りの娘ベルレットに出会う図」と、各図(第2図から第7図)の見出し的な説明は、下記アドレスの「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」について(宮永孝稿)」(「法政大学学術機関リポジトリ」)所載での掲載・記述されているものである。
 その「川原慶賀筆『阿蘭陀芝居巻』」は、その「宮永稿」によると、新潟県柏崎市大字青海川181番地の「黒船館(柏崎コレクションビレッジ)」所蔵のようである。

http://doi.org/10.15002/00021022

 以下、この「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」について(宮永孝稿)」(「法政大学学術機関リポジトリ」の要点を要約抜粋しながら、これらの「出島俄芝居」とこの芝居の立役者の「フィッセル」などに焦点を当ててみたい。
 まず、この論稿の目次は次のとおりである。

≪ はじめに
一 さまよえる「阿蘭芝居巻」(川原慶賀筆)
二 オランダ芝居の上演
三 オランダ芝居の素材
四 「阿蘭芝居巻」の中味について
五 登場人物たちの衣装
六 オランダ芝居が上演された場所
七 舞台の構造について
八 オランダ芝居の筋書に関する日本側文献
九 オランダ芝居に関係ある蘭人の名刺
あとがき      ≫

川原慶賀筆『阿蘭陀芝居巻.gif

 この「川原慶賀筆『阿蘭陀芝居巻』は、「巻子(巻き軸で巻いたもの)仕立ての絵(27.5㎝×36.3㎝)が七枚描かれている」。「慶賀がこの絵巻をつくった年代は定かでないが、おそらく江戸後期—芝居が上演された文政三年庚辰年(一八二○年)のことであろう。時に、慶賀は三十五歳であった。その三年後の文政六年(一八二三年)にシーボルトが来日し、かれはそのお抱え絵師となるのである」。
 「オランダ芝居を描いたこの絵巻は、アムステルダムの公文書館やネーデルラント演劇研究所にもあることから考えて、複数模写されたものであろう」。

 「黒船館」所蔵のものは、上記図のとおり、その形態は「巻物」であるが、「アムステルダム市立公文書館」所蔵のものは、「めくり(未表装)」とあり、額装にはなっていない「未表装」の「一枚もの」として保存しているように思われる。「ネーデルラント演劇研究所」ものも、その「めくり(未表装)」ものなのかどうか、それらは定かではない。

舞台の正面図.gif

「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」(第1図―舞台の正面図)

「第一図は、全体から見ると、単純なものだが、オランダ国旗が大きく描かれていたり、香盤が赤い炎を吹きあげている光景は、かなり観客の注意を引いただろうし、舞台の異国情調に魂をうばわれたことであろう。」

(追記その二)「第1図―舞台の正面図」(上記図の原本)(黒船館蔵)

舞台正面図・黒船館.jpg

●Title:Play at Dejima
●分類/classification:阿蘭陀人/Duch and other
●形状・形態/form:紙本彩色、巻子/painting on paper, scroll
●所蔵館:黒船館 Kurofune Museum
●登録番号/registration No.:20070306-1
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3507&cfcid=164&search_div=kglist


「第二図(葉)から第四図(葉)までは、「性急者」(De Ongeduldige)の芝居の場景を描いたものである。この芝居の登場人物たちは、左記(下記)のとおりである。

[役柄]    [役者名]
性急者ダアモン…オーフルメール・フィッセル(文政三年[一八二○]の夏来日した一等書記)
ラウレウル(ダアモンの従者)…ルイス・エリッセ・フィッセル(文政二年[一八一九]度からいる二等書記)
フロンティン(ダアモンの下男)…フレデリック・クレメンス・バウエル(文政二年[一八一九]度からいる書記)
ボルカンプ(金貸し)…パレラス・ディック(文政三年[一八二○]の夏来日した台所係)
ユリア(ボルカンプの娘)…ヘルマヌス・スミット(文政二年[一八一九]度からいる書記)
ノターリス(裁判所の書記)…デロイトル(文政三年[一八一一○]の夏来日した小役)

「第三図。第三葉の舞台の図柄は、第二図とほとんど変らないが、舞台中央の奥にあるドアの左右にあった椅子が姿を消し、代わって下袖と上袖に書きもの机(色は左が青、右が緑色)が二つ置かれている。下袖の机にむかって叔父(裁判官)宛の手紙を書いているのはダアモン、そのうしろにいるのがダアモンの下男フロンティン、そして帽子を手にし立っている男が裁判所の書記である。」

「第四図。第四葉の舞台の図柄は、第三図と同じである。が、登場人物が五名描かれている。正面にむかって左からダアモン、裁判所の書記、絵描き、ユリア、ボルカムプである。ボルカムプは、身を乗りだすようにして手紙を読んでいる。」

「性急者」のつぎに上演された出し物は、「二人の猟師とミルク売り娘」である。この芝居の登場人物たちは、左記(下記)のとおりである。

[役柄] [役者名]
猟師ギリョット(仏・ギョ)…オーフルメール・フィッセル(文政三年[一八二○]の夏来日した一等書記)
同コラス(仏・コラ)…ルイス・エリッセ・フィッセル(文政二一年[一八一九]度からいる二等書記)
牛乳売り娘ペルレッテ(仏・ペルレット)…ヘルマヌス・スミット(文政二年[一八一九]度からいる書記)
騎士タンケレート…オーフルメール・フィッセル(二役)
士卒…フレデリック・クレメンス・バウエル(文政二年[一八一九]度からいる書記)
同.…一番船小役シイモン
同. …在留小役スミツト
同. …同 デウィルデ
娘ペルレッテの父……デイキ(ディック、文政三年[一八二一○]の夏来日した者)

「第五図。舞台のほぼ中央に、何の木だかわからないが立木の”切出し”(板などを切り抜き、彩色したもの)が見られる。そのうしろに薄い灰青色のように思われるヨ―ロッパの教会の尖塔と円形の木立(黄緑色)、さらにピンク色の壁をもつ、わらぶき屋根の小屋が描かれている。下袖の”鏡”(屏風式の立ての道具)には、異国風の樹木(ヤシの木か)と動物や鳥などが描かれている。正面の切出しの前でむき合って話をしているのは、猟師ギリョットと娘ペルレッテである。」

「第六図。舞台の背景は、第五図とおなじであるが、正面の立木の切出しのうえにギリョットがおり、木の根元ちかくに失神した男コラスがいる。そして、その体をかぎまわっている熊(赤い大きな舌を出している)などが細密に描かれている。」

「第七図。舞台の背景は、第六図とほぼおなじである。が、正面にむかって右の袖に何やら小枝のようなものが見られ、またその近くにロケットが大き目に描かれている。左肩に赤いたすきをかけ、腰に緑色の幅広の帯をまき、手に槍をもった士卒が六名、士官が一名描かれている。黒い上着を着、真紅のパンタロンをはき、黒衣の老人の前で身をかがめているのはタンケレート。老人のうしろで黒い上着と赤いシャツを着、銃を一眉にかけ、腰に刀をさし灰色のズボンをはいているのは猟師のコラスである。そしてその脇に立っているのは娘ペルレッテである。彼女は濃紺の上着に、真紅のスカートをはき、さらに長い黒い前掛をかけている。このさいどの場面の絵は、派手やかな色どりで描写されている。」

「 出島の館員らによる、この『阿蘭陀芝居』は、次の四回に亘っている。
 
一八二〇年九月一七日(文政三年閏庚辰八月十一日)
一八二一〇年一〇月一三日(同九月七日)
一八二〇年一〇月二〇日(同九月十四日)
一八二〇年一〇月二二日(同九月十六日)      」

 「当時、出島の商館長であったヤン・コック・ブロンホフの日記によると、第二回目の上演のとき、長崎奉行・筒井和泉守政憲(まさのり)は、「一人の画家を(今日の一行に)同行させてあったが、その画家は、将軍に送るために、俳優たち、舞台、ならびに様々な動作のすべてをスケッチした」という。「一人の画家」(een shcilder)とは、川原慶賀であったことは間違いないようだ。この記述通りであるとすると、長崎奉行は慶賀に芝居の様子をスケッチさせ、それをあとで将軍家への献上品とするつもりであった。絵師は役者の動きをその場で精密に描き、すぐ着色することは不可能であろうから、おそらく慶賀は芝居を見ながら、すばやく筆で下絵の素描画をたくさん描き、あとでそれを紙面に細密に写しとり、彩色を施したものと考えられる。」

 「何部つくったものか明らかでないが、献上用に一部、私物用に一部、さらにオランダ人用に川原工房の絵師らに何部か模写させたものか。のちに世間に姿をみせ、道具屋の手に渡った作品は、幕府への献上品ではなく、慶賀が個人用にもっていた作品であったものか。」

 「長崎奉行から江戸町奉行に転任する筒井和泉守政憲や筒井の長崎着任後、江戸からやって来た間宮筑前守信與ら両名を招いて、素人芝居をみせたには理由がある。出島は文化六年(一八○九)から同十四年(一八一七)までの九ヵ年、ヨーロッパ動乱の余波をうけて蘭船の入港なく、商館長ドゥ―フおよび館貝はこの間窮乏生活を強いられていた。一八一五年(文化十二年)六月、ナポレオンはワーテルローの戦で大敗し、セント・ヘレナ島に流刑になったのち、ヨーロッパに平和が訪れた。文化十四年(一八一七)七月、新たに出島の商館長としてヤン・コック・ブロンホフが来日すると、ドウーフと交代した。ブロンホフは着任後、日蘭貿易が途絶していた空白期間中の損失をうめ足す必要を痛感した。オランダ側がいちばん欲していたのは銅(竿銅)である。筒井が長崎に着任したのは、ブロンホフが来日した文化十四年十月のことであるが、幕府は文政元年(一八一八)から同三年(一八二○)まで、毎年輸出銅の増額(定額三○万斤を九○万斤)を認めた。文政三年十月、筒井は任期みちて間宮と交代して帰府する折、オランダ側は筒井らの厚意に感謝する意味で素人芝居をみせたのである。」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

長崎屋宴会図.jpg

桂川甫賢筆『長崎屋宴会図』(文政5年、1822年)
長崎屋番外編(2)
https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=916

(再掲)

≪ この図の、左端の「和装の正装で頭巾を被っている男」が、「プロムホム・フイッセル」の「江戸参府」(1822)時の、「オランダ商館長(カピタン)」・「157代(149代)、※ヤン・コック・ブロンホフ」である。
 そして、その右手前の、「和装の正装のザンバラ髪の男」が、この時の「江戸参府」の実質的な切り盛りをした、そして、後に、『日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」』を著した、「フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)」その人ということになる。   ≫

(特記事項)

一 「文政三年(一八二〇)のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」に出て来る中心人物(「二つ」の芝居の主役)は、「文政五年(一八二二)江戸参府」の実質的な切り盛りをした「フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)」その人なのである。

●性急者ダアモン…オーフルメール・フィッセル(文政三年[一八二〇]の夏来日した一等書記)

●猟師ギリョット(仏・ギョ)…オーフルメール・フィッセル(文政三年[一八二〇]の夏来日した一等書記)
騎士タンケレート…オーフルメール・フィッセル(二役)

(再掲)

フィッセル.jpg

(「出島ホームページ」)
ヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・フィッセル( 1800-1848)=『日本風俗備考』
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/dejimasyoukan/dejimasyoukan.html
≪ オランダのハルデルウェクに生まれる。1820年出島に商館員として赴任。9年間出島に滞在し、1822年にはブロンホフの江戸参府に随行し、絵画や大工道具などをコレクションした。帰国後、豊富な収集品や日本での経験に基づき『日本風俗誌』を著した。1820年ブロンホフが長崎奉行や役人を招待して上演した芝居の中心人物としても知られる。
 オランダ、ハルダーワイク生まれ。フィッシャーは1820年にオランダ東インド会社の従業員として出島に到着し、9年間島に滞在しました。1822年(明治34年)、ブロムホフに続いて江戸の首都を訪れ、絵画や大工の道具などのコレクションを作った。
帰国後、日本で蓄積した豊富なコレクションと経験をもとに、日本のマナーや習慣を解説した『日本家屋研究所』を執筆。彼はまた、ブロムホフが1820年に長崎の治安判事と政府関係者を招待して上演した演劇の重要人物としても有名です。≫

二 「文政三年(一八二〇)のオランダ芝居」そして「文政五年(一八二二)江戸参府」時の「出島オランダ商館長(カピタン)」は、「157代(149代)、※ヤン・コック・ブロンホフ」その人である。

(再掲)

ヤン・コック・ブロンホフ.jpg

(「出島ホームページ」)
ヤン・コック・ブロンホフ(1779~1853)
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/dejimasyoukan/dejimasyoukan.html
≪ オランダのアムステルダムに生まれる。1809年に荷倉役として赴任し、フェートン号事件の際には当時の商館長ドゥーフと共に活躍し、その後1817年に商館長として再赴任する際、家族を同伴して来日したことで知られる。オランダでの公的な日本コレクションはブロンホフに始まったとされ、日本の文化風俗を伝える様々な文物を持ち帰った。ブロンホフの持ち帰った江戸後期の出島模型を元にして、長崎の出島復元事業は進められている。
 オランダ・アムステルダム生まれ。ブロムホフは1809年に倉庫長として出島にやってきた。彼は、オランダ東インド会社出島工場の当時の取締役であったヘンドリック・ドーフ・ジュニアとともに、フェートン事件に対処する上で重要な役割を果たしました。ブロムホフは、1817年に出島に戻ってオランダの工場長に就任したとき、家族に同行していたため、センセーションを巻き起こしたエピソードで知られています。当時、オランダ人は家族を日本に連れて行くことを許されていませんでした。
オランダにおける日本の記事の正式なコレクションは、日本の文化、マナー、習慣を伝えるさまざまなアイテムを持ち帰ったブロムホフによって始まったと考えられています。また、江戸時代後期に作られた出島の模型を持ち帰り、その模型をもとに、現在長崎で出島修復プロジェクトが進行中です。≫

三 「当時、出島の商館長であったヤン・コック・ブロンホフの日記によると、第二回目の上演のとき、長崎奉行・筒井和泉守政憲(まさのり)は、『一人の画家を(今日の一行に)同行させてあったが、その画家は、将軍に送るために、俳優たち、舞台、ならびに様々な動作のすべてをスケッチした』という。『一人の画家」(een shcilder)とは、川原慶賀であったことは間違いないようだ。』の指摘は重要である。
 すなわち、「出島の絵師・シーボルトの御用絵師」として名高い、日本ではなく海外に多くの作品が現存する、「鎖国・開国で揺れる江戸末期の長崎派の町絵師・川原慶賀」、その「出島」での、「デビュー作品」ともいうべきものが、この「アムステルダム市立公文書館 (Amsterdam City Archive)」の「出島俄芝居図 性急者-1・2・3 二人猟師乳汁売娘-2・3」
そして「川原慶賀筆『阿蘭陀芝居巻』」(「黒船館」蔵)と解したい。

四 そこで(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」について(宮永孝稿)」(「法政大学学術機関リポジトリ」))の、その末尾の「注3」に記載されている「町絵師川原慶賀の伝記」は、次のとおりである。

≪(注3)町絵師川原慶賀の伝記については分らぬことが多い。生没年もはっきりしないが、天明六年(一七八六)の生れであるらしく、父香山も絵事を善くしたという(古賀十二郎「長崎絵画全史」北光書房、昭和19.8)。
 通称「登与助」といい、諱は種美、号は聴月楼といった。はじめ氏を川原といい、のち田口に変えた(氷見徳太郎「川原慶賀に就て(上)」(「国華」六八七号、昭和249.6)。
 文政六年(一八二一三)八月、出島の医官シーボルトが来日すると、今下町に住む慶賀は、その画業をシーボルトに見出され、出島出入りの絵師となるのだが、かれは写生に長じ動・植物、人物、風俗、肖像、風景画などを描いた。来舶のオランダ人の中には慶賀の絵を求める者が多かったという(黒田源次「長崎系洋画』創元社、昭和7.4)。
 同九年(一八二六)正月、シ1ボルトとともに江戸参府に従い、シーボルトが採取した植物を写生したり、各地の風俗風景などを描いたり、地図、地形図を作成した(林源吉「町絵師慶賀」(『長崎談叢』第十一号所収、昭和7.12)。
 文政十一年(一八二八)八月九日の夜から翌十日の夕刻まで、長崎を襲った台風は出島の諸所を破壊したばかりか(「甲子夜話」「増補長崎略史年表」)、シーポルトの荷を積んだ船が稲佐の海岸に打ち寄せられ、このとき国禁品(葵紋服、日本地図など)の数々が露見した。  
 任期満ちて帰国寸前のシーボルトは帰国を禁じられた(「シーボルト事件」)。慶賀はこのとき事件に連座し処罰された。参府のとき、シーボルトのために「薬草絵図」などを描いたことが糾弾され、同年十二月末に入牢し、翌十二年正月末に出牢し、町預けとなった(「長崎奉行所犯科帳[第百七])。
 謹慎中の慶賀は絵筆をやすめず、相変らず作画に従事していたが、西役所を写し、港内警備を担当していた細川藩、鍋島藩の番船の幕にその紋章をあずかり描いたために天保十三(一八四二)九月預を命じられ、のち手鎖預り、十一月には江戸・長崎払を申し渡された。 
 その後、慶賀は故郷を離れ他郷に身を置かざるをえなくなった。が、いつの頃かふたたび故郷に舞いもどり、酒屋町四十七番地に住し、名を田口と変えた。
 弘化のころ(一八四○年代)、慶賀の子・登七郎(号は”盧谷”、嫁のおとしは江戸生まれ)は、今下町で版画や銅版画を作り、これを売り出していたらししいい。万延元年(一八六○)に慶賀は七十五歳であったことはたしかであるが、その後亡くなったものらしい。が、没年月日、法号、墓石もわかっていない。
 いずれにせよ、慶賀はじつに見事な数々の細密画を描いたが、シーボルトはその巧みなる力量を高く評価していた。「かれの絵画数百は余の著書(『日本』l引用者)の中に掲げられて彼の功績を語るなり」(呉秀三『シーボルト先生その生涯及び功業3』東洋文庫昭和52.2)。 ≫

五 さらに、その(注19)も、ここに記して置きたい。

≪(注19)文政年間(一八二○年代)に、フィッシャー、J.F.van.Overmeer Fisscher(一八二〇~二年、第一次来日)が商館長ブロンホフの命により描いた出島図(紙本.ペン書用、20.0㎝×40.0㎝ レィデンの国立民族学博物館蔵)によると、ほぼT字形をしていたことがわかる(『出島図―その景観と変遷」中央公論美術出版、昭和六十一一年三月)、一三九頁。≫

六 「オランダ芝居の筋書に関する曰本側文献」

活字本と写本。
活字になったもので一番古い文献は、⑪太田南畝(一七四九~一八二三、江戸後期の文人、文化元年[’八〇四]長崎奉行所詰、翌年帰府)の「増訂一話一言」(蜀山人全集巻五、吉川弘文館、明治41・8)に収録されている「二人猟師憧売娘」と「性急者」である。これはオランダ趣味に富んだ山口触山が写したものを太田が転載したものである。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993339

「国立国会図書館デジタルコレクション」

「蜀山人全集. 巻4 増訂一話一言48巻 」

七 宇田川榕庵(1798-1846)の「謄写本」は次のとおり。

文政三年のオランダ芝居.gif
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