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「シーボルトとフィッセル」の『日本』そして「北斎と慶賀」周辺(その二) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その二)「シーボルト」の『日本』の「長崎港と湾の眺望」周辺
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906465#?c=0&m=0&s=0&cv=8&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

長崎港と湾(出島)の展望.gif

「『日本』“NIPPON” 図版第1冊№9 長崎港と湾の眺望」
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/UniversalViewer/4000115100/4000115100100010/NIPPON_01#?cv=8&c=0&m=0&s=0&r=0&xywh=-368%2C-25%2C1740%2C770

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

≪『NIPPON』について
Nippon, Archiv zur Beschreibung von Japan und dessen Neben- und Schutzländern : jezo mit den südlichen Kurilen, Krafto, Kooraï und den Liukiu- Inseln, nach japanichen und europäischen Schriften und eigenen Beobachtungen bearbeitet.
 
 『NIPPON』の副題に「日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。」とあります。ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、その生涯を賭けた日本に関する著作物の一つです。
 シーボルトは、長崎出島の商館付き医師として来日し、日本人に医学その他の科学を教えるかたわら、多くの資料を 収集し、持ち帰り、整理して、国王ヴィルへルム2世の援助を受けて、1832年から51年にかけてオランダのライデンから自費出版しました。当初は、図版をカラー版と白黒版で価格差を付け、20回配本の予約出版で刊行しています。全点刊行終了後、各人が好きな細工を施した装丁で製本し、蔵書としたのですが、「NIPPON」の場合、20年をかけての分冊配本のため完全版は今以て不明で書誌学的には「天下の奇書」とも言われています。
 その内容は、日本の地理、歴史、風俗などから、人種、言語、動植物そのほか百般に渉って詳細に記述され、西欧での日本研究の基礎となった文献です。
 当館では、大正7年の創立開館記念収蔵として、初代館長伊東尾四郎が財界の援助を受けて入手した、本文3冊、カラー版を含む図版編2冊の洋皮装丁豪華製本版を所蔵しています。≫(「福岡県立図書館/デジタルライブラリ シーボルト資料 『日本』“NIPPON” 図版一覧画面」)

 上記の「『日本』“NIPPON” 図版第1冊№9 長崎港と湾の眺望」に関連して、『よみがえれ! シーボルトの日本博物館(監修:国立歴史民俗博物館)』では、「4 出島と長崎港の図」として、次の短い紹介文を付している。 

≪ 4 出島と長崎港の図

SAB→フォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン家(Brandenstein-Zeppelin Family Archives)→シーボルトの次女(マティルダ)の嫁ぎ先の「ブランデンシュタイン=ツェッペリン家」の所蔵(シーボルト家の継承品の個人所蔵)(『よみがえれ! シーボルトの日本博物館(監修:国立歴史民俗博物館)』)
→「ツェッベリル伯爵」の「ブランデンシュタイン城文庫」所蔵→「シーボルトの遺品は長女ヘレーネの嫁ぎ先のウルム・エレバッハ男爵家へ、そして、その甥(シーボルトの孫のツェッベリル伯爵に継承されている)(『長崎出島からの旅 ヨーロッパに眠る日本の宝 シーボルト・コレクション(監修:長崎県立美術博物館)』)

19世紀前半

シーボルト『日本』掲載の図版用にヨーロッパで作成された原画である。なお、使用した日本の元絵は特定できていない。(宮坂正英稿) ≫(『よみがえれ! シーボルトの日本博物館(監修:国立歴史民俗博物館)』p12)

この「日本の元絵」は、下記のアドレスで紹介した、「川原慶賀」の「長崎港・出島屏風」(ライデン国立民族博物館蔵)のものであろう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-28

(再掲)

【(補記)「海外で注目される江戸時代の天才絵師・川原慶賀の唯一現存する屏風が2年の修復作業を終え、オランダ・ライデン国立民族学博物館で公開 — オランダ国立世界文化博物館 From: PR TIMES 2021-11-04 17:48 — 」周辺

https://japan.zdnet.com/release/30611387/

出島屏風1.jpg

https://prtimes.jp/i/89675/1/resize/d89675-1-77c0f940c4b51d99e0f2-0.jpg

出島屏風2.jpg

https://prtimes.jp/i/89675/1/resize/d89675-1-ac15d0be10e5445eaa30-1.png

出島屏風3.jpg

■ARで屏風を鑑賞できる「出島エクスペリエンス」: (リンク »)

慶賀の落款.gif

■ARで屏風を鑑賞できる「出島エクスペリエンス」: (リンク »)中の「慶賀の落款(署名・印章)   】

 この「川原慶賀」の「長崎港・出島屏風」を、最初に紹介したのは、次のアドレスのものであった。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-22

(その十五)「南蛮(ポルトガル・スペイン)画」から「蘭(オランダ・阿蘭陀・紅毛)画」(「洋風画)、そして「長崎洋風画(若杉五十八・荒木如元・川原慶賀)」周辺など

 そこでは、「長崎洋風画の先駆者・若杉五十八と荒木如元」「シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀」「長崎版画と版下絵師」などについて触れ、そこでは、「川原慶賀・慶賀工房の面々」などについて、次のように紹介した。

(再掲)

【 「シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀」
文政6年、オランダ東インド政庁の商館付医師として長崎出島に赴任したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)は、日本の門人に西洋医学などを教授するとともに、日本に関する総合的な調査研究を行なった。当時「出島出入絵師」の権利を得て出島に出入していた町絵師・川原慶賀は、シーボルトにその画才を見出され、シーボルトが日本に滞在していた約6年間、お抱え絵師として日本の風俗や動植物の写生画を描いた。
この間、シーボルトがジャワから呼び寄せたオランダ人画家フィレネーフェに洋画法を学んでいる。また、シーボルトの江戸参府にも随行し、日本の風景、風俗、諸職、生活用具、動植物などの写生図を描くなど、シーボルトの日本調査に協力した。多量の写生図はシーボルトにより持ち帰られ、オランダのライデン国立民族学博物館に伝わっている。

  川原慶賀(1786-不明)

 天明6年長崎今下町生まれ。通称は登与助、字は種美。別号に聴月楼主人がある。のちに田口に改姓した。父の川原香山に画の手ほどきを受け、のちに石崎融思に学んだとされる。 
 25歳頃には出島に自由に出入りできる権利を長崎奉行所から得て「出島出入絵師」として活動していたと思われる。文政6年に長崎にオランダ商館の医師として来日たシーボルトに画才を見出され、多くの写生画を描いた。文政11年のシーボルト事件の時にも連座していた。
また、天保13年にその作品が国禁にふれ、長崎から追放された。その後再び同地に戻り、75歳まで生存していたことはわかっている。画法は大和絵に遠近法あるいは明暗法といった洋画法を巧みに取り知れたもので、父香山とともに眼鏡絵的な写実画法を持っていた。来日画家デ・フィレニューフェの影響も受けたとみられる。

  川原慮谷(不明-1872)

 川原慶賀の子。通称は登七郎、字は張六。のちに姓を田中に改め、通称を富作とした。写生を得意とし、西洋画風を巧みに用いた。弘化の頃、今下町で長崎版画や銅版画を作って販売していたとみられる。明治5年死去した。

  田口慮慶(不明-不明)

 絵事をよくし、特に肖像画を得意とした。慶賀、慮谷の一族とみられる。  】(「UAG美術家研究所」)

 さらに、次のアドレスで、「川原慶賀」の「長崎港図・ブロンホフ家族図」(「長崎市立博物館蔵)などについて紹介した。そして、これは、衝立の両面に描かれたもので、その「表裏」は定かではないが、その「ブロンホフ家族図」には、「慶賀の款印(欧文印「Toyoskij」と帽子形の印「慶賀」)が見られる」ことからすると、こちらが、その衝立の「表」面で、「長崎港図」は「裏」面と解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-07

川原慶賀「長崎港ずブロンホフ家族図」.jpg

「長崎港図・ブロンホフ家族図」≪川原慶賀筆 (1786-?)≫ 江戸時代、文政元年以降/1818年以降 絹本著色 69.0×85.5 1基2図 神戸市立博物館蔵
題記「De Opregte Aftekening van het opper hoofd f:cock BIomhoff, Zyn vrouw en kind, die in Ao1818 al hier aan gekomen Zyn,」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/455049
【 衝立の両面に、19世紀に長崎の鳥瞰図と、オランダ商館長コック・ブロンホフとその家族の肖像が描かれています。この衝立は、作者の川原慶賀(1786-?)がシーボルトに贈呈したものの、文政11年(1828)のシーボルト事件に際して長崎奉行所によって没収されたという伝承があります。その後長崎奉行の侍医・北川家に伝来した。昭和6年(1931)に池長孟が購入しました。
現在のJR長崎駅付近の上空に視座を設定して、19世紀の長崎とその港の景観を俯瞰しています。画面左中央あたりに当時の長崎の中心部、唐人屋敷・出島・長崎奉行所が描かれ、それをとりまく市街地の様子も克明に描かれています。
この衝立の片面に描かれているブロンホフ家族図には、慶賀の款印(欧文印「Toyoskij」と帽子形の印「慶賀」)が見られる。コック・ブロンホフは文化6年(1809)に荷倉役として来日。文化10年のイギリスによる出島奪還計画に際し、その折衝にバタビアへ赴き、捕らえられイギリスへ送られたました。英蘭講和後、ドゥーフ後任の商館長に任命され、文化14年に妻子らを伴って再来日。家族同伴の在留は長崎奉行から許可されず、前商館長のヘンドリック・ドゥーフに託して妻子らはオランダ本国に送還されることになりました。この話は長崎の人々の関心を呼び、本図をはじめとする多くの絵画や版画として描かれました。
 
来歴:(シーボルト→長崎奉行所?)→北川某→1931池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・神戸市立博物館特別展『日本絵画のひみつ』図録 2011
・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008
・勝盛典子「プルシアンブルーの江戸時代における需要の実態について-特別展「西洋の青-プルシアンブルーをめぐって-」関係資料調査報告」(『神戸市立博物館研究紀要』第24号) 2008
・神戸市立博物館特別展『絵図と風景』図録 2000 】(「文化遺産オンライン」)

 これらに関連して、次の「シーボルト・川原慶賀」関連年表も掲載した。

【  「シーボルト・川原慶賀」関連年表
https://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/828000/p009222.html
(「川原慶賀」関連=「ウィキペディア」)

※1786年(天明6)川原慶賀生まれる(長崎の今下町=現・長崎市築町)。
1796年(寛政8)2月17日、シーボルト、ドイツのヴュルツブルクに生まれる
※1811年(文化8)川原慶賀当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、頭角を現す。
1820年(文政3)シーボルト、ヴュルツブ、ルク大学を卒業(24歳)
1822年(文政5)シーボルト、オランダの陸軍外科少佐になる(26歳)
1823年(文政6)シーボルト、長崎に来る(27歳)
※慶賀は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描く。
1824年(文政7)シーボルト、「鳴滝塾」をひらく(28歳)
1826年(文政9)シーボルト、江戸参府(30歳)
※慶賀はオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描く。
1827年(文政10)シーボルト、娘いね生まれる(31歳)
1828年(文政11)「シーボルト事件」おこる(32歳)
※シーボルト事件に際しては多数の絵図を提供した慶賀も長崎奉行所で取り調べられ、叱責される。
1829年(文政12)シーボルト国外追放になる(33歳)
※シーボルトの後任のハインリヒ・ビュルゲルの指示を受け、同様の動植物画、写生図を描く。
1832年(天保3)シーボルト、「日本」刊行はじまる(36歳)
1833年(天保4)シーボルト、「日本動物誌」刊行はじまる(37歳)
1835年(天保6)シーボルト、「日本植物誌」刊行はじまる(39歳)
※1836(天保7)『慶賀写真草』という植物図譜を著す。
※1842(天保13)オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れた。これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、江戸及び長崎所払いの処分を受ける。
※1846(弘化3)長崎を追放されていた慶賀は、長崎半島南端・野母崎地区の集落の1つである脇岬(現・長崎市脇岬町)に向かい、脇岬観音寺に残る天井絵150枚のうち5枚に慶賀の落款があり、50枚ほどは慶賀の作品ともいわれる。また、この頃から別姓「田口」を使い始める。その後の消息はほとんど不明で、正確な没年や墓も判っていない。ただし嘉永6年(1853年)に来航したプチャーチンの肖像画が残っていること、出島の日常風景を描いた唐蘭館図(出島蘭館絵巻とも)は開国後に描かれていること、慶賀の落款がある万延元年(1860年)作と推定される絵が残っていることなどから少なくとも75歳までは生きたとされている。一説には80歳まで生きていたといわれている(そうなると慶応元年(1865年)没となる)。
1859年(安政6)シーボルト再び長崎に来る(63歳)
1861年(文久元)シーボルト、幕府から江戸に招かれる(65歳)
1862年(文久2)シーボルト、日本をはなれる(66歳)
1866年(慶応2)10月18日、シーボルト、ドイツのミュンヘンで亡くなる(70歳) 】

 さらに続けて、下記のアドレスで、次の「長崎湾・オランダ船(フリゲート艦)」と「長崎眺望図」(4枚一組)を紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-15

(再掲)

「長崎湾・オランダ船(フリゲート艦)」.jpg

https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/baai-nagasaki-fregatschepen-kawahara-keiga?coll=ngvn&facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=1&maxperpage=36&identifier=KONB11%3A360-7887
「長崎湾・オランダ船(フリゲート艦)」(川原慶賀筆)制作年次:1823、制作場所:長崎県・日本、大きさ:60 × 80センチメートル、所蔵館:フォルケンクンデ国立美術館=ライデン国立民族学博物館
「解説:この長崎湾の絵は、1824年頃に日本の画家川原慶賀によって作られました。オランダの商館が位置する出島という人工島は、扇形であることがよく分かります。描かれている船はオランダのフリゲート艦アリヌス・マリヌスとアイダ・アレイダと思われる。」

https://misakimichi.com/archives/3908

≪ 眺望図は4枚一組。出島のオランダ商館員フィッセルのコレクションとされ、オランダのライデン国立民族学博物館が所蔵している。江戸期の1820年前後の風景とみられ、田上方面の山あいに小さく描かれた建物の詳細が不明だった。 ≫

眺望図は4枚一組.jpg

「長崎湾眺望図」(「ライデン国立民族学博物館(フィセル・コレクション)」
(『川原慶賀の「日本」画帳―シーボルトの絵師が描く歳時記(下妻みどり著)』所収「口絵」)

 さて、ここで、上記の「長崎港図・ブロンホフ家族図」の「長崎港図」と同じ構図と思われる「長崎港図」(ロッテルダム海事博物館蔵)が、下記のアドレスで紹介されている。

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3515&cfcid=146&search_div=kglist

長崎港図2.jpg

●作品名:長崎港図
●Title:A view of Nagasaki port
●分類/classification:阿蘭陀商館/Dejima
●形状・形態/form:絹本彩色、額装/painting on silk, with amount
●所蔵館:ロッテルダム海事(洋)博物館 Maritime Museum, Rotterdam

 これに続けて、様々な「長崎眺望図・長崎港図」などが、上記のアドレスの「ビジュアル百科事典川原慶賀が見た江戸時代の日本(1)」(長崎文化歴史博物館)で満載されている。

長崎湾眺望図.jpg

●作品名:長崎湾眺望図
●Title:A view of Nagasaki port
●分類/classification:阿蘭陀商館/Dejima
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

長崎港雪景.jpg

●作品名:長崎港雪景
●Title:Snowscape at Nagasaki
●分類/classification:阿蘭陀商館/Dejima
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

長崎港図3.jpg

●作品名:長崎港図
●Title:A view of Nagasaki port
●分類/classification:阿蘭陀商館/Dejima
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

長崎港図.jpg

●作品名:長崎港図
●Title:A view of Nagasaki Port
●分類/classification:阿蘭陀商館/Dejima
●形状・形態/form:絹本彩色、額装/painting on silk, with amount
●所蔵館:一関市博物館 Ichinoseki City Museum

 この最後の「長崎港図」は、日本の「蝦夷(北海道)」に近い「東国」の「陸奥(岩手県)」の「一関市博物館」所蔵のものである。これは、シーボルトが開塾した「鳴滝塾」の、そこから巣立った「蘭方医」(吉雄幸載、楢林栄建、楢林宗建、戸塚静海、伊東玄朴、高良斎、高野長英、竹内玄洞、石井宗謙、本間玄調、日野鼎斎、大槻玄沢、伊藤圭介、二宮敬作ら英才)のうちの一人の「大槻玄沢」(1757-1827)の出身地に他ならない。
 ここには、この他に、「地球図(司馬江漢作)」や「出島図(川原慶賀作)などか所蔵されている。

https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/museum/collection/01_03.html

 翻って、「シーボルド」(1796-1866)が蒔いた種は、その出身地(ドイツのミュンヒンの「SAB→フォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン家(Brandenstein-Zeppelin Family Archives)」そして「MFK→五大陸博物館(旧ミュンヘン国立民族学博物館)」そして、その活躍したオランダの地(ライデン国立民族学博物館「National Museum of Ethnology, Leiden」・ロッテルダム海事(洋)博物館「Maritime Museum, Rotterdam」)、そして、「日本(「長崎歴史民俗博物館」・「長崎県立美術博物館」・「九州大学付属図書館」・「福岡市立図書館」・「福岡市博物館」・「神戸市立博物館」・「一関市博物館」・「国立歴史民俗博物館」)の各地等々で、見事に、その果実を実らせている。
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