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「シーボルトとフィッセル」の『日本』そして「北斎と慶賀」周辺(その六) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その六)「シーボルト」の『日本』の「牟良叔舎(フランシスコ)喜利志多佗孟太(キリシタ・ダ・モッタ)」周辺

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906465#?c=0&m=0&s=0&cv=6&r=0&xywh=878%2C1288%2C2258%2C2522

種子島漂着f.gif

『NIPPON』 第1冊「6 ムラーシュクシヤ(フランシスコ・ゼイモト)とクリスターモウタ(アントニオ・モータ)」
http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/nippon/hg/n1-6.html

 ここに書かれている賛文は、次のとおりである。

天文十二発卯(みずのとう)八月二十五日 → 天文十二年(一五四三)八月二十五日
大隅国種ヶ嶌ニ漂流 → 大隅国(鹿児島県の東部)種子島(大隅諸島の一つ)に漂流
牟良叔舎(ムラシュクシヤ) 
喜利志多佗孟太(クリスターモウタ)→ その代表者の二人(ポルトガル人)の「牟良叔舎=ムラーシュクシヤ(フランシスコ・ゼイモト)と「喜利志多佗孟太=キリシタ・ダ・モッタ(アントニオ・モータ)」  

 これは、江戸時代の慶長十一年(一六〇六)に、種子島久時が薩摩国大竜寺の禅僧・南浦文之(玄昌)に編纂させた、鉄砲伝来に関わる歴史書の『南浦文集』に所収されている「鉄砲記」に由来するものである(「ウィキペディア」)。

 この図と全く同じものが、『北斎漫画(第六篇)』に出てくる。

北斎・種子島.gif

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851651
「北斎漫画第六篇(葛飾北斎画)・コマ番号27/33」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)

 先に、下記のアドレスで、シーボルトの『日本』の全体構成(雄松堂刊「シーボルトの『日本』全九巻構成」)について紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-01

(再掲)

≪シーボルトの『日本』の全体構成(雄松堂刊「シーボルトの『日本』全九巻構成」)

第1巻 第1編 日本の地理とその発見史
    第2編 日本への旅
第2巻 第3編 日本民族と国家
    第4編 1826年の江戸参府紀行⑴
第3巻 第4編 1826年の江戸参府紀行⑵
    第5編 日本の神話と歴史
第4巻 第6編 勾玉
    第7編 日本の度量衡と貨幣
    第8編 日本の宗教
    第9編 茶の栽培と製法
    第10編 日本の貿易と経済
第5巻 第11編 朝鮮
第6巻 第12編 蝦夷・千島・樺太および黒竜江地方
    第13編 琉球諸島
    付録
図録第1巻
図録第2巻
図録第3巻   ≫

 この冒頭の「第1巻 第1編 日本の地理とその発見史」の、その「日本の発見史 フェルナン・メンデス・ピントの物語と日本人の記録による」の中で、その≪『NIPPON』 第1冊「6 ムラーシュクシヤ(フランシスコ・ゼイモト)とクリスターモウタ(アントニオ・モータ)」図≫について、シーボルド自身、次のように記述している。

≪ ここに著名な日本画家北斎の絵をそのまま写した日本発見のポルトガル人像がある(『日本』1第3図(a)=上記『NIPPON』 第1冊「6 ムラーシュクシヤ(フランシスコ・ゼイモト)とクリスターモウタ(アントニオ・モータ)」図)。この図は先に述べた『漫画』という書物(「北斎漫画3篇」=上記「北斎漫画第六篇(葛飾北斎画)・コマ番号27/33」)にあり、この人物がヨーロッパから来たことを証明するために、火銃やその付属品の写生もそえてある。画賛には、「天文十二発卯八月二十五日 大隅国種ヶ嶌ニ漂流 牟良叔舎 喜利志多佗孟太」。 つまり、天文氏12年8月25日みずのとうの年(これは60年を周期とする40年目の年ということである)に、大隅の国の種子島にキリシマ・モウタとムラ・シュクシャが漂流した、と記されている。≫(『シーボルト『日本』図録第一巻(雄松堂刊)』p10)

すなわち、この≪『NIPPON』 第1冊「6 ムラーシュクシヤ(フランシスコ・ゼイモト)とクリスターモウタ(アントニオ・モータ)」≫図は、≪「北斎漫画第六篇(葛飾北斎画)・コマ番号27/33」≫図より謄写したもので、ここには、「川原慶賀」は介在していない。

 これらのことに関して、「シーボルト『日本』の図録について(斎藤信稿)」((『シーボルト『日本』図録第一巻(雄松堂刊)』所収)の中で<、次のように記述している。

≪ シーボルド『日本』に掲載されたたたくさんの図について、その典拠ないしは制作の過程を調べてみると、おおよそ次の三つの種類のもの、すなわち
(1) 日本の書籍や画集の中から採ったもの。
(2) 日本で画家の登与助(川原慶賀)やシーボルドが助手として招いたオランダ人画家C.H.de Villenneuvet(フィレネーフェ)が描いたり、写生したもの。…… ことに江戸参府道中の、各所図会などから採ったと思われる若干のものを除いた大部分の絵は、川原慶賀の作品と考えてよい。
(3)シーボルドその他のコレクションの所蔵品、例えば、武装・武器、化粧道具・家具、食器・酒器などを、オランダの画家が原物を見て描いたもの、がある。≫(『シーボルト『日本』図録第一巻(雄松堂刊)』所収pⅠ)

そして、これらの「三類型」について、シーボルドは、その「原本の目次や各図表の下方の左右にラテン語の小さな文字を示されている(示されていないものもある)」とし、この
≪『NIPPON』 第1冊「6 ムラーシュクシヤ(フランシスコ・ゼイモト)とクリスターモウタ(アントニオ・モータ)」≫図については、「左下に小さな文字でただ、『日本の木版画により、Henri Ph. Heidemansが石版画で描いた』と記されているという(『シーボルト『日本』図録第一巻(雄松堂刊)』所収pⅱ)。
 すなわち、この図は、上記の「(1) 日本の書籍や画集の中から採ったもの」の『北斎漫画(葛飾北斎画)』(第六篇)の図を、オランダの画家「アンリ・フィリップ・ハイデマンス ( 1804年 - 1864年以後)」が石版画にしたもののように思われる。

 ここで、「シーボルト『NIPPON』の原画・下絵・図版(宮崎克則稿)」(「九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. Museum No. 9, 19-46, 2011」)の「1.石版印刷とシーボルト『NIPPON』図版」と「4.与次兵衛瀬」を抜粋掲載して置きたい。

≪1.石版印刷とシーボルト『NIPPON』図版

1445年頃、ドイツ出身の金属加工職人グーテンベルクが活字を発明したことによって、文字をあらかじめ金属で鋳造し、それを組み合わせてプレス機で刷る活版印刷が始まった。これ以降、「42行聖書」を始め多くの本がヨーロッパ各地で印刷されることになる。当初は文字だけであったが、1460年頃から挿絵が組み込まれるようになる。挿絵は木版から銅版へ、そして石版による版画が流行する。シーボルト『NIPPON』が出版される1830年代は石版の時代であった。
木版は線や面など図柄として描きたい部分を残し、それ以外の部分を取り去って版を作る。絵の具や墨などを版のでっぱった部分に塗って紙をのせバレンでこすったり、プレスして印刷する。凸版である。これとは逆に、版上にくぼみ状の溝を作り、そこにインクを詰めて表面の余分なインクを拭き取ってから紙をのせ、圧力をかけてそのインクを刷りとる凹版がある。18世紀以前においては、単に版画といえば、多くの場合は銅による凹版画を指していた。銅版に直接に凹部を刻む直接法と、酸などの浸食作用を利用して凹部を作るの間接法があり、後者はエッチングまたは腐食銅版画という。 
1798年頃、ドイツで凸版でも凹版でもない新たな印刷術が発明され、19-20世紀の印刷術・版芸術に計り知れない影響を与えた。考案したのはアロイス・ゼネフェルダー(1771-1834年)である。彼の父はマンハイムの宮廷劇場の俳優であり、そのためかゼネフェルダーは年少の頃から演劇への熱い思いを抱いていた。盛んに戯曲や詩を創作して出版することを願っていたが、当時の印刷術では経費がかさみすぎるので、廉価な印刷術を編み出そうと思い立ち、試案を重ねた末、1798年頃に石灰石を使用した石版印刷術を完成させた。
その方法を簡単に述べると、高純度の石灰石に脂肪性のクレヨンやインクなどで絵を描き、次に弱酸性溶液(アラビアゴムと硝酸の混合液)を塗る。化学反応によって描かれた部分は油性物質を強く引きつける力を持ち、描かれていない部分は水分を保持するようになる。こうして石版上に水分を弾く部分と保持する部分ができる。石版を水で湿らせたのち、印刷用の油性インクをのせると、絵を描いた部分にのみインクは付着し、その他の部分ではインクが弾かれる。そして紙をのせ刷り機にかけるのである。原版に凹凸をつけることなく、平坦な面で印刷することから平版印刷ともよばれる(石灰石は重くかさばるので、現在ではアルミなどの金属板も使用されている)。脂肪性のインクを用いてペンで描画すればデッサ
ンの調子が出せ、描き方によってはエッチングに類似した線の表現も可能となる。また脂肪性チョークを使えば鉛筆デッサンやクレヨンデッサンに近い描画もできる。石版は多様な表現ができるのである(1)。シーボルト『NIPPON』の初版は、図版編と本文編からなり、1832年から20年以上にわたってオランダのライデンで自費出版された。図版編は石版印刷、本文編は活版印刷である。ともに使用された紙は当時のオランダで定評のあったファン・ヘルダー社製であり、「VANGELDER」あるいは「VG」の透かしがある(紙の製法は、「ぼろ」とよばれる布きれや古い綱、あるいは藁などを臼に入れて杵ですりつぶし、これを紙漉き用の水槽に浸し、「漉き桁」という網をはめ込んだ木枠で漉いた。原料は和紙と異なるが、ともに手漉きである)。図版にはしなやかで厚手の紙が用いられ、本文はより薄い紙が使われている。本文は1枚の紙の両面に4ページ分が活版印刷され、半分に折りたたまれて配本された(『NIPPON』は未製本の状態で配本された)(2)。銅版画と石版画の比較のために、シーボルトより約100年前に来日したケンペル『日本誌』をあげよう。〔3〕
は1727年に出た英語版『日本誌』の口絵、銅版で印刷されており、近くで見ると絵の全体が線で描かれている。これに対し、〔4〕は1832年の第1回配本で出た『NIPPON』口絵、石版による印刷である。

ケンペル『日本誌』.gif

〔3〕ケンペル『日本誌』(「銅版画」の「口絵」)

シーボルド『日本』.gif

〔4〕シーボルド『日本』(「石版画」の「口絵」)

4. 与次兵衛瀬

 文政9年1月16日(西暦2月22日)、小倉藩の城下町に泊まったシーボルトらは満潮となるのをまって昼頃に宿を出発した。小倉の港は浅く、満潮時のみ船が出入りできたからである。小舟で関門海峡を渡る途中、シーボルトは与次兵衛瀬と呼ばれる岩礁を川原慶賀にスケッチさせた。岩礁には石碑が建っていた。慶賀が船上で描いたであろう和紙の原画は残っていないが、後に洋紙に清書してシーボルトに提出した絵がライデン国立民族学博物館に残る。〔15〕がそれであり、整理番号は1-4488-22。江戸参府のときの風景画を集めたアルバムから今は切り離されている。〔16〕は洋紙の水彩画で、シーボルトがヨーロッパの画家に描かせた『NIPPON』下絵である。慶賀の絵では波は静かで雲はなかったが、下絵では少し波が立ち雲も追加されている。『NIPPON』図版の〔17〕になると、さらに波は高くなり暗雲となっている。
 なぜシーボルトはこのような変更を加えたのであろうか。『NIPPON』旅行記のなかで、「与次兵衛というのはここを渡るときに有名な太閤秀吉を危険にさらした船頭の名で、彼は腹をかききって自害したので当然の罪を免れた」と書いている(1)。石塔は豊臣秀吉を危険にさらしたことを償うために切腹した与次兵衛を記念して建てられていた。さらに続けて、突風が吹いたので、われわれの舟はその岩に近づいた。おもにカモメやウミウなどのたくさんの海鳥が、ちょうど黒雲に被われて影となり、泡だって岩にくだける波間から突き出ている岩上の碑のまわりに群がっていた。とくに、ときどきここには気高い舟人の霊が現れるという伝説がからんで、恐ろしい光景を呈する。碑そのものは非常に簡素である。切り立った岩の真ん中に立っている約2メートル50の高さの四角い柱で、4面からなるピラミッ
ド形の飾り屋根があって、碑銘はないとある。慶賀が描いた〔15〕の絵ではあまりに「のどか」である。やはりシーボルトにとっては、切腹という日本独特の慣習、亡霊も出する「恐ろしい光景」に変更する必要があった。彼が参府中に記した自筆「日記」(2)には、「巌流島という小島があり、この島と与次兵衛瀬の間を舟で通った。ガン・カモ・ウミウ・アビ・ウミツバメなど驚くほどたくさんの海鳥を認めた」とあり、海鳥の多さに感動している。後に『NIPPON』の旅行記としてまとめる中で、石塔は「恐ろしい光景」として捉え直されていったのである。
 岩礁は大正期に爆破された。爆破によって、石碑は海中に沈んでいたが、昭和29年に引き上げられ、今は門司の和布刈(めかり)公園にある。なお、与次兵衛の姓は石井。尾道市の浄土寺に残る奉納絵馬から、石井与次兵衛が「播州明石船上の住人」であったと知られる。もともと瀬戸内海の運送を業としていたようであるが、後に秀吉に仕え天正11年(1583)、秀吉の初めての大坂入城では、秀吉は与次兵衛に持ち船を大坂に集結させることを命じた。このことから、与次兵衛は軍船の指揮官であり、戦闘の際における海上警備の役目を持っていたことが推定できる。彼が切腹したのは、文禄2年(1593)秀吉が母大政所の危篤の報せを聞き、与次兵衛を呼んで豊前小倉から乗船し、大坂に向かう途中で瀬に乗り上げ、秀吉を危険にさらしたからだという(3)。 

与次兵衛瀬の碑・原画.gif

「原画」〔15〕与次兵衛瀬の碑(川原慶賀,洋紙,墨)  ライデン国立民族学博物館蔵

与次兵衛瀬の碑・下絵.gif

「下絵」〔16〕与次兵衛瀬の碑(『NIPPON』図版の下絵) ブランデンシュタイン城博物館蔵(「下絵」作者は不明、Henri Ph. Heidemans=「アンリ・フィリップ・ハイデマンス ( 1804年 - 1864年以後)」? 「L.Nader in lap.delin.」=『NIPPON』のなかの山々を石版に描いたNader(ナーデル)作か? シーボルトがヴァタビア総督に派遣依頼した画家で、川原慶賀に画法を伝え、シーボルトの日本研究に大きく貢献した「デ・フィレニューフェ」作か?、それとも「原画」作者の「川原慶賀」の「下絵」か?)

与次兵衛瀬の碑・石版画.gif

「図版」九州大学付属図書館医学分館蔵(1832年の第1回配本『NIPPON』に続く、分冊毎の未製本による『NIPPON』「図版」)   ≫
(「シーボルト『NIPPON』の原画・下絵・図版(宮崎克則稿)」(「九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. Museum No. 9, 19-46, 2011」)
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