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応挙工房周辺(大乗寺(その十「四季耕作図」)) [応挙]

その十二 大乗寺(その十「四季耕作図」)

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呉春筆「四季耕作図」(襖十二面のうち部分画)(大乗寺「農業の間」)紙本淡彩

【 四季耕作図 呉春筆 農業の間 
 種をまくところから、稲が育ち、刈り取りをするまでの工程が、季節を追って描かれている本図は、墨に淡彩のみで描かれており、呉春が四条派として確立した作風を見せている。群山露頂図より八年の後に描かれていることから、かっての師であった蕪村風の文人画の描法はもはや見られず、円山派入門後の作品と考えられる。頭が大きく描かれる特徴ある呉春の表現が見られ、人々が立ち働く様子が生き生きと描かれている。経済を司る持国天の世界をイメージしているとも解釈されていて、仏教上の方位では東側に当たる部屋である。 】(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「農業の間」)

 呉春は、寛政元年(一七八九)五月に池田を引き払い、京都四条に帰洛して来る。それ以降、亡くなる文化八年(一八一一)の二十余年間を、呉春の「四条派時代」という。
 冒頭の「四季耕作図」は、寛政七年(一七九五)の、大乗寺客殿第二次(後期)制作期のものである。
 これは、天明七年(一七八七)の第一次(前期)制作期の「群山露頂図」が蕪村の文人画風であるのに比して、完全に応挙の写生画風(円山風)の、そして、呉春の「四条派時代(四条派風)」へと、方向転換を明示した作品ということになろう。
 翻って、安永四年(一七七五)に大雅が没し(五十四歳)、安永十年(一七八一)に蕭白(五十二歳没)、そして、呉春の師の蕪村が、天明三年(一七八三)に没した(六十八歳没)。
 続く、寛政年間になると、円山派の総帥の応挙が、寛政七年(一七九五)に六十三歳で没、芦雪は寛政十一年(一七九九)に没(四十六歳)、そして、若冲は続く寛政十二年(一八〇〇)に八十五歳の生涯を閉じている。
 
ここに、「京師の画、円翁(注・応挙)に一変し、呉叟(注・呉春)に再変す」(頼山陽『雲烟略伝』)と、京師の画人達は、呉春の住む京都四条界隈に、その多くが居(画室)を構えることになる。

「松村景文=四条富小路西、柴田義董=富小路四条北、岡本亮彦=堺町四条南、森義章=堺町四条北、田中日華=堺町四条北、佐久間草偃は堺町四条北、百々広年は四条高倉東、山脇広成(紀東暉)は四条東洞院西、三谷五峰は錦小路室町西、横山清暉は新町四条北、岡本豊彦は四条西洞院東、塩川文麟は蛸薬師新町西などと(中略)、これが文字通り四条派である。」(「聚美2011秋 円山応挙と呉春」所収「呉春の生涯と芸術」(冷泉為人稿))

呉春は、この四条派の創始者として、その中核に位置する画人であるが、日本の文人画を樹立した一人と目されている、師の蕪村の世界を凌駕するものでは決して無い。また、日本の写生画を文字通り切り拓いていった、師の応挙の世界を、これまた凌駕するものでは決して無い。
 それは、呉春の知己の詩文・書画に造詣の深い村瀬栲亭の「月渓碑文」にある「総円謝(注・円山応挙と与謝蕪村)二家之長」を自家薬籠のものとして、当時の京都の「町家の奥座敷に実にぴたりとよく似合った」(「冷泉・前掲書」)、蕪村の文人画風と応挙の写生画風を止揚させたところの「軽妙・洒脱・諷詠」的な世界を方向づけた先達的画人ということになろう。
 その晩年は、「老に及て髪を不削、指甲を不切、帯をぐるぐるまきにて昼夜同衣にて湯(フロ)にも不入、奇状也」(『其親楼自語』)と、筆を執るような状態ではなく、惨憺たる状態のままに、文化八年(一八一一)、その六十年の生涯を閉じている。

補記一 近世近代京都における絵師・画家の居住地に関する史的研究

https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/handle/10112/8059

補記二 洛東遺芳館と「応挙・呉春・円山四条派の画人達」の関連について

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index.html

当館は京の豪商であった、柏屋を母体とし、昭和49年(1974)に開館しました。以来、今日迄春秋2回特別公開をしております。  柏原家は、肥後熊本加藤清正公の家臣、柏原郷右衛門を祖とすると伝えられています。江戸期の正保2年(1645)初代三右衛門が当所に居を構えたといわれており、はじめ京小間物・扇子等を商い、徐々に商種商域を拡げ、木綿・漆器・紙の店を江戸に持ったいわゆる江戸店持京商人となり、今日も東京・大阪で盛業中であります。  展示品のすべては、柏原家の江戸時代からの伝承品で、婚礼調度・絵画・浮世絵・工芸品・古書古文書等で、これ等を順次展示しております。また、現在の建物も幾多の大小火難を逃れ、数百年来の商家の体裁を保っている京都でも数少ないものであります。

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html

◆平成23年 春季展より 2011年4月1日(金)~5月5日(木)「呉春とその周辺展」
呉春(1752-1811)は江戸時代中期の絵師である。本姓は松村(まつむら)、名は豊昌(とよまさ)。京に生れ、京で没す。絵は蕪村に学び、後に応挙に影響を受ける。四条派の始祖。
岡本豊彦(1773-1845)備中(倉敷)に生れ、京で没す。郷里で黒田綾山に学んだ後、京で呉春に学ぶ。 その他、与謝蕪村(1716-1784)・円山応挙(1733-1795)・松村景文(1779-1843)などを展示。

(特記事項)

今に続く「漆器店 黒江屋」の美術館ともいうべき「洛東違芳館」は、「応挙・蕪村・呉春、そして、円山四条派の画人達」とは深い関係にあり、例えば、「蕪村・若冲・大雅・応挙らの『諸家寄合膳』と『諸家寄合椀』」などと、何らかの関係があるように思われる。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306117368-1


補記四 呉春筆「孔雀図」(洛東遺芳館蔵)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html


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応挙工房周辺(大乗寺(その九「群山露頂図」) [応挙]

その十一 大乗寺(その九「群山露頂図」)

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呉春筆「群山露頂図」(十四面の内二面・部分画)大乗寺「群山露頂の間」(別称「禿山の間」) 紙本墨彩

【 群山露頂図 呉春筆
 天明七年(一七八七)呉春三十六歳の作品で、師蕪村を四年前に亡くし、応挙門には未だ入門していない状況のときである。蕪村と交友のあった応挙が、おそらく呉春に大乗寺障壁画制作への参加を誘ったものと思われ、大乗寺文書では「蕪村高弟」と記されている。部屋のぐるりに、深い靄の間から姿を見せる高山の頭頂部のみを描き、室中もそのような俗界を離れる神聖な頂に居るかのような構成である。呉春は、ここでは短筆披麻皺(ひましゅん)を多用した。文人画色の強い漢画描法を使用しており、農業の間に用いた親しみやすい四条派の作風とは好対照を成している。 】
(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「群山露頂の間」)

 呉春(松村月渓)が、蕪村門に入門したのは、安永三年(一七七四)、二十三歳の頃、年譜には、「この頃すでに蕪村に師事するか。このころ月渓・存白・存允白・孫石・可転の号あり。住居は二条通りの北。鴨川のほとり。その住居を百昌堂という」とある(『日本の美術39応挙と呉春・鈴木進編集』)。
 そして、蕪村が没した天明三年(一七八三)、三十二歳時は、「十一月頃から蕪村京都に病む。呉春、師の看病に没頭す。十二月二十五日、蕪村没(六十八歳)」とあり、そして、天明七年(一七八六)、三十六歳時に、「五月、応挙を棟梁とする計六名の画士の仲間にはいり、兵庫県香住の大乗寺の襖絵制作に参加。この時の文書には『蕪村高弟呉月渓』とあり」と、冒頭の「群山露頂図襖」十四面は、その折りの制作である。
 蕪村書簡などによる、蕪村の呉春激賞に関する事項は次のとおりである。

「画は当時無双之妙手に而候。(中略)別而画は愚老(注・蕪村)も恐るゝ斗之若者而候。(後略)」(天明三年=一七八三・九月十四日 士川宛て書簡)
「此児輩(注・月渓=呉春)画には天授の才有之、終には牛耳を握るおのこと末たのもしく候。(後略)」(「蜀桟道図」添状)
(参考)
「旧冬蜀桟の幅呈覧仕候処、為御謝黄金三円二方御めぐみ、扨々かたしけなく奉存候。御徳蔭を以節鬼を追ひはらひ候而大慶の至に御座候。月渓へも方金二地早速相遣候。(後略)」
※蕪村が受領した画料三円二方とは三両と方金(一分金)二分のことで、蕪村が呉春に渡した方金二地とは方金二分のことらしい。方金四分が一両にあたり、当時の一両は今日のほぼ二万四千円に相当する。(『応挙・呉春・芦雪 円山四条派の画家たち(山川武著)』)

 蕪村没後の、応挙と呉春について、『画乗要略(白井華陽著)』には、概略、次のようなことが記されている。

【 呉春は蕪村の没後、応挙に対して束脩(入門の礼をとること)して業を受けることを請うたが、応挙はこれを辞して莫逆の友(親密な友)として遇したと伝えられる。応挙はかねてから呉春の画才をよく知っていて、「月渓ト申若年ノ者アリ、コハキ者ハ、此一人ニテ侍ル。只今京師ニ居ラズ。洛外トカにアリ、是バカリニテ侍ル。」(『古画備考』所引「大通寺話」)と述懐していたといわれる。  】(『山川・前掲書』)

 上記の、「只今京師ニ居ラズ」というのは、呉春は、天明元年(一七八一)に「妻雛路(名・はる=植田氏)と父匡程」を失い、池田(蕪村門下の田福=本名川田祐作、京都五条に呉服店井筒屋を経営、その池田支店に仮住まい)に移り住んで、剃髪し、月渓の号を「呉春」に改めていた。
 そして、呉春が京都に再帰したのは、天明八年(一七八八)の「天明の大火」で、五条鴨川の川向かいの喜雲庵に避難し、偶々、応挙もそこに避難し、その奇遇を切っ掛けとして、その翌年の寛政元年(一七八九)の五月に京都四条に移住しているようである。
 いずれにしろ、冒頭の大乗寺障壁画の「群山露頂図」の制作に取り組んでいた頃は、呉春の、いわゆる池田時代で、応挙自身が認めているように、応挙門とは関係なく、「蕪村高弟呉春」として参加し、そして、その背景には、蕪村亡き後、再び、呉春が大きな画業に取り組む環境作りの一環として、応挙が呉春に働き掛けたのが、その実態のように思われる。
 そして、これらのことは、この「群山露頂図」に関する、冒頭の「ここでは短筆披麻皺(ひましゅん)を多用した。文人画色の強い漢画描法を使用しており、農業の間に用いた親しみやすい四条派の作風とは好対照を成している」との評と軌を一にしているということになる。

補記一 「群山露頂図」(呉春筆)と「峨嵋露頂図」(蕪村筆)、そして、「衡岳露頂図(蕪村筆)について

【「群山露頂図襖」(十四面)は、周知のとおり大乗寺障壁画群のひとつであり、天明七年に応挙を中心とした弟子達とともに描いたものである。これは文字通り、「露頂図」ということからも知られるように師蕪村の「峨嵋露頂図」にならった作品。これを山川武氏は「一室にめぐらされる画面は代赭と藍の淡彩をほどこしているが、特に四季の移り変わりをみせようともせず、楼閣や人物のようなものを一切、描かれずただ柔らかい皺法を重ねて、群山の起伏と樹叢の繁簡だけをゆるやかな韻律をもって流している」、と説く(『日本美術絵画全集二二』)。また呉春が倣った蕪村の「峨嵋露頂図」は、よく知られているとおり、唐の詩人李白の「峨嵋山月歌」を絵画化したものであり、これを知らせるために「峨嵋露頂」と巻記に明記している。この「峨嵋露頂図」をまたまた真似た。すなわち呉春は蕪村の短い絵巻のような小画面の「峨嵋露頂図」を器用に消化させて襖絵十四面にまで及ぶ大画面に変容させたのである。 】(「聚美2011秋 円山応挙と呉春」所収「呉春の生涯と芸術」(冷泉為人稿))

 「群山露頂図」(呉春筆)は、蕪村の「峨嵋露頂図」(蕪村筆)をモデルにしたというのであるが、それよりも、蕪村最晩年の天明三年(一七八三)の「衡岳露頂図」(滋賀・義仲寺)をモデルにしていると思われる。
 「峨嵋露頂図」の特徴は、上記の「柔らかい皺法を重ねて、群山の起伏と樹叢の繁簡だけをゆるやかな韻律をもって流している」の「皺法(しゅんぽう)」(岩や山の峰などの画中の物体の表面にしわのような線を引き、その物体の立体感を表そうとする中国南宗画の技法)というよりも、「点苔法(てんたいほう)」(岩上の苔、山上の樹木などを表すために細かい点を打つ技法)が大きな特色で、これは一種の溌墨法で、「夜色楼台雪万家図」の、胡粉の雪の点描と同じ手法とされている(『日本近世絵画の図像学―趣向の深意―(林進著)』所収「蕪村の『峨嵋露頂図』―『言葉』と『図像』の多義性―」)。
 そして、この種の、一気呵成の気の趣くままに、謂わば、水墨の偶発性を狙っているような描法というものは、それを真似しようとしても、例え、蕪村の画法の全てを承知している呉春にとっても、それは不可能のようなものであろう。 
 蕪村は、この「峨嵋露頂図」に続いて、蕪村が生涯において私淑し続けた芭蕉が葬られている義仲寺に、蕪村が六十八年の生涯を閉じる天明三年(一七八三)に、「衡岳露頂図」という襖絵を描いた。
 これは、現在、二曲一双の屏風に改装され、傷みが激しく、図葉が判然としないのであるが、明治の漆芸家柴田是真が、その縮図を手控えていて、そこに、「倣王藍田筆意 発卯春正月写於雪堂中 夜半翁」と記されおり、亡くなる年の正月に制作したことが判明している。
 この「衡岳露頂図」は、「湖南省にある五岳の一つ南岳の衡山を描いたもので、衡山七十二峰の一つ回雁峰(雁がこの峰から北に引き返すところから名づけられた)を表したもの」とされている(『林進・前掲書』)。
 ここで、あらためて、呉春の「群山露頂図」(襖十四面)の高山頭頂部を目の当たりにすると、これは、紛れもなく、蕪村の「衡岳露頂図」(二曲一双屏風)の丁寧な「皺法」と細やかな「点苔法」を、応挙が大乗寺文書に記した「蕪村高弟」として、忠実に、それを再現したという思いを深くする。

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蕪村筆「衡岳露頂図」(柴田是心筆「諸国縮図帖・東京芸術大学学術資料館」)・「滋賀・義仲寺蔵「衡岳露頂図屏風」―『日本美術絵画全集一九 与謝蕪村(吉沢忠著)』―

補記二 「応挙関係資料」(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収)「呉春・嶋田元直・山本守礼・秀雪亭・円山応瑞の画料等の文書」→B図 ・・・・「呉春」の部分(翻刻文)

http://museum.daijyoji.or.jp/03mokuro/03_06/03_06_19.html

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この画料「千疋」について、『日本美術絵画全集(第二十二巻)応挙・呉春』所収「作品解説(山川武稿)」では、「当時の一両を今日の二四〇〇〇円として換算すると六万円にあたる」としている。

補記三 皺法(『芥子園画伝』)と点苔法(「峨嵋露頂図・蕪村筆)について

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皺法(『芥子園画伝』初集のうち「石壁露頂法」)

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点苔法(「峨嵋露頂図・蕪村筆)

 蕪村の「山水画」では、上記の『芥子園画伝』初集の「石壁露頂法」は、しばしば見られるものであるが、「峨嵋露頂図」では、上記のとおり太い「点苔法」が顕著で、それが特徴となっている。

補記四 蕪村の「夜色楼台図」の「雅俗と聖俗」

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-10



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応挙工房周辺(大乗寺(その八「群仙図」)) [応挙]

その十 大乗寺(その八「群仙図」)

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秀雪亭筆「群仙図(襖四面)」(大乗寺「仙人の間」襖八面の内)

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秀雪亭筆「群仙図(襖四面)の左一面の拡大図」

【 群仙図 秀雪亭筆
 仏教上の方位で北に位置する部屋に描かれた本図は、医療を司る多聞天の世界をイメージさせたとも解釈されており、眼下には靄の中に木立や建物、山の頂などが見え、仙人達は、それぞれ仙果である桃や、香炉、笛、巻子、盆石等、様々な物を運んでいる。仙人の着衣や独特の風貌には日常的でない表現を用い、人々のイメージする世界を映し出すことに腐心している。秀雪亭はどのような絵師であったか未だはっきりとは解明されていないが、寛政二年(一七九〇)の内裏造営の際にも、応挙一門として共に制作に当たっている。 】
(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「使者の間」)

 秀雪亭については、『平安人物志(文化十年版)』に、「分類: 画  秀喬卿 - 号 : 綿山 - 字 : 子寿 - 諏訪町松原北 - (俗称) 秀雪亭」と記載されている。
 上記の、「寛政二年(一七九〇)の内裏造営の際にも、応挙一門として共に制作に当たっている」に関連しては、次のようなことが背景にある。

【天明の大火で内裏御所が焼失した。幕府は老中・松平定信を惣奉行に命じ、すぐに御所造営にあたらせた。ところが、当時の幕府財政は逼迫していたため、内裏御所壁画制作に異変が生ずることとなった。内裏御所障壁画は幕府に仕える江戸の狩野一門が行うのが通例だった。ところが、今回は紫宸殿の賢聖障子だけを江戸で描かせて京都に送り、それ以外の障壁画を京都在住の絵師たちに描かせることになったのである。経費節減のためである。ただ、素性の怪しい絵師に内裏御所障壁画を描かせる訳にはいかない。そこで寛政元年(一七八五)五月、この御用を志願する京都在住の絵師たちに身元、および朝廷での御用勤め履歴などを記載した願書を提出させた。その内容が『禁中御用絵師任用願』という記録からわかり、そこに応挙の記録も含まれている。それによれば、安永九年(一七八〇)、光格天皇即位のための道具新調を勤めたのが応挙の朝廷での最初の仕事だったようだ。この前歴により応挙は内裏御所障壁画制作への参加が許され、常御殿一之間と御小座敷上御間の襖絵を描くことが認められた。なお、この時、応挙一門では、円山応瑞、源琦、長沢芦雪、島田元直、秀雪亭なども選考にパスし、内裏御所障壁画制作の参加が許されている。 】
(『別冊太陽 円山応挙』所収「応挙年代記・五十代から晩年まで・五十嵐公一稿」)

 この時の、応挙と応挙一門の障壁画は、嘉永七年(一八五四)四月の火災で焼失してしまった。いずれにしろ、秀雪亭は、応挙の嫡子・応瑞とともに、応挙晩年の若手の有力応挙一門の一人であったのであろう。

補記一 「応挙関係資料」(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収)「呉春・嶋田元直・山本守礼・秀雪亭・円山応瑞の画料等の文書」→B図 ・・・・「秀雪亭」の部分拡大

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御襖群仙之図懸画/相認メ候御挨拶ノ為方ニ金/五百疋送リ下サレ忝ク拝受/仕リ候 以上/九月八日 秀権九郎(注・秀雪亭)

補記二 文化10年版(画) - 立命館大学

http://www.ritsumei.ac.jp/~mit03437/coe/heian/bunka10/bunka10_ga.htm


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応挙工房周辺(大乗寺(その七「少年行図」「採蓮図」)) [応挙]

その九 大乗寺(その七「少年行図」「採蓮図」)

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山本守礼筆「少年行図(部分画)」(大乗寺「使者の間」北側襖四面の内)

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亀岡規礼筆「採蓮図(部分画)」(大乗寺「使者の間」西側襖四面の内)

【 少年行図(山本守礼筆) 採蓮図(亀岡規礼)
 「少年行図」を描いた山本守礼と「採蓮図」を描いた亀岡規礼とは兄弟で、守礼の方が兄である。「少年行図」も「採蓮図」も共に中国の画題で、楽曲をもとに作られているが、少年が乗馬を楽しむ様と、女性が湖に舟を浮かべ、蓮の花を手折る恋の歌の内容とが表されている。自然の中での人々の姿を描くことによって、より一層風景の持つ美しさ、爽やかさを印象付けている。品格ある描線、丁寧で整った清明な作風には共通性があり、一つの部屋を二人で制作していても、全く違和感がない。守礼はまた、大乗寺では狗子の間を描いている。 】(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「使者の間」)

 亀岡規礼は、明和七年(一七七〇)の生まれ、早くに、山本守礼の弟子となり、守礼の実家の亀岡の姓を継ぐ。守礼との関係は、守礼が義兄あるいは養父という関係なのであろう。本姓は笹井、名は光茂。字は子恭、通称は喜十郎。天保六年(一八三五)、六十六歳で没している。『平安人物志(文化十年版)』『平安人物志(文政五年版)』『平安人物志(文政十三年版)』に、その名が見られる。
 天明七年(一七八七)の大乗寺障壁画(使者の間)の「採蓮図」を描いたのは、若干十七歳の頃で、この作品が規礼のデビュー作品ということになろう。山本守礼は、寛政二年(一七九〇)に夭逝(三十九歳)しているので、以後、応挙門で守礼の後継者ということになろう。
 応挙の「円山派」では、応門十哲(源琦・長沢蘆雪・山口素絢・奥文鳴・吉村孝敬・森徹山・山跡鶴嶺・木下応寿・福知白瑛・亀岡規礼)と目せられるものもあり、守礼ともども、応挙画風の正しい継承者の一人として重きを成していたのであろう。

http://www.kowado.net/benkyo002.htm

 この「採蓮図」の女性像に関連して、次の守礼筆「美人機織図」(黒川古文化研究所蔵)の女性像をモデルにしている雰囲気である。

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山本守礼筆「美人機織図(部分画)」(黒川古文化研究所蔵)
紙本着色 一二七・〇×五四・〇cm

補記一 円山応挙の門人について

http://www.kurokawa-institute.or.jp/oukyomonjin.pdf

補記二 『若冲が来てくれました ブライスコレクション江戸絵画の美と生命』所収「ブライス動物園」
47 歩みよるトラ 虎図 一幅 亀岡規礼筆 絹本着色
一一七・二×四〇・〇cm

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