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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その五「東洋」) [洛東遺芳館]

(五)東洋筆「冨士三保松原図」(洛東遺芳館蔵)

東洋一.jpg

東洋筆「富士三保松原図」(絹本着色)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

東洋の絵には、どこか素朴で懐かしくなるようなところがありますが、この作品では、特に波の表現にそれが感じられます。しかし、空間表現は高度なもので、近景の岩、中景の松原、遠景の山並み、そして、さらに遠くの富士と、四段階の遠近法が用いられています。
彩色が次第に薄くなる空気遠近法も効果的で、大きくて、しかも遠方にあるという富士山の表現に成功しています。

 東東洋は、宝暦五年(一七五五年)、現在の登米市石越町の生まれ、 天保十年(一八三九)、八十五歳で没。当初狩野梅笑に狩野派を学び、のち、上洛して円山応挙・池大雅等に師事し、法眼に叙せられた。姓・氏は東、名・通称は洋。字は大洋。最初の号は、玉河(玉峨)で、別号に白鹿洞。晩年は帰郷して陸奥仙台藩の御用絵師となる。近世の仙台を代表する絵師の一人で、小池曲江、菅井梅関、菊田伊洲らと共に仙台四大画家の一人に数えられる。
 十五歳の頃、各地を遊歴していた狩野派の絵師・狩野梅笑から本格的に絵を学ぶ、十八歳の頃、江戸に出て、さらに、二十歳の頃、上洛し、池大雅を訪ね『芥子園画伝』の講釈を受ける。以後半世紀、しばしば各地を歴訪しつつも、京都を中心に活動する。
 三十歳代初めにかけて、長崎に赴き、そこで方西園という中国人画家に学んだとされる。しかし、同時に南蘋派も学んだと推測され、天明五年(一七八五)の頃京に再帰し、応挙に師事したのは、この頃であろうか。そして、応挙を介してであろうが、妙法院真仁法親王と親交を結ぶようになる。
 法眼に叙せられたのは、応挙が没する寛政七年(一七九五)前後のことで、寛政八年(一七九六)、四十二歳の時に、仙台藩の絵画制作に携わるようになるが、その仙台藩の仕事を携わる一方、活動の拠点は京都であり続けた。京都から仙台へ帰郷したのは、文政八年(一八二五)、七十一歳の頃で、墓は、仙台(若林区荒町にある昌傳庵)と、京都(下京区にある聖光寺)にある。
東洋は、呉春の「四条派」の画人としているものもあるが、応挙の「円山派」の画人の方がより妥当であろう(『別冊太陽 円山応挙』所収「円山四条派系図」)。
 呉春も東洋も、妙法院宮真仁法親王(光格天皇の兄)の知遇を得、いわゆる、妙法院サロンの有力メンバーの一員なのであるが、それは、応挙の推挙によるものであろう(『応挙・呉春・芦雪(山川武著)』)。ちなみに、応挙の「墓石」に見る「源応挙墓」の四字は、妙法院宮真仁法親王の筆である(『山川・前掲書』、現在「悟真寺」は右京区太秦の地に移されている)。
 そのサロンには、文人・歌人・儒者等の、「伴蒿蹊・小沢蘆庵・慈延法師(大愚)・賀茂季鷹・上田秋成・岡本保考・香川景樹・皆川淇園・村瀬栲亭・釈慈周(六如)」等々、そして、画人には、「応挙・呉春・東洋」等が名を連ねている(「補記一」の画人や「賛」をしている文人等とオーバラップしている)。
 また、東洋については、下記(「補記」三)のものが詳しい。ここでは、冒頭の「富士三保松原図」に関連して、「大雅・応挙」などの「遠近法」などについて触れて置きたい。

 「遠近法」(透視遠近法)というのは、「近くものを大きく、遠くのものを小さく一点に収束するように描く」描法で、古来の日本画や東洋画の描法ではなく、新しく西洋画(ルネッサンス期に体系化された)をルーツとしているものである。
 この「遠近法」について、応挙は、そのスタートの時点で、「玩具店尾張屋」に奉公し、「眼鏡絵」という風景画を描くことを通して、この「遠近法」という描法を自分のものにし、そして、その上で、「写生」を基調とする「応挙風様式」という画法を樹立していった。
 この東洋の「富士三保松原図」は、その応挙の「遠近法」を明確に意識し、「近景の岩、中景の松原、遠景の山並み、そして、さらに遠くの富士」と、四段階の遠近法を駆使している。そして、この「富士三保松原図」の主題は、大雅が繰り返し主題にしているもので、例えば、「冨士十二景」の「寒林柴扃図(かんりんさいけいず)」(東京芸術大学蔵)と、同一趣向のように解せられる。
 しかし、この大雅の「冨士十二景」(「補記」二)においては、応挙のような、西洋画的な「遠近法」ではなく、東洋的な「遠近法」(高遠は山の下から頂を仰ぎ見る形式、深遠は山の前から後をのぞきうかがう形式、平遠は近山から遠山を望み見る形式)が主たるものと解せられる。
 そして、この東洋の「富士三保松原図」は、大雅と応挙とに学んだ成果を活かして、大雅が試みていた「高遠・深遠・平遠」の東洋的な「三遠法」を、応挙風の「透視的遠近法」に置き換えている点に、東洋の、この絵に託しての狙いがあるように解せられる。


補記一 「江戸中・後期の京都の画人たち」など(再掲、「(その一)」などは掲載メモ)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-29

諸家寄合膳(二十枚)
一 円山応挙(一七三三~九五)筆「折枝図」  (「その一」「その二・円満院祐常」)
二 池大雅(一七二三~七六)筆「梅図」    (「その五」で「冨士十二景図など) 
三 与謝蕪村(一七一六~一七八三)筆「翁自画賛」  (「その三」)
四 池玉瀾(一七二八~八四)筆「松渓瀑布図」
五 鼎春嶽(一七六六~一八一一)筆、皆川淇園賛「煎茶図」
六 曽我蕭白(一七三〇~八一)筆「水仙に鼠図画賛」
七 東東洋(一七五五~一八三九)筆、八木巽処賛       (その五)
八 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆、四方真顔賛「雀鳴子図」
九 福原五岳(一七三〇~一七九九)筆、三宅嘯山賛「夏山図」
十 狩野惟信(一七五三~一八〇八)筆、鴨祐為賛「富士図」
十一 岸駒(一七四九《五六》~一八三八)筆、森川竹窓賛「寒山拾得図」
十二 長沢芦雪(一七五四~一七九九)筆、柴野栗山賛「薔薇小禽図」
十三 月僊(一七四一~一八〇九)筆、慈周(六如)賛「五老図」
十四 吉村蘭洲(一七三九~一八一七)筆、浜田杏堂賛「山居図」
十五 土方稲嶺(一七三五~一八〇七)筆、木村蒹葭堂賛「葡萄図」
十六 玉潾(一七五一~一八一四)筆、慈延賛「墨竹図」
十七 紀楳亭(一七三四~一八一〇)筆、加茂季鷹賛「蟹図」
十八 観嵩月(一七五九~一八三〇)筆「鴨図」
十九 島田元直(一七三六~一八一九)筆、谷口鶏口賛「菊図」
二十 堀索道(?~一八〇二)筆、大島完来賛「牡丹図」

諸家寄合椀(十一合)
一 呉春(一七五二~一八一一)筆「燕子花郭公図」  (その四)
二 高嵩谷(一七三〇~一八〇四)筆「山水図」  
三 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆「梅図」
四 英一峰(一六九一~一七六〇)筆「芦雁図」
五 黄(横山)崋山(一七八一~一八三七)筆「柳図」
六 土佐光貞(一七三八~一八〇六)筆「稚松」
七 村上東洲(?~一八二〇)筆「三亀図」
八 鶴沢探泉(?~一八〇九)筆「三鶴図」
九 森周峯(一七三八~一八二三)筆「水仙図」
十 宋紫山(一七三三~一八〇五)筆「竹図」
十一 森狙仙(一七四七~一八二一)筆「栗に猿図」

補記二 大雅筆「冨士十二景図」(東京芸術大学蔵)

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/239493

補記三 東東洋《花鳥押絵貼屏風》──ほのぼのと味わい深い風情「樋口智之」

http://artscape.jp/study/art-achive/10139894_1982.html

補記四 東洋筆「東方朔(とうほうさく)」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2016.html

補記五 二条派から古学派へ―堂上歌学の変容と地方への伝播

https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_snippet&page_id=13&block_id=21&index_id=126&pn=1&count=20&order=17&lang=japanese

補記六 東洋と芦雪など

 『書画聞見集(澹斎著)』に、仙台の画人東東洋が京都で見聞したこととして、「芦雪は傲慢な性格で、応挙の死後自分が一番と慢心したため、画はいよいよ悪くなり貧窮して、ついに大阪へ行って自ら首を吊った」ということが記されている。(『江戸の絵師「暮らしと稼ぎ」安村敏信著)

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