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応挙工房周辺(大乗寺(その八「群仙図」)) [応挙]

その十 大乗寺(その八「群仙図」)

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秀雪亭筆「群仙図(襖四面)」(大乗寺「仙人の間」襖八面の内)

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秀雪亭筆「群仙図(襖四面)の左一面の拡大図」

【 群仙図 秀雪亭筆
 仏教上の方位で北に位置する部屋に描かれた本図は、医療を司る多聞天の世界をイメージさせたとも解釈されており、眼下には靄の中に木立や建物、山の頂などが見え、仙人達は、それぞれ仙果である桃や、香炉、笛、巻子、盆石等、様々な物を運んでいる。仙人の着衣や独特の風貌には日常的でない表現を用い、人々のイメージする世界を映し出すことに腐心している。秀雪亭はどのような絵師であったか未だはっきりとは解明されていないが、寛政二年(一七九〇)の内裏造営の際にも、応挙一門として共に制作に当たっている。 】
(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「使者の間」)

 秀雪亭については、『平安人物志(文化十年版)』に、「分類: 画  秀喬卿 - 号 : 綿山 - 字 : 子寿 - 諏訪町松原北 - (俗称) 秀雪亭」と記載されている。
 上記の、「寛政二年(一七九〇)の内裏造営の際にも、応挙一門として共に制作に当たっている」に関連しては、次のようなことが背景にある。

【天明の大火で内裏御所が焼失した。幕府は老中・松平定信を惣奉行に命じ、すぐに御所造営にあたらせた。ところが、当時の幕府財政は逼迫していたため、内裏御所壁画制作に異変が生ずることとなった。内裏御所障壁画は幕府に仕える江戸の狩野一門が行うのが通例だった。ところが、今回は紫宸殿の賢聖障子だけを江戸で描かせて京都に送り、それ以外の障壁画を京都在住の絵師たちに描かせることになったのである。経費節減のためである。ただ、素性の怪しい絵師に内裏御所障壁画を描かせる訳にはいかない。そこで寛政元年(一七八五)五月、この御用を志願する京都在住の絵師たちに身元、および朝廷での御用勤め履歴などを記載した願書を提出させた。その内容が『禁中御用絵師任用願』という記録からわかり、そこに応挙の記録も含まれている。それによれば、安永九年(一七八〇)、光格天皇即位のための道具新調を勤めたのが応挙の朝廷での最初の仕事だったようだ。この前歴により応挙は内裏御所障壁画制作への参加が許され、常御殿一之間と御小座敷上御間の襖絵を描くことが認められた。なお、この時、応挙一門では、円山応瑞、源琦、長沢芦雪、島田元直、秀雪亭なども選考にパスし、内裏御所障壁画制作の参加が許されている。 】
(『別冊太陽 円山応挙』所収「応挙年代記・五十代から晩年まで・五十嵐公一稿」)

 この時の、応挙と応挙一門の障壁画は、嘉永七年(一八五四)四月の火災で焼失してしまった。いずれにしろ、秀雪亭は、応挙の嫡子・応瑞とともに、応挙晩年の若手の有力応挙一門の一人であったのであろう。

補記一 「応挙関係資料」(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収)「呉春・嶋田元直・山本守礼・秀雪亭・円山応瑞の画料等の文書」→B図 ・・・・「秀雪亭」の部分拡大

秀雪亭三.jpg

御襖群仙之図懸画/相認メ候御挨拶ノ為方ニ金/五百疋送リ下サレ忝ク拝受/仕リ候 以上/九月八日 秀権九郎(注・秀雪亭)

補記二 文化10年版(画) - 立命館大学

http://www.ritsumei.ac.jp/~mit03437/coe/heian/bunka10/bunka10_ga.htm


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