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応挙工房周辺(円山派・応挙工房・応募画塾) [応挙]

その十八 円山派(円山応挙工房・応挙画塾)の画人たち

円山派.jpg

大乗寺文書(円山派名簿)

http://museum.daijyoji.or.jp/03mokuro/03_06/03_06_21.html

(「大乗寺」障壁画などに携わった画人たち)

故主水    応挙   島田主計頭  元直
月渓     呉春   駒井幸之助  源琦
長澤     芦雪   円山主水   応瑞
木下直一 応受   秀権九郎   雪亭
故山本数馬  守礼   山形貫次(?) 鶴嶺
奥順蔵    貞章(?)森文蔵(?)  徹山  
式部治郎(?)素絢   亀岡規十郎   規礼

(※=「応門十哲」などに関係する画人)
(※※と※※※=特記すべき画人、※※※※=支援者など)

※※原    在中          ※楠亭
吉村     蘭洲   岡橋喬快(?) 直珽(?)
三谷逸記   五雲   中村平右衛門  孝敬
※ 奥田兎毛 南岳   ※吉村羊蔵   孝敬
土岐富吉   瑛正   白井忠八    直賢
白井周蔵   白猷   ※※岸雅樂助(?)蘭斎
松村直治   士慎   脇畑栄蔵    守渓
太子堂    自浄   田辺茂兵衛   源章(?)
駒井真蔵   愛延   和田金兵衛   公遵
東部     呉龍   越後      東洋
※※※※冨士山応令 與右衛門(?)※※※双林寺 西阿弥
※※※※京都三井八郎右衛門   池田  宣春
亀山     文蔵   浅井庄兵衛   義篤
島田   内匠 元直息  風折(?)  友丈 故人

 上記のものを、先の「円山四条派関係系図」(下記のアドレス)と照合などすると、次のようなことが浮かび上がってくる。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-10-21

一 冒頭の文書は、「故主水 応挙」(一七九五没)「故山本数馬 守礼」(一七九〇没)の記述から、応挙没後の、応挙を祖とする「円山派関係画人一覧」の、大乗寺側の書き留めと解せられる。この内、「応挙・元直・呉春・源琦・芦雪・応瑞・応受・雪亭・守礼・鶴嶺・貞章=文鳴・徹山・素絢・規礼」は、天明七年(一七八七)から寛政六年(一七九四)の、大乗寺障壁画などに係わった画人たちで、その意味で、応挙を棟梁として、その采配下で制作に随時参加するなど、いわゆる「応挙工房の画人たち」という趣である。

①  円山応挙 → 孔雀の間 郭子儀の間 山水の間 (一階)
②  円山応瑞 → 鯉の間  仏間 (一階)
③  木下応受 → (孔雀の間・郭子儀の間 山水の間)小壁(遊亀図)
④  駒井源琦 → 鴨の間 (二階)
⑤  長沢芦雪 → 猿の間 (二階) 
⑥  山本守礼 → 狗子の間(一階)
⑦  亀岡規礼 → 使者の間(一階)
⑧  奥 文鳴 → 藤の間 (一階)
⑨  源 正勤 → 屏風(子猷訪戴図・帰去来図)
⑩  山口素絢 → (鴨の間・猿の間)小壁(蛾蝶図)
⑪  森 徹山 → (猿の間)小壁(山雀図)
⑫  秀 雪亭 → 仙人の間(一階)
⑬  山跡鶴嶺 → (農業の間)小壁(飛燕図)
⑮  呉春   → 農業の間 群仙露頂の間(一階)

二 「応門十哲」との関連で見ると次のようなことが言える。

(「応門十哲」→ 「事典」などの一つの見解)
駒井源琦 (上記一)
長沢蘆雪 (上記一)
山跡鶴嶺 (上記一)
森徹山  (上記一)
吉村孝敬 (大乗寺文書※)
山口素絢 (上記一)
奥文鳴  (上記一)
月僊
西村楠亭 (大乗寺文書※)
渡辺南岳 (大乗寺文書※)

 「吉村孝敬(一七六九~一八三六)」は、吉村蘭洲の長男で、応挙晩年の弟子である。伝統的な狩野派の画法や応挙の写生画を消化し、さらに写生を推し進めた画風で、京都画壇にその足跡をのこしている。 
 「西村楠亭(一七七五~一八三四)」は、西村氏、名は予章、大坂の人。楠亭と号し、寛政から天保初年にかけて、肉筆風俗画をよくしている。
 「渡辺南岳(一七六七~一八一三)」は、京都の人。名は巌、字は維石、号は南岳、通称猪三郎、小左衛門。画を円山応挙に学んだが、後年尾形光琳に私淑し、流麗な筆使いで美人や魚などを巧みに描いた。晩年江戸に出て、江戸に円山派を伝え、谷文晁、酒井抱一らと交友している。
 「月僊(一七四一~一八〇九)」は、冒頭の「大乗寺文書」には記載がない。名古屋の人で、仏門修行の傍ら雲谷派を学び、上洛して、応挙に師事して写実的画風の感化を受けた。また、与謝蕪村の影響も受け、さらに諸派に学んで独自の画風を確立している。

三 応挙と「原在中・岸駒(岸雅楽助)」そして「月峯(大雅堂二世・西阿弥)」関連について

 冒頭の「大乗寺文書」には、応挙没後の京都画壇に、「円山・四条派」とは別の「原派」を創設する「原在中(一七五〇~一八三七)」と「岸派」を創設する「岸駒(岸雅楽助)一七四九/五六~一八三九」の名も出てくる(上記の※※)。
 「原在中」は、京都の人。名は致遠、字は子重、別号に臥遊など。幼少より画を好み、円山応挙に学んだといわれているが、石田幽汀に師事したとする説もある。明画を独学し、さらに土佐派を学ぶなど諸派を研究、精緻な装飾的作風の原派を興した。
 「岸駒」は、加賀の人。字は賁然(ひぜん)。号は同功館・可観堂など。南蘋派の花鳥画を学び、円山派などの諸派を折衷し、京都画壇の中心となった。天明四年(一七九四)有栖川宮家の障壁画を描く。このころ雅楽介を称する。
 この二人について、「応挙没後、在中は自分は応挙の弟子ではないとし、これに腹をたてた岸駒が応挙の子・円山応瑞のところに行って門人帳を調べると、在中の自筆で入門と名簿に書いてあった」(『古画備考』)との逸話があるが、冒頭の「大乗寺文書」に、二人の名があることは、この二人も応挙系の画人と解して差し支えなかろう
 すなわち、応挙の「円山派」は、呉春の「四条派」と併称して「円山四条派」、それに、「原派」、そして、「岸派」も加えると、応挙の世界(写生を作画の基本に置くという世界)の拡がりというのは、それまでの伝統的な狩野派・土佐派の世界を圧するものがあったことであろう。
 さらに、注目すべきことは、「双林寺 西阿弥」(※※※)で、大雅の跡を継いで、大雅堂二世を名乗った「月峯」のようなのである。

http://tois.nichibun.ac.jp/hsis/heian-jinbutsushi/jinbutsu/11759/info.html

「名前: 月峯(辰亮)
解説: 月峯( ~天保10年) 僧(時宗画家)名は辰亮、月峯又菊澗、又は可有斎と号した。京都東山双林寺長喜庵主双林寺世一世謙阿明亮の法嗣。先師明亮の勧めにより境内に住み画を描いた池大雅に就いて画を学び其気格を得、且つ篆刻を巧みにした。大雅没後その遣跡を守り大雅堂二世と称したが、天保十年十一月九日没した。年八十。(文化十 文人画 文政五 文人画 文政十三 文人画 再出 篆刻 天保九 文人画 再出 篆刻家)」

 すなわち、日本の文人画(南画)を樹立した、蕪村と大雅は、その後継者たるべき、呉春(蕪村門人)と月峯(大雅門人)とが、蕪村と大雅亡き後の、京都画壇の中枢を獲得した応挙と結びつき、その後の、「西洋画」そして「東洋画」に匹敵する真正なる「日本画」の趨勢を方向づけたということに解したい。
 こうして見てくると、冒頭の「大乗寺文書」(円山派名簿)は、途轍もない、「十八世紀の京都画壇とその後の日本画の趨勢」について、一つの示唆を含む貴重な資料ということになろう。

四 「京都 三井八郎右衛門」と「冨士山応令 與右衛門」などについて

 この「京都 三井八郎右衛門」(※※※※)とは、応挙と応挙一門の最大の支援者ともいうべき、三井十一家の惣領家である北三井家四代目の「三井 高美」その人であろう。この高美と応挙とは昵懇の間柄で、この高美が、片手に団扇を持ち、裸でくつろぐ後ろ姿を、応挙が軽いタッチで描いた「夕涼み図」が今に残されている。
 この高美は、経営者的センスよりも文雅的嗜好が強く、家業は実弟の高弥(新町家)が取り仕切り、晩年は一族から義絶されるなど、毀誉褒貶の多い生涯を送るが、冒頭の「大乗寺文書」(円山派名簿)に、その名があるということは、応挙の庇護者であったと同時に、応挙に絵の指導などを受けていたと解すべきなのであろう。 
 三井家は、この高美が亡くなった以降も、応挙と応挙一門との関係は良好で、応挙の国宝「雪松図屏風」をはじめ、今に、三井記念美術館は、「円山・四条派」関係作品の宝庫でもある。
 次に、「冨士山応令 與右衛門」は、これまた、応挙と京都の三井八郎右衛門(高美)と関係と同じように、富士山麓の東海道沼津原宿の大素封家である「植松與右衛門」(「植松家」当主の名跡)のことで、その「応令」は、応挙門での画号なのであろう(「応令」の父は、応挙と親交のあった「蘭渓」で、応令は蘭渓の仲介で応挙門に入っていた時期があり、応挙門の一員に数えられていたのであろう)。
 この蘭渓・応令親子について、次のようなことが紹介されている。

「駿河国、原(静岡県沼津市郊外)資産家植松家の当主蘭渓(与右衛門)は妙心寺海福院住職斯経和尚を介して応挙と相識となり、息子の季英(応令)を京都に出して応挙に入門させた程であったが、植松家に残された応挙書簡によると、応挙は蘭渓から再三富士見物の誘いを受けながら遂にそれを果たさなかったらしい。応挙の場合、未知の土地に新鮮な奇勝を求めるというよりは、馴れ親しんだ畿内の風物を繰返しとり上げ、むしろ平凡な日常的風景のなかに温和な抒情性をうたいこもうとしていたように思われる。」(『応挙・呉春・芦雪―円山・四条派の画家(山川武著)』)

 これらの、京都の豪商の三井高美(「三井八郎右衛門」)や、駿河沼津の大素封家「植松家(応令)」は、冒頭の「大乗寺文書」(円山派名簿)に記載されていることからして、単なる、応挙の庇護者や愛好者ではなく、謂わば、「応挙画塾」で、応挙の直接的な指導を受け、応挙門人の一員として遇せられていたと解すべきなのであろう。
 そして、この二人のように、画家を職業とはしていないが、応挙門人として遇せられていた者は、例えば、儒者として名高い、皆川淇園など相当数が存在していると解して差し支えなかろう。
 さらに、応挙そして応挙派の庇護者・愛好者ということになると、例えば、京都を中心として三都にわたって呉服・紙・塗物問屋を多角経営していた「柏原家」(今日の「洛東遺芳館」の同家旧邸に所蔵作品等)など、その輪は、これまた、相当数に達すると解して差し支えなかろう。

 これら、十八世紀の京都画壇の中枢を占めた、円山応挙と円山派は、その応挙の統率・指導下にあって、謂わば、「専門画家集団・準専門画家集団・庇護者・愛好者・理解者」という輪を拡大させながら、それが、単に、京都、そして、三都とを問わず、例えば、日本海に面する、但馬香住の、凡そ百六十五面に及ぶ「大乗寺障壁画」を完成させた、その原動力であったのであろう。
 そして、応挙と応挙一門とが、常に目指していた、その象徴的なものは、やはり、天明六年(一七八六)、応挙、五十四歳時頃の、今に国宝とされている「雪松図屏風」と、そして、それは、応挙が常に目標としていた、狩野探幽の世界(伝統的な世界)に、新しい息吹(革新)を齎したたいという応挙の赤裸々な思いだったこと実感する。

図-22.png

応挙筆「雪松図屏風」国宝 六曲一双 紙本淡彩 三井記念美術館蔵
各一五五・七×三六一・二cm

補記一 三井記念美術館について

http://www.mitsui-museum.jp/gaiyou/gaiyou4.html

補記二 駿河原宿植松家の帯笑園

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1994/59/5/59_5_9/_pdf

補記三 帯笑園 における高家大名等 の訪 問 につ いて

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1994/60/5/60_5_395/_pdf

補記四 洛東遺芳館(「柏原家」)について

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index.html

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