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応挙工房周辺(大乗寺(その九「群山露頂図」) [応挙]

その十一 大乗寺(その九「群山露頂図」)

群山露頂図.jpg

呉春筆「群山露頂図」(十四面の内二面・部分画)大乗寺「群山露頂の間」(別称「禿山の間」) 紙本墨彩

【 群山露頂図 呉春筆
 天明七年(一七八七)呉春三十六歳の作品で、師蕪村を四年前に亡くし、応挙門には未だ入門していない状況のときである。蕪村と交友のあった応挙が、おそらく呉春に大乗寺障壁画制作への参加を誘ったものと思われ、大乗寺文書では「蕪村高弟」と記されている。部屋のぐるりに、深い靄の間から姿を見せる高山の頭頂部のみを描き、室中もそのような俗界を離れる神聖な頂に居るかのような構成である。呉春は、ここでは短筆披麻皺(ひましゅん)を多用した。文人画色の強い漢画描法を使用しており、農業の間に用いた親しみやすい四条派の作風とは好対照を成している。 】
(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「群山露頂の間」)

 呉春(松村月渓)が、蕪村門に入門したのは、安永三年(一七七四)、二十三歳の頃、年譜には、「この頃すでに蕪村に師事するか。このころ月渓・存白・存允白・孫石・可転の号あり。住居は二条通りの北。鴨川のほとり。その住居を百昌堂という」とある(『日本の美術39応挙と呉春・鈴木進編集』)。
 そして、蕪村が没した天明三年(一七八三)、三十二歳時は、「十一月頃から蕪村京都に病む。呉春、師の看病に没頭す。十二月二十五日、蕪村没(六十八歳)」とあり、そして、天明七年(一七八六)、三十六歳時に、「五月、応挙を棟梁とする計六名の画士の仲間にはいり、兵庫県香住の大乗寺の襖絵制作に参加。この時の文書には『蕪村高弟呉月渓』とあり」と、冒頭の「群山露頂図襖」十四面は、その折りの制作である。
 蕪村書簡などによる、蕪村の呉春激賞に関する事項は次のとおりである。

「画は当時無双之妙手に而候。(中略)別而画は愚老(注・蕪村)も恐るゝ斗之若者而候。(後略)」(天明三年=一七八三・九月十四日 士川宛て書簡)
「此児輩(注・月渓=呉春)画には天授の才有之、終には牛耳を握るおのこと末たのもしく候。(後略)」(「蜀桟道図」添状)
(参考)
「旧冬蜀桟の幅呈覧仕候処、為御謝黄金三円二方御めぐみ、扨々かたしけなく奉存候。御徳蔭を以節鬼を追ひはらひ候而大慶の至に御座候。月渓へも方金二地早速相遣候。(後略)」
※蕪村が受領した画料三円二方とは三両と方金(一分金)二分のことで、蕪村が呉春に渡した方金二地とは方金二分のことらしい。方金四分が一両にあたり、当時の一両は今日のほぼ二万四千円に相当する。(『応挙・呉春・芦雪 円山四条派の画家たち(山川武著)』)

 蕪村没後の、応挙と呉春について、『画乗要略(白井華陽著)』には、概略、次のようなことが記されている。

【 呉春は蕪村の没後、応挙に対して束脩(入門の礼をとること)して業を受けることを請うたが、応挙はこれを辞して莫逆の友(親密な友)として遇したと伝えられる。応挙はかねてから呉春の画才をよく知っていて、「月渓ト申若年ノ者アリ、コハキ者ハ、此一人ニテ侍ル。只今京師ニ居ラズ。洛外トカにアリ、是バカリニテ侍ル。」(『古画備考』所引「大通寺話」)と述懐していたといわれる。  】(『山川・前掲書』)

 上記の、「只今京師ニ居ラズ」というのは、呉春は、天明元年(一七八一)に「妻雛路(名・はる=植田氏)と父匡程」を失い、池田(蕪村門下の田福=本名川田祐作、京都五条に呉服店井筒屋を経営、その池田支店に仮住まい)に移り住んで、剃髪し、月渓の号を「呉春」に改めていた。
 そして、呉春が京都に再帰したのは、天明八年(一七八八)の「天明の大火」で、五条鴨川の川向かいの喜雲庵に避難し、偶々、応挙もそこに避難し、その奇遇を切っ掛けとして、その翌年の寛政元年(一七八九)の五月に京都四条に移住しているようである。
 いずれにしろ、冒頭の大乗寺障壁画の「群山露頂図」の制作に取り組んでいた頃は、呉春の、いわゆる池田時代で、応挙自身が認めているように、応挙門とは関係なく、「蕪村高弟呉春」として参加し、そして、その背景には、蕪村亡き後、再び、呉春が大きな画業に取り組む環境作りの一環として、応挙が呉春に働き掛けたのが、その実態のように思われる。
 そして、これらのことは、この「群山露頂図」に関する、冒頭の「ここでは短筆披麻皺(ひましゅん)を多用した。文人画色の強い漢画描法を使用しており、農業の間に用いた親しみやすい四条派の作風とは好対照を成している」との評と軌を一にしているということになる。

補記一 「群山露頂図」(呉春筆)と「峨嵋露頂図」(蕪村筆)、そして、「衡岳露頂図(蕪村筆)について

【「群山露頂図襖」(十四面)は、周知のとおり大乗寺障壁画群のひとつであり、天明七年に応挙を中心とした弟子達とともに描いたものである。これは文字通り、「露頂図」ということからも知られるように師蕪村の「峨嵋露頂図」にならった作品。これを山川武氏は「一室にめぐらされる画面は代赭と藍の淡彩をほどこしているが、特に四季の移り変わりをみせようともせず、楼閣や人物のようなものを一切、描かれずただ柔らかい皺法を重ねて、群山の起伏と樹叢の繁簡だけをゆるやかな韻律をもって流している」、と説く(『日本美術絵画全集二二』)。また呉春が倣った蕪村の「峨嵋露頂図」は、よく知られているとおり、唐の詩人李白の「峨嵋山月歌」を絵画化したものであり、これを知らせるために「峨嵋露頂」と巻記に明記している。この「峨嵋露頂図」をまたまた真似た。すなわち呉春は蕪村の短い絵巻のような小画面の「峨嵋露頂図」を器用に消化させて襖絵十四面にまで及ぶ大画面に変容させたのである。 】(「聚美2011秋 円山応挙と呉春」所収「呉春の生涯と芸術」(冷泉為人稿))

 「群山露頂図」(呉春筆)は、蕪村の「峨嵋露頂図」(蕪村筆)をモデルにしたというのであるが、それよりも、蕪村最晩年の天明三年(一七八三)の「衡岳露頂図」(滋賀・義仲寺)をモデルにしていると思われる。
 「峨嵋露頂図」の特徴は、上記の「柔らかい皺法を重ねて、群山の起伏と樹叢の繁簡だけをゆるやかな韻律をもって流している」の「皺法(しゅんぽう)」(岩や山の峰などの画中の物体の表面にしわのような線を引き、その物体の立体感を表そうとする中国南宗画の技法)というよりも、「点苔法(てんたいほう)」(岩上の苔、山上の樹木などを表すために細かい点を打つ技法)が大きな特色で、これは一種の溌墨法で、「夜色楼台雪万家図」の、胡粉の雪の点描と同じ手法とされている(『日本近世絵画の図像学―趣向の深意―(林進著)』所収「蕪村の『峨嵋露頂図』―『言葉』と『図像』の多義性―」)。
 そして、この種の、一気呵成の気の趣くままに、謂わば、水墨の偶発性を狙っているような描法というものは、それを真似しようとしても、例え、蕪村の画法の全てを承知している呉春にとっても、それは不可能のようなものであろう。 
 蕪村は、この「峨嵋露頂図」に続いて、蕪村が生涯において私淑し続けた芭蕉が葬られている義仲寺に、蕪村が六十八年の生涯を閉じる天明三年(一七八三)に、「衡岳露頂図」という襖絵を描いた。
 これは、現在、二曲一双の屏風に改装され、傷みが激しく、図葉が判然としないのであるが、明治の漆芸家柴田是真が、その縮図を手控えていて、そこに、「倣王藍田筆意 発卯春正月写於雪堂中 夜半翁」と記されおり、亡くなる年の正月に制作したことが判明している。
 この「衡岳露頂図」は、「湖南省にある五岳の一つ南岳の衡山を描いたもので、衡山七十二峰の一つ回雁峰(雁がこの峰から北に引き返すところから名づけられた)を表したもの」とされている(『林進・前掲書』)。
 ここで、あらためて、呉春の「群山露頂図」(襖十四面)の高山頭頂部を目の当たりにすると、これは、紛れもなく、蕪村の「衡岳露頂図」(二曲一双屏風)の丁寧な「皺法」と細やかな「点苔法」を、応挙が大乗寺文書に記した「蕪村高弟」として、忠実に、それを再現したという思いを深くする。

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蕪村筆「衡岳露頂図」(柴田是心筆「諸国縮図帖・東京芸術大学学術資料館」)・「滋賀・義仲寺蔵「衡岳露頂図屏風」―『日本美術絵画全集一九 与謝蕪村(吉沢忠著)』―

補記二 「応挙関係資料」(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収)「呉春・嶋田元直・山本守礼・秀雪亭・円山応瑞の画料等の文書」→B図 ・・・・「呉春」の部分(翻刻文)

http://museum.daijyoji.or.jp/03mokuro/03_06/03_06_19.html

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この画料「千疋」について、『日本美術絵画全集(第二十二巻)応挙・呉春』所収「作品解説(山川武稿)」では、「当時の一両を今日の二四〇〇〇円として換算すると六万円にあたる」としている。

補記三 皺法(『芥子園画伝』)と点苔法(「峨嵋露頂図・蕪村筆)について

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皺法(『芥子園画伝』初集のうち「石壁露頂法」)

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点苔法(「峨嵋露頂図・蕪村筆)

 蕪村の「山水画」では、上記の『芥子園画伝』初集の「石壁露頂法」は、しばしば見られるものであるが、「峨嵋露頂図」では、上記のとおり太い「点苔法」が顕著で、それが特徴となっている。

補記四 蕪村の「夜色楼台図」の「雅俗と聖俗」

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-10



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