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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その二十二)  [酒井抱一]

その二十二 江戸の粋人・抱一の描く「その十一 吉原月次風俗図(十二月・狐舞」

花街柳巷十ニ.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(十二月「狐舞」)
【十二月(狐舞)
「此としもきつね舞せてこへにけり」の句と、かしこまった狐舞の図で、十二か月月次の書画をしめくくっている。最終図として「抱一書畫一筆」の署名も加えられている。】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

 この抱一の描く「狐舞い図」は、白狐の面をかぶり、赤熊(しゃぐま)という真っ赤な毛の鬘をつけ、錦の衣装で幣(ぬさ)を肩にし、右手で鈴を振って厄払いの舞いをしている、妓楼の座敷などで演じている「かしこまった狐舞の図」というイメージであろう。

 此(この)としもきつね舞せてこへにけり 抱一(「吉原月次風俗図・十二月「狐舞」)

この抱一の句に関して、デノテーション(裏の意味ではなく、文字通りの直接的な意味)やコノテーション(言外の意味・暗示的意味など)などの詮索は無用である。

 酉の市はやくも霜の下りしかな   久保田万太郎
 くもり来て二の酉の夜のあたゝかに 同上
 三の酉しばらく風の落ちにけり   同上
 此(この)としもきつね舞せてこへにけり 酒井抱一

(追記一)「吉原・狐舞い」関連メモ

北斎・狐舞い.jpg

葛飾北斎画『隅田川両岸一覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533332

刊本(木版色刷)全三冊上・中・下  享和元年刊行  葛飾北斎画 上中下各8丁の美麗彩色画に狂歌(狂歌絵本) 上に壷十楼成安、序に北斎 此頃隅田川両岸の勝地を模写し、これに仙鶴堂の勧めにより歌をそえている。 本書は、隅田川両岸の風景や賑いを色刷りの版画で描いたもので、遊女から職人まで描かれており、江戸の諸相を知ることができる。

「其以前は知らず。新吉原に限り、年越大晦日に獅子舞は壱組もなく、狐の面をかぶり、幣と鈴を振り、笛太鼓の囃子にて舞こむ。是を吉原の狐舞とて、杵屋の長唄の中にも狐舞の文句をものせしあり。抱一上人が吉原十二ヶ月の画中又此の狐舞を十二月に画かれたり。狐は白面にして、赤熊の毛をかむり錦の衣類をつけたるまま、いとも美事なり。世間の不粋は、当所大晦日の狐舞を見しものなしとなり」(『絵本風俗往来』)

『絵本風俗往来』等によると、吉原という町には獅子舞では無く「狐舞ひ」が現れ、笛や太鼓の囃子を引き連れ、遊女たちを囃し立て、追いかけまわしたとされている。遊女たちの間では、この狐に抱きつかれてしまうと子を身ごもるとの噂があり、身ごもっては商売ができない遊女たちは、おひねり(「御捻り」の意味は神社や寺に供えたり他人に与えたりするために、小銭を紙にくるんでひねったもののこと。)を撒いて抱きつかれるのを防いだという、一種の鬼ごっこのようなものが「狐舞ひ」のルーツとなっている。


山東京伝・狐舞い.jpg

Fox Dance in the Yoshiwara, from the album Spring in the Four Directions (Yomo no haru) 四方の巴流 吉原の狐舞
Japanese Edo period 1796 (Kansei 8)
Artist Kitao Masanobu (Santô Kyôden) (Japanese, 1761–1816)
(ボストン美術館蔵)
https://www.mfa.org/search?search_api_views_fulltext=11.14987%2C+11.14989&=Search

狂歌集『四方の巴流』(作者 鹿都(津)部真顔〔編〕、山東京伝〔ほか画〕)

『四方の巴流(よものはる)』(狂歌堂真顔撰)
狂歌堂真顔による狂歌春興帖(寛政七年に大田南畝の四方赤良から四方姓を継ぐ)。題簽「四方の巴流」。「五明楼花扇」(吉原江戸町一丁目扇屋抱え花扇)による扉書、「路考」(三代目瀬川菊之丞)、「市川団十郎」(五代目市川団十郎)の挿絵とともに、京伝による挿絵と狂歌一首が載る。


歌麿・花扇.jpg

喜多川歌麿筆「高名美人六家撰_扇屋花扇」(東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0028221

花扇(はなおうぎ)は、吉原遊廓の遊女屋、扇屋の高級遊女の源氏名です。この名は代々襲名されていますが、この絵をはじめ、歌麿の描く花扇は、大部分が四代目です。四代目の花扇は、書をよくし、酒を好んだと伝えられていますが、寛政6年に客と駆け落ちしてしまいました。すぐに連れ戻されますが、駆け落ち直後に出されたと思われるこの絵の後摺りでは、名を出すことを避けてか、花扇の名が「花」とされています。喜多川歌麿は、天明・寛政期(1781〜1801)の浮世絵の黄金時代を代表する絵師で、美人画のシリーズものの名作が多数あります。

https://www.jti.co.jp/Culture/museum/collection/other/ukiyoe/u3/index.html

(追記二)「抱一・鵬斎・文晁と七世・市川団十郎」関連メモ

【酒井抱一の『軽挙館句藻』の文化十三年のところに、  
正月九日節分に市川団十郎来たりければ、扇取り出し発句を乞ふに、「今こゝに団十郎や鬼は外」といふ其角の句の懸物所持したる事を前書して、
  私ではござりませんそ鬼は外   七代目三升
折ふし亀田鵬斎先生来りその扇に
  追儺の翌に団十郎来りければ
  七代目なを鬼は外団十郎     鵬斎
谷文晁又その席に有て、其扇子に福牡丹を描く、又予に一句を乞ふ
  御江戸に名高き団十郎有り
  儒者に又団十郎有り
  畫に又団十郎有り
  その尻尾にすがりて
 咲たりな三幅対や江戸の花     抱一    】
(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達・渥美国泰著』)
 
(追記三)「抱一と吉原そして駐春亭(宇右衛門)・八百善(八百屋善四郎)・向島百花園(佐原鞠塢)」関連メモ

(抱一と吉原)

【けれども薄暮のころになると、筆を置き、あんぽつ駕籠に揺られて吉原へ行くのが例であった。一年中一夕でもひと廻り廓中を廻ることをやめたことはなかった。廓中いたるところ、花魁、楼主、幇間、歌妓、遣手、禿にいたるまで、抱一の知人でない者はいなかった。そのうえ傾城の女弟子さえ数多あるので、抱一にとってはこの別天地はわが家のごとき思いがあったのであろう。遊女の年季がすんで身を寄せるところがない者が、雨華庵へ来て、居候していることがたびたびあった。それを抱一自ら媒介して知己や門弟にめあわせた者も十余人におよんだくらいであった。 】(『本朝画人伝巻一・村松梢風』所収「酒井抱一」)

(抱一と駐春亭宇右衛門)

【毎日夕景になると散歩に出掛ける廓の道筋、下谷龍泉寺町の料亭、駐春亭の主人田川屋のことである。糸屋源七の次男として芝で生れ、本名源七郎。伯母の家を継いで深川新地に茶屋を営む。俳名は煎蘿、剃髪して願乗という。龍泉寺に地所を求めて別荘にしようとしたところ、井戸に近辺にないような清水が湧き出して、名主や抱一上人にも相談して料亭を開業した。座敷は一間一間に釜をかけ、茶の出来るようにしてはじめは三間。風呂場は方丈、四角にして、丸竹の四方天井。湯の滝、水の滝を落として奇をてらう。(中略)上人が毎日せっせと通っていたわけがこれで分かる。開業前からの肩入れであったのである。「料理屋にて風呂に入る」営業を思いつき、「湯滝、水滝」「浴室の内外額は名家を網羅し」「道具やてぬぐいのデザインはすべて抱一」】「鉢・茶器類は皆渡り物で日本物はない」当時としては凝った造り、もてなしで評判であったろう。これもすべて主人田川屋の風流才覚、文人たちの応援があったればこそである。 】(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達・渥美国泰著』)

 ◯田川屋(料理屋)
 △「田川屋料理  金杉大恩寺
    風炉場は浄め庭に在り  酔後浴し来れば酒乍ち醒む
    会席薄(ウス)茶料理好し  駐春亭は是れ駐人の亭
 □「下谷大恩寺前 会席御料理 駐春亭宇右衛門」

http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/e-yougo/yougo-edomeibutu-tenpou7.html

☆ 上人が毎日せっせと「吉原」へ歩を向けたのは、この駐春亭で、夕食をとり、風呂に入
るのが、主たる目的であったのかも知れない。(yaha memo)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/

「抱一の吉原通いは終生続き、山谷の料亭、駐春亭主人の田川氏の聞き書きに多く基づく『閑談数刻』(東京大学総合図書館)という資料は、抱一が吉原で贔屓にした遊女として、大文字屋の一もと、松葉屋半蔵抱えの粧(よそおい)、弥八玉屋の白玉、鶴屋の大淀などの名前を挙げている。このうち、粧は音曲を好まず、唐様の書家の中井董堂から書、広井宗微から茶、抱一から和歌・発句を学んだという才色兼備の遊女で、蕊雲(ずいうん)、文鴛(ぶんおう)という雅号を持っていた。抱一は彼女のために年中の着物の下絵を描いたという。」   

『閑談数刻』(東京大学総合図書館)は、駐春亭宇右衛門の聞き書きによるものなのである。

(抱一と八百屋善四郎)

【福田屋といい、新鳥越二丁目に住み、俳諧を好み、三味線も巧みであった。なかなかの文学趣味もあって端唄を作詞し、「江戸鳶」には自身で三味線の手も付けたという。またつくる発句は何れも都会人好みの洒落た句で、才人ぶりを発揮していた。一代で築いた料理屋としての名は江戸中に轟いていて、「料理見世、深川二軒茶屋、洲崎ますや、ふきや町河岸打や、向じま太郎けの類なり。近頃にいたり、追々名高き料理見世所々に多く出来る。八百善など、一箇年の商ひ二千両づゝありと云う。新鳥越名主の物語なり」などと、青山白峰の『明和誌』に載る八百善は宝暦の頃の開業といわれる。いわば、江戸料理屋のはしりである。吉原の道筋でもあり、風流人や富商などの客筋が絶えず、いきおい高級料理の名を高めた。(以下略 )  】(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達・渥美国泰著』)

◯八百善(料理屋)
△「八百善仕出  新鳥越 
    八百善の名は海東に響く        年中の仕出し太平の風
    此の家の塩梅の妙なるを識らんと欲せば 請ふ見よ数編の料理通」
□「新鳥越二丁目 御婚礼向仕出し仕候 御料理 八百屋膳四郎」
◎「八百善の家に余慶の佳肴あり」(一〇三6)
 〔蜀山人狂歌〕「詩は五山役者は杜若傾はかの藝者はおかつ料理八百善」(『大田南畝全集』⑲279(書簡225)
〈当代の人気者、菊池五山・岩井半四郎・遊女かの・芸者お勝。『料理通』(文政五年刊)の序文は南畝が蜀山人名で書いている〉

http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/e-yougo/yougo-edomeibutu-tenpou7.html

八百屋善四郎著『料理通(初編)』 文政五年(一八二二)刊 

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-28

(抱一と佐原鞠塢=きくう・「向島百花園」)

佐原鞠塢.jpg

佐原鞠塢肖像、「園のいしぶみ」より

http://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/siryou/kyoudobunka/tenzi/h16/kikakuten_hyakkaen.html

【百花園の開園者、佐原鞠塢(きくう)
百花園を開いた佐原鞠塢は、奥州仙台の農民の出で、俗称を平八といった。明和元年(1764年)生まれという説があるが不詳。天明年間(1781年から1789年)に江戸に出てきて、中村座の芝居茶屋・和泉屋勘十郎のもとで奉公した。その後、財を蓄え、それを元手に寛政8年(1796年)頃、日本橋住吉町に骨董屋の店を開き、名を北野屋平兵衛(北平とも)と改めた。芝居茶屋での奉公、骨董商時代の幅広いつき合いがもとで、当代の文人たちとの人脈を形成し、その過程で自らも書画・和歌・漢詩などを修得した。鞠塢は、商才のある人であったらしく、文人たちを集めて古道具市をしばしば開催したが、値をあげるためのオークション的な商法が幕府の咎めを受けたという。
 しばらくの間、本所中の郷(現向島1丁目付近)にいたが、文化元年(1804年)頃に剃髪して、「鞠塢菩薩」の号を名乗った。この頃、向島にあった旗本・多賀氏の屋敷跡を購入し、ここに展示で紹介する著名な文人達より梅樹の寄付や造園に協力を仰ぎ、風雅な草庭を造ったのが百花園の起こりである。園は梅の季節だけでなく、和漢の古典の知識を生かして「春の七草」「秋の七草」や「万葉集」に見える草花を植えたため、四季を通じて草花が見られるようになり、いつしか梅屋敷・秋芳園・百花園などと呼ばれるようになった。園の経営者としても鞠塢の才能はいかんなく発揮され、園内の茶店では、隅田川焼という焼き物や「寿星梅」という梅干しなどを名物として販売。また、園内で向島の名所を描きこんだ地図を刷り人々に頒布して、来園者の誘致を図り、次第にその評判が高まっていった。天保2年(1931年)8月29日に死没。編著書に漢詩集「盛音集」、句集「墨多川集」「花袋」のほか、「秋野七草考」「春野七草考」「梅屋花品」「墨水遊覧誌」「都鳥考」などがある。  】

(追記三)「抱一と河東節」 

【抱一は声曲の中では当時の通人の多くがそうであったように河東節(かとうでし)を好み、しばしば仲間と会を催した。河東の新曲を幾つか作り、「青すだれ」「江戸うぐいす」「夜の編笠」「火とり虫」等、抱一作として後代にのこっている曲も幾つかある。 】(『本朝画人伝巻一・村松梢風』所収「酒井抱一」)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-07

(追記) 酒井抱一作詞『江戸鶯』(一冊 文政七年=一八二四 「東京都立中央図書館加賀文庫」蔵)
【 抱一は河東節を好み、その名手でもあったという。自ら新作もし、この「江戸鶯」「青簾春の曙」の作詞のほか、「七草」「秋のぬるで」などの数曲が知られている。平生愛用の河東節三味線で「箱」に「盂東野」と題し、自身の下絵、羊遊斎の蒔絵がある一棹なども有名であった。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説一〇一」(松尾知子稿)」) 
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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その二十一)  [酒井抱一]

その二十一 江戸の粋人・抱一の描く「その十一 吉原月次風俗図(十一月・酉の日)」

花街柳巷十一.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(十一月「酉の日」)
【 十一月(酉の日)
「酉の日や数の寶と鷲つかみ」の句に、酉の市で買った縁起物の熊手を描く。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

酉の市.jpg

歌川広重画「名所江戸百景 浅草田甫酉の町詣」(絵師:広重 出版者:魚栄 刊行年:
安政四=一八五七):国立国会図書館蔵(「錦絵でたのしむ江戸の名所)  
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail267.html

 広重の「名所江戸百景」は、安政三年(一八五六)から同五年(一八五八)にかけて制作された連作浮世絵名所絵(全一一九枚)で、上記の「浅草田圃酉の町詣」は「冬の部(一〇二)」の「吉原妓楼より見た風景:背後の森は正燈寺」である。
 この図は、吉原妓楼の人気の無い部屋から猫が、浅草長国寺境内社の鷲(おおとり)神社に、十一月の酉の日に参詣する行列を見ているものである。十一月最初の酉の日は「一の酉」、次は「二の酉」、さらに、「三の酉」がある年は火災が多いとか、吉原遊郭に異変があるなどの俗信が言い伝えられている。
 以前は「酉の祭(とりのまち)」と呼ばれていたものが、その「祭」に「市」が立って、「酉の市(まち・いち)」が一般的な呼称となっている。広重は、この「名所江戸百景」の他にも、江戸のガイドブックとも言える『絵本江戸土産』(第六編)の中でも「浅草酉の町」と題して、下記のような隅田川方面からの鷲大明神に参詣する群衆を描いている。
 そこに、次の文章が書かれている。

「浅草大音寺前に在り日蓮宗長國寺に安置したまふ鷲大明神と世にはいへど、実は破軍星を祀りしなりとぞ、十一月の酉の日には参詣の諸人群衆なし、熊手と唐の芋をひさぐを当社の例いとす。」

酉の市二.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション『絵本江戸土産』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8369311?tocOpened=1  

 縁起物の熊手も色々の種類があり、時代とともに形も飾り物も変わってきている。江戸中期より天保初年頃までは柄の長い実用品の熊手におかめの面と四手をつけたもので、上記の広重の『絵本江戸土産』での左の熊手のものは、その種のものであろう。
 冒頭の抱一の図柄は、その長い柄の熊手(商売繁盛を掻っ込む)と唐(頭)の芋(八頭を篠で輪にしたもの=子孫繁栄)を、人物を一切排除し、また、熊手などもお多福などの飾り物をオフリミットして、句(発句)と画(図柄)とを、「付かず離れず」の、連歌・俳諧の付合(付け合い)の要領に意を用いている。

  酉の日や数の寶と鷲つかみ   抱一

 季語は「酉の日」(酉の市・酉の町詣・一の酉・二の酉・三の酉・熊手市など)、「数の宝」は、「数多の宝」の意、そして、この「鷲つかみ」は、「鷲(おおとり)神社」と「鷲掴み=手のひらを大きく開いて荒々しくつかむこと」を掛けての用例であろう。
 句意は、「十一月の酉の市、熊手やお福面やら数多の縁起物を、鷲(おおとり)大明神に因んで、鷲(わし)掴みしよう」というようなことであろう。
 この「酉の市」関連の句としては、「抱一の画、濃艶愛すべしといえども、俳句に至っては拙劣見るに堪えず」と酷評した正岡子規の作句例が極めて多い。また、浅草生まれの、江戸情緒豊かに、芥川龍之介をして「東京の生んだ<嘆かひ>の発句」と評された、久保田万太郎に佳句が多い。

  お宮迄行かで歸りぬ酉の市   正岡子規
  お酉樣の熊手飾るや招き猫     同上
  世の中も淋しくなりぬ三の酉   同上
  傾城に約束のあり酉の市      同上
  傾城の顏見て過ぬ酉の市      同上
  吉原てはくれし人や酉の市    同上
  吉原を始めて見るや酉の市     同上  
  夕餉すみて根岸を出るや酉の市  同上
  女つれし書生も出たり酉の市    同上
  子をつれし裏店者や酉の市     同上
  時雨にもあはず三度の酉の市    同上
  畦道や月も上りて大熊手      同上
  縁喜取る早出の人や酉の市     同上
  遙かに望めば熊手押あふ酉の市 同上
  酉の市小き熊手をねぎりけり    同上
  雜鬧や熊手押あふ酉の市     同上
  めッきりとことしの冬や酉の市  久保田万太郎
  外套の仕立下しや酉の市      同上
  提灯のちやうちんや文字酉の市   同上
  松葉屋の女房の円髷や酉の市    同上
  酉の市はやくも霜の下りしかな   同上
  龍泉寺町のそろばん塾や酉の市   同上
  くもり来て二の酉の夜のあたゝかに 同上
  たかだかとあはれは三の酉の月   同上
  三の酉しばらく風の落ちにけり   同上
  三の酉つぶるゝ雨となりにけり   同上
  二階よりたまたま落ちて三の酉   同上


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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その二十)  [酒井抱一]

その二十 江戸の粋人・抱一の描く「その十 吉原月次風俗図(十月・時雨)」

抱一・吉原・十月.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(十月「時雨」)
【 十月(時雨)
時雨にまじって紅葉の楓の葉が二、三飛ぶ図に、「飛ふ駕やしくれくる夜の膝かしら」と「来ぬ夜なく千鳥や虎か裾もよふ」の二句が添えられる。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

  飛ぶ駕(かご)やしぐれくる夜の膝がしら 抱一(「吉原月次風俗図(十月・時雨)」)
  来ぬ夜なく千鳥や虎が裾もよふ       抱一( 同上 ) 

 この両句は、書画の「対幅(ついふく)」(一対に仕立てられた書画の掛け物)形式になっていて、一句目が上に、二句目が下に書かれている。図柄は、「小夜時雨に紅葉の楓の葉が二三枚飛び散っている」ものとなっている。
 時雨は、「朝時雨・夕時雨・小夜時雨・村時雨・北時雨・横時雨」などの時分や態様によるものの他、比喩的な時雨(偽物の時雨)の「川音の時雨・松風の時雨・木の葉の時雨・涙の時雨・袖の時雨・袂の時雨」も、連歌や俳諧の世界では季語として認知されている。
 一句目の時雨(「しぐれくる夜の」・初冬)は、「夜の時雨・小夜時雨」で、二句目は「千鳥」(「小夜千鳥」・三冬)の句だが、下五の「虎が裾もよふ」が「虎が雨」(「虎が涙雨」=曽兄弟の仇討の虎御前の涙雨=仲夏)を言外に匂わせている。
 そして、一句目は、本歌取り(和歌などを念頭に置いての句作り)の句というよりも、本句取り(俳諧の句などを念頭においての句作り)の句という雰囲気である。

  山城へ井手の駕籠かるしぐれ哉  芭蕉(『蕉尾琴』) 
  あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声  其角(『猿蓑』)

 この一句目が、本句取りの句の雰囲気を有しているのに比して、二句目の句は、本歌取りの句の雰囲気である。

  千鳥鳴く佐保の河瀨のさざれ浪
    やむ時もなしわが恋ふらくは(大伴坂上郎女『万葉集・巻六』)
  思ひがね妹がり行けば冬の夜の
       川風さむみ千鳥鳴くなり  (紀貫之『拾遺集・巻四』)

 その上で、この一句目と二句目とを併せ鑑賞して行くと、京都島原の遊郭内に不夜庵(俳諧)を主宰し、与謝蕪村と交流の深かった炭太祇の、次の句などが想起されて来る。

   行く秋や抱けば身に添ふ膝頭   (『太祇句選』秋)
   傘焼し其の日も来けり虎が雨   (『同上』夏)
   行く女袷着なすや憎きまで    (『同上』夏) 
   しぐるゝや筏の棹のさし急ぎ   (『同上』冬)
   うぐひすのしのび歩行や夕時雨  (『同上』冬)
   ちどり啼く暁もどる女かな    (『同上』冬) 
   年とるもわかきはおかし妹が許  (『同上』冬) 

 ここで、この一句目と二句目との、デノテーション(裏の意味ではなく、文字通りの直接的な意味)的な句意は、次のとおりとなる。

   飛ぶ駕(かご)やしぐれくる夜の膝がしら 

「時雨の夜に、(待ち人に逢うために)駕籠を飛ばして、その駕籠の中で丸くなって膝頭を抱えている。」

   来ぬ夜なく千鳥や虎が裾もよふ 

「(待ち人が)来ない夜に鳴く千鳥は、『曽我兄弟の仇討』で、愛する人を失った虎御前の涙で裾までも濡らしたように悲しげに聞こえる。」

 そして、この両句を、一対の句と解すると、それは、和歌における「贈答歌」(贈句と答歌=反歌)の構成になろう。連歌・俳諧では「対句付け・相対付け」という「長句(五七五)と短句(七七)」の付合いのルールがあるが、発句(長句)と発句(長句)との場合は、「贈答歌」に倣い「贈答句」(あるいは「二句唱和」)の世界のものなのと解して置きたい。
そして、これらのルールは、「贈歌(贈句=前句)」の「言葉などをうまく織り込み、さらに、新味を加えて切り返す」のが「答歌(答句=付句)」のポイントということになろう。

   飛ぶ駕(かご)やしぐれくる夜の膝がしら (贈句=前句)
   来ぬ夜なく千鳥や虎が裾もよふ      (答句=付句) 

 この「贈句」は男性の句の感じで、この男の「くる夜」に対して、「答句」の方は男を待っている女性の感じで、「来ぬ夜」で受けている。そして、「贈句」の「しぐれ」(初冬)に対して「千鳥」(三冬)で応じ、「贈句」の「膝がしら」に対して、「答句」は、何とも、造語的な「虎が裾もよふ」(「虎が雨(?)」+「裾時雨(?)+「雨模様(?)+「虎模様(?)」)と、切り返している雰囲気なのである。
 として、この一対のデノテーション的句意は、次のとおりとなる。

【(贈句=男)時雨の夜、恋人に逢いたいと、駕籠を飛ばしています。その駕籠が余りにも揺れますので、必死に背を丸くして膝頭を抱えています。
(答句=女)待てども待てども貴方は来ない。外の闇夜で千鳥が鳴いています。その千鳥の鳴き声は、『虎が雨』とも『涙の裾時雨』とも聞こえてきます。 】

 そして、これらのコノテーション(言外の意味・暗示的意味など)的句意は、この一対のデノテーション的句意の、その男を「抱一自身」、そして、その女を「抱一の相方(小鶯女史)」とすると、実に、臨場感溢れる、抱一の自作自演の「贈答句」となって来る。
 その句意は、上記の句意に、下記のアドレスで紹介した、次の「墨梅図」(抱一画、小鶯女史賛)関連(再掲)のものを加味することになろう。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-01

(再掲)

紅梅図.jpg

酒井抱一筆「紅梅図」(小鸞女史賛) 一幅 文化七年(一八一〇)作 細見美術館蔵
絹本墨画淡彩 九五・九×三五・九㎝
【 抱一と小鸞女史は、抱一の絵や版本に小鸞が題字を寄せるなど(『花濺涙帖』「妙音天像」)、いくつかの競演の場を楽しんでいた。小鸞は漢詩や俳句、書を得意としたらしく、その教養の高さが抱一の厚い信頼を得ていたのである。
 小鸞女史は吉原大文字楼の香川と伝え、身請けの時期は明らかでないが、遅くとも文化前期には抱一と暮らしをともにしていた。酒井家では表向き御付女中の春條(はるえ)として処遇した。文化十四年(一八一七)には出家して、妙華(みょうげ)と称した。妙華とは「天雨妙華」に由来し、『大無量寿経』に基づく抱一の「雨華」と同じ出典である。翌年には彼女の願いで養子鶯蒲を迎える。小鸞は知性で抱一の期待によく応えるとともに、天保八年(一八三七)に没するまで、抱一亡きあとの雨華庵を鶯蒲を見守りながら保持し、雨華庵の存続にも尽力した。
 本図は文化六年(一八〇九)末に下谷金杉大塚村に庵(後に雨華庵と称す)を構えてから初の、記念すべき新年に描かれた二人の書き初め。抱一が紅梅を、小鸞が漢詩を記している。抱一の「庚午新春写 黄鶯邨中 暉真」の署名と印章「軽擧道人」(朱文重郭方印)は文化中期に特徴的な踊るような書体である。
 「黄鶯」は高麗鶯の異名。また、「黄鶯睨睆(おうこうけいかん)」では二十四節気の立春の次候で、早い春の訪れを鶯が告げる意を示す。抱一は大塚に転居し辺りに鶯が多いことから「鶯邨(村)」と号し、文化十四年(一八一七)末に「雨華庵」の扁額を甥の忠実に掲げてもらう頃までこの号を愛用した。
 梅の古木は途中で折れているが、その根元近くからは新たな若い枝が晴れ晴れと伸びている。紅梅はほんのりと赤く、蕊は金で先端には緑を点じる。老いた木の洞は墨を滲ませてまた擦筆を用いて表わし、その洞越しに見える若い枝は、小さな枝先のひとつひとつまで新たな生命力に溢れている。抱一五十歳の新春にして味わう穏やかな喜びに満ちており、老いゆく姿と新たな芽吹きの組み合わせは晩年の「白蓮図」に繋がるだろう。
 「御寶器明細簿」の「村雨松風」に続く「抱一君 梅花画賛 小堅」が本図にあたると思われ、酒井家でプライベートな作として秘蔵されてきたと思われる。

(賛)

「竹斎」(朱文楕円印)
行過野逕渡渓橋
踏雪相求不憚労
何處蔵春々不見惟 
聞風裡暗香瓢
 小鸞女史謹題「粟氏小鸞」(白文方印)    】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説96(岡野智子稿)」)

 この小鸞女史の漢詩の意などは、次のようなものであろう。

行過野逕渡渓橋(野逕ヲ過ギ行キ渓橋ヲ渡リ →  野ヲ過ギ橋ヲ渡リ)
踏雪相求不憚労(相イ求メ雪踏ムモ労ヲ憚ラズ → 雪ノ径二人ナラ労ハ厭ワズ) 
何處蔵春々不見惟(何處ニ春々蔵スモ惟イ見ラレズ → 春ガ何処カソハ知ラズ) 
聞風裡暗香瓢(暗裡ノ風ニ聞ク瓢ノ香リ → 暗闇ノ梅ノ香ヲ風ガ知ラスヤ)

(追記)上記の小鶯女史の漢詩(賛)について、『もっと知りたい 酒井抱一(玉蟲敏子著)』では、次のとおりの和訳されている。

 野逕(やけい)を行き過ぎ   渓橋(けいきょう)を渡る
 雪を踏み 相求(もとむ)るに 労を憚(はばか)らず 
 何処(いずこ)か春を蔵さん  春見へず
 惟(た)だ聞く 風裡(ふうり)暗香(あんこう)の瓢(ひょう)

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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その十九)  [酒井抱一]

その十九 江戸の粋人・抱一の描く「その九 吉原月次風俗図(九月・干稲)」

干稲二.jpg

抱一筆「花街柳巷図巻」のうち「九月(干稲)」
【九月(干稲)
吉原遊郭は江戸の北郊に位置し、周囲は田で囲まれていた。収穫の時期には稲を架けて干す寂びた田園の風情も、二階座敷から望み見ることができたのである。賛は「京町あたりの奥座敷からさしのそけは 鷹も田に居馴染むころや十三夜」。 】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」

     京町あたりの奥座敷からさしのぞけば
   鷹も田に居馴染むころや十三夜    抱一「花街柳巷図巻・九月(干稲)」

 この句の前書きの「京町(一丁目)」には、下記のアドレスなどで度々紹介している加保茶元成(大文字屋市兵衛)の妓楼「大文字屋」が見世を構えている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23

 『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』では、「楼主と
加保茶元成(初代・大文字屋市兵衛)」などについて、下記のとおり紹介している。

【 楼主は妓楼の経営のトップで、忘八(ぼうはち)と呼ばれる。『吉原大全』によると、その由来は、仁・義・礼・智・忠・信・考・悌といった八つの徳目を忘れさせるほど面白い場所を提供する人ということにな っているが、実際には遊女たちをこき使い、遊客から金をむしり取る、八つの徳目を忘れた人非人という、さげすみの意味も含まれていたらしい。大文字屋の初代楼主・市兵衛は伊勢から江戸へ出て、吉原で一旗上げようとやってきた人で、初めはお歯黒溝(どぶ)沿いに河岸見世を開くも、なんとか五丁町に進出したいと遊女の食事をすべて安いカボチャにして、経費を節減。ヒドイ! しかし、これが功を奏して、見事京町一丁目に店を構えたため、「カボチャ」とあだ名された。当時子供たちの間で流行っていた歌に「ここ京町大文字屋のカボチャとて、その名を市兵衛と申します。せいが低くて、ほんまに猿まなこ、かわいいな、かわいいな♪」とあるように、ユニークな外見だったよう。名物社長といったところか。ちなみに、彼は園芸を愛する文化人でもあり、跡を継いだ二代目も加保茶元成のペンネームで天明狂歌壇の一翼を担う教養人だった。花魁を中心に見世をいかにプランディングしてゆくか手腕を問われる妓楼の経営には、情緒的価値を理解するセンスが求められたのだ。 】(『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』)

 ここに出て来る大文字屋の初代楼主・(村田)市兵衛は、安永九年(一七八〇)、抱一が二十歳の時に亡くなっている。抱一と親交の深かったのは、跡を継いだ二代目・村田市兵衛(狂歌名・加保茶元成<一世>)で、大田南畝(狂歌名・四方赤良)、そして、吉原出身の版元・蔦屋重三郎(狂歌名・蔦唐丸)と昵懇の間柄で、吉原の狂歌連(グループ)の中心的な人物であった。
 そして、その二代目・村田市兵衛(狂歌名・加保茶元成<一世>)の跡を継いだのが三代目・村田市兵衛(狂歌名・加保茶元成<二世>、画号に加保茶宗園)で、この三代目は抱一の門人
で、江戸節にも優れ、嵯峨様の書もよくし、野呂松人形にも秀でているという多芸多才の人物であった。
 抱一が、狂歌名・尻焼猿人で、蔦屋重三郎版の狂歌絵本『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画)に登場するのは、天明六年(一七八六)、二十六歳の酒井家部屋住みの頃である。
その酒井家部屋住みの抱一が、自前でこれらの吉原の狂歌連に出入りし、そして、自前で吉原遊郭内での遊蕩三昧の日々を送るなどということは土台有り得ないことであろう。その背後には、吉原の三代にわたる妓楼・大文字屋(楼主・村田市兵衛、狂歌名・加保茶元成)、特に、二代目加保茶元成(狂歌人としては一世)が、そのパトロン(支援者)として控えていたということであろう。
そして、その加保茶元成の背後に控えている大立者が、蔦唐丸(蔦屋重三郎)と四方赤良(大田南畝)の御両人ということになる。

吉原大通会二.jpg

恋川春町画・作『吉原大通会(よしわらだいつうえ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9892509

(『吉原大通会』関連)
https://blog.goo.ne.jp/edomanga/e/1e80b15744cccdfbf5696358b123f7d2

(メモ)

※恋川春町=延享元~寛政元年(一七四四‐八九)、 狂名:酒上不埒(さけのうえのふらち)。
江戸中期の黄表紙作者、狂歌師。駿河小島藩士。寛政の改革を風刺した「鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)」に関わる召喚に出頭せず、その年死んだことから、自殺説も伝えられる。上記の図には登場しない(上記の図は大文字屋(一次会)から菊場屋(二次会:松葉屋の仮名か?)に会場を移しての場面で、その菊場屋の別室で『吉原大通会』を書いているか?)。この『吉原大通会』では、「天狗が化けた通人=天通」として登場している。

蔦唐丸(狂名:つたのからまる)=寛延三~寛政九年(一七五〇‐九七)、蔦屋重三郎、江戸中期の地本問屋、蔦屋の主人。通称蔦重(つたじゅう)。上記の図は「狂歌より、どうか一幕の狂言をお書きください」と硯と紙を差し出している。他の登場人物は全員仮装しているのだが、後から駆けつけて来て普通の格好をしている(普通の格好は「手柄岡持」との二人のようである)。

△加保茶元成(狂名:かぼちゃのもとなり)=宝暦四~文政十一年(一七五四-一八二八)、江戸新吉原の妓楼大文字屋の初代村田市兵衛の養子となる。天明狂歌壇の一翼として活躍し、吉原連を主宰した。上記の図は「人さまに見せない『加保茶元成』振りは、先代が歌って踊ったとおりです」と、顔を覆面で覆っている。この集まりは、当初、加保茶元成の大文字屋での各人が扮装しての狂歌会だったのだが、菊場屋(松葉屋の仮名?)に居た恋川春町と手柄岡持が、二次会にと大文字屋から菊場屋へと場所を移させたようである。

※四方赤良(狂名:よものあから)=寛延二~文政六年(一七四九‐一八二三)、江戸後期の狂歌師。洒落本、滑稽本作者。別号に大田南畝(おおたなんぽ)、蜀山人(しょくさんじん)、寝惚(ねぼけ)先生など。江戸幕府に仕える下級武士。上記の図は、漏斗(ろうと・じょうご)を頭に載せているようである(脳から狂歌を注ぎたい洒落か?)唐丸が「春さんが」と赤良に問い掛けると「春とは誰だ。恋川春町か」と唐丸に問い質している。

※手柄岡持(狂名:てがらのおかもち)=享保二〇~文化一〇年(一七三五‐一八一三)。江戸後期の戯作者。狂歌師。秋田(久保田)佐竹藩士(佐竹藩江戸留守居役)。別号に朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)。寛政の改革の時、君侯の命で筆を絶っている。この『吉原大通会』の主役(「すき成」)として登場し、上記の図の場面は、天通(恋川春町)の神通力で、大文字屋で狂歌会をやっていたメンバーを、「天通とすき成」が居た菊場屋(松葉屋か?)に引き連れて来て、「それがし、つりが『すき成』なれば、「手がらの岡もち」(手柄岡持)と名をつきましょう」との科白を吐いている。普通の格好をしているのは、唐丸と岡持の二人だけで、この二人は、春町(天通)と一緒に、菊場屋(松葉屋?)に居たような感じである。

※大屋裏住(狂名:おおやのうらずみ)=享保十九~文化七年(一七三四‐一八一〇)。江戸中期の狂歌師。号は萩廼屋(はぎのや)。江戸で更紗染屋から貸家を業とした。手柄岡持(朋誠堂喜三二)や酒上不埒(恋川春町)らの属している本町連を主宰している。上記の図は「土の車の吾らまで、かかる時節に大屋裏住」と能「土車」の科白を吐いている。

△腹唐秋人(狂名:はらからのあきんど)=宝暦八~文政四年(一七五八~一八二一)、狂歌を大屋裏住に学び本町連に入り、中井董堂(なかいとうどう)の号で書家としても知られている。上記の図は「俺の着ているのは、竜紋という上等の絹物だ」と嘯いている。

△元木綱(狂名:もとのもくあみ)=享保九~文化八年(一七二四‐一八一一)。江戸後期の狂歌師。湯屋を業とした。狂歌最古参の一人。その門下を落栗連と称した。上記の図は「(赤良の格好を見て)さすがに趣向の人だね。当方は名前のとおり普段のままだ」と頭に手をやっている。

※朱楽菅江(狂名:あけらかんこう)=元文三~寛政一〇年(一七三八‐一七九八)、江戸後期の狂歌師、洒落本作者。江戸生まれた幕臣。上記の図は天神様の格好のようで、清盛風の酒盛入道常閑に向かって、上記の図は「襟巻は良いが、掻巻は似合わないね」とケチをつけている。

※紀定丸(狂名:きのさだまる)=宝暦十~天保十二年(一七六〇-一八四一)、四方赤良の甥。幕臣で精励な能吏で旗本となった。上記の図は「何時も気が定まらず、思案に暮れている」と自嘲している。

※平原屋東作(狂名:へいげんやとうさく)=享保十一~寛政元年(一七二六‐八九)。「平秩東作(へずつとうさく)の名で知られている。内藤新宿で家業の馬宿、たばこ商を営んだ。幕府の事業にも手をそめるが、寛政の改革により、幕府の咎めを受ける。上記の図は「(煎餅袋を逆さに被って)へいげん屋東作にあらず、べいせん屋頓作の座興だ」とソッポを向いている。

大腹久知為(狂名:おおはらくちい)=『徳和歌後満載集(一巻)』(四方赤良編著)に「大原久知位」で一首、『同(九巻)』に「大原久知為」で一首、『同(巻十)』に「大原久ちゐ」で一首、計三首の狂歌が収載されている。上記の図は「おお原くちいから、お茶でいこう。眠い。眠い」とぼやいている。

酒盛入道常閑(狂名:さかもりにゅうどうじょうかん)=未詳。上記の図は「(菅江が常閑の襟巻は褒め、掻巻にはケチを付けたので)菅江の袖頭巾の梅は良いが、水仙はお粗末だ」とお返しをしているようである。

 この恋川春町の自画・自作の黄表紙(絵入りの草双紙)『吉原大通会』は、天明四年(一七八四)、抱一が二十四歳の時に刊行された。その二年後の天明六年(一七八六)に刊行された『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画、蔦屋重三郎版元)の、その天明狂歌壇の名手五十人中の、その冒頭に、抱一は、狂歌名・尻焼猿人の名で、その狂歌と肖像画が掲載されたことなどについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-04-03

 その『吾妻曲狂歌文庫』中の、その天明狂歌壇を代表する五十人の中に、上記の『吉原大通会』の、その十三名の中で、※印を付している方(七名)は収載されている。また、△印を付している方(三名)も、『徳和歌後万歳集』(天明五年=一七八五)には十首以上の狂歌が収載されている。
 残りの三名の方は、一人は蔦唐丸(蔦屋重三郎)で、もうお二人の「大原久知為・酒盛入道常閑」も、いわゆる、天明狂歌の三大家「四方赤良・朱楽菅江・唐衣橘州」を中心とする「天明狂歌壇」の中で、別号などでよく知られている方のように思われる。
 そして、この十三人の中で、いわゆる、松平定信が断行した「寛政の改革」により弾圧された方が、「酒上不埒(恋川春町)・蔦唐丸(蔦屋重三郎)・四方赤良(大田南畝)・手柄岡持(朋誠堂喜三二)・平原屋東作(平秩東作)」と多く、その他の方々も、何らかの余波は受けていることであろう。
 さらに、この『吉原大通絵』の主人公として登場する「すき也」こと、「手柄岡持(朋誠堂喜三二)」は、秋田(久保田)佐竹藩士(佐竹藩江戸留守居役)で、その前任者(天明三年=一七八二・五月交代)が、「佐藤晩得(さとうばんとく)=享保十六~寛政四年(一七三一~九二)、俳号=哲阿弥など、別号に朝四・堪露・北斎など。俳諧は右江渭北門のち馬場存義門」なのである。
 この佐藤晩得が、抱一の後見人のような大和郡山藩主を勤め、俳号・米翁として名高い「柳沢信鴻(やなぎざわのぶとき)=柳沢吉里の次男」と親交が深く、当時、酒井家部屋住みの抱一の後ろ盾のような関係にあり、この晩得が亡くなった追善句集『哲阿弥句藻』に、抱一は跋文を寄せるほど深い絆で結ばれていたのである。
 そして、その佐藤晩得は、吉原で、その俳号を捩っての「朝四大尽(ちょうしだいじん)」と呼ばれ、この『吉原大通会』では、次のクライマックスの場面で、登場しているようである。

吉原大通会・荻江節.jpg

恋川春町画・作『吉原大通会(よしわらだいつうえ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9892509

 この場面は、天通(恋川春町)の神通力で、当時の名のある大通(吉原通いの大通人=お大尽)を一同に集めて、「荻江節」(吉原の遊郭で座敷歌風に三味線に合わせて唄う長唄=めりやす=長唄の短い独吟物)が、その創始者・荻江露友(「おうぎ江西林」の名で登場)によって、その「九月がや」(作詞家・佐藤晩得=朝四=朝四大尽、ここでは「蝶四といふ大通」の名で登場)が披露されている場面のようである。
 上記の図の花魁の右脇の立膝をしている方が、初代荻江露友のようで、その右脇の三味線を弾いているのは芸者衆であろう。そして、その芸者衆から左周りに花魁まで大通(お大尽)衆が並び、中央の荻江露友と正面向きになっている武士風の大通は、蝶四(朝四大尽=佐藤晩得)のように思われる。この場面は、荻江節の初代荻江露友より、自分の作詞した「九月がや」の節付けなどの指導を受けているように解して置きたい。
 そして、この初代荻江露友(作曲家)と佐藤朝四(作詞家)を囲んでの大通(お大尽)衆は、「吝株(しわかかぶ)の貧通(ひんつう)は大費とぞ惜しみける」などの、この『吉原大通会』の作者・恋川春町の文章を見ると、そもそも、この戯作の『吉原大通会』の「大通」は、「大通人」(吉原に精通している大通人)を意味していて、ここでは、「荻江節愛好大通
人」と解した方が、上記の図を理解するのには良いのかも知れない。
 これらのことに関連し初代荻江露友について、下記のアドレスで次のように記述している。

https://www.kyosendo.co.jp/essay/125_tamaya_1/

【初代露友はめりやすの作曲もやっていて、佐竹藩留守居役の佐藤朝四の作詞「九月がや」、山東京伝作詞の「素顔」、大和郡山藩の隠居、柳澤信鴻作詞の「賓頭盧」(びんずる)の節付けをしたことが知られている。】

鷹も田に居馴染むころや十三夜    抱一「花街柳巷図巻・九月(干稲)」
   稲懸けて里しづかなり後の月     蓼太「蓼太句集」

 季語の「十三夜」は「後の月」(晩秋の季語)、子季語として「名残の月、月の名残、二夜の月、豆名月、栗名月、女名月、後の今宵」など。語意は「旧暦九月十三夜の月。八月十五夜は望月を愛でるが、秋もいよいよ深まったこの夜は、満月の二夜前の欠けた月を愛でる。この秋最後の月であることから名残の月、また豆や栗を供物とすることから豆名月、栗名月ともいう。」
 抱一の句と同じ視点(「田・干稲と十三夜」と「干稲・里と後の月」)の句として、蓼太の句(「稲懸けて里しづかなり後の月」)などが上げられよう。
 抱一の句の句意は、デノテーション(裏の意味ではなく、文字通りの直接的な意味)的には、「十三夜の頃になると、鷹も山よりも稲懸けの田が点在する里の方が居馴染んでいるようで、よく見掛けるようになる」というようなことであろう。
 しかし、前書きの「京町あたりの奥座敷からさしのぞけば」や、この賛のある画の「干稲」などからのコノテーション(言外の意味・暗示的意味など)的な句意は、下記のように大きな広がりを有してくるであろう。
そして、この「鷹」には、部屋住み時代の抱一が、吉原という「士農工商の身分的差別もなく、俗界から隔離された聖なる場所(アジール)=公界での交遊・交友の場、そして、そのネットワークの広がり、さらに、新興都市『江戸』の新しい文化の息吹き(浮世絵・文人画・黄表紙・滑稽本・狂歌・俳諧・川柳・歌舞伎・音曲等々)の発信地」での、その切磋琢磨した「遊客」(粋人・通人)の、それらのイメージが隠されているものと解したい。
具体的には、上記で縷々触れてきた『吉川大通会』の、「狂歌通人」(恋川春町・蔦唐丸・加保茶元成・四方赤良・手柄岡持・大屋裏住・腹唐秋人・元木綱・朱楽菅江・紀定丸・平秩東作・大腹久知為・酒盛入道常閑)、そして、「荻江節通人」(荻江露友・佐藤朝四・柳澤信鴻・山東京伝)などのメンバーである。
とすると、この抱一の句のコノテーション的な句意は次のとおりとなる。

「この懐かしい吉原京町・大文字屋の二階の奥座敷から、十三夜の後の月と、その月光の下に広がる干稲などを見ていると、ここで過ごした懐かしい面々の面影が過って来る。既に他界している方が多いが、思い起こせば、寛政の改革などで命を絶った方、筆を断った方、財産を没収された方、手鎖の刑に処せられた方、左遷された方等々、それぞれが、この里の鷹のように、それぞれの土地で、思い思いに、今頃は、居馴染んで過ごしていることであろう。」

(追記一) 抱一をめぐる女性たち (『もっと知りたい 酒井抱一(玉蟲敏子著)』)

 抱一は部屋住みの身分の後、出家遁世したので正式な結婚をしたことはない。下谷大塚村の庵では、元大文字屋の遊女香川とも伝えられている小鶯女史(出家後の法名は妙華尼)と同居し、文政初めに酒井鶯蒲(おうほ)がその養子となったという。鶯蒲が抱一を「御父(トゝ)様」と呼んだので酒井家から窘められたというエピソードを朝岡興禎編著の『古画備考』巻三十五の鶯蒲の条は伝えている。鶯蒲は抱一没後、雨華菴を継承する。
 抱一の吉原通いは終生続き、山谷の料亭、駐春亭主人の田川氏の聞き書きに多く基づく『閑談数刻』(東京大学総合図書館)という資料は、抱一が吉原で贔屓にした遊女として、大文字屋の一もと、松葉屋半蔵抱えの粧(よそおい)、弥八玉屋の白玉、鶴屋の大淀などの名前を挙げている。このうち、粧は音曲を好まず、唐様の書家の中井董堂から書、広井宗微から茶、抱一から和歌・発句を学んだという才色兼備の遊女で、蕊雲(ずいうん)、文鴛(ぶんおう)という雅号を持っていた。抱一は彼女のために年中の着物の下絵を描いたという。   
 鏑木清方筆「抱一上人」(永青文庫)には、そんな女性に囲まれて遊里に耽溺する抱一のイメージが視覚化されている。左右の足のポーズにやや無理があるが、朱壁にもたれて三味線を弾く抱一の眼差しには、一抹の寂寥感が漂っている。
 
抱一上人.jpg

(鏑木清方筆 三幅対の中幅 縦四〇・五㎝ 横三五・〇㎝ 明治四十二年<一九〇九>
  永青文庫蔵 )


(追記二)抱一作「朝顔」(荻江節)

https://www.kyosendo.co.jp/essay/125_tamaya_1/

見しをりのつゆわすられぬ、
あさがほのはなの盛は、
ももとせもかはらぬ今のかたみとて、
むかしかたりにあらばこそ、
見れば、
うつつに水くきのあとは尽せぬ玉菊の、
ひとよふた代ををなしなの、
あいよりいでてなをあをきるりのせかいや、
花のおもか」

「玉菊が描き置し香包ありて、朝顔の花を描きて最しほらかりしを、不図雨花庵(抱一)の大人に見せければ、元来好事といひ常々廓中に入ひたりて画に用ひられて取はやさるる身は人々のすすめも黙止(もだし)がたく、彼香包の色絵より朝顔といふめりやすの唄を作り、名ある画客会合し衆評の上節を付、伊能永鯉もたびたび引出されて、一節伐(ひとよぎり)を合せ、その外鼓弓筝笛尺八つづみ太鼓にいたるまで、名だたる人々一同に合奏して、夜な夜な遊君ひともとの座敷に錬磨しけるが、その後はなばなしく追善の式ありし沙汰を聞ず、伝え聞に、それぞれの配(くばり)もの四季着(しきせ)付届振舞以下弐百両余の失墜あればなり、依て玉菊が墓所を修理して苔提所に於て読経作善いと念頃なりしとかや」


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