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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その十八)  [酒井抱一]

その十八 江戸の粋人・抱一の描く「その八 吉原月次風俗図(八月・俄)」

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酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(八月「俄」)
【八月(俄)
仲秋の名月の下で、吉原俄の余興が楽しまれている。賛は「俄」の題字に、「としとしのことなからおもとか獅々の音頭を聞く度にめつらしく誠に廓中伽羅なり 獅々の坐に直るや月の音頭とり」。】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

   としとしのことなから      (年々のことながら)
   おもとが獅々の音頭を聞く度に  (御許<女衆>が獅子の音頭を聞く度に)
   めつらしく誠に廓中伽羅なり   (珍しく誠に廓中伽羅<極上もの>なり) 
  獅々の坐に直るや月の音頭とり 抱一(「吉原月次風俗図・八月月・俄」)

  この抱一の句意は、「仲秋の名月の八月一杯に繰り広げられ吉原の『俄』の催し物は、誠に極上のもので、男装した芸者衆などが演ずる獅子舞を目の当たりにすると、夜空の月さえ、音頭をとっているような心地がしてくる」というようなことであろう。

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『吉原青楼年中行事(上・下)』(十返舎一九著 : 喜多川歌麿画)
早稲田大学図書館蔵
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01494/wo06_01494_0001/wo06_01494_0001.html  

 喜多川歌麿は、宝暦三年(一七五三)?頃の生まれ、抱一よりも八歳年上で、文化三年(一八〇六)、抱一が四十六歳時の宝井其角百年忌を修する頃に亡くなっている。
この『吉原青楼年中行事』が刊行されたのは、文化元年(一八〇四)で、この年に、歌麿は、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」(大判三枚続)を描いたことがきっかけとなり、手鎖五十日の処分を受け、この刑が死期を早めたともいわれ、没したのはその二年後のことである。
 十返舎一九は、明和二年(一七六五)生まれで、抱一より四歳下で、享和二年(一八〇二)、中村芳中が江戸に出て来て『光琳画譜』を刊行した年に、『東海道中膝栗毛』が大ヒットし、爾来、文化五年(一八二二)まで、二十一年間、その続編を書き続けている。
 このお二人は、抱一・山東京伝・大田南畝・加保茶元就と親交の深かった一大の版元、蔦屋重三郎門であり、歌麿は、その浮世絵師ネットワークの雄である。
 そして、十返舎一九は、その浮世絵師ネットワークと狂歌師ネットワークを交差させた「蔦屋工房」(版元=出版社)に寄宿し、「筆耕・版下書き・挿絵描き」など出版全般に携わり、三十七歳の若さで、滑稽本『東海道中膝栗毛』を大ヒットさせるのである。
 歌麿と十返舎一九の合作は、この『吉原青楼年中行事』(絵本)の他に『聞風耳学問』(黄表紙)がある程度で、その門下の「喜多川月麿」などの合作の方が多く見かけられる。
 さて、この十返舎一九が、その『吉原青楼年中行事』の中で、この「吉原俄」について、次のとおり記述しているようである。

【 毎年八月朔日より、祭式おこなハれて、練物(祭礼時に行われる練り歩く行列のこと)、にわか(俄=「俄狂言」を指し、座敷や街頭などで行われた即興的で滑稽な寸劇など)等を出す事、連綿と怠慢なし(連綿とおろそかにされずに続いている)。此節燈篭客(「玉菊燈篭」見物客)、仁和哥客(「俄」見物客)と号して、恒に倡門(「娼門」=娼家)に履(履物)を納ざるものも、倶に倡行(廓内に来る)せられて、来往の錯乱(入り乱れ)美賤(身分の上下なく)混じ、夜毎に湧出するがごとし。 】(「青楼絵本考---『吉原青楼年中行事』の出版効果---(岩城一美稿)」)

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『吉原青楼年中行事(上)』(十返舎一九著 : 喜多川歌麿画)p29 p30
早稲田大学図書館蔵
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01494/wo06_01494_0001/wo06_01494_0001_p0029.jpg

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01494/wo06_01494_0001/wo06_01494_0001_p0030.jpg

この『吉原青楼年中行事』の「仁和哥(俄)」について、『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』では、現代風に下記のとおり紹介されている。

【 八月いっぱいかけて行われるイベント・俄(にわか)は日中にも出し物があったようで、仲の町の往来が開放されて、一般女性や子供の見学も多かった。俄は現代のハロウィンやコミケを彷彿とさせるコスプレイベント。芸者や幇間(ほうかん)、禿や子供たちといった吉原の裏方関係者が主体となり、歌舞伎の役柄や歴史上の人物、昔話の登場人物などの扮装をして、茶番劇(即興芝居)や練り物、踊り、演奏などの出し物をしながら仲の町を練り歩くパレードだった。 】(『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』)

 この分かり易い記述の、「芸者や幇間(ほうかん)、禿や子供たちといった吉原の裏方関係者が主体となり」というのがポイントで、上記の歌麿の「仁和哥之図」で行くと、「男装の芸者と女装のままの芸者」の獅子頭を持って練り歩く図で、先頭の男装の芸者が拍子木で音頭を打っているのが、抱一の句の「獅々の坐に直るや月の音頭とり」に相応しいような雰囲気を有している。
 しかし、抱一の、この「俄」の図柄は、上記のコスプレイベントで行くと、「禿や子供たち」が主役のようで、ここでも、遊女や芸者衆の「青楼美人群像」をオフリミットし、抱一ならでは俳画風に仕立ているのは、歌麿と好対照をなし、この「吉原月次風俗図」の中でも群れを抜いている印象を深くする。
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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その十七)  [酒井抱一]

その十七 江戸の粋人・抱一の描く「その七 吉原月次風俗図(七月・七夕飾)」

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酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(七月「七夕飾」)
【「乞巧尊」の題字に「袖ふるはくるわの軒や星の竹」の句賛。その下に、色紙形や短冊形、それに瓢箪の形に切った紙片が置かれてある。もとより竿に吊るす七夕飾りのための料紙である。 】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」

【乞巧奠(きこうでん)
「きっこうでん」ともいう。七夕(たなばた)祭の原型で、七月七日の行事。牽牛(けんぎゅう)・織女(しょくじょ)の二星が天の川を渡って一年一度の逢瀬(おうせ)を楽しむ、という伝説が中国から伝わり、わが国の棚機(たなばた)姫の信仰と結合して、女子が機織(はたおり)など手芸が上達することを願う祭になった。『万葉集』に数首歌われているが、持統(じとう)天皇(在位六八六~六九七)のころから行われたことは明らかである。平安時代には、宮中をはじめ貴族の家でも行われた。宮中では清涼殿の庭に机を置き、灯明を立てて供物を供え、終夜香をたき、天皇は庭の倚子(いし)に出御し、二星会合を祈ったという。貴族の邸(やしき)では、二星会合と裁縫や詩歌、染織など、技芸が巧みになるようにとの願いを梶(かじ)の葉に書きとどめたことなども『平家物語』にみえる。 】(「出典:小学館・日本大百科全書(ニッポニカ)」)

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鈴木春信画「七夕飾りをする男女」(豊田市美術館蔵)

 袖ふるはくるわの軒や星の竹  抱一(「吉原月次風俗図(七月・七夕飾)」)

鈴木春信(享保十年〈一七二五?〉- 明和七年〈一七七〇〉)は、蕪村や大雅らと同時代の、抱一らの一時代前の江戸時代中期に、木版多色摺りの錦絵の草創期に一世を風靡した浮世絵師である。
 この春信が没した明和七年(一七七〇)に刊行された『絵本青楼美人合』(彩色摺美濃本五冊・国立国会図書館蔵など)は、吉原の遊女、百六十六名を四季風俗に沿って描かれ、下記のアドレスで、その全貌を見ることが出来る。

https://www.ndl.go.jp/exhibit/50/html/catalog/c054.html  

 上記の「七夕飾りをする男女」の図が、吉原であるかどうかは定かではないが、抱一の上記の句には、ぴったりの感じなのである。
 吉原の妓楼は二階家で、一階は生活スペース、二階が宴会・座敷などのメインスペースである。その二階の軒下の柱に、「星の竹」(七夕竹)をセットし、願い事を書いた短冊や瓢箪形の料紙などを取り付けている図である。
 抱一の句は、「吉原の妓楼(廓)の軒下の七夕飾りの短冊が、あたかも袖を振って、お出で、お出でをしている」ということであろう。そして、その絵図の方は、七夕飾り用の「短冊と瓢箪形の料紙」のみが描かれているということになる。
 これが、下記の安藤(歌川)広重(初代)の「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」では、どうにも様にならない。

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安藤(歌川)広重(初代)画「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」(東京芸術大学蔵)

 この安藤(歌川)広重(初代)画「名所江戸百景」の全貌は、下記のアドレスで見ることが出来る。

https://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2007/collection200707/index.htm   

  七夕は土手から見える紋日也 (『柳多留一二』) 日本堤から吉原の七夕が見える
  日本から京の短冊竹がミへ(『川傍柳一』)日本堤から吉原(京町)の七夕が見える

大門は団扇と虫が入れかわり (『柳多留四』) 吉原の七月の景(夏から秋へ)

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歌川国貞(初代)画「江戸自慢 仲の町燈籠」(部分画) 千葉市美術館蔵
制作年:文政二~四年(一八一九-二一) 技法:大判錦絵揃物 寸法:賛七.二x二五.六cm
【江戸の夏五月から初秋七月頃にかけての行事を画中の額絵に描き、その行事にやつした女性風俗をテーマとした十枚揃である。七月一日より始まり、十三・四日を中休みとし、さらに十五日から七月晦日まで吉原仲の町の茶屋では趣向を凝らした灯籠や作り物が展示されて賑わった。これは享保十一年に亡くなった吉原の遊女玉菊を追善して始められた行事で、図は、暑いこの時期の遊女の風体で、琳派の画家酒井抱一の名のはいったコウモリの絵柄の団扇を持っている。】
http://www.ccma-net.jp/search/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=53895&data_id=3835

 この国貞が描く吉原の花魁が持っている団扇(「蝙蝠」の図)は、抱一の作なのである。この国貞の「江戸自慢 仲の町燈籠」が制作された、「文政二-四年(一八一九~二一)」は、抱一の「五十九歳~六十一歳」の頃で、この文政二年(一八一九)が、先に紹介した『柳花帖』が制作された年なのである(その抱一自身の「跋」文と「蝙蝠」図関連の発句を再掲して置きたい)。

(再掲)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-04-12 【 夜毎郭楼に遊ひし咎か 予にこの双帋へ画かきてよ とのもとめにまかせ やむなくも酒に興して ついに筆とり初ぬ つたなき反古を跡にのこすも憂しと乞ひしに うけかひなくやむなくも 恥ちなから乞ひにまかせ ついに五十有餘の帋筆をつゐやしぬ ときに文政卯としはるの末へにそありける 雨花抱一演「文詮」(朱文重郭方印)  】

8 蝙蝠図    かはほりの名に蚊をうつや持扇   ※「蝙蝠図」(『手鑑帖』)

(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「抱一の内なる世界 姫路市立美術館蔵 酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳花帖』をめぐって:岡野智子稿」)


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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その十六)  [酒井抱一]

その十六 江戸の粋人・抱一の描く「その六 吉原月次風俗図(六月・富士参り図)」

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酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(六月「富士参り図」)
【六月(富士参り) 賛は「水無月一日参詣の人々を見て これよりして御馬かへしや羽織富士」。絵は六月朔日の富士参りの日に参詣の土産物として売られた麦藁蛇と青鬼灯である。麦藁蛇は家に持ち帰って井戸や台所に飾ると虫がわかないと信じられた。 】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

  これよりして御馬かへしや羽織富士 抱一(「吉原月次風俗図(六月・富士参り図)」)
  それよりして夜明烏や蜀魂(ほととぎす)其角(『句兄弟』『五元集』)
  
 抱一の句は、其角の句を念頭に置いて作句していることは明瞭である。しかし、其角の句のパロディ(パクリ=剽窃)そのものかかというと、そうではなく、其角の世界とは異質の世界を、「本句取り」の手法などで、パロディ化(文体・韻律などの特色を一見して分かるように残したまま,全く違った内容を表現して、風刺・滑稽を感じさせるように作り変える手法)を意図している世界のものということになろう。
 このパロディ(パクリ=剽窃)とパロディ化(「本句取り」の手法など)との一線は、極めて、微妙な問題であるが、その分岐点の判定の基準は、其角、その人が、微に入り細に入り論じている『句兄弟(上)』(末尾の「参考」など)などを一つの手掛かりする他は術がないのかも知れない。
「類句・類想句・当類・同巣」等々、このパロディ(剽窃=パクリ)とパロディ化(「本句取り」の手法など)を巡っては、どうにも手の施しようがない。しかし、この問題に正面から取り組んだ先達者としては、其角その人というのも厳然たる事実であろう。
『去来抄』では、其角と凡兆との「等類(類句)と同巣(類似句)」論争があり、「されど兄より生れ勝(まさり)たらん、又格別也」(去来)が一つの基準(「先行句より後発句に新風が見られる」かどうかの基準)との記述が見られるが、その去来の基準も甚だ主観的なものということになる。
 抱一は、自他ともに認める「其角派」の世界での俳諧活動であったことは、その俳諧日誌ともいうべき『軽挙観(館)句藻』、そして、その自撰句集の『屠龍之技』からして、これまた、一目瞭然たるものがあろう。
 その一例として、上記の其角の「それよりして夜明烏や蜀魂(ほととぎす)」は、其角の『句兄弟(上)』での句形で、この「蜀魂(ほととぎす)」は、『五元集』(旨原編)では「郭公(ほととぎす)」の、この句形を抱一は採っていない。
 それ以上に、この「吉原月次風俗図」の「四月・蜀魂(ほととぎす)」と、『句兄弟(上)』の「蜀魂(ほととぎす)」を大書して、この「蜀魂」(「蜀の望帝の魂が化したという伝説から」の「ほととぎす」の異名)を前面に出していることも、抱一が、其角の『句兄弟(上・中・下)』を自家薬籠中にしていることが窺える。

 ここで、其角の「それよりして夜明烏や蜀魂(ほととぎす)」の句意を、「蜀の帝の魂が化したといわれるほととぎすが鳴き、それよりして夜が明けるという。そのほととぎすのように夜明け烏が鳴いている。」(下記「参考一」の句意)とすると、抱一の「これよりして御馬かへしや羽織富士」の句意は、「富士詣の帰りのお馬返しの後ろ姿が『羽織富士』のように見える。その『羽織富士』を背にして、これより、お馬返しの、その足先は吉原へと向いている」というようなことであろう。

 として、この画の、「麦藁蛇と青鬼灯」について触れたい。

(富士詣:仲夏: 富士道者/富士行者/富士禅定/山上詣/富士講/浅間講/お頂上:「冨士登山を行い、富士権現の奥の院に参詣すること。及び駒込・浅草などの富士権現の山開き(陰暦六月朔日)に参詣することをいった。」 )

(江戸浅間祭=えどせんげんまつり:仲夏:浅草富士詣/冨士山開:『栞草』に六月一日として所出し、「江戸浅間の社は、浅草砂利場にあり。これを浅草の富士といふ。また、駒込にも浅間の社あり。また、本所六ツ目やよび高田の馬場、また鉄砲洲等にも同社あり。祭るところ、いずれも駿河に同じ。今日、麦藁にて竜蛇を作り、これを篠(ささ)に付けてひさぐ者多し。参詣の人、これを買ひて土産とす」とある。)

 この『栞草』(江戸幕末の「俳諧歳時記」)に出て来る「江戸浅間祭」の「疫病除け・水あたりよけの免符」として作られたものが「麦藁蛇」で、それが土産品として売られていた。抱一が、この「六月・富士参り図」で描いたものは、この「江戸浅間祭」などの土産品としての「麦藁蛇と青鬼灯」ということになろう。

   富士と吉原は江戸でも近所也 (『柳多留二十』)  浅草の富士
   吉原へ不二の裾から息子抜け (『柳多留五十一』) 浅草の富士
   真桑瓜富士で売るのは月足らず(『柳多留三』)駒込の富士(走り真桑瓜を売る)
   浅草は道中なれた不二まへり (『柳多留四十』)  浅草の富士 
   一日は蛇の道になる衣紋坂  (『柳多留二十四』) 六月一日の麦藁蛇
   不二みやげ舌ったらずのきりぎりす(『柳多留三』) 虫売りも出る
   富士みやげ舌はあつたりなかつたり (『柳多留二十六』)麦藁蛇の舌
   富士みやげ女房からんた事を言ふ(『柳多留五』)  吉原行きを疑う

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『江戸名所図会』「六月朔日富士詣」(「浅草浅間神社」ではなく「駒込浅間神社」)
https://ameblo.jp/benben7887/entry-12384403655.html

(参考)

『句兄弟上(其角著)』(「『句兄弟・上』注解:夏見知章他編著:武庫川女子大学国文研究室)

三十五番
   兄 宇白
 ほとゝぎす一番鶏のうたひけり
   弟 (其角)
 それよりして夜明烏や蜀魂

(兄句の句意)夏の夜明けに、ほととぎすが一声し、そして一番鶏が時を告げた。

(弟句の句意)蜀の帝の魂が化したといわれるほととぎすが鳴き、それよりして夜が明けるという。そのほととぎすのように夜明け烏が鳴いている。

(判詞の要点など)兄の句は、夏の短夜を恨んで、古今和歌集の「夏のよのふすかとすればほととぎすなく一こゑにあくるしののめ」(紀貫之)の風情に連なるものがある。この形は、ほととぎすの伝統的な手法を離れていないけれども、ほととぎすという題は、縦題(和歌の題)、横題(俳諧の題)と分けて、縦題として賞翫されるべきものであるから、横題の俳諧から作句するのは筋が違ってくる。夏の風物詩として感じ入る心を詠むにも、縦題のやさしい風情が見えるように詠むべきものであろう。
  ほととぎす鳴くなく飛ぶぞいそがほし   芭蕉
  若鳥やあやなき音にも時鳥        其角
この句のスタイルは、横題の俳諧から深く思い入れをしてのものである。もし、これらの作句法をよく会得しようとする人は、縦題・横題が入り混じっているにしても、それぞれの句法に背いてするべきものではない。縦題は、花・時鳥・月・雪・柳・桜の、その折々の風情に感興を催して詠まれるもので、詩歌・俳諧共に用いられるところの本題である。横題は、万歳・藪入りのいかにも春らしい事から始まって、炬燵・餅つき・煤払い・鬼うつ豆など数々ある俳諧題を指していうのであるから、縦の題としては、古詩・古歌の本意を取り、連歌の法式・諸例を守って、風雅心のこもった文章の力を借り、技巧に頼った我流の詞を用いることなく、一句の風流を第一に考えてなされるべきである。横の題にあっては、蜀の帝の魂がほととぎすになったという理知的なものでも、いかにも自分の思うことを自由に表現すべきなのである。一つひとつを例にとっての具体的な説明は難しい。縦題であると心得て、本歌を作為なくとって、ほととぎすの発句を作ったなどと、丁度こじつけたような考え方をするのは残念である。句の心に、縦題、横題があるということを知って貰うために、ほんの少し考えを述べたままである。自分から人の師になろうとするものではない。先達を師として、それを模範として、自分を磨こうとするものである。

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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その十五)  [酒井抱一]

その十五 江戸の粋人・抱一の描く「その五 吉原月次風俗図(五月・五月雨)」

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抱一筆「花街柳巷図巻」のうち「五月(五月雨)」
【五月(五月雨)
「竹川もうつ蝉も碁やさつきあめ」の句の下に碁盤と一通の文とが描かれる。無人の室内に打ち捨てられた感のあるそれらが、五月雨が降りつづく梅雨の頃の遊里の寂しさを暗示する。」】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」

 抱一の、「吉原月次風俗図」、そして、「花街柳巷図巻」の、その「賛(句)と画」とは、いわゆる、「連歌・俳諧(連句)」の「付合(付け合い)」のルール(「規則」=(「運び」と「付け」の「物付け」と「余情付け」など)を踏まえていることについては、前回までに触れてきた。そして、その全体の運び(流れ)は、次の通りということについて、触れて来た。

【 一月(漢=「花街柳巷」)→二月(和=「きさらぎ初のうま」)→三月(和=「夜さくら」)→四月(漢=「蜀魂」)→五月(和=「さみだれ」)→六月(和=「富士参り」)→七月(漢=「乞巧奠(きこうでん)」)→八月(漢=「俄(にわか)」)→九月(和=「干稲=稲干す」)→十月(和=「しぐれ」)→十一月(和=「酉の日」)→十二月(和=「狐舞い」)】

 この運び(流れ)を、季語に焦点を合わせると、次のとおりとなる。

【 一月(元日)→二月(初うま)→三月(夜ざくら)→四月(ほととぎす)→五月(さみだれ・さつきあめ」→六月(富士詣で)→七月(七夕飾り)→八月(※俄狂言)→九月(干稲=稲干す)→十月(しぐれ)→十一月(酉の日)→十二月(※狐舞い)  】

 吉原の三大景物(三大廓行事)は、「三月(夜ざくら)・七月(玉菊灯籠)・八月(俄)」である。

    傾廓
  夜ざくらや筥提灯の鼻の穴 (抱一『屠龍之技』「第一こがねのこま」)
  桜迄つき出しに出る仲の町 (『柳多留七』)
    傾廓
  灯籠も鶍(いすか)の嘴(はし)と代りけり(抱一『屠龍之技』「第二かぢのおと」)
  玉菊の魂(たましい)軒へぶらさがり(『柳多留一』)
    俄
  獅々の坐に直るや月の音頭とり(抱一「吉原月次風俗図・八月」)
  灯籠が消へて俄にさわぐ也 (『柳多留四六』)
  祇園ばやしで京町を浮く俄 (『柳多留一三三』)

 抱一の自撰句集『屠龍之技』の前書きに出て来る「傾廓」は、其角の次の句の前書きに由来があるのであろう。

    傾廓
  時鳥暁傘を買わせけり (其角『五元集』)

 この「傾廓」は、「傾城」「傾国」と同じような意であろうか。それとも、「傾城の遊女が居る廓=吉原」の意であろうか。この其角の句は、吉原の朝帰りの句である。抱一の吉原の句は、この種の其角の句に極めて近い。
 なお、上記の「吉原月次風俗図」に出て来る季語のうち、吉原特有のものは、※印の「八月=俄」と「十二月=狐舞い」だけで、その他のものは、連歌・俳諧の主要な季語(季題)ばかりである。

空蝉.jpg

「空蝉」(『源氏物語』)
http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined03.1.html#paragraph1.3   

  竹川もうつ蝉も碁やさつきあめ (抱一「吉原月次風俗図・五月・五月雨」)

 抱一の「吉原月次風俗図」の「五月(五月雨)」画賛の、この句は、どうやら、『源氏物語』の「空蝉」(第三帖)や「竹河」(第四十四帖)などの囲碁の場面に関連しているようである。

「 碁打ち果てて、結(だめ)さすわたり、心とげに見えて、きはぎはとさうどけば、奥の人はいと静かにのどめて、『待ちたまへや。そこは持(せき)にこそあらめ。このわたりの劫(こう)をこそ』など言へど、『 いで、このたびは負けにけり。隅のところ、いでいで』と指をかがめて、『十(とを)、 二十(はた)、三十(みそ)、四十(よそ)』などかぞふるさま、伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ。すこし品おくれたり。』(「空蝉」三段)

「中将など立ちたまひてのち、君たちは、打ちさしたまへる碁打ちたまふ。昔より争ひたまふ桜を賭物にて、『三番に、数一つ勝ちたまはむ方には、なほ花を寄せてむ』と、戯れ交はし聞こえたまふ。 暗うなれば、端近うて打ち果てたまふ。御簾巻き上げて、人びと皆挑み念じきこゆ。折しも例の少将、侍従の君の御曹司に来たりけるを、うち連れて出でたまひにければ、おほかた人少ななるに、廊の戸の開きたるに、やをら寄りてのぞきけり。」(「竹河」第二章七段)

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「竹河」(『源氏物語』)
http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined44.2.html#paragraph2.7  

「竹川もうつ蝉も碁やさつきあめ」の、この「竹川」は、吉原近辺の川の名などと解すると意味不明となって来る。また、この「うつ蝉」を「打つ蝉」などと解すると、これまた迷宮入りする。
 素直に、「竹川」と「うつ蝉」を、吉原の遊女の「源氏名」(妓名)などと解すると、句意が鮮明になり、同時に、拍子抜けするほど、「他愛ない」句ということに気付いて来る。
 句意は、「吉原の遊女二人が、五月雨が続き、お客さんが無く、無聊を慰めるため囲碁に興じている」ということになり、それに対応するように、「碁盤と馴染み客への登楼催促の文」が描かれているということになる。
 その後で、この「竹川」と「うつ蝉」が、『源氏物語』の、囲碁場面の、「空蝉」と「竹河」に由来しているとなると、抱一の、「してやったり」の洒落っ気と、技巧に技巧を凝らした句という思いがして来る。
 そして、これらの抱一の句や、その「賛(句)と画」との付け合いというのは、例えば、其角の、次のような句の世界に極めて近いという印象を深くする。

   時鳥暁傘を買わせけり (其角『五元集』)


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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その十四)  [酒井抱一]

その十四 江戸の粋人・抱一の描く「その四 吉原月次風俗図(四月・蜀魂《ほととぎす》)」

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酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(四月「鏡立て)
【四月(鏡立て)「蜀魂たゝあり明の鏡たて」の句に合せて、室内に鏡立てが一基描かれ、空をほととぎす(蜀魂)が鳴き渡る。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

【 四月の図には、「蜀魂(ほととぎす)たゞあり明の鏡たて」という発句がそえられ、鏡立てと檽子(れんじ)窓、落款と鏡にひっかけた糠袋に点じた朱がなまめかしく、夜明けの静謐さと遊里の色っぽさが表現されています。この図と比較するのによいのは、『狂歌左鞆絵』から取った窪俊満の絵(下図一)です。吉原の二階で、遊女が鏡に向かって髪を結っています。窓の外には蜀魂が一羽います。比較すると、抱一は人間を消しています。しかし、蜀魂を消さなかったのは、描かないとよくわからない絵になるからです。さらに、ダメ押しのように「蜀魂」を大書します。大書した文字を図像のように扱う例は、管見の限りでは一渓宗什筆・狩野常信画「夢一字」図(根津美術館蔵)のようなものがあります。もちろん、画題は荘子の胡蝶の夢です。抱一にも類似作があります。兄忠以(ただざね)と合作した「夢・蝶」図(姫路神社蔵)です(下図二)。

鏡立て.jpg

(図一)窪俊満画『狂歌左鞆絵』(早稲田大学図書館蔵)

夢.jpg

(図二)酒井宗雅(忠以)筆・酒井抱一(忠因)画「夢・蝶」(姫路神社蔵)

 ここで本来見えない「蜀魂」を装飾的な大字で表現し、画面を引き締め、主題は「蜀魂」であると明示されます。これは、屋根ばかりを描いて主題がよく了知けされない正月の図で、画賛には「吉原」とありながら、「花街柳巷」とダメ押しのように大書したのと同理由でしょう。さて、抱一の画賛「蜀魂たゞあり明の鏡たて」は、其角の「蜀魂只有明の狐落(ち)」(『五元集』)を典拠とします。抱一の句は舌足らずで、「蜀魂」と鏡台の結びつきが解りません。舌足らずなのは、名詞に名詞を並べただけの発句という理由があります。では、この発句の場合、取り合わせに問題がありそうです。「蜀魂」と鏡を取り合わせた他の抱一の例から、これらの取り合わせに付与された意味を探りましょう。

 只有明の 鏡にも影ハ残さずほとゝぎす(『句藻』「梶の音」夏之部一九一) 

 上の頭註(前書き)「只有明の」は、「蜀魂鳴きつるかたをながむればただあり明の月ぞのこれる」という名歌を指します。「鏡にも影ハ残さず」とは物理的な問題のみならず、「蜀魂」の鳴き声は、時間の経過を刻むという鏡にも姿を残さないほど非常に短いというわけです。抱一の画面では、鏡がさながら朝ぼらけの月の形状のように描かれている点も興味深い点です。和歌では後朝の恋を主題として、蜀魂は有明の月とよく詠まれます。有明の月は、形状の類似もあって鏡に擬せられた例も多く、漢詩でも鏡は時間の経過を認識させるモチーフであります。
 抱一は「有明の月」を「有明の鏡」と俳諧化しますが、句賛の音律面でのコノテーション(注:言外の意味・暗示的意味など)として取り入れた其角のイメージと相俟って、吉原の遊蕩の雰囲気を演出します。しかし、其角の「蜀魂只有明の狐落(ち)」とは別種の世界を築きあげています。其角句だと、「蜀魂」の声でどんちゃん騒ぎからさめるわけですが、抱一の画賛は「蜀魂」が去った後朝の有明の廓(さと)景色のみならず、夜の明け易さをなげくというイメージの中にあります。
 ここで皆さまのご注意を喚起したいのですが、こういった発句は現代語に翻訳するばあい、非常に難しい。つまり、コノテーション、文化的な含意が占める割合が大きい。名詞に名詞だけで発句になっているのは、こういった文化的なコノテーションに立脚しているからであります。かくして、抱一の発句は成立しています。
 以上のとおり、画面では人物あるいは喧噪に焦点をあてる浮世絵の視線とは一線を劃し、人物が留守模様にされたことで吉原の鄙びた雰囲気に焦点が当てられます。モチーフ面からは煌びやかな行事に筆ほ偏せず、四月や五月、さして行事のない十月などを見ると、都会の中の閑雅が描かれているのが解ります。京伝の『錦之裏』の影響を受けた喜多川歌麿の『青楼十二時』のように吉原の裏世界を描いたわけでもなく、「吉原月次風俗図」は、遊びなれた客の視線から描かれています。
 当時の絵画は、基本的には注文制作です。享受者がいる以上、理解されなければならない存在となります。もっとも、抱一は身分が下の人間に対しては、モチーフを自由に変えた事例もあります。鑑賞者が見たがるオーソドックスな吉原の行事を外した本作にも、そういった側面があります。市中の隠の楽しみを、五月の碁、九月の稲掛けで表現している部分もあります。
 画面では人をぬいて、静かな雰囲気に仕立てています。しかし、画面の背景には<都市>性を主張するかのように華やかと評される其角の句があります。画賛は人事句が殆どで、画面と逆の方向性をとります。その画賛は、言葉が一次的に示す意味だけで意味が解る発句、つまり、デノテーション(注:裏の意味ではなく、文字通りの直接的な意味)で構成されている発句ではありません。
 一般に言外にあるコノテーションとは、それを共有するグループの外の人間には解りにくいものです。其角をコノテーションとして取り込んだテクストがあるからこそ、其角の句を知識の前提条件として持つ抱一周辺の特定の享受層には、まさに言葉と図像の交響が存したであろうと推測され、理解されたのであります。あるいは、画面の静かさと画賛のにぎやかさが対比的で面白かったでしょう。
 画賛がなければ、これらの重層したイメージは当然ながら機能しません。抱一は本作で、言葉と図像を近接させる、いわゆる「べたづけ」をする芭蕉などとは全く違った面白いアプローチを行っているといえるでしょう。
 確かに文政期の年紀を持つ抱一の絵画作品は、雅の味わいが強い。発句も同じです。しかし、それは一色ではなく、本作では<俗>な都市が画面で閑雅に描かれつつ、画賛では其角のコノテーションとして取り込まれいる点から、<雅>一辺倒といえないのは確認できるかと考えられます。 】 (「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」)

ほととぎす.jpg

蕪村筆「岩くらの」自画賛 紙本淡彩 一幅 三八・六×六四・三㎝
款「蕪村」 印「謝長庚」「春星氏」(白文連印) 個人蔵
賛「岩くらの狂女恋せよほとゝきす」  (『蕪村全集六』所収)
【季語:ほとゝぎす(夏) 語釈:岩倉=京都市左京区内。同所大雲寺境内の滝は、狂気を治す効果ありとされた。岩倉と時鳥は付け合い。句意:時鳥の裂帛の鳴き声の中に、岩倉のうら若い狂女が恋人を慕って号泣する俤を幻想し、あたかも物狂いの能のワキがシテの狂女に呼び掛けるように、もっともっと恋に狂ってその哀艶の声を聞かせてほしいと望んだもの。】(『蕪村全集六』所収)

 蕪村の時代には、俳画は、「はいかい(俳諧)物之草画」と呼ばれ、蕪村自身、この分野で、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)と、画・俳両道を極めている蕪村ならではの自負に満ちた書簡を今に残している(安永五年八月十一日付け几董宛て書簡)。
 「俳画」という名称自体は、蕪村後の渡辺崋山の『俳画譜』(嘉永二年=一八一九刊)以後に用いられているようで、一般的には「俳句や俳文の賛がある絵」などを指している。
 これらのことについては、下記のアドレスで、「余情付け」「物付け」などを含めて触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-06-21  

 ここで、「余情付け(匂付け)」(前句の余情と付句の余情が匂い合うような付け方)と「物付け(詞付け)」(掛詞や物・詞の縁などによる付け方)との関連で、蕪村の「ほととぎす」の「句(賛)と画」、そして、抱一の「蜀魂(ほととぎす)」の「句(賛)と画」とに触れて置きたい。

一 蕪村の句の「岩くらの狂女恋せよほとゝぎす」に、その上部の「ほととぎす」の画は、「物付け」で、そのものずばりの「べた付け」である。抱一の句の「蜀魂(ほととぎす)たゞあり明けの鏡立て」では、左の上部に米粒程度の「蜀魂(ほととぎす)」が描かれ、その賛(句)に、「蜀魂(ほととぎす)」を隷書体で大書したのは、これまた、「物付け」(詞付け)で、これまた、「べた付け」である。そして、蕪村も抱一も、其角流の江戸座の洒落俳諧・比喩俳諧を、その句作りの基本に据えているのだが、抱一は蕪村よりも、其角流の洒落俳諧が顕著である。

二 蕪村の、この左下の「紫陽花(四葩の花、七変化)」は、「岩くらの狂女恋せよほとゝぎす」の句の「狂女」の心の変化(七変化)を暗示するような「余情付け」である。さらに、この「紫陽花」の背後には、藤原家良の「飛ぶ蛍日影見えゆく夕暮になほ色まさる庭のあぢさゐ」(『夫木和歌抄』)の和歌などを暗示している「俤付け・面影付け」である。抱一の、この下部の「鏡立て」は、「蜀魂たゞあり明の鏡立て」の、「鏡立て」は「物付け」だが、「あり明けの鏡立て」の「有明」は、その鏡のまん丸い形状からの「余情付け」ということになる。ここでも、抱一は蕪村よりも、技巧的な洒落俳諧が顕著ということになる。
 しかし、この句の背後にも、「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる」(後徳大寺左大臣『千載集』)、そして、「ほととぎす消え行く方や嶋一ツ」(芭蕉『『笈の小文』) 
を典拠にしている「俤付け・面影付け」である。全体的に、蕪村と抱一とは、蕪村が、「其角→巴人→蕪村」とすると、抱一は、「其角→存義→抱一」と、同じ流れで、さらに、巴人が江戸で没したときに、江戸の巴人門は、存義一門に吸収されたような経過を踏まえると、両者の「句と画」との創作姿勢は、極めて近いという印象を受ける。

三 さらに、抱一の、この「吉原月次風俗図」(「花街柳巷図巻」を含む)は、下記の通りの配列(「漢=男文字=漢字」と「和=女文字=平仮名」の俳諧的な運びによる配列)になっていることも付記して置きたい。

一月(漢=「花街柳巷」)→二月(和=「きさらぎ初のうま」)→三月(和=「夜さくら」)
→四月(漢=「蜀魂」)→五月(和=「さみだれ」)→六月(和=「富士参り」)→七月(漢=「乞功尊」)→八月(漢=「俄」)→九月(和=「干稲」)→十月(和=「しぐれ」)→十一月(和=「酉の日」)→十二月(和=「狐舞い」)


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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その十三)  [酒井抱一]

その十三 江戸の粋人・抱一の描く「その三 吉原月次風俗図(三月・夜桜)」

 前回(「その二 吉原月次風俗図(二月・初午」)に続く、「吉原月次風俗図(三月(夜桜)」というのは、『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』などには収載されていない。
 その同書中の、「花街柳巷図巻」(個人蔵)で、下記の通り、その概要を見ることが出来る(また、同書中の「作品解説(小林忠稿)」は次の通り)。

三月.jpg

抱一筆「花街柳巷図巻」のうち「三月(夜桜)」
【三月(夜桜) 「夜さくらや筥てうちんの鼻の穴 楼上に居續したるあした起よ今朝 うへ野の四ツそ花の雨」の賛と、仲の町に植えられた桜の木と柵の絵」(「作品解説(小林忠稿)」)。】

 この図と、この作品解説だけでは、抱一の「吉原月次風俗図(三月・夜桜)」「花街柳巷図巻(三月・夜桜)」をイメージするのは無理かも知れない。吉原の仲の町通り(メインの大通り)に植えられる桜(開花の時に植えられ、散ると撤去される)と箱提灯(筥てうちん:下図では花魁道中の先頭の人が持っている提灯)は、下記の「東都名所画 吉原の夜桜(渓斎英泉筆)」などによるとイメージがし易い。

英泉・夜桜.jpg

渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」(太田記念美術館蔵)

   夜ざくらや筥てふちんの鼻の上  (抱一・「三月・夜桜」の賛)

【 三月の図は春の人寄せのイベントである夜桜が描かれます。画賛の一つは「夜ざくらや筥でうちんの鼻の穴」です。春の吉原は、仲之町通りに鉢植えの桜を置きます。この画賛の初案の頭註には、『史記』「周本紀」第四に載る字句「后稷生巨跡」に拠ったとあります。后稷には、母親の姜原が巨人の足跡を踏んで妊娠したという伝説があります。つまり、「筥でうちんの鼻の穴」という小さい穴は、后稷が生まれた巨人の足跡に見立てられています。そこからうまれたものは「夜ざくら」と、描かれない多数の見物客です。つまり、筥提灯の上部の空気穴から光が漏れる。その光に照らしだされた夜桜と多数の見物客が、后稷に見立てられます。ここでは画賛は、夜桜の賑わいを補完する機能を担わされています。 】(「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」)

どうにも、難解な、抱一の師筋に当たる、宝井其角の「謎句」仕立ての句である。この句の前書きのような賛に書かれているのだろうが、『史記』の「后稷(こうしょく)」伝説に由来している句のようである。
「后稷(こうしょく)」伝説とは、「〔「后」は君、「稷」は五穀〕 中国、周王朝の始祖とされる伝説上の人物。姓は姫(き)、名は棄(き)。母が巨人の足跡を踏んでみごもり、生まれてすぐに棄(す)てられたので棄という。舜(しゆん)につかえて人々に農業を教え、功により后稷(農官の長)の位についた」を背景にしているようである。
 ここは、余り詮索しないで、上記の、渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」ですると、「花魁道中を先導する男衆の持つ箱提灯の上部の穴からの光が、鮮やかに夜桜や人影を浮かび上がらせる」というようなことなのであろう。

  吉原の夜見せをはるの夕ぐれは入相の鐘に花やさくらん 四方赤良(大田南畝)
  廓(さと)の花見は入相が日の出なり  (『柳多留六三』)
  夜桜へ巣をかけて待つ女郎蜘蛛     (『柳多留七三』)
  年々歳々客を呼ぶために植え      (『柳多留六二』)
  里馴れて来ると桜はひんぬかれ     (『柳多留一〇七』) 

 これらの狂歌や川柳(前句付)の風刺的な「捩り」の、抱一の一句と解することも出来るのかも知れない。

  起よ今朝うへ野の四ツぞ花の雨    (抱一・「三月・夜桜」の賛)

 冒頭の作品解説中にある、「夜ざくらや筥てふちんの鼻の上」に続く、「楼上に居續したるあした起よ今朝 うへ野の四ツそ花の雨」の賛も、「(楼上に居續したるあした) 起よ今朝うへ野の四ツそ花の雨」と、「前書き=楼上に居續したるあした=吉原の妓楼に意続けての朝方」・「発句=起よ今朝うへ野の四ツぞ花の雨」と、これも、「朝方四ツ=吉原の朝方十時、うえ野=上野の山、花の雨=花の散りかかる頃の雨」の発句の賛のようである。

  夜ざくらや筥てふちんの鼻の上  (「吉原」の「夜桜」を昨夜はたっぷり堪能した)
  起よ今朝上野の四ツぞ花の雨(起きよ今朝四ツ時ぞ「上野」の「花の雨」の見物だ)

 これは、「吉原の夜桜見物」と、「居続け」にして、「上野の山の昼の花の雨見物」へと、次々と「ハシゴ(梯子)」する、抱一らの「江戸座俳諧」特有の洒落句(滑稽句)としての二句なのかも知れない。

  桜から桜へこける面白さ (『柳多留二五』)
  女房へ嘘つく桜咲にけり (『俳諧觽三』)
  居続けのばかばかしくも能(よ)い天気 (『柳多留三』)
  よくよくの馬鹿吉原に三日居る (『柳多留一八』)

其一・大門図.jpg

鈴木其一筆「吉原大門図」一幅 ニューオータニ美術館大谷コレクション蔵
【 吉原大門からつづく仲の町通りを東から眺め、入ってすぐの引手茶屋「山口巴屋」の様子や、吉原に行き交う人々の諸相をとらえる。花魁、芸者、禿、酔客、按摩、老人、若侍などと、各種の人々を等しく観察し一か所に集めた。其一は群像の表現にもはやくから関心を寄せ習熟していることを示すが、「其一戯画」と意識的な署名をし、他に使用例のない「毀誉不動(毀誉に動ぜず)」印を捺している。この意識は晩年まで続く。】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「作品解説二〇三(岡野智子稿))

 抱一には、このような「風俗図」「群像図」は余り見られない。その抱一の右腕とも言うべき抱一門の第一人者・鈴木其一は、この種の「風俗図」「群像図」を手掛けている。しかし、上記の解説にあるとおり、この種のものの署名の「戯画」、落款印の「毀誉不動(毀誉に動ぜず)」などからすると、抱一門では、「仏画制作」を主要画業の一つにしているので、この種のものはスタンダードの分野ではないのかも知れない。
 この其一の「吉原大門図」は、抱一・其一時代の「吉原」の情景を的確に描写している。大門を入ってすぐ右手の引手茶屋が最も格式のある茶屋で七軒茶屋と呼ばれ、その筆頭格が「山口巴屋」で、その座敷に、「花魁(簪の数が多い)・新造(部屋持ちと振袖)・禿(少女)・芸者(三味線を持っている)・客人」などが描かれている。
 その大門近くの辻行燈の前に、「箱提灯を持った男衆・花魁・禿・新造」が馴染み客を出迎えるための立って待っている光景、その辻行燈の後方は「番所」(四郎兵衛)で、大門口の見張り(遊女の外出の取締り・一般女子も切手=通行証が必要、男子は自由)などをしている所であろう。その他、酔客・按摩・杖を持った老人、二本差しの侍など、これは、まさしく、典型的な「吉原風俗図」と解して差し支えなかろう。
 それに比して、抱一の「吉原月次風俗図」は、この其一の「吉原大門図」に出て来る「大門・番所・引手茶屋・辻行燈・箱提灯」などの主たる景物も、さらには、「花魁・新造・禿・芸者・幇間・男衆・遊客」などの主たる人物像も、この月次十二図の中には、何処にも出て来ないのである。
 ここで、抱一の、この「吉原月次風俗図」というネーミングは、抱一の意図することを斟酌すると、これは「吉原月次俳画図」ともいう分野のもので、それも、先ず、俳句(発句)があって、その「俳句(発句)」に、「べた付け」(画と句とが「付かず離れず」(響き合う)がベターとすると「べったり付き過ぎる」関係)を、極力排しての「画」作りをしているということなのである。
 ずばり、今回のように、「吉原月次風俗図」の「三月・夜桜」の一幅ものを見ていなくても、その「花街柳巷図巻」の「三月・夜桜」の「賛(前書きと句)」と「画」とにより、それらに接した者が、例えば、渓斎英泉筆「東都名所画 吉原の夜桜」や、鈴木其一筆「吉原大門図」などを連想し得たということならば、恐らく、抱一の、これらの、「吉原月次風俗図」の「三月・夜桜」、そして、「花街柳巷図巻」の「三月・夜桜」を制作した、その抱一の真意の一端に触れていることであろう。
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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その十二)  [酒井抱一]

その十二 江戸の粋人・抱一の描く「その二 吉原月次風俗図(二月・初午)」

花街柳巷二.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(二月「初午」)十二幅うち一幅(旧六曲一双押絵貼屏風) 紙本淡彩 九七・三×二九・二(各幅)落款「抱一書畫一筆」(十二月)他 印章「抱一」朱文方印(十二月)他
【二月(初午)「きさらぎ 初のうま 当社の御額は廣澤老住のくろすけいなりと七字を記せり/青柳や 稲荷の額のあふな文字」と賛があり、「黒助いなり大明神」と墨書した提灯を掛け並べた様が描かれる。黒助稲荷は遊里の繁栄とそこに暮らす人々の幸運を頼む小社であった。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

二月.jpg

(上の図の「上部(賛)」の部分図)

 「吉原月次風俗図」(二月「初午」)の上部に書かれている、この賛が、「きさらぎ 初のうま 当社の御額は 廣澤老住の くろすけいなりと 七字を記せり/青柳や稲荷の額のあふな文字」との抱一の書である。
 そして、この抱一の発句(俳句)、「青柳や稲荷の額のあふな文字」の「おふな(女)文字」というのは、「女性が書いた文字」の意ではなく、その前段の前書きに書かれている、「廣澤老住の『くろすけいなり』」の、「平仮名の文字」の意なのであろう。

【 二月 初午。「伊勢屋いなりに犬の糞」といわれた江戸には稲荷の社が特に多かった。吉原にも四隅に四社の稲荷が祀られ、中でも京町一丁目の隅の九郎助稲荷が繁盛であった。「此夜江戸町一丁め二丁め京丁新丁の通りの中へ、家々の女郎の名を書きつけたる大提灯をともす事おひたゞし、是はいなりへの奉納の為なり、…… 客女郎打まじりさんけいはなはだくんじゆす」(吉原大全) 】
(「国文学解釈と鑑賞:川柳・遊里誌:昭和三八・二」)

吉原図.jpg

『吉原御免状(隆慶一郎著)』
https://choitoko.com/geino/rakugo/post-5241/

 上記の「新吉原見取り図」の左上隅が「黒助(九郎助)稲荷」で、その郭内の四隅には稲荷が祀られている。なお、廓内の「茶屋」は「引手茶屋」、廓外の「編傘茶屋」(顔を隠す編笠を貸していた茶屋」)は「外茶屋」(「水茶屋」「田楽茶屋」「料理茶屋」など)で、廓内の茶屋とは区別される。この廓外の「吉徳稲荷」が明治になって合祀され「吉原神社」となっている。

 初午は角ミつこばかりさわがしい    (『柳多留一七』二三)
 きつねさへしろうとでない所なり    (『柳多留一九』二一)
 九郎介へ化けて出たいの願(がん)ばかり(『柳多留拾遺一四』)
 九郎介を見かぎるような願(がん)ばかり(『柳多留拾遺一四』)
 九郎介はどうぞと思ふ願(がん)ばかり (『柳多留拾遺一四』)
 九郎介へ代句だらけの絵馬の上     (『柳多留初編』二)

 この「黒助(九郎助)稲荷」は「縁結び」の稲荷として知られ、また、遊女が「俳句などを奉納した」句なども見られる。

  青柳や稲荷の額のあふな文字  (抱一)

 この抱一の句の「あふな(女)文字」にも、吉原の遊女たちの「願(がん)掛け」の、その「願(がん)」が聞き入れられるようにとの意を含ませての、抱一の視点のようにも解せられる。また、この「黒助(九郎助)稲荷」も、抱一と小鶯女史との何らかの所縁の深い所なのかも知れない。
 さらに、この「吉原月次風俗図」(二月「初午」)の「平仮名(女文字)」の賛は、その前に書かれている「正月(元旦)」の、次の「隷書体(男文字)」の題字と、いわゆる、連歌・俳諧(連句)上の「四道」(添・随・放・逆)の「逆付け」を踏まえてのような雰囲気も有している。

一月部分図.jpg

「吉原月次風俗図」(正月「元旦」)の題字
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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その十一) [酒井抱一]

その十一 江戸の粋人・抱一の描く「その一・吉原月次風俗図(元旦)」など

吉原・元旦.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」その一(正月「元旦」)
十二幅うち一幅(旧六曲一双押絵貼屏風) 紙本淡彩 九七・三×二九・二(各幅)落款「抱一書畫一筆」(十二月)他 印章「抱一」朱文方印(十二月)他
【もと六曲一双の屏風に各扇一図ずつ十二図が貼られていたものを、現在は十二幅の掛幅に改装され、複数の個人家に分蔵されている。吉原の十二か月の歳時を軽妙な草画に表わし、得意の俳句もこれまた達意の仮名書きで添えたもので、抱一ならではの詩書画三絶ぶりが全開されている。
 正月(元旦)「花街柳巷 雨華道人書之」の隷書体の題字に「元旦やさてよし原はしつかなり」の句。立ち並ぶ屋根に霞がなびき、朝鴉が鳴き渡っている。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

 酒井抱一には、文政二年(一八一九)、五十九歳時の自跋がある「吉原」(新吉原)に関する「俳画集」とも言うべき『柳花帖』(全一冊・五十六丁・五十六図・五十五発句)がある。その跋文は次のとおりである。

【 夜毎郭楼に遊ひし咎か 予にこの双帋へ画かきてよ とのもとめにまかせ やむなくも酒に興して ついに筆とり初ぬ つたなき反古を跡にのこすも憂しと乞ひしに うけかひなくやむなくも 恥ちなから乞ひにまかせ ついに五十有餘の帋筆をつゐやしぬ ときに文政卯としはるの末へにそありける 雨花抱一演「文詮」(朱文重郭方印)  】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「抱一の内なる世界 姫路市立美術館蔵 酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳花帖』をめぐって:岡野智子稿」)

 この『柳花帖』には、「箱書」があり、そこには、次のように記載されている。

【 抱一上人筆句集
屠龍の技
  天保丁酉初春日 可保茶宗園題画 「大文字や」(朱文方印)  】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「抱一の内なる世界 姫路市立美術館蔵 酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳花帖』をめぐって:岡野智子稿」)

 この箱書きをした「可保茶宗園」は、吉原大文字屋三世南瓜宗園で、宗園は抱一に絵のてほどきを受けていたという(俳諧・狂歌なども手ほどきを受けていたと思われる)。そして、抱一が若い時から親交が厚かったのは、二世可保茶元成で、その元成ために戯画したとも伝えられている初代「大文字屋市兵衛図」については、下記のアドレスなどで触れている。

 https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23  

 そこで、この『柳花帖』についても触れているが、その『柳花帖』の俳句(発句一覧)について、ここでも、再掲をして置きたい。

(再掲)

酒井抱一俳画集『柳花帖』(一帖 文政二年=一八一九 姫路市立美術館蔵=池田成彬旧蔵)の俳句(発句一覧)
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一筆「柳花帖」俳句一覧(岡野智子稿)」) ※=「鶯邨画譜」・その他関連図(未完、逐次、修正補完など) ※※=『屠龍之技』に収載されている句(「前書き」など)

  (画題)      (漢詩・発句=俳句)
1 月に白梅図   暗香浮動月黄昏(巻頭のみ一行詩) 抱一寫併題  ※四「月に梅」
2 白椿図     沽(うる)めやも花屋の室かたまつはき
3 桜図      是やこの花も美人も遠くより ※「八重桜・糸桜に短冊図屏風」
4 白酒図     夜さくらに弥生の雪や雛の柵
5 団子に蓮華図  一刻のあたひ千金はなのミち
6 柳図      さけ鰒(ふぐ)のやなきも春のけしきかな※「河豚に烏賊図」(『手鑑帖』)
7 ほととぎす図  寶(ほ)とゝきすたゝ有明のかゝみたて
8 蝙蝠図     かはほりの名に蚊をりうや持扇  ※「蝙蝠図」(『手鑑帖』)
9 朝顔図     朝かほや手をかしてやるもつれ糸  
10 氷室図    長なかと出して氷室の返事かな
11 梨図     園にはや蜂を追ふなり梨子畠   ※二十一「梨」
12 水鶏図    門と扣く一□筥とくゐなかな   
13 露草図    月前のはなも田毎のさかりかな
14 浴衣図    紫陽花や田の字つくしの濡衣 (『屠龍之技』)の「江戸節一曲をきゝて」
15 名月図    名月やハ聲の鶏の咽のうち
16 素麺図      素麺にわたせる箸や天のかは
17 紫式部図    名月やすゝりの海も外ならす   ※※十一「紫式部」
18 菊図      いとのなき三味線ゆかし菊の宿  ※二十三「流水に菊」 
19 山中の鹿図   なく山のすかたもみへす夜の鹿  ※二十「紅葉に鹿」
20 田踊り図     稲の波返て四海のしつかなり
21 葵図       祭見や桟敷をおもひかけあふひ  ※「立葵図」
22 芥子図      (維摩経を読て) 解脱して魔界崩るゝ芥子の花
23 女郎花図     (青倭艸市)   市分てものいふはなや女郎花
24 初茸に茄子図    初茸や莟はかりの小紫
25 紅葉図       山紅葉照るや二王の口の中
26 雪山図       つもるほと雪にはつかし軒の煤
27 松図        晴れてまたしくるゝ春や軒の松  「州浜に松・鶴亀図」   
28 雪竹図       雪折れのすゝめ有りけり園の竹  
29 ハ頭図      西の日や数の寶を鷲つかみ   「波図屏風」など
30 今戸の瓦焼図    古かねのこまの雙うし讃戯画   
            瓦焼く松の匂ひやはるの雨 ※※抱一筆「隅田川窯場図屏風」 
31 山の桜図      花ひらの山を動かすさくらかな  「桜図屏風」
  蝶図        飛ふ蝶を喰わんとしたる牡丹かな      
32 扇図        居眠りを立派にさせる扇かな
  達磨図       石菖(せきしょう)や尻も腐らす石のうへ
33 花火図       星ひとり残して落ちる花火かな
  夏雲図       翌(あす)もまた越る暑さや雲の峯
34 房楊枝図 はつ秋や漱(うがい)茶碗にかねの音 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
  落雁図       いまおりる雁は小梅か柳しま
35 月に女郎花図    野路や空月の中なる女郎花 
36 雪中水仙図     湯豆腐のあわたゝしさよ今朝の雪  ※※「後朝」は
37 虫籠に露草図    もれ出る籠のほたるや夜這星
38 燕子花にほととぎす図  ほとときすなくやうす雲濃むらさき 「八橋図屏風」
39 雪中鷺図      片足はちろり下ケたろ雪の鷺 
40 山中鹿図      鳴く山の姿もミヘつ夜の鹿
41 雨中鶯図      タ立の今降るかたや鷺一羽 
42 白梅に羽図     鳥さしの手際見せけり梅はやし 
43 萩図        笠脱て皆持たせけり萩もどり
44 初雁図       初雁や一筆かしくまいらせ候
45 菊図        千世とゆふ酒の銘有きくの宿  ※十五「百合」の
46 鹿図        しかの飛あしたの原や廿日月  ※「秋郊双鹿図」
47 瓦灯図       啼鹿の姿も見へつ夜半の聲
48 蛙に桜図      宵闇や水なき池になくかわつ
49 団扇図       温泉(ゆ)に立ちし人の噂や涼台 ※二十二「団扇」
※50 合歓木図     長房の楊枝涼しや合歓花 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
51 渡守図       茶の水に花の影くめわたし守  ※抱一筆「隅田川窯場図屏風」
52 落葉図      先(まず)ひと葉秋に捨てたる団扇かな ※二十二「団扇」

 さて、ここで特記をして置きたいことは、この「吉原大文字楼三世南瓜(可保茶)宗園」の箱書きの「天保丁酉」は、天保八年(一八三七)で、「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』)に、「十月二十七日、妙華尼没(浄栄寺過去帳)」とあり、抱一の伴侶・小鶯女史(俗名=おちか、御付女中名=春篠・春条《はるえ》?、遊女名=香川・一本《ひともと》?・誰ケ袖?)が亡くなった年なのである。
 さらに、その年に、「『柳花集』其一挿絵」とあり、この狂歌集『柳花集』(村田元就・遊女浅茅生撰、村片相覧・鈴木其一画)の撰者の「村田元就」は、「吉原大文字楼三世南瓜(可保茶)宗園」であろう。そして、この「遊女浅茅生」は、抱一の伴侶の妙華尼と何らかの縁があるように思われるのである。
 ここで、大胆な推測をすると、「吉原大文字楼三世南瓜(可保茶)宗園」の懇請により描かれたとされている、この抱一の俳画集『柳花帖』は、何らかの機縁で、抱一の伴侶・妙華尼が手元に所持していて、亡くなる時に、「吉原大文字楼三世南瓜(可保茶)宗園」の再び元に戻ったように解したい。
 として、この『柳花帖』は、抱一と小鶯女史との思い出深い画帖と解したいのである。そして、この抱一と小鶯女史との、その深い関わりに陰に陽に携わった、その人こそ、抱一の後継者の第一人者・鈴木其一と解したいのである。
 これらのことについては、下記のアドレスで、上記の『柳花帖』の「※50 合歓木図     長房の楊枝涼しや合歓花」に関連しての「抱一・小鶯女史・其一」との、この三者の深い関わりについて触れている。ここで、その「※其一筆『文読む遊女図』(抱一賛)」関連のものも再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-28

(再掲)

其一・文読む遊女図.jpg

鈴木其一筆「文読む遊女図」 酒井抱一賛 紙本淡彩 一幅 九㈣・二×二六・二㎝
細見美術館蔵
【 若き日の其一は、師の抱一に連れられて吉原遊郭に親しんだのだろうか。馴染み客からの文を読む遊女のしどけない姿に、「無有三都 一尺楊枝 只北廓女 朝々玩之」「長房の よふし涼しや 合歓花」と抱一が賛を寄せている。 】(『別冊太陽 江戸琳派の美』所収「江戸琳派における師弟の合作(久保佐知恵稿)」)
【 其一の遊女図に、抱一が漢詩と俳句を寄せた師弟の合作。其一は早くから『花街漫録』に、肉筆浮世絵写しの遊女図を掲載したり、「吉原大門図」を描くなど、吉原風俗にも優れた筆を振るう。淡彩による本図は朝方客を見送り、一息ついた風情の遊女を優しいまなざしで的確に捉えている。淡墨、淡彩で略筆に描くが、遊女の視線は手にした文にしっかりと注がれており、大切な人からの手紙であったことを示している。賛は房楊枝(歯ブラシ)を、先の広がっているその形から合歓の花になぞらえている。合歓は夜、眠るように房状の花を閉じることから古来仲の良い恋人、夫婦に例えられた。朝帰りの客を見送った後の遊女のしっとりとした心情をとらえた作品である。草書体の「其一筆」の署名と「必菴」(朱文長方印)がある。
(賛)
無有三都 
一尺楊枝 
只北廓女 
朝々玩之

長房の 
よふし涼しや 
合歓花
       抱一題「文詮」(朱文瓢印)  】  
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説(岡野智子稿))」

 上記の解説文で、上のものは「簡にして要を得る」の典型的なもので、これだけでは、何とも「謎」の多い「文読む遊女図」のものとしては、やや不親切の誹りを受けるのかも知れない。
 ということで、下のものは、その「謎」解きの一つの、「房楊枝(歯ブラシ)」が「合歓の花」の比喩(別なものに見立てる)であることについて触れている点は、親切なのだが、しかし、その後の、「朝帰りの客を見送った後の遊女のしっとりとした心情をとらえた作品である」となると、やや、説明不足の印象が拭えない。

昼は咲き夜(よる)は恋ひ寝(ぬ)る合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ (紀女郎・『万葉集・巻八(一四六一)』)

 この万葉集の「紀女郎」の歌の「君」は、「紀女郎」自身であり、「戯奴(わけ・たわむれやっこ)は、年下の恋人の大伴家持である。

 これに対して、家持の返歌は次のとおり。

 我妹子(わぎもこ)が形見の合歓は花のみに咲きてけだしく実にならじかも (大伴家持
『万葉集』巻八・一四八三) 

 冒頭の「文読む遊女図」(其一筆・抱一賛)には、この『万葉集』の相聞歌などが背景にあり、「君=紀郎女=遊女香川=小鸞女史(抱一夫人=妙華尼)」と「戯奴=大伴家持=抱一(雨華庵)」とを、その走り使いの其一が、一幅ものにしたような、そんな雰囲気を漂わせている。

  象潟や雨に西施がねむの花  芭蕉

 芭蕉の、この『おくのほそ道』での句は、蘇東坡の詩句を受けてのもので、上記の『万葉集』の相聞歌とは関係がないが、抱一に見受けされて、終の棲家の「雨華庵」で、晩年の抱一を支え続けた小鸞女史のイメージは、花魁香川というイメージよりも、控え目な西施風のイメージが強いであろう。

 抱一は、宝暦十一年(一七六一)の生まれ、其一は、寛政八年(一七九六)の生まれ、両者の年齢差は、三十五歳と、親子ほどの開きがある。抱一が、新吉原大文字屋花魁・香川を、見受けして、表向きは御付女中・春條(はるえ)とし、「雨華庵」で同棲を始めたのは、文化八年(一八〇九)、其一が抱一の内弟子となったのは、文化十年(一八一三)の頃である。
 文化八年(一八〇九)の、抱一の内弟子になる以前の其一は、おそらく、抱一の中小姓として仕えていた鈴木蠣潭の下で、抱一の小間使いのようなこともしていたように思われる。
 すなわち、冒頭の「文読む遊女図」の遊女は、其一が知っている遊女図というよりも、主君のような存在の抱一と、その御付女中・春條として迎え入れられた「遊女(花魁)・香川」図のように理解して来ると、この「文読む遊女図」(其一筆)の、抱一の賛(漢詩と発句)が、始めて、その正体を現してくるような感じなのである。
 それらのことを念頭にして、抱一の賛(漢詩と発句)を読み解くと、次のようになる。

 無有三都  (三都に有や無しや)
 一尺楊枝  (見よ この一尺の歯楊枝を 即ち この一尺の合歓の花を)
 只北廓女  (只に 北に咲く合歓の花 即ち 只に 新吉原の廓女を)
 朝々玩之  (朝々に これを愛ずり 朝々に これと交歓す)

 長房の    (長い房の その歯楊枝の如き)
 よふし涼しや (夜を臥して涼やかに そは夜を共寝して涼やかに)
 合歓花    (合歓の花 そは西施なる妙なる花ぞ)

 其一が生まれた寛政八年(一七九六)、抱一、三十六歳時に、「俳諧撰集『江戸続八百韻』を世に出し、其角・存義に連なる江戸座の俳諧宗匠の一人として名をとどめ、爾来、抱一は、その俳諧の道と縁を切ってはいない。
 その俳風は、芭蕉門の最右翼の高弟、宝井其角流の、洒落俳諧・比喩(見立て)俳諧の世界で、その元祖の芭蕉俳諧(「不易流行」の「不易」に重きを置く)とは一線を画している。

  象潟や雨に西施がねむの花  芭蕉
  長房のよふし涼しや合歓花  抱一

 芭蕉の句の、この「西施」なる字句の背景に、蘇東坡の漢詩が蠢いているが、それが、この句の眼目ではなく、歌枕の「象潟」を目の当たりにして、その「象潟」の、永遠なるもの(流行に根ざす不易なるもの)への「感慨・憧憬」と、その地霊的なものへの「挨拶」が、
この芭蕉の句の眼目となってくる。
 それに比して、抱一の句は、「長房の」の「長房」(「長い房」と「長い歯楊枝」との掛け)、「よふし涼しや」の「よふし(「夜臥す」と「夜閉じる」との掛け)の、「洒落・見立ての面白さ」が、この句の眼目になっている。そして、それは、下五の「合歓の花」に掛かり、全体として、「合歓の花」を見ての、刹那的(不易なるものより一瞬に流れ行くもの)な「感慨・憧憬」を、言霊(ことだま)的な「挨拶」となって、一種の謎句的なイメージが、この抱一の句の眼目となってくる。
 
  雨の日やまだきにくれてねむの花  蕪村

 蕪村も、抱一と同じく、其角・巴人の「江戸座」の「洒落・比喩俳諧」の流れに位する俳人の一人である。しかし、抱一と違って、「其角好き」の一方、無類の「芭蕉俳諧の信奉者」なのである。
 この蕪村の句も、「まだきくれて」(まだ時間でもないのに日が暮(昏)れる)というところに、其角・抱一と同じように、掛け言葉の比喩俳諧的な世界に根ざしている。この句は、「虎雄子が世を早うせしをいたむ」との前書きがあって、芦陰社中の俳人虎雄への悼句なのである。すなわち、「若くして夭逝した俳友」を、この眼前の「雨の日のまだきにくれゆく合歓の花」に見立てているということになる。


 翻って、抱一と小鶯女史とが、下谷根岸大塚村の鶯の里に定住したのは、文化六年(一八〇九)、抱一、四十九歳、そして、小鶯女史は、「年明き」「身請け」などを考慮して、二十七・八歳の頃と推定される。
 それから八年後の文化十四年(一八一七)に、その鶯の里の庵居に「雨華庵」の額を掲げ、抱一は、以来「雨華」の号を多用するようになる。そして、この年、小鶯女史は剃髪して「妙華尼」を名乗るようになる(「等覚院御一代」)。
 そして、上記に紹介した、抱一の吉原に関する俳画集『花柳帖』が制作されたのは、文政二年(一八一九)、抱一、五十九歳の頃である。
 ここで、特記したいことは、この吉原に関する抱一の俳画集『花柳帖』では、吉原の代名詞とも言うべき遊女などの人物像は一切排除されて、上記に再掲した画題の通り、「月に白梅・白椿・桜・蓮華・柳・朝顔・梨・露草・菊・葵・芥子・女郎花・初茸に茄子・紅葉・松・雪竹・八頭・水仙・燕子花・萩・合歓木」「ほととぎす・蝙蝠・水鶏・蝶・落雁・初雁・鶯」などの、抱一絵画特有の「花鳥画」の、さながら、俳画集「絵手鑑」の趣を呈しているということである。
 この俳画集『花柳帖』を基礎にして、冒頭に紹介した「吉原月次風俗図」(十二幅・旧六曲一双押絵貼屏風)、そして、その「吉原月次風俗図」を図巻にしたような「花街柳巷図巻」は制作されたものと思われ、これら抱一の「吉原三部作」は、文政二年(一八一九)を前後にしての、同一時期の制作のように思われる。
 ここで、これらの抱一の「吉原三部作」(『花柳帖』「吉原月次風俗図」「花街柳巷図巻」)に、遊女類の人物像が排除されていることについて、「抱一が美人画の画家でなかったのも一因」(「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」)との見方もあるが、これは、吉原の遊女出身の、今は剃髪して「妙華尼」を名乗っている小鶯女史への、抱一流の情愛の細やかな配慮が、その背景にあるように解したい。
 そして、この細やかな配慮こそ、「江戸の粋人」の「粋(すい)」に通ずるもののように解したい。ちなみに、この「粋(すい)」について、「水は方円の器に従う。(中略)『粋』に『いき』の訓はない。(中略)江戸初期には『水』『推』『帥』などと、いろいろな文字が宛て字として用いられた。なかでも『水』が最も多い。(中略)遊興生活を営む上において、見事な平衡感覚を備えた人の意である。そういう人は当然、他人の志向をよく推量するから『推』、そして、そのような人は自然と重んじられて一軍の将帥となるから『帥』であり、(中略)まじりけのない『純粋』な、良質の『精粋』な人の意」(『江戸文化評判記(中野三敏著)』)と喝破した見方を是としたい。

(追記一)「夜色楼台図(蕪村画)」と「吉原月次風俗図のうち元旦図(抱一画)」・「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」

蕪村 夜色楼台図.jpg

「夜色楼台図(蕪村画)」

花柳図巻元旦.jpg

「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」

 蕪村の水墨画(横長)の傑作「夜色楼台図」は、京都の東山をバックに祇園 の妓楼と京の街並みの雪の夜の「屋根・屋根」の光景である。そして、抱一の淡彩画(水墨画に近い)の「縦長」の「吉原月次風俗図のうち元旦図」(冒頭に掲載)と「横長」の「花街柳巷図巻のうち元旦図」(上記の下の図)も、江戸の吉原の妓楼などの「屋根・屋根」の光景である。
この抱一の「吉原月次風俗図のうち元旦図」について、「抱一ならではの詩書画三絶ぶりが全開されている」(冒頭の「小林忠稿」)とすれば、蕪村の「夜色楼台図」もまた、「蕪村ならではの詩書画三絶ぶりが全開されている」との評が当て嵌まるであろう。
 しかし、続けて、抱一の「吉原月次風俗図のうち元旦図」について、「立ち並ぶ屋根に霞がなびき、朝鴉が鳴き渡っている」(冒頭の「小林忠稿」)は、「立ち並ぶ吉原の郭内の屋根、そして、雪の朝の一刷毛の描写、そして、その雪空に閑古鳥が飛んでいる」としたい。
 ちなみに、「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」では、「よし原の元日ばかりかんこ鳥」(『俳諧觽《けい》二十二編)が紹介されている。この『俳諧觽』は、江戸座俳人・抱一に近い「沾洲・紀逸らの点者(宗匠)の高点付句集」であり、これまた、「江戸の粋人・抱一」に相応しいであろう。

(追記二)「吉原月次風俗図のうち元旦図(抱一画)」・「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」と「東山清音・江天暮雪(大雅画)」そして「銀世界東十二景 新吉原雪の朝(広重画)」

東山清音9 (2).png

「東山清音・江天暮雪図(大雅画)」

 この大雅の「江天暮雪図」については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-04-25

 そこで、『新潮日本美術文庫11池大雅』所収「作品解説(武田光一稿)」の、下記の鑑賞文を紹介した。

[ 紙本墨画 一帖 全十六面 各二〇・〇×五二・〇cm
 本図にのみ「九霞山樵写」と落款が入っているので、八景の締めくくりの図である。たっぷりと水墨を含んだ太めの筆を、左側から数回ゆったりと走らせ、たちまちにして主山と遠山を描いてしまう。画面が湾曲している扇面形に、これらの主山、遠山の形と配置だけでもじつは難しいのであるが、大雅の筆にはいささかな迷いもなく、ごく自然に、これしかないという形で決まっている。太い墨線の墨がまだ乾かないうちに水を加えて、片側をぼかしている。白い雪、ふわっとした質感の表現であるが、まさに妙技といえる。折しも、一陣の風に、降り積もった新雪が舞い上がる。図25の《江天暮雪図》(注=掲載省略)と比較しても、本図においてはまた一段と円熟味が増しており、堂々たる風格を備わっていることがわかる。 ]
(『新潮日本美術文庫11池大雅』所収「作品解説(武田光一稿)」)

 この鑑賞文ですると、上記の「吉原月次風俗図のうち元旦図(抱一画)」・「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」の、その「屋根・屋根」の上とその下の刷毛のような線は、「たっぷりと水墨を含んだ太めの筆を、左側から数回ゆったりと走らせた」という表現となって来よう。そして、「水墨を含んだ太めの筆」の運びが、先に紹介した、「銀世界東十二景 新吉原雪の朝(広重画)」を連想させるのである。

雪の吉原.jpg

広重筆「銀世界東十二景 新吉原雪の朝」(国立国会図書館蔵)
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail275.html?keywords=snow


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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その十) [酒井抱一]

その十 山東京伝の「吉原傾城新美人合自筆鏡」と抱一の「吉原月次風俗図」など

山東京伝・吉原.jpg

北尾政演(山東京伝)著『〔新〕美人合自筆鏡』(「吉原傾城新美人合自筆鏡」)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288343

 この「吉原傾城新美人合自筆鏡」は、北尾政演(後の山東京伝)の作である。天明三年(一七八三)、版元は蔦屋重三郎で、「青楼名君自筆集」として大判二枚続きの作品として刊行された。その翌年、画帖仕立てにして、「序」は四方山人(大田南畝)、「跋」は朱楽館主人(朱楽菅江)が書き、「吉原傾城新美人合自筆鏡」として売りに出された。
 「傾城」とは、遊女のことで、「吉原傾城新美人合自筆鏡」とは、その名のとおり、吉原の遊女を描いた美人画集である。太夫(最高位の遊女)と新造(若い見習いの遊女)や禿(遊郭の住み込みの童女)などを、一図に五・六人の遊女を描き、太夫の自筆とされる詩歌などを図に添えている。
 繰り返しになるが、この作者の北尾政演は、浮世絵師・北尾重政の門人で、黄表紙(江戸小説の一種)の挿絵を中心に美人画や役者絵などを手掛ける一方、山東京伝の戯作号で、黄表紙、洒落本、合巻、読本など幅広いジャンルの執筆活動を行った、マルチタレントの典型的な人物である。
 月の大半を遊所で過ごしたとされ、吉原に親しんだ政演は、浮世絵師・北尾政演、また、戯作者・山東京伝として、版元の蔦屋重三郎と深い関係にあった。
この蔦屋重三郎は、政演よりも十一歳年長で、江戸吉原で生まれ育ち、その吉原大門口で、貸本・小売を主体とする本屋(耕書堂)を開業し、『吉原細見』(遊郭情報誌)を刊行し、大ヒットさせる。そして、次第に出版の内容を広げ、狂歌・戯作界の中心的人物の大田南畝と親交を深め、それらの作品を独占的に手掛けるようになる。
 さらに、寛政四年(一七九二)に、喜多川歌麿による美人大首絵を刊行、また、寛政六年(一七九四)、東洲斎写楽による役者似顔大首絵を刊行し、歌麿・写楽の名を今に轟かせている原動力となっている。北斎もまた、重三郎の狂歌絵本から出てきた新人で、今日の、これらの浮世絵師の名声は、名プロデューサーの蔦屋重三郎の名を抜きにしては語られないと言っても過言でなかろう。
浮世絵師・北尾政演もまた、この名プロデューサー・蔦屋重三郎の企画ものの、この「吉原傾城新美人合自筆鏡」によって、その名を不動のものにしたと言って、これまた過言でなかろう。
さて、そのトップを飾る、上記の「吉原傾城新美人」の太夫(花魁)は、中央の立膝をしているのが、「よつめ屋(四つ目屋)」の「なゝ里(七里)」で、その左に立って筆を執っているのが、同じ「よつめ屋(四つ目屋)」の「うた川(歌川)」のようである。

 右上部に書かれている「なゝ里(七里)」の歌の、「みよし野のかはへ(川辺)にさけるさくら花」の出だしは、古今和歌集の「みよし野の山辺に咲ける桜花・雪かとのみぞあやまたれける」(紀友則)のパロディの一首のようである。その下の句は、「ちりかかるをや」(散りかかるをや+塵かかるをや)「にごる(濁る)といふらむ(言ふらむ)」(『古今集』の伊勢のパロディ)の、そんな雰囲気の歌のようである。
 それに比して、左上部に書かれている「うた川(歌川)」の発句(俳句)は、「雨帯(び)てうこかぬ(動かぬ)梅のにほひ(匂ひ)かな」と比較的詠み易い感じである。これも、誰かの句のパロディの一句なのであろう。

 この「よつめ屋(四つ目屋)の「七里と歌川の二人」(三頁)に続き「四頁(二人)~九頁(二人)」と、合計すると、十四人の「太夫(花魁)」が、この「吉原傾城新美人合自筆鏡」には登場する。
 そして、この「九頁の右側の松葉屋の瀬川」については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-09

 上記のアドレスのものを再掲して置きたい。

(再掲)

北尾政演作「吉原傾城新美人合自筆鏡」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

江戸時代後期の流行作家山東京伝は、北尾政演(きたおまさのぶ)という画名で浮世絵を描いていました。その政演の最高傑作が、天明四年(1784)に出版された『吉原傾城新美人合自筆鏡』です。当時評判だった遊女の姿を描き、その上に彼女たち自筆の詩歌を載せています。右の遊女は松葉屋の瀬川で、彼女は崔国輔の詩「長楽少年行」の後半を書いていますが、他の遊女たちは自作の和歌を書いています。

上記の紹介文で、流行作家(戯作者)「山東京伝(さんとうきょうでん)」と浮世絵師「北尾政演(きたおまさのぶ)とで、浮世絵師・北尾政演は、どちらかというと従たる地位というものであろう。
 しかし、安永七年(一七七八)、十八歳の頃、そのスタート時は浮世絵師であり、その活躍の場は、黄表紙(大人用の絵草紙=絵本)の挿絵画家としてのものであった。そして、自ら、その黄表紙の戯作を書くようになったのは、二十歳代になってからで、「作・山東京伝、絵・北尾政演」と、浮世絵師と戯作者との両刀使いというのが、一番相応しいものであろう。
 しかも、上記の『吉原傾城新美人合自筆鏡』は、天明四年(一七八四)、二十四歳時のもので、その版元は、喜多川歌麿、東洲斎写楽を世に出す「蔦重」(蔦屋重三郎)その人なのである。
さらに、この浮世絵版画集ともいうべき絵本(画集)の「序」は、「四方山人(よもさんじん)=太田南畝=蜀山人=山手馬鹿人=四方赤良=幕府官僚=狂歌三大家の一人」、「跋」は、「朱楽管江(あけらかんこう)=准南堂=俳号・貫立=幕臣=狂歌三大家の一人」が書いている。
その上に、例えば、この絵図の右側の遊女は、当時の吉原の代表的な妓楼「松葉屋」の六代目「瀬川」の名跡を継いでいる大看板の遊女である。その遊女・瀬川の上部に書かれている、その瀬川自筆の盛唐の詩人・崔国輔の「長楽少年行」の後半(二行)の部分は次のとおりである。

章台折揚柳 → 章台(ショウダイ)揚柳(ヨウリュウ)ヲ折リ
春日路傍情 → 春日(シュンジツ) 路傍(ロボウ)ノ情(ジョウ)

吉原・元旦.jpg

(紙本淡彩、旧状は押絵貼六曲一双・現状は十ニ幅に改装、個人蔵)
「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」所収「琳派・第五巻」挿図

 この抱一筆「吉原月次風俗図」の正月の図に大書されている「花街柳巷(かがいりゅうこう)」は、李白の詩などに由来する「花街」(遊郭・色里)の意で、この図の左側の賛(発句=俳句)「元日やさてよし原はしヅかなり」からすると、「吉原」(新吉原)」ということになろう。
 この「花街柳巷」にぴったりの、広重(初代)が描く「吉原(花街吉原・大門)・巷(衣紋坂)・柳(見返り柳)・日本堤(隅田川土手)」の絵図がある。


雪の吉原.jpg

広重筆「銀世界東十二景 新吉原雪の朝」(国立国会図書館蔵)
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail275.html?keywords=snow

吉原・桜.jpg

広重筆「東都名所 新吉原」(国立国会図書館蔵)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1303523

 上の「新吉原雪の朝」の、右下が、「吉原の大門」で、「くの字の小道(巷)」が「衣紋坂」、その「くの字の巷」と「日本堤」との合流する所に「見返り柳」が描かれている。雪の朝で閑散とした吉原のスナップである。
 下の「新吉原」は、花見時のスナップで、手前に、吉原大門は描かれていず「吉原郭内図」、そして「くの字の衣紋坂」の一部、その先に「見返り柳」が描かれている。「日本堤」には、猪牙舟(ちょきぶね)で乗り付けて来た日本堤から吉原へ向かう遊客の群れが描かれている。
 新吉原は、明暦三年(一六五七)に、現在の日本橋人形町の旧(元)吉原から引っ越して来て、爾来、この吉原が江戸文化の中心地となり、明治五年(一八七二)の「娼妓解放令」が出た時の記録には、「百八十軒の遊女屋、百二十一軒の引手茶屋、三千四百四十八人の遊女、百七十一人の芸者、二十五人の幇間が居て、郭内の人口は一万人を超えていたという(『お江戸吉原ものしり帖(北村鮭彦著)』)。
 その郭内には、日常生活に必要な雑貨、小間物、荒物、魚屋などの食品を扱う店、仕出屋、菓子屋、銭湯、医師、書道指南、幇間(たいこもち)・音曲師匠、三味線師、大工、左官などの一般の町人、職人、芸人などと、まさに、当時の江戸の縮図のような賑わいを呈していたのであろう。
 上記の遊女屋というのは、「妓楼・青楼」、そして、引手茶屋というのは、遊客を遊女屋に案内する茶屋で、郭内の中央のメインの「仲の町通り」(大門から水道尻までの吉原一の大通り)の両側に軒を連ねており、上記の「新吉原」の桜並木(植木)に面した二階家が引手茶屋であろう。
 この引手茶屋は、上級の遊客が利用し、単純に遊女と遊ぶ面々は大通りから横町に入っての「張見世」、さらに、「浄念河岸」と「羅生門河岸」の「切見世」「銭見世」などを利用することになる。
 遊女のランクも、元吉原時代の「太夫・格子・端」の三ランクの区分も、新吉原時代になると、「太夫・格子・散茶・局(梅茶)・切見世」の五ランク、そして、新吉原時代後期
になると、「呼出・昼三・附廻・座敷持・部屋持・切見世」の六ランクにと変容するようである(「国文学解釈と鑑賞:川柳・遊里誌:昭和三八・二」など)。
 さて、ここで、冒頭の、北尾政演(後の山東京伝)が描く「吉原傾城新美人合自筆鏡」の主要な遊女(花魁)は、「太夫・格子・端」のランクの、その当時の名称の如何を問わず、最高級の「太夫」クラスであることは言うまでもない。
 と同時に、「山東京伝(北尾政演)・酒井抱一(屠龍・尻焼猿人)・大田南畝(四方赤良))らが吉原詣でするのは、この引手茶屋(妓楼・蔦屋耕書堂などのサロンを含む)などで繰り広げられる「文化サロン」(「連」「宴」「遊びの場」「交遊・ネットワーク」等々)での人との交歓が主で、単なる、いわゆる「傾城(遊女)」との「男女間の情愛」などを直接的に意図してのものではないということなのである。

  美しい花をちらすと二十七 (『柳多留一四』三一)
  二十八才で人間界へ出る  (『柳多留二八』一七)
  二十八からふんどしが白くなり(『柳多留二五』一〇)

 吉原というのは、良くも悪くも、三千人を超える遊女中心の世界であって、その遊女による「宴=晴」の空間であると同時に、その遊女の働きに因って一万人以上の人間が生活しているという「娑婆=褻」の空間でもある。
 そして、この吉原の主役の遊女は、厳しい年齢制限があって、二十七歳で「人間界=娑婆」へ出て、二十八歳からは、「赤い湯文字(ふんどし)」から「白い湯文字」を着けなければならないという、厳然たる事実の中に身を置いているのである。

 ここで、またまた、前回に引き続き、「山東京伝を始め、大田南畝、そして、出家後の、酒井抱一などの面々が、吉原の遊女たちを、己の伴侶とするのか」という問い掛けに対して、「その一端は、上記の、北尾政演(山東京伝)著『〔新〕美人合自筆鏡』(「吉原傾城新美人合自筆鏡」)を紐解けば合点が行くように、当時の最高級の女性が、この吉原に結集していたことと、今回、取り上げた、この吉原の女性の年齢制限も、大きく関係していると思われることも、付記して置きたい。
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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その九) [酒井抱一]

その九 江戸の粋人たち(南畝・抱一・山東京伝)の伴呂(吉原の才媛たち)

四方赤良.jpg

宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)画『吾妻曲狂歌文庫』所収「四方赤良(大田南畝)」
http://www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=Atomi-000900&f12=1&-sortField1=f8&-max=40&enter=portal

 大田南畝は、寛延二年(一七四九)、牛込御徒組屋敷(新宿区中町三七番地)で生まれた。御徒組とは歩兵隊であり、江戸城内の要所や将軍の外出の警護を任とする下級武士の集団で、組屋敷にはその与力や同心が住んでいた。
 十五歳の頃、牛込加賀町の国学者内山賀邸に学んだ。この賀邸の門から、後に江戸狂歌三大家と呼ばれる、「大田南畝(おおたなんぼ)・唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)・朱楽菅江(あっけらかんこう)」が輩出した。
 明和四年(一七六七)南畝一代の傑作、狂詩集『寝惚先生文集』が刊行された。その「序」は、「本草学者・地質学者・蘭学者・医者・殖産事業家・戯作者・浄瑠璃作者・俳人・蘭画家・発明家」として名高い「平賀源内」(画号・鳩渓=きゅうけい、俳号・李山=りざん、戯作者・風来山人=ふうらいさんじん、浄瑠璃作者・福内鬼外=ふくうちきがい、殖産事業家・天竺浪人=てんじくろうにん)が書いている。
 この狂詩集は当時の知識階級だった武士たちの共感を得て大ヒットする。時に、南畝は、弱冠十九歳にして、一躍、時代のスターダムにのし上がって来る。
 上記の『吾妻曲(あづまぶり)狂歌文庫』(宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)画)は、天明六年(一七八六)に刊行された。南畝が三十七歳の頃で油の乗り切った意気盛んな時代である。その頃の南畝の風姿を、北尾政演(山東京伝)は見事に描いている。
 この「四方赤良」(南畝の狂歌号)の賛は次のとおりである。

  あな うなぎ いづくの 山のいもと背を さかれて後に 身をこがすとは

 この赤良(南畝)の狂歌は、なかなかの凝った一首である。「あな=穴+ああの感嘆詞」「うなぎ=山芋変じて鰻となる故事を踏まえる」「いも=芋+妹(恋人)」「せ=瀬+背」「わかれ=分かれ(割かれ)+別れ」「こがす=焦がす(焼かれる)+(恋焦がれる)」などの掛詞のオンパレードなのである。
 「鰻」の歌とすると、「穴の鰻よ、いずこの山の芋なのか、その瀬で捕まり、背を割かれ、身をば焼かれて、ああ蒲焼となる」というようなことであろうか。そして、「恋の歌」とすると、「ああ、白きうなじの吾が妹よ、いずこの山家の出か知らず、恋しき君との、その仲を、引き裂かれたる、ああ、この焦がれる思いをいかんせん」とでもなるのであろうか。
 事実、この当時、大田南畝(四方赤良)は、吉原の遊女(三穂崎)と、それこそ一生一大の大恋愛に陥っているのである。その「南畝の大恋愛」を、『江戸諷詠散歩 文人たちの小さな旅(秋山忠彌著)』から、以下に抜粋をして置きたい。

【 狂歌といえば、その第一人者はやはり蜀山人こと大田南畝である。その狂歌の縁で、南畝は吉原の遊女を妾とした。松葉屋抱えの三穂崎である。天明期(一七八一~八九)に入って、狂歌が盛んとなり、吉原でも妓楼の主人らが吉原連なる一派をつくり、遊郭内でしばしば狂歌の会を催した。その会に南畝がよく招かれていたのである。吉原連の中心人物は、大江丸が想いをよせた遊女ひともとの主人、大文字屋の加保茶元成だった。南畝が三穂崎とはじめて会ったのは、天明五年(一七八五)の十一月十八日、松葉屋へ赴いた折であった。どうも南畝は一目惚れしたらしい。その日にさっそく狂歌を詠んでいる。
   香爐峰の雪のはたへをから紙のすだれかゝげてたれかまつばや
 三穂崎の雪のように白い肌に、まず魅かれたのだろうか。年が明けて正月二日には、
   一富士にまさる巫山の初夢はあまつ乙女を三保の松葉や
と詠み、三穂崎を三保の松原の天女に見立てるほどの惚れようである。三穂崎と三保の松原と松葉屋、この掛詞がよほど気に入ったとみえ、
   きてかへるにしきはみほの松ばやの孔雀しぼりのあまの羽ごろ裳
とも詠んでいる。そしてその七月、南畝はついに三穂崎を身請けした。ときに南畝は三十八歳(三十七歳?)、三穂崎は二十余歳だという。妾としてからは、おしづと詠んだ。当時の手狭な自宅に同居させるわけにもいかず、しばらくの間、加保茶元成の別荘に住まわせていた。いまもよく上演される清元の名曲「北州」は、この元成ら吉原連の求めに応じて、南畝が作詞したと伝えられている。 】

尻焼猿人一.jpg

宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)画『吾妻曲狂歌文庫』所収「尻焼猿人(酒井抱一)」
http://www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=Atomi-000900&f12=1&-sortField1=f8&-max=40&enter=portal

【 大田南畝率いる四方(よも)側狂歌連の、あたかも紳士録のような肖像集。色摺の刊本で、狂歌師五十名の肖像を北尾政演(山東京伝)が担当したが、その巻頭に、貴人として脇息に倚る御簾(みす)越しの抱一像を載せる。芸文世界における抱一の深い馴染みぶりと、グループ内での配慮のなされ方とがわかる良い例である。「御簾ほどになかば霞のかゝる時さくらや花の王とみゆらん」。】(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「作品解説・内藤正人稿」)

【 抱一の二十代は、一般に放蕩時代とも言われる。それはおそらく、松平雪川(大名茶人松平不昧の弟)・松前頼完といった大名子弟の悪友たちとともに、吉原遊郭や料亭、あるいは 互いの屋敷に入り浸り、戯作者や浮世絵たちと派手に遊びくらした、というイメージが大きく影響しているようなだ。だが、この時代、部屋住みの身であった彼は、ただただ酒色に溺れて奔放に暮らしていたわけではない。一七七七(安永六)年、兄の子でのちに藩主を継ぐ甥の忠道(ただひろ)が誕生したことで、数え年十七歳の抱一が酒井家から離脱を余儀なくされ、急激に軟派の芸文世界に接近していったことは確かである。だが、その後の彼の美術や文学の傾注の仕方は尋常ではない。その証拠に、たとえば後世に天明狂歌といわれる狂歌連の全盛時代に刊行された狂歌本には、若き日の抱一の肖像が収められ、並行して多くのフィクション、戯作小説のなかに彼の号や変名が少なからず登場する。さらにまた、喜多川歌麿が下絵を描いた、美しき多色刷りの狂歌集である『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(天明八年刊)にもその狂歌が入集するなど、「屠龍(とりゅう)」「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の両号で知られる抱一の俗文芸における存在感は大きかった。このうちの狂歌については、俳諧のそれほど高い文学的境地に達し切れなかったとはいえ、同時代資料における抱一の扱われ方は、二十代の彼の文化サロンにおける立ち位置を教えてくれる。 】(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「大名家に生まれて・内藤正人稿」)

 御簾ほどに なかば 霞のかゝる時 さくらや 花の王と見ゆらん (尻焼猿人)

 これは、尻焼猿人(抱一)が、この己の肖像画(山東京伝「画」)を見て、即興的に作った一首なのであろうか。とすると、この狂歌の歌意は、次のとおりとなる。

「京都の公家さんの御簾ならず、江戸前のすだれが掛かると、ここ吉原の霞の掛かった桜が、『花の王』のような風情を醸し出すが、そのすだれ越しの人物も、どこやらの正体不明の『花の王』のように見えるわい」というようなことであろうか。
 
 これが、「宿屋飯盛撰」の、「宿屋飯盛」(石川雅望 )作とするならば、歌意は明瞭となってくる。

「この『尻焼猿人』さんは、尊いお方で、御簾越しに拝顔すると、半ば霞が掛かった、その桜花が『百花の王』のように見えるように、なんと『江戸狂歌界の王』のように見えるわい」というようなことであろう。
 
 ほれもせず ほれられもせず よし原に 酔うて くるわの 花の下かげ(尻焼猿人)

 この狂歌は、『絵本詞の花』(宿屋飯盛撰・喜多川歌麿画、天明七年=一七八七)での尻焼猿人(抱一)の一首である。この時、抱一、二十七歳、その年譜(『酒井抱一と江戸琳派全貌(求龍堂)』所収)に、「十月十三日、忠以、徳川家斉の将軍宣下のため、幕府日光社参の名代を命じられ出立。抱一も随行。十六日に日光着。二十日まで。このとき、号「屠龍」。(玄武日記別冊)」とある。
 この頃は、兄の藩主忠以の最側近として、常に、酒井家を支える枢要な地位にあったことであろう。そして、上記の、「『屠龍(とりゅう)』『尻焼猿人(しりやけのさるんど)』の両号で知られる抱一の俗文芸における存在感は大きく」、且つ、「二十代の彼の文化サロンにおける立ち位置」は、極めて高く、謂わば、それらの俗文芸(狂歌・俳諧・浮世絵など)の箔をつけるために、その名を実態以上に喧伝されたという面も多かろう。
 そして、それらのことが、この「俗文芸」と密接不可分の関係にあった「吉原文化」と結びつき、上記の、「抱一の二十代は、一般に放蕩時代とも言われる。それはおそらく、松平雪川(大名茶人松平不昧の弟)・松前頼完といった大名子弟の悪友たちとともに、吉原遊郭や料亭、あるいは 互いの屋敷に入り浸り、戯作者や浮世絵たちと派手に遊びくらした、というイメージが大きく影響している」というようなことが増幅されることになるのであろう。
 しかし、その実態は、この、「ほれもせず ほれられもせず よし原に 酔うて くるわの 花の下かげ」のとおり、「この時代、部屋住みの身であった彼は、ただただ酒色に溺れて奔放に暮らしていたわけではない」ということと、後に、抱一は、吉原出身の「小鶯女史」を伴侶とするが、この当時は、吉原の花柳界の憧れのスターの一人であったが、抱一側としては、常に、酒井家における立つ位置ということを念頭に、分を弁えた身の処し方をしていたように思われる。
 これらのことについては、この『絵本詞の花』の画像と共に、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-06  

 また「抱一と小鶯女史」については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-28

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-01

 上記のアドレスの、「酒井抱一筆『紅梅図』(小鸞女史賛)・文化七年(一八一〇)作細見美術館蔵」関連のものを下記に再掲をして置きたい。

(再掲)

【 抱一と小鸞女史は、抱一の絵や版本に小鸞が題字を寄せるなど(『花濺涙帖』「妙音天像」)、いくつかの競演の場を楽しんでいた。小鸞は漢詩や俳句、書を得意としたらしく、その教養の高さが抱一の厚い信頼を得ていたのである。
小鸞女史は吉原大文字楼の香川と伝え、身請けの時期は明らかでないが、遅くとも文化前期には抱一と暮らしをともにしていた。酒井家では表向き御付女中の春條(はるえ)として処遇した。文化十四年(一八一七)には出家して、妙華(みょうげ)と称した。妙華とは「天雨妙華」に由来し、『大無量寿経』に基づく抱一の「雨華」と同じ出典である。翌年には彼女の願いで養子鶯蒲を迎える。小鸞は知性で抱一の期待によく応えるとともに、天保八年(一八三七)に没するまで、抱一亡きあとの雨華庵を鶯蒲を見守りながら保持し、雨華庵の存続にも尽力した。
本図は文化六年(一八〇九)末に下谷金杉大塚村に庵(後に雨華庵と称す)を構えてから初の、記念すべき新年に描かれた二人の書き初め。抱一が紅梅を、小鸞が漢詩を記している。抱一の「庚午新春写 黄鶯邨中 暉真」の署名と印章「軽擧道人」(朱文重郭方印)は文化中期に特徴的な踊るような書体である。
「黄鶯」は高麗鶯の異名。また、「黄鶯睨睆(おうこうけいかん)」では二十四節気の立春の次候で、早い春の訪れを鶯が告げる意を示す。抱一は大塚に転居し辺りに鶯が多いことから「鶯邨(村)」と号し、文化十四年(一八一七)末に「雨華庵」の扁額を甥の忠実に掲げてもらう頃までこの号を愛用した。
梅の古木は途中で折れているが、その根元近くからは新たな若い枝が晴れ晴れと伸びている。紅梅はほんのりと赤く、蕊は金で先端には緑を点じる。老いた木の洞は墨を滲ませてまた擦筆を用いて表わし、その洞越しに見える若い枝は、小さな枝先のひとつひとつまで新たな生命力に溢れている。抱一五十歳の新春にして味わう穏やかな喜びに満ちており、老いゆく姿と新たな芽吹きの組み合わせは晩年の「白蓮図」に繋がるだろう。
「御寶器明細簿」の「村雨松風」に続く「抱一君 梅花画賛 小堅」が本図にあたると思われ、酒井家でプライベートな作として秘蔵されてきたと思われる。
(賛)
「竹斎」(朱文楕円印)
行過野逕渡渓橋
踏雪相求不憚労
何處蔵春々不見惟 
聞風裡暗香瓢
 小鸞女史謹題「粟氏小鸞」(白文方印)    】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説96(岡野智子稿)」)

 この小鸞女史の漢詩の意などは、次のようなものであろう。

行過野逕渡渓橋(野逕ヲ過ギ行キ渓橋ヲ渡リ → 野ヲ過ギ橋ヲ渡リ)
踏雪相求不憚労(相イ求メ雪踏ムモ労ヲ憚ラズ → 雪ノ径二人ナラ労ハ厭ワズ) 
何處蔵春々不見惟(何處ニ春々蔵スモ惟イ見ラレズ → 春ガ何処カソハ知ラズ) 
聞風裡暗香瓢(暗裡ノ風ニ聞ク瓢ノ香リ → 暗闇ノ梅ノ香ヲ風ガ知ラスヤ)

山東京伝・吉原.jpg

北尾政演(山東京伝)著『〔新〕美人合自筆鏡』(「吉原傾城新美人合自筆鏡」)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288343

 この北尾政演(山東京伝)著『〔新〕美人合自筆鏡』(「吉原傾城新美人合自筆鏡」)についても、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-09

 この時代の抱一をして、「吉原文化の申し子」((『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「抱一の心の拠り所『吉原』・岡野智子稿」)とするならば、この抱一以上に、抱一と同年齢の、この山東京伝(浮世絵師・北尾政演)こそ、その名に相応しいであろう。
  安永八年(一七七九)、当時十九歳の山東京伝は、吉原・扇屋の菊園を知り、以後、かよいつめて、寛政二年(一七九〇)に、菊園を身請けし正式に妻に迎え入れる。しかし、この菊園は、寛政五年(一七九三)に、三十歳の若さで夭逝してしまう。
 その菊園の夭逝後、寛政九年(一七九七)、三十七歳の京伝は、吉原・弥八玉屋の玉の井を知り、寛政十ニ年(一八〇〇)に、妻に迎え、その名を百合と呼び、その弟と妹をも自分の家に引き取っているのである。
 何故、それほどに、山東京伝を始め、大田南畝、そして、出家後の、酒井抱一などの面々が、吉原の遊女たちを、己の伴侶とするのか、その一端は、上記の、北尾政演(山東京伝)著『〔新〕美人合自筆鏡』(「吉原傾城新美人合自筆鏡」)の全容を紐解くことによって了知されるであろう。
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