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「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その二) [光悦・宗達・素庵]

その二 「序」(その二)

鶴下絵和歌巻・全体.jpg

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻、別称『鶴図下絵和歌巻』」(絵・俵屋宗達筆 書・本阿弥光悦筆 紙本著色・34.0×1356.0cm・江戸時代(17世紀)・ 重要文化財・A甲364・京都国立博物館蔵)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

【 『鶴下絵和歌巻』の本紙は、厚葉の間似合紙で、表裏両面には厚く白色具引きが施されている。そのため、見た目の想像を裏切る重量感がある。幅三〇・一センチ、長さ一三五六・〇センチになる長巻の和歌巻だが、すべてを展開した状態で見れば、超横長画面の絵画作品である。表紙は原装で、石畳地牡丹丸文金襤、見返しは金箔地だ。保存は良好。
 『鶴下絵和歌巻』のように、長い巻物の全巻に、鶴の群れを連続して描ききった作品はこれまでになかった。その斬新な画面構成は、四〇〇年後のいまも新鮮な魅力を放っている。
 下絵には金銀泥を用い、巻首の箇所、画面右側下部の此方岸(こちらぎし・画面手前の浜辺)から、巻尾近くの、向こう岸を暗示させるもう一つの岸辺へ、海上高く、鶴の大群が鳴きながら飛び渡る光景が長大に描かれている。開いた嘴から、鶴の鳴き声が聞こえてくるようだ。(中略) 鶴は海を渡り、二つの岸辺の往還を繰り返す。本図には、広大な空間、いのちの輝きが描かれている。
 この「潮の満ち引き」のモチーフは、宗達画の重要モチーフであり、『平家納経』化城喩品(けじょうゆほん)の表紙絵・見返絵や宗達筆『松島図屏風』に見ることができる。そのモチーフは、いつまでも変わらぬ状態(常なる状態)はなにもないという無常観を表す。 】
(『宗達絵画の解釈学(林進著・慶文舎刊・2016年)』「モチーフは『潮の満ち引き』」)

ここに出てくる「鶴」・「潮の満ち引き」と『平家納経』化城喩品などの表紙絵・見返絵との関連については、『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館他主催)』図録の「1-26 光悦謡本(上製本)『俊寛』『殺生石』『千手重衡』『盛久』(四帖)」などで、その関連を見ることが出来る。

謡本・盛久・殺生石.jpg

参考C図 『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館他主催)』図録の「1-26 光悦謡本(上製本)『俊寛』『殺生石』『千手重衡』『盛久』(四帖)」の「二帖(左=盛久、右=殺生石)」 彩箋墨刷 各23.9×18.0㎝ 法政大学能楽研究所・法政大学鴻山文庫

【 江戸初期刊行の古活字本で、雲母摺模様を持つ光悦流書体の謡本を「光悦謡本」とよぶ。慶長期に復活された雲母摺模様で表紙を装飾した光悦謡本は、版行謡本史上、最も重要な謡本として、その美術的価値が高く評価されている。光悦謡本には、装幀面や節付の体系の違いなどから、十種類以上に分類されているが、角倉素庵刊行の「嵯峨本」の謡本がこの光悦謡本と同一なのか、光悦謡本の制作に本阿弥光悦がどの程度関与したのか、さらに光悦謡本の刊行の経緯などについては諸説があり、いまだ見解は定まっていない。
 この上製本は光悦謡本の中では最も早くに刊行されたものとされており、およそ慶長十年(一六〇五)から十二年(一六〇七)にかけての刊行とみられている。上製本の装幀面の特徴は、雲母模様を表紙にだけ摺り、本文料紙には雲母摺模様や色替り料紙をもたないことで、華麗さでは、特製本や色替り異装本に劣るが、光悦謡本の中でも最も流布した本の一つであったらしく、現在も比較的多くの伝本が残されている。
 なお、料紙装飾における雲母摺りは、いわゆる「桃山文化」の終焉とともに幕を閉じるが、雲母摺りの復活とほぼ時期を同じくして普及し始めた冊子本の表紙の空摺り文様は、江戸末期まで広く行われた。(高橋裕次稿) 】(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館他主催)』図録の「1-26 光悦謡本(上製本)『俊寛』『殺生石』『千手重衡』『盛久』(四帖)」)

 この「鹿と流水」の雲母摺模様の表紙を持つ謡本の「盛久」は、「平家納経」とゆかりの平家の主馬判官「盛久」をシテ(主人公)とする四番目物(五番立て演能の四番目に演ぜられる物)で、そのストリーは次のようなものである。

【観世十郎元雅作。長門本「平家物語」による。源氏に捕えられて鎌倉に送られることになった主馬判官(しゅめのはんがん)盛久は、護送役の土屋三郎に頼んで清水観音を訪れ祈願する。由比ケ浜で処刑されようとしたとき、盛久の手の経の巻物から発する光で太刀持ちは目がくらみ太刀を落とす。この話を耳にした頼朝は盛久を許す。】(『精選版 日本国語大辞典』)

〇 ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れ行く舟をしぞ思ふ
(「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」の巻頭首・「撰」一番上段・人麻呂の六首目・「前十五番歌合」十五番の左=人麻呂・『古今・序14と巻第九・羇旅歌409・よみ人知らず』)
〇 和歌の浦に潮満ち来れば潟をなみ 葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る
(「撰」三番上段・赤人の三首目・「前十五番歌合」十五番の左=赤人・『古今・序14』 ) 
(「表記は『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫))』『古今和歌集(窪田章一郎校注・角川ソフィア文庫』に因る。」)

【 『鶴下絵和歌巻』は歌仙名と本文は尚通増補本(注・後述)を用いながら、佐竹本『三十六歌仙』(注・後述)の歌仙の配列にならい、和歌本文を揮毫した。下絵として「州浜の景」「波濤の景」「海を鳴き渡る鶴の群れの景」を描く。そのモチーフは、和歌三神のひとり万葉歌人の山辺赤人の有名な詠歌「和歌の浦に潮満ち来れば潟(かた)をなみ 葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る」の叙景歌を絵画化したものである。 】(『宗達絵画の解釈学(林進著・慶文舎刊・2016年)』「「『鶴下絵和歌巻』の下絵の主題」)

 『宗達絵画の解釈学(林進著・慶文舎刊・2016年)』では、「和歌三神のひとり万葉歌人の山辺赤人の有名な詠歌『和歌の浦に潮満ち来れば潟(かた)をなみ 葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る』の叙景歌を絵画化したものである」とするのであるが、その叙景歌の「和歌の浦」のイメージだけではなく、「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れ行く舟をしぞ思ふ」(「人麻呂・人丸・よみ人知らず」作)の「明石の浦」そして、「平家納経」の「厳島の浦々」、さらに、平家物語に由来のある能「盛久」の処刑の場の「由比ガ浜」などのイメージをダブらせることも可能であろう。
 さらに付け加えるならば、『鶴下絵和歌巻』の巻頭の一首「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れ行く舟をしぞ思ふ」は人麻呂の作ではなく、隠岐の国に流刑になった小野篁(たかむら)作との伝承もあり(『今昔物語』)、承久の乱で敗北し、隠岐に配流された後鳥羽上皇のイメージをも連想させる。

1 みよし野は山もかすみて白雲のふりにし里に春は来にけり(摂政太政大臣=藤原良経『新古今・巻第一・春歌上』=『新古今』はこの歌から始まる)
2 ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山かすみたなびく(太上天皇=後鳥羽上皇=『新古今』の巻頭に次ぐ二番目の御製)
899 あまざかる鄙のなが路を漕ぎくれば明石のとよりやまと島見ゆ(人麿=『新古今・巻第十・羇旅歌)
1894 石川や瀬見の小河の清ければ月もながれを尋ねてぞすむ(鴨長明=『新古今・巻第十九・神祇歌』)

群鶴蒔絵硯箱.jpg

参考B図「群鶴蒔絵硯箱」一合「蓋表」(東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0048252

 この「群鶴蒔絵硯箱」の「「蓋表」は、「群鶴(千羽鶴)と流水(水紋)」の図である。この「流水」は、「『潮の満ち引き』のモチーフは、宗達画の重要モチーフであり、そのモチーフは、いつまでも変わらぬ状態(常なる状態)はなにもないという無常観を表す」(『林・前掲書』)と同一趣旨のものと解することが出来よう。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000196/files/975_15935.html

【 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。(中略)知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。 】(『方丈記(鴨長明著)』)

 『方丈記』の作者、鴨長明は、後鳥羽院に見出された歌人であった。その歌論書の『無名抄(「せみのを川事」)』に、「1894 石川や瀬見の小河の清ければ月もながれを尋ねてぞすむ」が『新古今和歌集』に入集したことに、「この哥(歌)の入りて侍るが、生死の余執(よしゅう=心に残って離れ去ることのない執着)ともなるばかり嬉しく侍るなり」としるしている。また、「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ」(『古今・序14と巻第九・羇旅歌409・よみ人知らず』)について、その『無名抄(「俊恵歌躰」)』で「是等こそ餘情内に籠り、景気空に浮びて侍れ」と師の俊恵の評を書きとどめている。

899 あまざかる鄙のなが路を漕ぎくれば明石のとよりやまと島見ゆ(人麿=『新古今・巻第十・羇旅歌)
〇 ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ(「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」の巻頭首・「撰」一番上段・人麻呂の六首目・「前十五番歌合」十五番の左=人麻呂・『古今・序14と巻第九・羇旅歌409・よみ人知らず』)
1 みよし野は山もかすみて白雲のふりにし里に春は来にけり(摂政太政大臣=藤原良経『新古今・巻第一・春歌上』=『新古今』はこの歌から始まる)
2 ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山かすみたなびく(太上天皇=後鳥羽上皇=『新古今』の巻頭に次ぐ二番目の御製)

 この『新古今集(899)』の「あまざかる…」の歌と『古今集(409)』の「ほのぼのと…」の歌とは、同じ「明石の浦」の景気の歌と解せよう。そして、その「やまと(大和)島」の、「みよし野(吉野=「み」は美称の接頭語=大和国の歌枕)」に春が訪れ、そして、その「天の香具山(大和三山の一つ畝傍山=「天」は天から人が降りてきたという伝説に由来する)」は、「ほのぼのと朝焼けの霞がたなびいている」という一連のイメージが彷彿と浮かんでくる。
 この『新古今集』の巻頭の一首の作者・藤原(九条)良経は、その「仮名序」を起筆し、さらに、「三十六歌仙絵巻(歌仙絵)」の白眉とされている「佐竹本三十六歌仙絵」の詞書を染筆したとの伝承のある九条家第二代当主で、その書は後京極流と称された書の名手である。

良経書状.jpg

参考D図 重要文化財 指定名称:紙本墨書九条良経消息(道家装束之事) 
後京極良経筆 1幅 紙本墨書 33.3×87.5 鎌倉時代・13世紀 東京国立博物館 B-2368
http://www.emuseum.jp/detail/100366/000/000%3Fd_lang%3Dja%26s_lang%3Dja%26word%3D%25E9%2581%2593%25E5%25AE%25B6%26class%3D%26title%3D%26c_e%3D%26region%3D%26era%3D%26cptype%3D%26owner%3D%26pos%3D1%26num%3D3%26mode%3Dsimple%26century%3D

【この書状は、良経(1169~1206)が子息・道家(1193~1252)の元服の儀式に際して着用する装束などの故実について、父・兼実(1149~1207)に質問したもの。それに対して、兼実が書状の余白に返答を書き記している。良経は、道家の昇殿の日取を三日が難しいならば五日でどうかと記し、息子の晴れ姿を待つ父親の心情が表れている。後京極良経は、法性寺流・藤原忠通の孫にあたる。藤原俊成や定家らと交流があり、自身の書は後京極流を生み出した。後京極流は、法性寺流を継承し発展させた流派である。】

 そもそも『新古今和歌集』は、後鳥羽上皇による勅撰であり、御自身の御製歌を二番歌にしているが、これは上皇の自信作の一つなのであろう。そして、この「ほのぼのと」の初句は、人麻呂作との伝承のある「ほのぼのと…」歌の、言わば「本歌取り」の一首とも解せよう。
 ここで、重要なことは、現存する最古の「佐竹本三十六歌仙」は、「後京極良経」(藤原良経=一一六九~一二〇六)の没する元久三年(一二〇六)に近い頃の成立と推計すると、『新古今集』が成った元久二年(一二〇五)前後に、後鳥羽院上皇が、藤原公任撰『三十六人撰』の三十六人の歌人の「似絵」(大和絵風の肖像画)を、「新三十六人歌合画帖」(「左方帖」十六番目)に登場する「信実朝臣」(藤原信実)に描かせ、その書は後京極良経に染筆させた
という推計も当然に許容されることであろう。
 そして、この後鳥羽院は、承久三年(一二二一)七月、承久の乱に敗れて隠岐に配流され、没する凡そ二十年間、『新古今集』の改訂、『後鳥羽院御自歌合』・『遠島歌合』・『時代不同歌合』そして『後鳥羽院御口伝』を編むなど精力的に和歌活動に没頭する。

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-19

(再掲)

三十六歌仙.jpg

酒井抱一筆「三十六歌仙図屏風」二曲一双 一六四・五×一八〇・〇㎝ ブライスコレクション(心遠館コレクション)→B図(下記のA図(歌仙名入り)と下記のメモ番号に一致

三十六歌仙二.jpg

A図(歌人名入り)
http://melonpankuma.hatenablog.com/entry/2018/07/06/200000

(藤原公任撰「三十六歌仙」)・(藤原公任撰「三十六歌仙」右方・左方)・(「百人一首)
 のメモ(A図=歌人名・B図番号と一致、「左・右」は「歌合」番号、「百」=『百人一首』)

  女流歌人(5)
28 伊勢:裳だけなので袖の色数が少ない、右手を顔に   右二 → 百19
15 小野小町:裳唐衣。顔を最も隠しぎみ。額に手を当てる 右六 → 百 9
36 斎宮女御:几帳に隠れる               左一〇
6 小大君:裳唐衣で左向き                 左一六
33 中務:裳唐衣で右手に扇、もしくは、顔が下向き     右一八
 
  僧侶(2) 
27 僧正遍昭:赤黄色の法衣で右上を向く         右四 → 百12
12 素性法師:画面左向き                左五 → 百21

  武官(4)
2 在原業平:青衣で矢を背負い右手を顎          左四 → 百17
19 藤原高光:赤衣で矢を背負う              右八
9 壬生忠岑:黒衣か白衣。片膝付き足裏を見せた背姿    右九 → 百30
34 藤原敏行:黒衣の武官姿、文官姿の時は右手を顔に   左一二→ 百18 

  翁(5)
7 柿本人麻呂:腕を開き、くつろいだ姿勢で画面左上を向く  左一 →百3
23 山部赤人:目尻に皺。狩衣で画面右を向き両手を膝     右三 →百4
11 猿丸太夫:黒袍か狩衣で画面左向きの横顔         左六 →百5
22 源順:白狩衣か赤袍で画面右向きの横顔         右一三
24 坂上是則:立てた笏を右手で押さえ画面右を振返る      左一五 →百31

  文官(20)→ 直衣・狩衣(9)
35 源重之:正面向き。左膝を立て扇を持った左手で頬杖     右一一
30 源信明:左手で頬杖をつき画面右方向に体を横に傾けて思案顔 右一二
5 藤原清正:画面右を振返る 左一三
18 藤原興風:左膝を立て手を顎に。衣冠束帯の時は左向きの横顔 左一四 →百34
17 清原元輔:赤衣もしくは画面右上を見て右手の笏を肩にかつぐ 右一四 →百42
13 藤原元真:太め。右もしくは右上を向いた横顔で萎烏帽子が前に倒れる 右一五
20 藤原仲文:右を向いた横顔で萎烏帽子が後に倒れる          右一六
14 壬生忠見:丸顔、右手に扇 右一七 →百41
8 平兼盛:太め。㉕と比べてより丸顔で体を傾ける        左一八 →百40

  文官(20)→ 衣冠束帯(11)
21 紀貫之:立てた笏を左手で押さえる             右一 →百35
4 凡河内躬恒:笏を持つ左手を顎に左膝を立てて振返る       左二 →百29
16 大伴家持:右手に笏を持ち、画面右を振返る         左三 →百 6
32 紀友則:両手を腹の前で組んで目をつぶる          右五 →百33
3 藤原兼輔:右手笏を持ち顔の前に立てる           左七 →百27
31 藤原朝忠:瓜実顔もしくは太めで笏を持つ横顔        右七 →百44
1 藤原敦忠:手をかざして画面右を振返る          左八 →百43
10 源公忠:立てた笏を右手で押さえる             左九
25 大中臣頼基:大きく太めの体。画面右向きで持ち物なし    右一〇
29 源宗于:画面左向きで丸顔                  左一一 →百28
18 大中臣能宣:画面左向き。もしくは、笏を両手で構える     左一七 → 百49

 ここで、次のこと追記して置きたい。

(追記一)『本阿弥行状記』の「後鳥羽院関連」について(『本阿弥行状記と光悦(正木篤三著)』に因る)

【中巻125段】後鳥羽院の菊一文字のこと(「菊一文字は・・・」)

菊一文字は後鳥羽院勅作、稀なるものにて、甚だ御作の趣御名人なり。これは能神の御神禮などに可致ものなり。適ありても、大名小名方にてもさし科にはしたまはず、甚だおそれあることなり。

【中巻126段】後鳥羽院の遠島御百首のこと(「遠島御百首の・・・」)

 遠島御百首の内後鳥羽院遠島御製
  我こそは新しまもりよおきの海のあらき浪風心してふけ
 家隆卿より島へ参られける。程へて立帰らんとせられければ、波風あらく吹て船の出べき様なければかく御製。


(追記二)参考C図 『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館他主催)』図録の「1-26 光悦謡本(上製本)『俊寛』『殺生石』『千手重衡』『盛久』(四帖)」・「二帖(左=盛久、右=殺生石)」の「殺生石」関連について

www.tessen.org/dictionary/explain/sessyoseki

【 本作では、鳥羽院を苦しめた玉藻前(妖怪 九尾の狐)の故事が描かれています。
後シテが登場する場面で述べられることによれば、この妖怪は、インドでは班足太子(はんぞくたいし)に命じて千人の王を殺させた塚の神であり、また中国では周王朝の幽王を誑かして国を傾けさせた后 褒姒(ほうじ)であるといい、その妖怪が日本へ渡ってきたのが、この玉藻前であるといいます。能楽の成立した中世の世界観では、天竺(インド)・震旦(中国)・本朝(日本)の三国によってこの世界は構成されていると考えられており、まさしく全世界を股にかけて人々を恐怖に陥れる妖怪として、この玉藻前(九尾の狐)は造形されていると言えましょう。その妖怪の執心が凝り固まった那須野の殺生石も、高僧・玄翁の祈祷によって打ち砕かれることとなります。先端がとがっていない金づちのことを「げんのう(玄能/玄翁)」と言いますが、それは本作で玄翁和尚が巨石を打ち砕いたところから「石を砕くもの」という意味で命名されたものであり、それだけ本作は人口に膾炙したものであったと言えましょう。 】

(追記三)『平家納経』願文見返絵「鹿図」関連について

https://j-art.hix05.com/17sotatsu/sotatsu01.heike.html

宗達・鹿.jpg

(紙本金銀泥 27.5×24.8㎝ 厳島神社 国宝)
【俵屋宗達の作品のうち、年代がはっきりしている最古のものは、慶長七年(1602)に行われた厳島神社所蔵「平家納経」補修作業に参加した際の補作である。平家納経とは、長寛二年(1164)に、平清盛が一門を率いて厳島神社に参拝したした際に奉納した経巻で、願文を添えて三十三巻からなり、各巻とも法華経の経文に金銀泥で描かれた図柄が添えられていた。これの保存状態が悪くなったため、補修作業が行われたわけだが、その作業に宗達も加わったのである。平家納経といえば、重要文化財として認識されていたはずであり、それの補修作業に加わったということは、宗達の技量が世に認められていたことを物語ると考えてよい。この時宗達は、三十歳前後だったと推測される。】
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