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「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その八) [光悦・宗達・素庵]

その八 藤原長能

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の四「西行法師・式子内親王」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)(MOA美術館蔵)
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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の五「藤原長能・和泉式部・曽根好忠」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)(MOA美術館蔵)
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「鹿下絵新古今和歌巻(藤原長能)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

8 藤原長能:日暮の鳴く夕暮ぞうかりけるいつも尽きせぬおもひなれ共
(釈文)日暮濃鳴夕暮曽う可里け類い徒も盡世怒おも日奈連共

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nagatou.html#AT

   題しらず
ひぐらしのなく夕暮ぞ憂かりけるいつも尽きせぬ思ひなれども(新古369)

【通釈】蜩が鳴いている夕暮は憂鬱だ。いつだってこの思いは消え果てることがないのだけれども。
【語釈】◇尽きせぬ思ひ 思っても思っても、消え去らない思い。
【補記】新古今集では秋歌に分類されている歌であるが、夕暮の憂鬱は、恋情にもとづくものとして詠まれることが多い。『長能集』の詞書は「八月ばかりの夕ぐれに」とあり、題詠でなく即興の歌らしい。

(「藤原長能」周辺メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nagatou.html#AT

藤原長能(ふじわらのながとう(-ながよし) )天暦三~没年未詳(949-?)

 生年は『長能集』勘物の記載年齢より逆算。父は北家長良流、藤原倫寧(ともやす)、母は源認の娘。兄弟に肥前守理能(まさとう)、姉に道綱母がいる。子には実正がいる。菅原孝標女は姪にあたる。
 天延三年(975)三月、一条中納言為光家歌合に出詠。同五年十月、右近将監。永観二年(984)八月、蔵人。花山天皇の側近として寵遇され、寛和元年(985)八月の内裏歌合、同二年六月の内裏歌合に出詠。花山天皇譲位後の永延二年(988)、図書頭。正暦二年(991)、上総介。上総介を解任された後は散位であったが、藤原道長の春日詣・賀茂詣などに陪従した。寛弘二年(1005)正月、従五位上。寛弘六年(1009)正月、伊賀守。以後の消息は不明。
 家集『長能集』がある。拾遺集初出。勅撰入集は五十一首(金葉集三奏本を除く)。『袋草紙』などによれば、能因法師の歌の師となって秘伝を授けたといい、歌道師承の初例とされる。能因撰『玄々集』では最多入集歌人。中古三十六歌仙の一人。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その六)

 『日本文学史早わかり』(丸谷才一著・講談社)の巻末に付せられている『日本文学史早わかり』付表は、大変にユニークで、次の五区分である。

第一期 八代集以前(宮廷文化準備期)→万葉集
第二期 八代集時代(宮廷文化全盛期)→古今集・後撰集・拾遺集・後拾遺集・金葉集・詞花集・千載集・新古今集
第三期 十三代集時代(宮廷文化衰微期)→新勅撰集・続後撰集・続古今集・続拾遺集・新
後撰集・玉葉集・続千載集・続後拾遺集・風雅集・新千載集・新拾遺集・新後拾遺集・新続古今集・
第四期 七部集時代(宮廷文化普及期)→芭蕉七部集・其角七部集・蕪村七部集 他
第五期 七部集時代以後(宮廷文化絶滅期)→アララギ年刊歌集(一~十六)・ホトトギス雑詠全集(一~九) 他

 この付表に、今回の「鹿下絵新古今和歌巻」の関連歌人を付記すると次のとおりとなる。

第二期(九世紀半ば~) 八代集時代(宮廷文化全盛期)→ 古今集・後撰集・拾遺集(長能・好忠・※円融院)・後拾遺集(※三条院・頼宗・和泉式部・相模)・金葉集(※堀川院・基俊・忠通)・詞花集(頼政)・千載集(俊成・西行・重家)・新古今集(※後鳥羽院・式子内親王・慈円・有家・定家・家隆・長明・良経・雅経・通具・通光・俊成女・宮内卿)
※円融院(第六四代天皇) ※三条院(第六七代天皇) ※堀川院(第七三代天皇) ※後鳥羽院(第八二代天皇)

 今回の歌の作者(藤原長能)は、「後撰集・拾遺集(長能・好忠・※円融院)」時代の歌人で、「千載集(俊成・西行・重家)」時代以前の、「中古三十六歌仙」の一人である。
 「中古三十六歌仙」は、藤原範兼(1107-1165)による「歌仙歌合形式」の秀歌撰で、公任の『三十六人撰』を踏襲し、これに漏れた歌人と、それより後の時代の歌人から三十六人を選んだものである」。勅撰集で言えば、古今集初出の歌人から後拾遺集初出の歌人に及んでいる。
 この藤原秀能は、漂泊行脚の歌人として名高い能因法師の歌の師として知られ、歌道師承の初例とされている。
 ここで、上記(上段)の絵図では、「藤原長能」の名前のみのもので、次(中段)の、右の一行目から五行目までの、上記の「釈文」の揮毫が全てで(上記の下段の絵図のとおり)、これに対応する「鹿」は描かれていない。
 これは、前回の「式子内親王」の絵図(「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その七)で紹介した、「式子内親王と定家」をモデルにしている夢幻能の「定家」ですると、その「地謡(じうたい・ぢうたひ)」(謡曲の地の文の部分を大勢で謡う場面)や「地クセ」(地謡によってシテの舞うクセ「舞グセ」と、シテがじっと座ったまま動かぬクセ(「居グセ」)のような場面の雰囲気がイメージされてくる。

【(地クセ) 「あはれ知れ、霜より霜に朽果てて、世々に古りにし山藍の、袖の涙の身の昔、憂き戀せじと禊せし、賀茂の齋院にしも、そなはり給ふ身なれ共、神や受けずも成にけん、人の契りの、に出けるぞ悲しき、包むとすれど徒し世の、徒なる中の名は洩れて、外の聞えは大方の、空恐ろしき日の光、雲の通路絶え果てて、乙女の姿留め得ぬ、心ぞ辛きもろともに。

(地)「君葛城の峰の雲と、詠じけん心まで、思へばかかる執心の、定家葛と身は成て、此御跡にいつとなく、離れもやらで蔦紅葉の、色焦がれ纏はり、荊の髪も結ぼほれ、露霜に消えかへる、妄執を助け給へや。

(地)「この上は、われこそ式子内親王、是まで見え來れ共、まことの姿はかげろうふの、石に殘す形だに、それ共見えず蔦葛、苦しびを助け給へと、言ふかと見えて失せにけり、言ふかと見えて失せにけり

(地)「一味の御法の雨の滴り、皆潤ひて草木国土、悉皆成佛の機を得ぬれば、定家葛もかかる涙も、ほろ/\と解け広ごれば、よろ/\と足弱車の、火宅を出でたる有難さよ。この報恩にいざさらば、ありし雲井の花の袖、昔を今に返すなる、其舞姫の小忌衣。

(地)「露と消えても、つたなや蔦の葉の、葛城の神姿、恥づかしやよしなや、夜の契りの、夢のうちにと、有つる所に、歸るは葛の葉の、もとのごとく、這ひ纏はるるや、定家葛、這ひ纏はるるや、定家葛の、はかなくも、形は埋もれて、失せにけり。   】

 上記の「定家」は、下記のアドレスのものに因っている。

http://www5.plala.or.jp/obara123/u1123tei.htm

また、「能の用語」などは、下記のアドレスのものなどを参考にしている。

https://kotobank.jp/word/能の用語-1614556
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