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「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十三) [光悦・宗達・素庵]

その十三 右衛門督通具

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の七「右衛門督通具・皇太后宮太夫俊成女」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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「鹿下絵新古今和歌巻(「右衛門督通具」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

13 右衛門督通具: 深草の里の月影さびしさもすみこしまゝの野辺の秋かぜ(所蔵者不明)
(釈文)   千五百番う多合尓
深草能里濃月影左日し佐も須見こしま々濃野邊濃秋可世

(「源通具」周辺メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mititomo.html

  千五百番歌合に
深草の里の月かげさびしさもすみこしままの野べの秋風(新古374)

【通釈】草深く繁った深草の里、そこを照らす月の光――久々に帰って見れば、月は昔のままで、野辺を吹く秋風の淋しさもまた、私がここにずっと住み、月も常に澄んだ光を投げかけていた、あの頃のままであったよ。
【語釈】◇深草のさと 平安京の南郊。「草深い里」の意が掛かる。◇さびしさも 月は昔のままだが、野辺の秋風のさびしさも…という気持で「も」を用いる。◇すみこしままの ずっとすんでいた頃のままの。澄み・住み、掛詞。
【補記】二句切れ。「月影のさびしさといふにはあらず、三の句は下へつけて心得べし」(宣長『美濃の家づと』)。下記本歌の主人公が、年を経て深草に帰って来た、という設定であろう。
【本歌】在原業平「古今集」、「伊勢物語」一二三段
年をへてすみこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ
【参考歌】藤原俊成「久安百首」「千載集」
夕されば野べの秋風身にしみてうづら鳴くなりふか草のさと

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十一)

 前回(逍遥ノート・その十)、絵図の三匹の鹿を、「藤原俊成・俊成卿女・式子内親王」と見立てたのだが、今回の絵図では、四匹の鹿の図柄となっている。そして、今回の歌の作者・源通具(堀川大納言・堀川通具)と俊成卿女(皇太后宮大夫俊成女)とは、一男一女を儲けた夫婦の関係にあったが、後に、二人は離婚し、俊成卿女は晩年に出家し、嵯峨禅尼・越部禅尼と呼ばれていた。
 この通具にとって、藤原俊成は、妻の俊成卿女との関係で義父であったということになるが、この通具の歌は、俊成の代表作の一つとされている、上記の「参考歌」を念頭に置いてのものであろう

 夕されば野べの秋風身にしみてうづら鳴くなりふか草のさと(俊成「千載集」259)
 深草の里の月かげさびしさもすみこしままの野べの秋風(通具「新古今集」374)

 そして、この二首とも、上記の「本歌」の『伊勢物語(一二三段)』にあることは、これまた明瞭なことであろう。

『伊勢物語(一二三段)』

 むかし、男ありけり。深草に住みける女を、ようよう、あきがたにや思ひけむ、かかる歌をよみけり。
  年を経て住みこし里を出でていなば
   いとゞ深草野とやなりなむ
女、返し、
   野とならば鶉となりて鳴きをらむ
   狩にだにやは君は来ざらむ

さらに、この俊成の歌には、『無名抄(鴨長明著)』の「深草の里おもて歌俊成自賛歌のこと」が、その背景にある。

『無名抄(鴨長明著)』(「俊成自賛歌のこと」)

 俊恵(鴨長明の師)いはく、「五条三位入道(俊成)のもとにまうでたりしついでに、『御詠の中には、いづれをかすぐれたりとおぼす。よその人さまざまに定め侍れど、それをば用ゐ侍るべからず。まさしく承らんと思ふ。』と聞こえしかば、
『 ※夕されば 野辺の秋風 身にしみて うづら鳴くなり 深草の里
これをなん、身にとりてはおもて歌(面歌=代表歌)と思い給ふる。』と言はれしを、俊恵またいはく、『世にあまねく人の申し侍るは、
 ※面影に 花の姿を 先立てて 幾重越え来ぬ 峰の白雲
これを優れたるように申し侍るはいかに。』と聞こゆれば、『いさ、よそにはさもや定め侍るらん。知り給へず。なほみづからは、先の歌には言ひ比ぶべからず。』とぞ侍りし。」 と語りて、これをうちうちに申ししは、「かの歌は、『身にしみて』という腰の句(第三句)いみじう無念(残念)におぼゆるなり、これほどになりぬる歌(素晴らしい歌)は、景気(景色)を言ひ流して、ただそらに(なんとなく)身にしみけんかしと思はせたるこそ、心にくく(奥ゆかしく)も優(優美)にも侍れ。いみじう言ひもてゆきて、歌の詮(眼目)とすべきふしを、さはと言ひ表したれば、むげにこと浅くなりぬる。」とて、そのついでに、
「わが歌の中には、
 ※み吉野の 山かき曇り 雪降れば ふもとの里は うちしぐれつつ
これをなむ、かのたぐひ(代表歌)にせんと思う給ふる。もし世の末に、おぼつかなく言ふ人もあらば、『かくこそ言ひしか。』と語り給へ。」とぞ。

 ちなみに、『日本古典文学大系65 歌論集・能楽論集』 の「校注(久松潜一)」の※印の歌の「歌意」などは、次のとおりである。

※夕されば 野辺の秋風 身にしみて うづら鳴くなり 深草の里(俊成「千載集」、俊成三十七歳の詠)
(歌意:夕方になると野辺の秋風が身にしみるように感ぜられて鶉が寂しく鳴いているらしいよ。)

※面影に 花の姿を 先立てて 幾重越え来ぬ 峰の白雲(俊成「新勅撰集」、「遠尋山花」の歌)
(歌意:遠山の白雲を満開の桜の花と思って、それにひかされてつい幾つもの峰を越えてきてしまったことか。)

※み吉野の 山かき曇り 雪降れば ふもとの里は うちしぐれつつ(俊恵「新古今」588)
(歌意:吉野山の空がかき曇り雪が降ると山里の里にはおりおり時雨が過ぎてゆく。「つつ」は反復を示す接続助詞)。)

 ここで、歌道家(歌の家=宮廷和歌の指導者の家系)の三家について触れたい。

六条藤家(白河法皇の乳母子として権勢をふるった藤原顕季を祖とする歌道の家=「人麻呂影供」の創始と継承)

藤原顕輔(顕季の息子)→崇徳上皇の院宣により『詞華和歌集』を撰進。「百人一首79」
藤原清輔(顕輔の息子)→『続詞華和歌集』を撰集するも二条天皇の崩御に伴い勅撰和歌集に至らなかった。「百人一首84」

六条源家(後一条天皇から堀河天皇までの六朝に仕えた源経信を祖とする「六条藤家」に対する歌道家の名称)

源経信→漢詩文、有職故実にも通じ、詩歌管弦に優れて藤原公任と共に三船の才と称された。「百人一首71」
源俊頼(経信の息子)→堀河天皇のもとで歌壇の指導者となり、白河院の命により『金葉和歌集』を撰進。「百人一首74」
俊恵法師(俊頼の息子)→東大寺の僧、「保元の乱」時に僧坊を歌林苑と称し、歌を詠む一種の歌壇を形成し、そこから、鴨長明・寂連・小侍従・二条院讃岐・殷冨門院大輔などが輩出した。「百人一首85」

御子左家(藤原道長の第六子・長家が「御子左第」に住んでいたことによる歌道家の名称)

藤原俊成(道長の六男・長家四世の孫)→後白河院の命により『千載和歌集』を撰して歌道家「御子左家」を築く。「百人一首83」
藤原定家(俊成の息子)→後堀河天皇の命を受け『新勅撰和歌集』の単独撰者を務め、『小倉百人一首』を編んだ。「百人一首97」
寂蓮(俊成の甥・養子)→新古今集撰者の一人となったが、撰なかばで没。「百人一首87」
俊成卿女(俊成の孫・養女)→後鳥羽院に出仕して新古今時代の代表的な女流歌人。
藤原為家(定家の息子)→その子「為氏(二条家)・為教(京極家)・為相(冷泉家)」の三家に分かれる。

 宮廷文化全盛期の「八代集時代」の歌壇の主流というのは、「六条藤家」(藤原顕季・顕輔の家系)であったが、それに対抗する形で、「六条源家」(源経信・俊頼の家系)が、当時の歌道界を二分していた。その末期の「保元の乱・平治の乱」の前後に、これら旧派(伝統派)の「万葉集」・「古今集」風の歌壇に、新しい第三の風(新派)の「新古今」風の勢力が大勢を占めるようになった。その新派の中心に位置したのが、御子左家(藤原俊成・定家)ということになる。

夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろやに秋風ぞ吹く(経信「百人一首71」)
憂かりける人をはつせの山おろしよはげしかれとは祈らぬものを(俊頼「百人一首74」)
秋風にたなびく雲のたえ間より漏れ出づる月の影のさやけさ(顕輔「百人一首79」)
世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる(俊成「百人一首83」)
ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき(清輔「百人一首84」)
来ぬ人をまつ帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ(定家「百人一首」97)

 この「六条源家」の「経信・俊頼」に親子に、「御子左家」の「俊成」は大きな影響を受けていた。上記の『伊勢物語(一二三段)』・『無名抄(鴨長明著)』(「俊成自賛歌のこと」)に係わる「俊成」の歌は、「経信・俊頼」に親子の、次の歌が念頭にあることは明瞭であろう。

夕されば野べの秋風身にしみてうづら鳴くなりふか草のさと(俊成「千載集」259)
夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろやに秋風ぞ吹く(経信「百人一首71」)
鶉鳴く眞野の入江の濱風に尾花なみよる秋の夕暮(俊頼「金葉集」239)

 これらのことに関して、『後鳥羽院御口伝』では、次のように記している。

【 大納言經信、殊にたけもあり、うるはしくして、しかも心たくみに見ゆ。又俊頼堪能の者なり。哥の姿二樣によめり。うるはしくやさしき樣も殊に多く見ゆ。又もみもみと、人はえ詠みおほせぬやうなる姿もあり。この一樣、すなはち定家卿が庶幾する姿なり。
うかりける人をはつせの山おろしよはげしかれとは祈らぬ物を
この姿なり。又、
  鶉鳴く眞野の入江の濱風に尾花なみよる秋の夕暮
うるはしき姿なり。故土御門内府亭にて影供ありし時、釋阿は、これ程の哥たやすくいできがたしと申しき。道を執したることも深かりき。難き結題を人の詠ませけるには、家中の物にその題を詠ませて、よき風情をのづからあれば、それを才學にてよくひき直して、多く秀哥ども詠みたりけり。 】(『後鳥羽院御口伝』)

ちなみに、次の三句も、相互に響き合っている雰囲気を有している。

憂かりける人をはつせの山おろしよはげしかれとは祈らぬものを(俊頼「百人一首74」)
世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる(俊成「百人一首83」)
来ぬ人をまつ帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ(定家「百人一首」97)

一首目の俊頼の歌の三句目の「山おろしよ」は、『千載集』では、「山おろし」で「よ」は表記されていない。しかし、上記の『後鳥羽院御口伝』で、この「よ」が添加されている。
この「よ」について、「『初瀬の山おろし(よ)』は呼びかけの挿入句としか読みようがないから、『よ』はむしろ精彩と力を一首に添える珍重すべき字余りというべきで、かりにこれが定家の独断に発したものとしても、賞されてよい発見である」(『別冊太陽№1 日本のこころ 百人一首』所収「百首通見(安東次男稿)」)との評がなされている。
 そして、この呼びかけの「よ」は、上記の二首目の俊成の代表歌の初句に「世の中よ」と活かされている。
 さらに、この『後鳥羽院御口伝』で、この俊頼の歌(恋歌)は、「もみもみ(巧緻な風体)と、人はえ詠みおほせぬやうなる姿もあり。この一樣、すなはち定家卿が庶幾する(理想とする)姿なり」との評を下している。
 この「定家卿が庶幾する(理想とする)姿なり」を、定家が一首の歌(恋句)に託したものこそ、上記の三首目の定家の歌(定家「百人一首」97)ということになろう。さらに、「この歌は隠岐遠島後の後鳥羽院も定家家隆両卿撰歌合五十番の中に採っている。けだし、『やさしくもみもみとあるように見ゆる歌、まことにありがたく(『後鳥羽院御口伝』)見える定家風をよく示した一首であろう』(『別冊太陽№1 日本のこころ 百人一首』所収「百首通見(安東次男稿)」)と喝破されている。
 さらに、上記の『後鳥羽院御口伝』の中に、「故土御門内府亭にて影供ありし時」の一節があり、この「土御門内府」は、今回の歌の作者・源通具(堀川大納言・堀川通具)の実父・源通親(正二位内大臣)であり、その「影供ありし時」とは、「『人丸御供』の略。人麿の像を掲げ、供物を供えて歌合又は歌会を行なわれた時」(『日本古典文学大系65 歌論集・能楽論集』 の「校注(久松潜一)」を意味する。
 即ち、この「故土御門内府亭にて影供ありし時」とは、「御子左家」(「俊成・定家」歌壇)と相対立している「六条藤家」(「顕季・顕輔・清輔」歌壇)の「歌合又は歌会」の時ということなのである。そして、この「六条藤家」の後ろ盾の中心人物が、正二位内大臣・源通親その人ということになる。
 そして、この「後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後白河院および後鳥羽天皇→後鳥羽院および土御門天皇」の「七朝にわたり奉仕し、村上源氏の全盛期を築いて、土御門通親と呼ばれた」その人「源通親」に相対立していたのが、「御子左家」(「俊成・定家」歌壇)を支えていた「九条兼実」(通親と同じく六朝に奉仕し、「五摂家の一つ、九条家の祖であり、且つ、その九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある」・「従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれた通称・後法性寺関白」)ということになる。
 その九条兼実の継嗣が、藤原(九条)良経(九条兼実の子、藤原忠通の孫、摂政太政大臣、『新古今集』の「仮名序」の起草者)で、源通親の継嗣が、源通具(右大将・源通親の次男、正二位・大納言、堀川家の祖、『新古今集』の撰者の一人、「定家」と親しく「俊成卿女」の夫で後に離別。曹洞宗の開祖・道元は異母弟といわれている)ということになる。

 さて、冒頭に戻って、今回の絵図の四匹の鹿は、前回の見立ての三匹の鹿の「雄鹿=藤原俊成」(釈阿)、「白描」の雌鹿=「式子内親王」、もう一匹の雌鹿=「皇太后宮大夫俊成女」としたが、それに加えっての一匹の「白描」の雌鹿は、先に、下記のアドレスで登場している、藤原俊成女と同じく、後鳥羽院が見出した夭逝の女流歌人「宮内卿」をイメージして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-08

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