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「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十四) [光悦・宗達・素庵]

その十四  皇太后宮太夫俊成女

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「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の七「右衛門督通具・皇太后宮太夫俊成女」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

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「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(俊成女・家隆)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦 (MOA美術館蔵)

14 皇太后宮太夫俊成女:おほあらきのもりの木の間をもりかねて人だのめなる秋の夜の月(MOA美術館蔵)
(釈文) 五十首多天まつ利し時 林間濃月といふ事を
お保安ら支能も利濃木乃間も毛利可年天 人だ乃め那類秋濃夜濃月   

(「皇太后宮太夫俊成女」周辺メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzejo.html#AT

   五十首歌奉りし時、杜間月といふことを
大荒木の杜の木の間をもりかねて人だのめなる秋の夜の月(新古375)

【通釈】「大粗」と名のつく大荒木の森は、月の光をよく透すはずなのに、実際には葉が茂っている。それで光はよく漏れず、秋の夜の月は人にむなしい期待をさせるばかりである。
【語釈】◇大荒木の杜 山城国の歌枕。所在不詳であるが、桂川の河川敷にあった森ともいう。古今集の本歌のように、下草を詠んで我が身の老いや落魄を歎く例が多いが、この歌では、その意味はない。「おほあら」に大粗を掛け、木の葉のまばらな森の意を掛けている。◇人だのめなる 人に空頼みをさせる。むなしい期待をさせる。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
大荒木の森の下草老いぬれば駒もすさめず刈る人もなし

藤原俊成女  生没年未詳(1171?~1254?)

 藤原俊成の養女。実父は尾張守左近少将藤原盛頼、母は八条院三条(俊成の娘)。俊成は実の祖父にあたるが、その歌才ゆえ父の名を冠した「俊成卿女」「俊成女」の名誉ある称を得たのであろう。晩年の住居に因み嵯峨禅尼、越部禅尼などとも呼ばれる。勅撰集等の作者名表記としては「侍従具定母」とも。
 治承元年(1177)、七歳の頃、父盛頼は鹿ヶ谷の変に連座して官を解かれ、八条院三条と離婚。以後、俊成卿女は祖父俊成のもとに預けられたものらしい。建久元年(1190)頃、源通具(通親の子)と結婚し、一女と具定を産む。しかし夫は正治元年(1199)頃、幼帝土御門の乳母按察局を妻に迎え、以後の結婚生活は決して幸福なものではなかったようである。
 後鳥羽院主催の建仁元年(1201)八月十五日撰歌合が「俊成卿女」の名の初見。同年の院三度百首(千五百番歌合)にも詠進している。同二年(1202)、後鳥羽院に召され、女房として御所に出仕する。院歌壇の中心メンバーの一人として、「水無瀬恋十五首歌合」「八幡宮撰歌合」「春日社歌合」「元久詩歌合」「最勝四天王院障子和歌」などに出詠した。
 建保元年(1213)、出家。以後も旺盛な作歌活動を続け、建保三年(1215)の「内裏名所百首」をはじめ、順徳天皇の内裏歌壇を中心に活躍した。安貞元年(1227)、夫通具の死後、嵯峨に隠棲。貞永二年(1233)頃、兄定家の『新勅撰和歌集』撰進の資料として、家集『俊成卿女集』を自撰した。仁治二年(1241)の定家死後、播磨国越部庄に下り、余生を過ごした。晩年まで創作に衰えを見せず、宝治二年(1248)の後嵯峨院「宝治百首」などに健在ぶりが窺える。
 建長三年(1251)以後、甥(実の従弟)為家に続後撰集に関する評などを送った『越部禅尼消息』がある。また物語批評の書『無名草子』の著者を俊成卿女とする説がある。
 新古今集の29首をはじめ、勅撰集に計116首を入集。宮内卿と共に新古今の新世代を代表する女流歌人。新三十六歌仙。

「今の御代には、俊成卿女と聞こゆる人、宮内卿、この二人ぞ昔にも恥じぬ上手共成りける。哥のよみ様こそことの外に変りて侍れ。人の語り侍りしは、俊成卿女は晴の哥よまんとては、まづ日を兼ねてもろもろの集どもをくり返しよくよく見て、思ふばかり見終りぬれば、皆とり置きて、火かすかにともし、人音なくしてぞ案ぜられける。」(鴨長明『無名抄』)

「幽玄にして唯美な作として、俊成女ほどに象徴的な美の姿を、ことばで描き出した詩人はなかつた。俊成女のつくりあげた歌のあるものは、たゞ何となく美しいやうなもので、その美しさは限りない。かういふ文字で描かれた美しさの相をみると、普通の造形藝術といふものの低さが明白にわかるのである。音樂の美しさよりももつと淡いもので、形なく、意もなく、しかも濃かな美がそこに描かれてゐる。驚嘆すべき藝術をつくつた人たちの一人である。」(保田與重郎『日本語録』)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十二)

 上記の絵図(俊成女・家隆)の右側の釈文は、「人だ乃め那類秋濃夜濃月」(人だのめなる秋の夜の月)で、次の釈文は「守覚法親王五十首う多よま世侍介る尓」(守覚法親王五十首歌よませ侍りけるに)・「藤原家隆朝臣」・「有明濃月待宿乃」(有明の月待つ宿の)のところである。
 この俊成女の「人だ乃め那類秋濃夜濃月」(人だのめなる秋の夜の月)の背後に描かれている二匹の雌鹿は、全図の四匹の鹿(俊成・俊成女・式子内親王・宮内卿)のうちの、「俊成女と宮内卿」とが、全体の流れとしては自然のような感じである。
 下記のアドレスで、『コレクション日本歌人選50俊成卿女と宮内卿(近藤香著)』が紹介されている。

http://estrange25.rssing.com/browser.php?indx=13415120&item=1929

 その「ブックカバー裏」に、次のように両者が紹介されている。

【 新古今時代の女流のうち、後鳥羽院に見出だされて才を誇った二人の女性歌人。伊勢や和泉式部などの女歌の伝統とは異なる題詠の世界に、新たな才能を開花させた歌人。俊成卿女は俊成の子八条院三条の娘だが俊成の養女に入り、歌人としてのデビューは遅かったものの纏綿たる恋の情緒を定家風の巧緻優艶な風にうたい、源師光の娘宮内卿は、若くして没する四年余ではあったが清新な自然詠や恋歌を切れのあるタッチでうたった。新古今和歌集を彩る対立的な二人の個性を見比べたい。 】

 ここでは、この両者については言及しない。そして、ここでは、前回に続いて、その夫であった前回の作者「右衛門督通具」(源通具)と「皇太后宮大夫俊成女」(俊成女)とに絞りたい。
 この一男一女を儲けた仲睦まじい両者を引き裂いて離婚に追いやったのは、その実父の「源通親」(「後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後白河院および後鳥羽天皇→後鳥羽院および土御門天皇」の「七朝にわたり奉仕し、村上源氏の全盛期を築いて、土御門通親と呼ばれた」)その人であろう。
 「土御門通親」の呼称は、土御門天皇の外祖父に対する呼称で、「後鳥羽天皇」の次の「土御門天皇」を支えるため、その新帝の乳母・按察局(鎌倉幕府と縁故のある故一条能保の妻であった)を嫡妻(通親の長男・通宗死亡、通親の継嗣として次男・通具が担い、その嫡妻)として迎え入れ、それまで「通具の妻」であった「俊成女」は、「室家(しっか)」(内輪の妻)の一人として遇せられることになる。
 これらのことに関して、「俊成卿女伝記考証―『名月記』を中心に―(田渕句美子稿)」(『明月記研究 6号(2001年11月): 記録と文学』)の中で、この「通具と按察局との結婚は蓋し当然であったろう」との記述がみられる(下記「抜粋」の通り)。

「俊成卿女伝記考証―『名月記』を中心に―(田渕句美子稿)」(「三 通具と按察局―建仁元年十二月二十八日条」抜粋)

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 元久元年(一二〇四)十一月、『新古今集』を完成を待たずに、俊成卿女を薫陶し続けた俊成入道は瞑目した。この俊成の危篤に際して、「別居中でありながら通具も俊成卿女と申し合わせて共に見舞いに赴いた。その俊成が死んだのち、このふたりを相伴わせる機会はもはや絶無にひとしいのではないか」(『和歌文学講座7中世・近世の歌人』所収「俊成卿女(森本元子稿)」)との記述も見られる。
 俊成(釈阿)は、晩年には、自己の傑作歌の「鶉鳴く深草の里」で過ごして、その墓も深草(京都市伏見区)にあるという。
 ここで、「俊成・通具・俊成卿女」の三首を並記して置きたい。

夕されば野べの秋風身にしみてうづら鳴くなりふか草のさと(俊成「千載集」259)
深草の里の月かげさびしさもすみこしままの野べの秋風(通具「新古374」)
大荒木の杜の木の間をもりかねて人だのめなる秋の夜の月(俊成卿女「新古375」)
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